昨日だったか百年前かは覚えていない。 習慣というより義務になったボクの過ごし方。 圭一が宿題をしているのを見る。 圭一が電話で話している声を聞く。 圭一の部屋に腰を落ち着けて。 圭一はボクに気づかない。 学校にもついていく。 レナと魅音が合流する。 二人が両隣に並ぶより、ボクの方が圭一の傍にいる。 二人と楽しそうに笑う圭一。 ボクはどたばたと暴れ回る。 圭一は気づかない。 圭一が自慰行為を始める。 何度も何度も傍で見てきた。 性欲には、時を無限に繰り返しても規則性はないと気づいた。 ボクはいつ圭一が陰茎を空気にさらすか、部屋では常に胸を高鳴らせている。 圭一の子種が、ティッシュの中に吸い込まれる。 勿体無い。ボクの中に注いでほしい。 圭一は肉を抜けきれない。 ボクも肉を得ることはできない。 だからせめて、ボクがどんなに圭一のことを愛しているか、気づいてほしい。 今日、圭一に謝った。 繰り返し繰り返し謝った。 泣きながら。喜びに震えながら。 圭一がボクの声に気づき始めた。 それからは話しかけるのをやめなかった。 けれど目の前にいても視線が合わなくて、悲しい。 圭一が耳を塞ぐ。 ボクの声がはっきりと届いている。 そのことが分かると、とても嬉しくなる。 圭一が一人で登校するようになった。 ボクと圭一の二人だけ。楽しい。 梨花が文句を言ってきた。 死んだ記憶がない。一体どうなってるの。 梨花の死なんて関係ない。 ただ圭一が死んだときにだけ、ボクは力を使う。 圭一がボクの名前を呼んでくれた。 やっと、やっとボクが見えるようになったみたいだ。 上擦った声で羽入、と名乗ると、同じように返してくれた。 言葉が伝わる。目が合う。 触れることができたらいいのに。 幸せな毎日だけれど圭一の死が近づいていることを否応なく悟ってしまう。 もう一日もないかもしれない。 それでもいい。待つことは嫌いじゃない。 また圭一がボクの愛に気づいてくれる日がくるように。 次の世界でも、圭一が雛見沢症候群を発症するよう、ボクは祈り続ける。 ---- シーン①:始まり 金属バットを強く硬く握り締めているのは前原圭一だった。雄大で広大な景色の広がる雛見沢にありながら、両の瞳を、狂気の象徴たる銀に鋭く絞っている。戦慄く口角に、震える汗水。しかし滴ることを知らず張り付くその様は、圭一の表情が瞬時に凍りついたことをよく示していた。今にも千切れそうな片腕を必死に支えるかのように、いっそうの力を金属バットに込めた圭一が口を開く。 「ど、どなたですか……?」 掠れた声は小さかったが、ビニール袋に無数の皺をつけるときのように、耳に不快な響きを発していた。そんなものを向けられ、ずっと圭一の後ろに佇んでいた羽入は、ひどく怯えた。実体のない存在のはずなのに、背にある扉から圧迫を感じ一歩も後ずされない状況だった。 目の前数十センチに肩を強張らせた圭一に、羽入はどうすればいいのか分からなかった。ここに来るまで絶えずごめんなさいと謝り続けた。それすら出てこない。静止した影のせいか、外とは違い時間の経過を感じられない。壊したのは、今は伝えられるの だとかすかに期待した羽入が、圭一、と呼ぼうとした瞬間だった。 「う……ああああああああッ!」 空気が裂け、声が割れる。しばらく物の殴打が続く。壁と靴箱の凹みは世界の空間を広げた。 圭一が自分の居場所を必死で確保しようとした結果が、微々たるものとしてそこに現れた。 そんなものでも満足したのか動作を止め、醜く歪んだ玄関を血走った眼に映す。荒々しい息が、羽入の見上げるすぐ上で吐き出されていた。 いつの間にか尻餅をついていた。恐らくは、金属バットに薙ぎ払われたときからだろう。 つまり初撃だ。圭一の敵意は間違いなく羽入を殺していた。その羽入は砕けた腰とは裏腹に、顔をずっと鬼のようだった圭一の表情に向けていた。 涙が出た。 笑いが込み上げた。 『ぅあ……あは、あはは……あはははは……』 踵を返し、廊下の向こうへと消えていく圭一の背中を見ながら、羽入は相貌を崩した。 首をかくりと傾け、得体の知れない光を宿した黒目を、天井に向ける。視線の先は二階に閉じこもったであろう圭一に違いなかった。 ツバメの飛ぶ澄み切った風きり音が、四方八方無数に自分に向かうのならきっとこうなのだろうな、と羽入は感じていた。それが涙の理由だった。一方で、久方ぶりに奮えた瞬間でもあった。何に? それは、あるはずのない生に。忘れかけていた千年前を彷彿とさせる感情が湧き、自然と笑みが零れたのだった。ボクの恋はこういうものではなかったか。 昂ぶる意識の中で、いや愛だと断じる。死と生の混合。狂った世界に生きるボクに相応しい。千年前は死が時折ちらついたのに対して今はその逆だが、どちらがよりよいだろうか。 『あははぁ……、圭一ぃ……』 梨花しか羽入を認識することはできない。それが当然だと分かっていても、ボクはここにいる、と無意識のうちに心の奥底で叫び続けていた。応えてくれたのが圭一だったのだ。 レナにもその存在を自覚されたことはあったがそのときはこんな気持ちにはならなかった。 それは羽入が少なからず圭一のことを想っていたということになるだろうか。気づいてほしかったのが圭一だったということに。 息すらすることを許してもらえない。拒絶は当たり前。 それでも。いや、だからこそ。 無。死の最果て。 その先に再び生を感じさせてくれる圭一に。 永久に寄り添う影を。 透明な滴は瞼の奥に、伸ばした両手は日の落ち光の届かなくなった空間に消えゆく。微かな笑い声だけが残された足跡を辿り……羽入の永い永い旅は始まる。