昨日だったか百年前かは覚えていない。
 習慣というより義務になったボクの過ごし方。
 圭一が宿題をしているのを見る。
 圭一が電話で話している声を聞く。
 圭一の部屋に腰を落ち着けて。
 圭一はボクに気づかない。

 学校にもついていく。
 レナと魅音が合流する。
 二人が両隣に並ぶより、ボクの方が圭一の傍にいる。
 二人と楽しそうに笑う圭一。
 ボクはどたばたと暴れ回る。
 圭一は気づかない。

 圭一が自慰行為を始める。
 何度も何度も傍で見てきた。
 性欲には、時を無限に繰り返しても規則性はないと気づいた。
 ボクはいつ圭一が陰茎を空気にさらすか、部屋では常に胸を高鳴らせている。
 圭一の子種が、ティッシュの中に吸い込まれる。
 勿体無い。ボクの中に注いでほしい。
 圭一は肉を抜けきれない。
 ボクも肉を得ることはできない。
 だからせめて、ボクがどんなに圭一のことを愛しているか、気づいてほしい。

 今日、圭一に謝った。
 繰り返し繰り返し謝った。
 泣きながら。喜びに震えながら。
 圭一がボクの声に気づき始めた。

 それからは話しかけるのをやめなかった。 
 けれど目の前にいても視線が合わなくて、悲しい。
 圭一が耳を塞ぐ。
 ボクの声がはっきりと届いている。
 そのことが分かると、とても嬉しくなる。

 圭一が一人で登校するようになった。
 ボクと圭一の二人だけ。楽しい。 

 梨花が文句を言ってきた。
 死んだ記憶がない。一体どうなってるの。
 梨花の死なんて関係ない。
 ただ圭一が死んだときにだけ、ボクは力を使う。

 圭一がボクの名前を呼んでくれた。
 やっと、やっとボクが見えるようになったみたいだ。
 上擦った声で羽入、と名乗ると、同じように返してくれた。
 言葉が伝わる。目が合う。
 触れることができたらいいのに。

 幸せな毎日だけれど圭一の死が近づいていることを否応なく悟ってしまう。
 もう一日もないかもしれない。
 それでもいい。待つことは嫌いじゃない。 
 また圭一がボクの愛に気づいてくれる日がくるように。
 次の世界でも、圭一が雛見沢症候群を発症するよう、ボクは祈り続ける。




 シーン①:始まり

金属バットを強く硬く握り締めているのは前原圭一だった。雄大で広大な景色の広がる雛見沢にありながら、両の瞳を、狂気の象徴たる銀に鋭く絞っている。戦慄く口角に、震える汗水。しかし滴ることを知らず張り付くその様は、圭一の表情が瞬時に凍りついたことをよく示していた。今にも千切れそうな片腕を必死に支えるかのように、いっそうの力を金属バットに込めた圭一が口を開く。

「ど、どなたですか……?」

掠れた声は小さかったが、ビニール袋に無数の皺をつけるときのように、耳に不快な響きを発していた。そんなものを向けられ、ずっと圭一の後ろに佇んでいた羽入は、ひどく怯えた。実体のない存在のはずなのに、背にある扉から圧迫を感じ一歩も後ずされない状況だった。
目の前数十センチに肩を強張らせた圭一に、羽入はどうすればいいのか分からなかった。ここに来るまで絶えずごめんなさいと謝り続けた。それすら出てこない。静止した影のせいか、外とは違い時間の経過を感じられない。壊したのは、今は伝えられるの
だとかすかに期待した羽入が、圭一、と呼ぼうとした瞬間だった。

「う……ああああああああッ!」

空気が裂け、声が割れる。しばらく物の殴打が続く。壁と靴箱の凹みは世界の空間を広げた。
圭一が自分の居場所を必死で確保しようとした結果が、微々たるものとしてそこに現れた。
そんなものでも満足したのか動作を止め、醜く歪んだ玄関を血走った眼に映す。荒々しい息が、羽入の見上げるすぐ上で吐き出されていた。
いつの間にか尻餅をついていた。恐らくは、金属バットに薙ぎ払われたときからだろう。
つまり初撃だ。圭一の敵意は間違いなく羽入を殺していた。その羽入は砕けた腰とは裏腹に、顔をずっと鬼のようだった圭一の表情に向けていた。
涙が出た。
笑いが込み上げた。

