ある休日の朝、物音がしたから玄関を開けるとそこに一匹の可愛いワンちゃんがいたのね。小型犬なのかな?犬種はよくわかんないんだけど子犬じゃなさそうな感じでぼくの姿を見るなり駆け寄ってヒャンヒャン鳴くのよ。玄関先で鳴かれるとご近所に響いちゃうから仕方なく迎え入れてしばらくそのワンちゃんと遊ぶことにしたわけよ。
しばらくそのワンちゃんと戯れてたら、なんだか妙な点がいくつかあることに気づいた。
まず頭の横に左右一本ずつハネっ毛があるのよ。幸子ちゃんみたいに。
頭撫でるとフーンって鳴きながらしたり顔するのよ。幸子ちゃんみたいに。
幸子ちゃんって呼んだらワンって返事するのよ。幸子ちゃんみたいに。
あれ?もしかしてこれ幸子ちゃんの生まれ変わりじゃない?いや、幸子ちゃんは生きてるから生き写しか。つまりこれは幸子ちゃん2世なのでは!?ぼくはひらめいたわけよ。
つまりこの犬幸子ちゃんを大切に愛でればいずれぼく好みの幸子ちゃん似の美少女幸子ちゃんが恩返しと称してあんなことやこんなことができるのでは!?現代の鶴の恩返し、紫の上になれるのではないか???ぼくは自分のあまりの頭の回転の良さに心底感服したわけ。
そうと決まればこの幸子犬をこれでもかってくらい愛でるぞ!!まずはディープキスだ!!!!!幸子犬を抱き上げてキスしようと顔を近づけたときだった。
ーーふじえるさん!!!バカなことやってないで早くなんとかしてください!!!
……ん?幸子ちゃんのような声が頭の中に響いたのね。まあ関係ない、今はディープキスだ。更に距離を縮めたときだった。
ーーあーーーもう!!気付いてるんなら止めてください!!ボクです!!この犬はボクなんです!!
また幸子ちゃんの声が聞こえた。そこでようやくぼくは気づいたのよ。そうか、幸子ちゃん、ワンちゃんになっちゃったのか。
よし、そうならなおさらディープキスするしかないな!!!キスしようと口を近づけたときだった。
ガブリ、と下唇を噛まれたのよ。突然の激痛に慌てて顔を離して、何するんだと抗議の視線を犬幸子ちゃんに送るけど幸子ちゃんはまた脳内にメッセージを送ってくるのよ。
ーーふじえるさんいい加減にしてください!なんで止めないんですか!このボクがこんな犬にされてしまったんですよ!まずどうにかする方法を考えてください!……うぅ、今のはノーカウントですよね……
チッ、犬になっても幸子ちゃんは幸子ちゃんだったか。安易なセクハラを許してくれない。
仕方無いから念話で幸子ちゃんとこうなった経緯を聞くことにしたわけ。
なんでも朝起きたらこんなことになっていたらしく、両親に見つかったら追い出されるか、運が悪いと保健所に送り込まれるかもしれない。人に見つからないようにこっそり歩きながらぼくの家に来たらしいのね。
幸子ちゃんは犬になってもカワイイからこのままでも全然一向に構わないんだけど、幸子ちゃん自身は早く元に戻りたいらしく、これまでの苦労から一段落ついて泣く余裕が出てきたのか、心のなかでメソメソ泣き始めるのよ。犬だからヒーンヒーンとかすれた鳴き声しか出ないけど。
そんな幸子ちゃんの姿を見てぼくは決意した。
よーし、カワイイワンちゃんになった幸子ちゃんをもとに戻すためにがんばるぞい!ぼくは幸子ちゃんを取り戻すための旅を始めたのであった!
