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孔明は 臥せる竜ぞよ 三顧の礼


 蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)はよび名を孔明(こうめい)といった。琅邪(ろうや)郡の人である。

自分で田畑を耕(たがや)してくらし、むかしの武将(ぶしょう)をしのんだ自作の詩を口ずさんでは、
いつか斉(せい)の宰(さい)相管仲(かんちゅう)や燕(えん)の武将樂毅(がくき)のような人物になりたいと思っていた。

しかし、世間の人はかれをみとめていなかった。

 ただ、仲(なか)のよい崔州平(さいしゅうへい)と徐庶(じょしょ)だけは、かれこそがほんとうの武将であると考えていた。

そうしたとき、あとに蜀(しょく)の皇帝(こうてい)となる劉備(りゅうび)が新野に軍を進めて来たのである。 

 徐庶(じょしょ)は行って劉備(りゅうび)に話した。

「世間では孔明を軽くみていますが、かれは臥(ふ)せる竜(りゅう。非常〈ひじょう〉にすぐれた人物のたとえ)です。一度会って見られてはいかがですか。もっとも、孔明に会うと申されましても、こちらから会いに行かれるべきで、よびつけてはいけません。身をかがめ、頭を低くしてたずねて行かれるのがよろしいかと思います」

 劉備は孔明のところへ行った。

 三度たずねて三度目にようやく会うことができたので、世間の人はこれを「三顧(さんこ)の礼」といった。

詳しく

蜀志(晋の陳壽撰。三国志の一つ)によると、諸葛亮、字を孔明といった。琅邪郡(山東省)の人である。

自ら田畑を耕して暮らし、自作の「梁父の吟」(春秋時代(前七七〇~四〇三)の斉の景公の臣(家来)であった三勇士を追想した吟(詩体の一つ)早川)を
口ずさんでは、常に自分を管仲(春秋時代の斉の宰相)や樂毅(戦国時代(前四〇三~前二二二)の燕の武将)に擬(なぞら)えていた。

しかし、世間の人は彼を認めなかった。

ただ、崔州平と徐庶だけは孔明と仲がよく、彼こそ誠の武将であると考えていた。

 時に、先主劉備486(子の後主劉禅に対して先主(先の君主)という。蜀(四川省)に漢を興して、魏・呉・蜀(蜀漢)の三国時代を築いた)が
新野に駐屯した(陣(隊列)を構えて集結した(一箇所に集まった))。 

 徐庶は出かけて行って劉備に謁見し、語っていった。

「孔明は臥竜(臥せている・からだを休めている竜。すぐれた人物・傑物のたとえ)です。
将軍はどうして彼に会ってみようとなさらないのですか。
もっとも、孔明に会うと申されましても、こちらから会いに行かれるべきで、呼びつけてはいけません。
身をかがめ、頭を低くして訪ねて行かれるのが穏当(無理がない)かと存(ぞん)じます」

 先主は遂に孔明のところへ行った。

 およそ三度顧(訪)ねて、三度目にようやく見(まみ)える(お目にかかる。会う)ことができた。

 二人は人を避けて共に天下を窺う策略(計略。天下三分の計。北を曹操(魏)・東を孫権(呉)・西を劉備(蜀)とする戦略)を語り、
互いの考えをよしとした(よいとした)。

 友情は日増しに親密になっていった。
しかし、劉備の武将の関羽や張飛は喜ばなかった。

劉備はいった。
「われが孔明を必要とするのは魚が水を必要とするのと同じなのだよ。お願いだから二度と孔明を貶(けな)すようなことはいわないでくれないか」と。

 劉備は蜀の成都(四川省)で皇帝を称えると孔明を丞相(宰相)にした。

解説

三国志好きな方なら誰でも知ってる逸話です。
優れた考えを持つ諸葛亮を迎えるために、劉備は三回彼の家を訪ね、三回目にして彼に会い、互いに信服して
自分の軍師として向かえる事に成功します。
また、彼等は主従の関係を超えて、友人同士でもありました。

しかしこれを良く思わないのが、劉備の義兄弟(仲がとても良く、家族と同じ様な絆を結んだ友人)の張飛と関羽。
劉備は二人に「魚が水を欲しがるように、私には彼が必要だ」と言いました・・・
が、張飛はこれを聞くと、今度は諸葛亮を見るたびに「あ、水が行く!」と言ったそうですw
最終更新:2010年12月12日 00:49