『ぅあ……あは、あはは……あはははは……』

踵を返し、廊下の向こうへと消えていく圭一の背中を見ながら、羽入は相貌を崩した。
首をかくりと傾け、得体の知れない光を宿した黒目を、天井に向ける。視線の先は二階に閉じこもったであろう圭一に違いなかった。
ツバメの飛ぶ澄み切った風きり音が、四方八方無数に自分に向かうのならきっとこうなのだろうな、と羽入は感じていた。それが涙の理由だった。一方で、久方ぶりに奮えた瞬間でもあった。何に? それは、あるはずのない生に。忘れかけていた千年前を彷彿とさせる感情が湧き、自然と笑みが零れたのだった。ボクの恋はこういうものではなかったか。
昂ぶる意識の中で、いや愛だと断じる。死と生の混合。狂った世界に生きるボクに相応しい。千年前は死が時折ちらついたのに対して今はその逆だが、どちらがよりよいだろうか。

『あははぁ……、圭一ぃ……』

梨花しか羽入を認識することはできない。それが当然だと分かっていても、ボクはここにいる、と無意識のうちに心の奥底で叫び続けていた。応えてくれたのが圭一だったのだ。
レナにもその存在を自覚されたことはあったがそのときはこんな気持ちにはならなかった。
それは羽入が少なからず圭一のことを想っていたということになるだろうか。気づいてほしかったのが圭一だったということに。
息すらすることを許してもらえない。拒絶は当たり前。
それでも。いや、だからこそ。
無。死の最果て。
その先に再び生を感じさせてくれる圭一に。
永久に寄り添う影を。
透明な滴は瞼の奥に、伸ばした両手は日の落ち光の届かなくなった空間に消えゆく。微かな笑い声だけが残された足跡を辿り……羽入の永い永い旅は始まる。




 シーン②:喜び

 雛見沢のうちでも特に閑静な場所にどかっと建てられた新築の家。内部には目に留まる
 ような汚れや染みはまだなく、そのせいでどこに視線を固定したらよいか、少し戸惑
 う。梨花の家とはまるで正反対だった。羽入は今日越してきた前原一家の感じているも
 のとはまた違った種類の新鮮さを感じながら、圭一の背中をぼうっと眺めていた。 

『圭一』

 呼びかけても振り向いてはくれない。
 それでも羽入は笑っている。今日会えたことが何よりも嬉しいのだ。
 夜も更け、月明かりは一層濃く雛見沢を覆う時間帯だった。未だいくつか整理されてい
 ないダンボールを尻目に、布団だけが綺麗に敷かれている。それを間に挟み、羽入は圭
 一が明日の準備をしているのを見ている。
 初めは、まるで初夜を迎える夫と妻のようだ、とこの距離感が気に入って、背筋をぴん
 と伸ばし正座をして動かずにいたが、準備に夢中だった圭一に焦れ、すり足で隣まで進
 んでいった。寄り添うような格好だ。圭一のほうが背は高いが羽入だけ正座をしている
 分、二人の肩の位置はぴったり同じだった。
 真新しいいぐさの香りの中、鼻孔にとらえる圭一の匂いを茶でも嗜むように静かに味わ
 う。そうでもして心を落ち着けないと、気持ちが暴走してしまうのだった。現に、穏や
 かな佇まいとは裏腹に頬は激しく上気している。少し目元を刺激してやれば今にも涙が
 溢れそうなほどだ。
 視線を僅かに上げると窓がある。しかし映るのは圭一だけ。羽入は目を閉じ、夢想する。
 二人は楽しそうに笑っている。どちらからともなく手を重ねると、その温もりがゆっく
 り胸に伝わるのに合わせて瞳にお互いの姿を認める。短い接吻から長く溶け合うような
 接吻へ。触れ合う唇の熱に敏感に反応する体を圭一にたしなめられ、それでも求める。
 やがて繋がり……。

