ーー凛世
はい、と小さく答え俺に向ける目。瞳に光は無く、赤い瞳は青さすら感じるようで。
表情は平静を装っているが、その瞳に込められた想いは何だろう。
絶望、悲嘆、諦念、憎悪、殺意ーー少なくともそこに愛情は、無い。
放課後クライマックスガールズ、杜野凛世引退。
そのニュースは世間をしばらく賑わせた。音楽性の違い、独立の前触れ、メンバー間の不仲、事件のもみ消し……いくつもの噂が囁かれたが、どれも紙面の余白を埋めるだけの与太話に終わった。唯一の真実は、テレビから覗かせる他のメンバーの顔が皆一様に悲しげだったことだけ。
ーー僕のせいだ
「今日の晩ご飯、僕が作るよ。何がいい」
僕は凛世に笑いかける。
「凛世は……何でもよいです……」
「そっか、じゃあ残り物で適当に作るね」
「では凛世も……お手伝いいたします……」
「いいよ、いつも作ってもらってるんだから、休んでて」
居間で本を読む凛世を押し留め、一人台所へ向かう。だって、こんな男と一緒に台所なんか立ちたくないだろうから。
彼女と結婚したのは引退してから2年後の事。
ほとぼりが冷めてからの入籍は余計な詮索を産まずに済んだ。当然だ、どんなアイドルも引退すればただの一般女性。一般女性と一般男性の結婚にマスコミは食いつきはしない。変に嗅ぎ回られたくない僕は彼女を奪ってから時間を置くことを選んだ。
だけど内々で済ませた結婚式の異様さは一生忘れないだろう。
人形の様に無表情のまま、白無垢を身に纏う彼女。そんな彼女に対し、彼女の想いを知らぬ親族は純粋に祝い、彼女の想いを知る親族は複雑な表情を向けていた。
呉服屋の娘と実業家との政略結婚に対して。
ーー僕のせいだ
「冷蔵庫は……牛乳に卵。野菜はそろそろ品切れか」
使える食材を物色しながらレシピを思案する。彼女のマメさの賜物だろう。冷蔵庫で腐りそうな危険物は全く無い。
続いて冷蔵庫の外。常温で備蓄している物はないか探す。
「あ、じゃがいもが結構残ってるな。卵と牛乳、パン粉もあるしこれならーー」
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。
とあるレシピが浮かんだが、僕は直ぐに却下した。
「駄目だな。これは作っちゃ、ダメだ」
それは凛世と結婚してから数ヶ月経った頃、今日のように僕が晩ご飯を作った時のこと。彼女がアイドル時代に好んで食べていたらしいことを知り、同じ物を作った。
ーーこれ、好きだったんでしょ?
僕の無邪気な問いかけに対して、彼女は小さく頷いた。僕と暮らし始めてから更に無表情となった彼女だが、その表情が少し和らいだような気がして、僕は内心嬉しかった。
手段がどうであれ、僕の凛世への愛情は本物なのだ。これが、この⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎が、その気持ちを伝えるきっかけになれたらいいな。
その幻想は、彼女の涙で打ち砕かれた。
ーー申し訳ありません、このような見苦しい真似を……
ーー直ぐに、泣き止みますので……
ーー申し訳ありません、申し訳……ありません……
凛世は訳を言わず、ただひたすら謝った。
ぽろぽろと涙を零しながら、僕の言葉を遮るように、必死に謝った。
踏み入るな。そう言われた気がした。
楽しかった日々を奪い、仲間から引き裂き、夢を潰した僕が、過去の思い出まで踏みにじるのか、薄汚い偽善で塗り潰すのか、そこまでして自分から何もかも奪いたいのか、彼女の涙が語っていた。
以来、僕たちの食卓にそれが並ぶことはない。
ーー僕のせいだ
引き続き食材を物色、メニューはあらかた決まった、彼女のリクエストは何でもいいとのことで。
「何でもいい、か」
『何でもいい』、その言葉には『どうでもいい』が混じっている。
それはもう戻らない日々への懐古と、諦め。
そういえば一番熱心に引き留めようとしたのは彼女の所属しているプロデューサーだったっけ。まあ当然だ、売り出し中の商売道具を横からかっさらう様な真似をしたのだから。
だけど彼は大人だった。無鉄砲な馬鹿にはなれなかった。
僕が杜野家に対して持ちかけた取引、その引き換えに凛世を奪おうとしていること、邪魔をするのなら凛世の事務所にすらちょっかいをかけることを知って、彼は二の足を踏んでしまった。
そしてその様子を見た凛世は、アイドルを辞めることを選んだ。
彼女に、選ばせた。
ーー僕のせいだ
フライパンをコンロに乗せ、点火スイッチを押す。青い炎がフライパンを焼く。
「ははっ、地獄に落ちるだろうな」
いずれはこの身も業火に燃やされるだろう。生前か、死後か、あるいはその両方で。
だけど後悔は無い。
やっと手に入れたんだ、もう二度と手放さない。例えどれだけあの空へ想いを馳せても、もう彼女に羽ばたく翼は無いのだから。
僕が凛世を、鳥籠に押し込めたのだから。
その凛世すき。
最終更新:2020年04月20日 17:26