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そこからの旅は苛烈を極めた。
犬幸子ちゃんのためになるべく人の料理に似せた犬用の食事を作ったり、散歩につれていったり、周りから絶対に見えない専用のトイレを作ったり。幸子ちゃんより大きい犬がやって来たらぼくが四つん這いになって威嚇したりと、次から次へと困難が襲いかかってきたのよ(ちなみにその犬にぼくは30ヶ所くらい噛まれて何十針か縫う羽目になった)。
しかし旅は決して心細いものではなかった。散歩につれてった先で渋谷さんちのハナコに犬幸子ちゃんがめっちゃなつかれたり(ぼくは10ヵ所くらい噛まれた)、太田さんちのアッキーが悟ったような目でぼくたちを見つめてきたり(ぼくは近くの野犬の群れに襲われて80針くらい縫った)、ルナちゃんちのケルベロスが進化して、やってやるワン!ぶっとばすワン!されてぼくがルナちゃんのお友だちになってしまったりと、犬幸子ちゃんの心暖まる交流に、ぼくたちは勇気づけられたのよ。
そして休憩時間にぼくの膝の上で身体を丸めて眠る犬幸子ちゃんを優しく撫でながら、いずれ幸子ちゃんが元に戻った時も、こんな時間が過ごせたらいいなとぼくは未来の展望をぼんやり考えてたのね。今は辛く厳しい時期だけど、いつか希望が見えるはず。ぼくと犬幸子ちゃんはそう信じて旅を続けていた。
そう信じていたはず、だったーー
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「ようやく、たどり着いたぞ…………デビルアヌビスーーーッッッ!!!!」
「……喚くな、神の慈恵を拒む愚かな人間よ」
ボロボロの衣服を身に纏った青年が玉座に佇む男を睨む。男は天使のような純白の布を身に纏い、天上の聖霊のような神々しさを感じさせるが、それを覆す程に闇の深い漆黒の毛並みを靡かせた獣の面様が冥府の住人であることを物語っていた。青年は犬頭の男を見詰める。まるで再開を待ち詫びたかのように熱いその視線には、どす黒い狂気と憤怒が溶け合った、確かな殺意が宿っていた。
相対する漆黒の獣人は対照に、家屋に入り込む蝿を見るかのように冷めきっていた。
「デビルアヌビス……早く…………みんなを解放してくれ…………」
「ハッ、それが神に願う言い草か。私が数千年眠っている間に、人間は祈り方すら忘れたらしい」
「早く……魂を、みんなの肉体を……元に戻してくれ…………」
「耳すら腐ったか、愚かな人間め。そもそも人間の魂を犬の身体に移し変えた世界の何を拒む?水を汚し、空を濁らせ、土を枯らし怠惰に生を浪費しながらも、苦痛から逃れられぬ哀れで罪深き人間という器から解き放ってやったのだぞ?滅することすらできたのにも関わらずに、だ」
「それは苦痛の解放なんかじゃない……!戻すんだ、デビルアヌビスっ!!」
「五月蝿いぞ人間風情が。身の程を弁えよ!!!」
犬頭の男が手をかざすと、黒い霧を纏った旋風が青年の元へ疾走する。
数瞬反応に遅れた青年は身を横に投げ躱そうとするがーー
「ぐっ、クッ……!」
右手が黒の風に呑まれーー白骨と化した。
痛みも無く、肉を削られた感覚も、削がれた感覚も無く、一瞬のうちに骨を残して右手を滅されたのだ。指先への経路を失い路頭に迷った血液が腕から噴き出る。
「どうだ?これが"死"だ。痛みも無く、苦しみも無く、甘やかに溶けていくだろう?貴様の様な愚物には惜しいほどの寵愛だが……特別に味わわせてやろう」
玉座から動かず、悠然と青年を見下ろすデビルアヌビス。一方の青年は俯き、白骨と化した右腕を見ていた。普通の人はこの事態を見てどうするであろうか。どのような表情を見せるのだろうか。恐怖するか、狂気に囚われるか、あるいは絶望し諦めるかーー
青年の表情はいずれとも違った。ーー青年は、静かに笑っていた。
「デビルアヌビス、………お前はひとつ勘違いをしている。大きな勘違いをな」
「戯言を。気が狂ったか。狂人の断末魔など、何万と聞き届けてきたわ」
「狂人か……、ああ。お前からしたら狂気の沙汰かもしれないな……この力は!」
青年が叫ぶと同時に、白骨化した右手にゴボゴボと泡立つ様に肉が湧き立ち、元の姿を取り戻したのだ。ーー純白のクロスボウを携えて。
「貴様、その肉体……既に……」
「ああ、捨ててきた。天の力を得るためにな。俺はもう人間じゃない、大天使チエリエルより力を賜りし、天使になったんだ。俺の名はふじえる!"熾天使"、ふじえるだ!!!」
ふじえるは名乗りながら、雨の中倒れた一人の少女の姿を思い返した。
ーーふじえるさん、あたしが大好きだったこの世界を、どうか取り戻してきてくれ。加蓮と、みんなと、また人として笑いあえる世界にーー
(神谷、奈緒……)
ふじえるは静かに心の中で呟いた。この道中で斃れた仲間たち、犬に変えられた仲間たち、そして、輿水幸子。もはやこの旅は自分一人の旅ではない。みんなの願いが託されている。最後、デビルアヌビスを滅ぼしさえすれば。
しかし元人間の身で神殺しを行えばその罪が魂に降りかかり裁きを受けるだろう。だがそんなことなど些末なことだ。熾天使☆ふじえるは輿水幸子を取り戻すための長き旅に終止符を打つため、デビルアヌビスへ翼を広げ突撃した。
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その後なんやかんやあって人間に戻った幸子ちゃんと再会してなんやかんや結ばれ、なんやかんやで結婚しました。めでたしめでたし。
最終更新:2016年08月17日 22:53