『あぅ?』

 圭一が居なくなっていることに気づく。窓には誰も映っていない。枕元にはほどほどに
 膨らんだ学生鞄。電気は点いているから、用を足しにでもいったのだろうか。すっと立
 ち上がり部屋の外に出ようとして、そういえば、と圭一がダンボールから真っ先に出し
 た下着を無造作に放置していたことを思い出す。確認してみれば、やはりない。という
 ことはお風呂だった。腰を下ろす。

『あぅあぅ』

 しかしすぐにそわそわしだした。先ほどまでの妄想のせいもあるだろうか。圭一がお風
 呂に入っているという事実が頭から離れないようだった。しきりに階下を気にしている。
 羽入は圭一の全てをその目に収めたかった。けれども躊躇する。大体、お風呂に行くの
 に圭一は裸で自分だけ服を着ているというのがおかしい。そう考え、帯に手をかけたと
 ころで戻ってきてしまった。まだ水滴の落ちる髪の毛を乱雑に拭きながら、吹き込む風
 に当たる。ああ、お風呂上りに。風邪をひいてしまうのです。頭ももっとちゃんと拭か
 ないとだめなのです。そう羽入が心配したところで。

「ん?」

 不意に、圭一が羽入の座っている空間を見た。けれど、はっとして羽入が固まったとき
 にはもう別の場所へ視点を移していた。羽入の存在を知覚したわけではない。焦点もあ
 っていなかった。羽入もそれを理解していたからか、問い詰めるように声をかけること
 はしなかった。ただ胸を押さえぽろぽろと涙を流すのみだった。

『あぅぅ~……』

 嬉しさで心が張り裂けそうだった。唇がぷるぷると震える。細切れに、圭一、圭一と呟く。
 自分の方を、それもたったの一瞬向いたというだけで、羽入は世界が始まったような開
 放感を胸に覚え、溢れる感情に身を任せた。優しい微笑みからいくつかの言葉がもれ出る。

『大好きなのです……愛しているのです……圭一……圭一』

 しばらくして羽入が落ち着くのを待ったかのように、圭一が電気を消した。こんなこと
 にも羽入は喜びを感じ、さっと隣に移動する。明日の転入初日にほんの少しだけ不安と
 緊張を覗かせた横顔をにこにこと眺める。

『おやすみなのです』

 歌うように言うと、圭一が眠りに落ちるのを待つ姿勢に入る。
 声は届かない。届かなくていい。今は、まだ。
 光る瞳は、いっときも離れず圭一に向けられている。




 シーン③:悲しみ

 いつも当たり前のように傍にいるレナが許せなかった。
 部長として張り合い慕われている魅音が許せなかった。
 実妹のように可愛がられている沙都子が許せなかった。
 気軽に頭を撫でて笑いかけている梨花が許せなかった。

 その中でいつも楽しそうな圭一を誰よりも近くで見ていて、悲しかった。

 羽入にとっての安息の場所は、常に圭一の傍だった。片時も離れず肩を寄せ、横顔を見
 つめる。もう一つの影であるかのようにいつも寄り添っていた。そうして息遣いを至近
 距離で感じ続けるにあたり、呼吸を掴み圭一が数瞬後に行うであろう動きを思い描くこ
 とができるようになっていた。そのとおりになれば微風に揺れる花弁を思わせるように
 頬を緩める。色は夕陽の優しいものだ。ならなくても、圭一の新しい一面を見ることが
 できたと喜ぶ。記憶にない瞳の僅かなずれ、肩の動きを覚えるようにする。
 一方で間違って触れることがないようにもしている。羽入は実体ではない。圭一の体を
 すり抜けてしまうのだ。その歯がゆさ、届かぬところにその住処を見つけた蟲がしてや
 ったりと嘲笑っている気がして嫌なのだ。圭一に決して認めてもらえない気持ちを。圭
 一と二人でいるときは、運命という蟲が。しかしそのときには羽入は心を痛めながらも
 涙を流して感謝する。遥か昔に肉体を失ってしまった羽入と圭一、本来ありえなかった
 はずの時の共有を実現させてもくれた運命に。贅沢は言わない。
 反面、圭一が部屋を一歩でたときからは周りに群がる蟲が憎くてたまらない。触れるな、
 話しかけるな、怨嗟の声を頭の中でずっと轟かせている。そうするとだんだん角の付け
 根あたりが熱くなり、痛くなり、息切れをしてくる。無駄だとは分かっていても、体力
 と気力を大いに損なうほどの感情を発露させる。圭一と寸分の狂いなく合わせることが
 できていた歩調はそこで乱れ、レナや魅音と並び歩く圭一の姿は遠ざかっていく。膝を
 つき、おぼろげな意識の中で愛する者の名を呼ぶ。その想いが宙に跳ね返れば寸前まで
 の雷雨のような怒りが厚くどんよりとした雲を呼び込み、土砂降りの雨に変わる。圭一
 の背中はさらに速度を増して離れていく。羽入は身を震わせて、大声を上げて泣くのだ。

 それでも羽入の悲しみは届かない。

 悲哀に暮れた夜はいっそう圭一のことが恋しくなる。安らかになれるのは圭一の傍であ
 り、二人以外に誰もいないときである。広い背中に身を任せる段に至ってはじめて、乱
 された心が落ち着きを取り戻す。いつものように顔を目の前に持っていくことができな
 いのは、無様にもうろたえた己を恥じるからである。俯いてきまりが悪そうに頬を赤ら
 める羽入は、それでも愛おしさに胸が高鳴るのを抑えきれず、快楽を求めて手を動かし
 始める。二人きりでいられる夜を存分に堪能し、淫らな自分の身体に刻みたい。当然、
 圭一からの愛撫があるわけではなく全ては自慰に終始するが、とびきりの官能が得られ
 ることには変わりない。
 ほんのり熱を持ち始めた胸の中心に指を持っていく。着衣の隙間から滑り込ませている
 のは、求める悦楽に対してまだ控えめであるという証拠である。無造作に脱ぎ捨てるよ
 うなことはしない。時間と共に欲の昂ぶりが得られれば、それも無意識に行われるもの
 であろうが今はまだ助走段階である。加えて、いくら見えていないとはいえ圭一のすぐ
 傍での慰みにはさすがに気が引けるものがあった。本当にほんの少しだけ、見えていな
 くてよかったと羽入が思う瞬間である。
 胸に広げるようにして乳房の形を変えていきながら揉みしだく。むずがゆさを消そうと
 すればするほど痛みにも似た快感が膨らみになだれ込み、中心の蕾は硬度を増していっ
 た。人差し指と親指で摘むと、花粉を散らしたように刺激が体中に走り声ならぬ声が漏
 れてしまう。咄嗟に上半身を折り曲げたせいで、下唇から涎が垂れてしまった。首元に
 たるんだ上着を口にくわえると、ふぅーふぅー、と荒い息を吐きながら、さっきよりも
 強く乳頭をこねくり回す。

 頭の中で圭一の名を叫んでいる。

 甘美な想像に耐え切れず伏せてしまう。遅れて、下肢が気だるげに投げ出される。赤い
 袴も大いに乱れ、羽入の素肌を太ももまで曝け出している。その奥で疼く本能に、圭一
 が気づけるはずもない。羽入はゆったりとした動作で身体を横向け、今度は自身の中心
 へと指を誘っていく。熱く濡れそぼっていた。その源である愛液を指に絡めとる。しば
 らく膣口は避けて快楽を得ていた。掌を覆いつくすような蜜の量に切なさを覚える。こ
 んなに求めても、圭一を惹きつけることはできない。羽入が砂漠に咲く一輪の花ならば、
 圭一は太陽だった。きっと気づくことなどないのだろう。枯れることがあったとしても、
 あるいは花開くことがあったとしても。
 嗚咽なのか喘ぎなのか判然としない声を上げながら、床につこうとする圭一を濡れた瞳
 に収める。中指を膣でくわえ込む。いつの間にか部屋の明かりは消されていたが、羽入
 の頭にはちかちかと白いランプが明滅し始めていた。だんだんと弄る速度を上げていく。
 その一方で左胸の尖端を畳みの目で擦ることもしつつ、身体を小刻みに揺らしていた。
 二度三度の痙攣が羽入の絶頂を表す。それを迎えたときには圭一はもう眠りについてい
 た。投げ出された手を胸に抱くようにしながら、自慰の後決まって訪れる眠気に余韻を
 冷まさせる。翌朝の憂鬱などこのときには考えられるはずもない。次の日も当然学校が
 あるのである。

 夜気を孕んだ風に揺れるカーテンが重々しい。
 明日も雨に違いない。




 シーン④:仕掛け

 それまで羽入は古手梨花のために存在していた。全ては彼女と雛見沢に巣食う運命を乗
 り越えんがための力だった。だから力を使うことを厭わなかった。闇に浮かぶ月の輪郭
 を、延々と追いかけるだけの孤独なる時間に終止符を打ってくれたのが梨花だ。久しく
 交わしたことのなかった言葉が、笑みが、約束が、決意が、梨花との間に生まれたのだ。
 しかし、それは喜ぶべきことだったのか、それとも――。

 永すぎる時間、機械的に繰り返される変わらぬ日々に梨花は絶望してしまった。梨花の
 目の前には仰いでも傾いでも全貌を伺うことのできない歯車の群れがあり、彼らは梨花
 を取り込み、彼らの一部としようとする。しかし羽入の存在が歯車と梨花との齟齬を生
 み、わずかだけれども全体にとって大きなズレになった。彼らは彼ら自身の仕事が世界
 を作り続けているのだと誇っていたから、それを揺るがす彼らにとって理解しがたい梨
 花の存在は、やがて排除されることになり、梨花は傍観者にならざるを得なかった。
 歯車に背を向け、涙も嗚咽も誰にも気づいてもらえず、ただ世界はきりきりと同じ音を
 繰り返していた。唯一、羽入の慰めだけが心に染みた。それでも果ての見えない道すが
 ら、過ぎ去る時間はあまりにも長くて、気がつけば梨花は羽入を疎ましく思うことが多
 くなっていった。時々夢から覚めるように羽入の姿を目にとめては追い払う。

 そうしていつからか、二人は同じ月を眺めるのではなくなっていた。

 梨花は世界と折り合いをつけ、平生何の異常もなく流れているように見える日々に身を
 おいた。ともすると、羽入が居るということを忘れてしまいそうだった。目を背けてい
 た運命というものに気づくのは新しく――それとも焼き増しといったほうが正しいだろ
 うか――色褪せていく光景を見せ付けられたとき。つまり、梨花が死に、羽入が力を使
 ったときである。何の感慨もわかない再生。悲しそうに佇む羽入の姿から意識をそらし
 感情を押し殺したまま、顔を上げて笑う。目の前には穢れのない仲間と雛見沢がいた。

 一方の羽入も次第に梨花の元を離れるようになっていた。梨花を除いて、羽入が世界と
 関わることのできる繋がりを持つことはなかった。また孤独になってしまったのだ。な
 らばどこに居ても同じことだった。
 すり抜けていく人の声や仕草。立ち止まることもなく。振り返ることさえなく。幼い子
 どもが初めて意味のある言葉を発するかのようにぎこちない一口も、遠くを流れる雲に
 は届いている気がするのに、駆けていく子どもたちの背中をつかまえることはできない。
 ふっと息をつく間、涙が零れて、けれど自分が泣いていると認識することを拒むように、
 さっとかぶりを振る。そんな毎秒毎時間を過ごすうちに、羽入の感情は空っぽになって
 いった。
 だから圭一が話しかけてくれたときの心の高揚は何にも代えがたいものとなり、再び孤
 独を脱せた羽入のなかにはもう圭一しか姿を表すことがなかった。そこには梨花のみな
 らず誰の存在も入り込める余地などなかったのだが、圭一のほうでは当然そんなことは
 なかった。梨花と羽入が間接的にとはいえお互いを意識するときが再びやってきたのだ
 った。どれほどぶりか分からず羽入が梨花に話しかけたのもそのためだった。


 梨花は心の底からおどろいていた。

「圭一が疑心暗鬼に陥っているのです」

 そう言う羽入にすぐに反応ができず、戸惑った。すぐ隣に梨花に対して訝しげな様子の
 沙都子の顔があったので、どちらに視線を向けるべきか一瞬気迷う。しかしまだ在るべ
 き平穏を壊されてはたまらない、と答えを出し、満面の笑みを浮かべた。慣れたものだ、
 と自嘲するのも久しぶりのような気がした。ふと羽入の表情を伺うと、ぞっとするほど
 冷ややかな目を向けていた。瞳の深奥に得体の知れない色が見える。ちょうど井戸に放
 った小石がそうであるように。
 そこにいつかの羽入は居ない。自暴自棄ともとれる態度に辟易していた羽入の姿は今、
 梨花の記憶の片隅にひっそり佇むのみだった。

「どうしたの?」

 どうしてか、名前を呼ぶことが憚られた。

「圭一に近づいてはいけないのです。梨花も沙都子も魅音もレナも。誰一人」
「雛見沢症候群?」

 そこで羽入はにこりと笑った。

「圭一は今誰も信じられない状態なのです。近づけばきっと傷つけてしまうのです。だか
 ら落ち着くまでみんなを遠ざけるのがいいのです」

 さらさらと早口で捲し立てる。どこを見ているのか分からなかった。浮かべていた笑顔
 は波が引くように消えていき、結果表情を無くしている。話しかけておきながら、その
 実、会話をする気などまったくないという風に感じられる。
 梨花は少し苛立った。そもそも最初に現れたときから羽入には遠慮がなかった。
 夜はとうに更けていてこれから寝ようというときに羽入はきた。その時点ではまだ沙都
 子も起きていたから、梨花が羽入に応じられないというのは分かっているはずだ。それ
 なのに執拗に話しかけ、沙都子が寝静まるのを待つ気配など微塵も感じられなかった。
 二人きりになっても、以前のようにグラスを傾けながら話を聞くというスタイルをとら
 なかったのは、美味しいと思うことなしに消費するのはもったいないという外なかった
 からだ。

「いまさら、何? 圭一が発症したからって私が何をしなきゃいけないってことないでしょう?」

 拳に力は入らない。こんなときにシーツを握り締めていたのも梨花にとっては遠い昔の
 ことである。今、生きる力はあっても生きていく力はなかった。

「……?」

 梨花は空気が変わっていることに気づいた。羽入相手の沈黙には慣れっこだったはずな
 のに、気にせずにはいられない――おそらく梨花自身が初めて感じたであっただろう雰
 囲気だったために――ものがそのときの無言の中には含まれている。
 見上げると、羽入が強い侮蔑の視線を向けていた。
 頭の天辺から腰にかけて、さっ、と凍てつくような空気が駆け抜ける。
 それは梨花がもっとも嫌悪するものだった。どう動いても頭をひねらせてもびくともし
 ない運命はそんな風に梨花を眺めていた。そっぽを向いているように思えていた間はま
 だよかったが、いつからか蔑みの色を帯びてきてからは狂いそうになるほどの涙を流す
 ようになったのだ。
 今まさに再びそれと似た瞳を向けられた梨花の中では、二度と見つけることなどないよ
 う長らく沈めていたはずの負の感情がじわじわと息巻き始めていた。
 動悸がする。汗が噴出す。被りかけていた布団の感触が急に気持ち悪くなった。抜け出
 ると今度は雛見沢の夜風に肌があわ立ち、恐怖として梨花の体を覆っていく。

 逃げられない。避けられない。
 私の居場所はどこにあるのだろう。どこに居ればいいのだろう。

 朝も夜も家の中も外も、全てが雛見沢の6月という枠に括られてしまっていて、逃げ場
 所が存在しない。梨花にはそれがひどく怖かった。うろたえればうろたえるほど様々な
 記憶が頭に入り乱れ、何を考えればいいのかわからなくなっていった。しかし、無数に
 分かたれた道、それらが闇に埋もれていく中でも、これだけは見失わない、と、遺伝子
 に刻み込まれていたかのように梨花は親友の存在を求め、すがろうとする。

「う…うぅ、沙都子……沙都……っ」

 行く手を遮るように、ふわりと羽入が降り立った。さながら世界を分かつ壁のごとく、
 小柄な体躯から放たれる威圧感に梨花は頭を垂れた。溜めた雫が音もなく落ちていく。

「どう……すればいいの? どうやったら抜け出せるの? ……終わるっていうのっ?」

 ただ吐き出したかった。重い胸のうちを、誰にも咎められることなく。
 そのおかげだろうか、目の前の壁がふっと消えたような気がした。雲散霧消した圧迫感
 の正体を確認するため、恐る恐る顔を上げると変わらず羽入はそこにいた。一瞬わけが
 分からず呆けたが、その向こうに眠りから覚めた沙都子が見えて、理解した。「梨花?」
 そしてその声を聞いた瞬間、梨花は沙都子の胸に飛び込んでいた。恐怖がゆるみ、広が
 っていく安堵の気持ち。そうなれば当然、力なく震えたままの涙腺を引き締めることが
 できるわけもなく、軽いひきつけを起こしたように、促音を発し続けている。

「梨花、泣いてますの?」

 戸惑いながら、梨花の黒髪と同じくらい繊細そうな手つきで背を撫でる。

「どうしましたの? 怖い夢でも見たんですの?」

 怖い夢――。
 そうであってほしい。夢だったならどんなにいいだろうか。そう思う心が、沙都子の肩
 で、梨花を何度も何度も頷かせる。しかし当然そんなことはない。瞳をわずかに巡らせ
 れば赤い袴が目に入った。

「いったいどんな夢でしたの?」

 梨花が怖がるなんて、とでも続きそうな、優しさの中にもおどけた調子を交えて沙都子
 が問う。温もりに包まれて、知らず梨花は落ち着きを取り戻していた。いつも二人でい
 るときの感覚が甦ってくる。

「……沙都子の後ろに……」
「ひゃわっ!?」

 脇にどけてあった卓袱台の上にお茶を溜めたままのコップがあり、側面についた水滴を
 掬い取った。そしてそれを意味深な間の後、沙都子の首筋に触れさせる。案の定、沙都
 子は飛び上がった。

「ななな、なんですのっ!?」

 あたふたする様子をひとしきり笑って種明かしをすると、顔を赤くして飛び掛ってきた。
 せっかく心配してあげていますのにっ、と枕で叩いたり投げたりしてくる。

「ぼ、ボクのせいでおトイレに行けなくなったのならちゃんと付き添ってあげますですよ~」
「そ、そんな心配はいらないのですわっ!」
「あはは……」

 振りかぶる隙をついて、また抱きつく。
 梨花は、一通り騒ぎ立てている間もまったく動く気配のなかった羽入を見据えた。
 感じる温かさは虚構なのかもしれない。けれど、沙都子だ。失いたくない、今の梨花に
 とっての紛れもない現実だ。それが奪われるようなことがあるなんて、絶対に許せない。
 羽入は言った。圭一が疑心暗鬼に陥っていると。仲間というものは頼もしくもあるが、
 繋がりがあるだけに厄介なものでもある。切り離すべきは雛見沢の魔に魅入られてしま
 った圭一。悪いとは思う。けれど仕方がない。
 今抱える小さな現実を、私は大きな虚構から隠そう。

「ふふふ」

 羽入は踵を返そうとした。横顔に、これまで見たことのなかった含み笑いを残して。

「梨花がどう考えたかなんてボクにはどうでもよいことなのですが――、それでいいのです」

 羽入の目尻と口角は互いに強い力で引っ張り合っているようだった。オヤシロ様として
 永年過ごした瞳が雛見沢そのものを映し出しているとしたなら、吊り上った口元はさな
 がら三日月のように。
 この世界を掌握している、とそう思わせる。

「ボクの言うとおりにしておけば」

 音もなく去っていった。
 圭一の発症――。
 信じたものが真実に値するかどうか、今の梨花には判断がつかなかった。


 雛見沢症候群ではないか。そういう兆候を圭一に見たとき羽入は思いついた。
 L5にまで陥ってくれれば、圭一はボクのことを認識してくれるのではないだろうか。言
 葉を交わせるのではないか。もしかしたら、触れることも――。
 恋しさに、それゆえの日々の悲しさに、耐えることしかできなかったときだけにこの想
 像は羽入の胸を躍らせた。希望が見えたのだ。
 それからは今まで以上につぶさに圭一の行動、心情を追うことにした。そのために、圭
 一が他の女と楽しくおしゃべりする、ただ辛いだけの学校の間もそばについて離れなか
 った。
 何事もなく普通に過ごしていれば悪化することはないかもしれない、そういう類の、兆
 しといえるかどうか分からないものが発見できた。羽入だから気づけたといえる。それ
 の芽生えだけは確率的にかなり低いものだが、一度芽を出してしまえば圭一の意思にか
 かわりなく肥大させていくことはそう難しいことでもない。
 羽入は少し迷った。まず思い浮かんだのが、誰も信じることができないという雛見沢症
 候群特有の症状ゆえに圭一が一人で苦しまなければいけなくなるということだったから
 だ。病に伴うさまざまな辛苦に圭一が苛まれるのは嫌だった。

 だってボクは見ることしかできないから。

 その思考に至って羽入ははっとした。これまでに幾人もの感染者を見てきた。彼らに表
 れる症状は様々なれど、共通しているものがあったではないか。――幻覚。彼らと羽入
 にとってはもちろん幻覚などではないが、外の人間はそう呼称しないと理解できないも
 のだった。
 そもそも羽入が圭一を思慕するきっかけとなった出来事が、圭一が羽入を知覚できるこ
 とがあるという何よりの証拠だった。だからもっと早くその結論に達していればよかっ
 たのだが、そばに居られるだけでいい、見ているだけでいいという気持ちが、今の今ま
 でそれを困難なものにしてしまっていた。羽入のみならず圭一も意識している中で、他
 の女よりもっと近くにいたいという欲求が生まれて初めて、ぴんと来たことだったのだ。
 なんだ。それなら何の問題もない。
 たとえ圭一が一人で苦しむことになったとしても、ボクがいる。圭一がボクを見つける。
 一人だと思い込むようなことは決してないのだ。ボクが癒してあげられる。傷ついた心を。

 羽入はその考えに憑かれるようになった。

 そこに二人だけの世界を思い描き、一分でも一秒でも早く、雛見沢症候群がひどくなっ
 てくれるよう願った。それだけでは満足することができず行動も起こした。それが梨花
 を使うことだった。圭一が疑心暗鬼になっていると梨花には伝えた。嘘ではない。その
 兆候を見つけてしまったのだ。大好きな圭一を自ら苦しめるようなことを、羽入はしな
 い。一度罹ってしまうと後戻りのできない病なのだ。ならばいくところまでいって安ら
 ぎを得られるほうが良いだろう。羽入は、自分がその役割を担うべきだと信じている。 

 逸る心を抑えるように、帰り道をゆっくり歩いている。当然、圭一の部屋までの帰途で
 ある。
 梨花も少しは役に立つだろう。ずいぶんと久しぶりにその姿を確認した気がするが、あ
 まりに弱々しい有様にまずため息も出ず、呆れた。自分が不可能を乗り越えようと奮闘
 しているのに対して、梨花の覇気のなさといったら、きっと退けられるはずの敵も退け
 ないに違いなかった。
 しかしそんな過去のことはどうでもいいという風に、無造作に天を仰ぎ見る。夜空に映
 える月や無限の星たちを眺めたところで、羽入には何の感慨もわいてこなかった。
 刻一刻と過ぎ去る時間のみを念頭におき、やがて訪れるそのときを心待ちにしていた。
 幾日と待たずに、圭一と出会えるのだ。
 もう我慢できなかった。そのことを伝えたい。依然一方通行だが、今日だけはそれを淋
 しく思うことはない。
 泣き笑いのような表情を浮かべる羽入は、高鳴る鼓動を歩む速度に代えて、圭一の下
 へと急いだ。
最終更新:2008年06月27日 01:36