■ある夜更けの診療所:鷹野 三四

 今日も、私はある作業のために静まり返った診療所の地下にいた。場所は昨日と同じ私の部屋。スタッフたちも昨日と同じように帰宅している。
 しかし私の目的だけは、昨日と全然違っていた。

 私の手に握られているのは、もうじき幕を下ろそうとしている研究が残した遺物。雛見沢症候群に感染しているかどうかを検査する、自動注射器だった。
 そして、注射器の表面に表示されている検査結果は陽性反応。つまり、被験者は雛見沢症候群の重度感染状態であると示している。普通なら、ただちにC120を注射し、治療をしなければならない状態だ。
「……ふふ」
 だが、私はその結果に身が震えるほどに歓喜した。そして笑った。聞く者がいれば、気が触れたのかと思われるだろう、大きな笑い声を部屋中に響かせた。
 私が気づいていないだけで、まだ診療所内にはスタッフがいるかもしれない。もし聞こえれば、不審に思われてしまうだろう。だけど、そんなことは全然気にならずに、ただ込み上げてくる笑いを私は狂ったように周囲へぶちまけた。
 それほどに、この結果は祝福すべきものなのだ。

 ――昨日、私を安堵させ、更にこの結果へと私を導いてくれたノートの文章。それは、祖父が起こした、研究への最期のあがきとも言える行動を綴ったものだった。……その内容は、かなり凄惨なものだ。
 それによると祖父は晩年、特にこの日記を書き始めた頃、研究への無念さと日々劣化する脳、そしてそれへの悲観によって、いよいよ精神が擦り切れかけていたらしい。
 例えば、自分でも知らないうちに妙な独り言を喋っていることがあったり、夜中に突然起きだして病院内を徘徊したり、果てには癇癪を起こして病室で暴れ回ったことがあったようなのだ。
 しかも、それらの行動を祖父は覚えていない。いや、記憶できなかった。脳が痴呆に蝕まれているため、それらがどんなに異常な行動でも、その後にすぐ忘れてしまうのだ。
 祖父は何十年も使って磨いてきた自身の頭脳をとても誇りに思っていた。……だから、いつも看護婦から覚えの無い自分の異常行動を知る度に、どうしようもなく劣化してしまった自分の頭脳に深く絶望した。
 そして、それが更に自身の精神を病ませるという、最悪の悪循環に陥っていたのだ。
 まず、私はこれで衝撃を受けた。祖父が病院でそんな状態に陥っているとは知らなかったのだ。
 何せ、祖父は余命幾ばくかとかそういうものも無く、何の前触れもなく自殺してしまった。その上、その頃丁度大学の研究で忙しかった私は、そう何度も祖父の見舞いに行くことが出来なかった。
 だから、特に酷かったという最期の一ヶ月間もロクに祖父に会うこともなく、その結果祖父がどんなに苦しんでいたのかということも気づけず、私と祖父は永遠の別れを迎えてしまったのだ。
 祖父が死んだ当初も深く後悔したが、これを読んで私は身を切り刻まれるような思いになった。どうして気づくことが出来なかったのか。どうして無理にでも何度も会おうとしなかったのか。
 その思いが胸を抉るように突き刺さり、私は絶望した。
 思えば、祖父の担当看護婦が妙によそよそしい態度を私に取っていたのは、これが原因なのだろう。
 どうして私に祖父のことを教えなかったのか、今更に怒りの炎が湧いたが、祖父が私を心配させないために、わざわざ口を噤ませたのではないかと思うと、怒りを燃やすに燃やせず、すぐに鎮火した。
 そして、深い絶望に覆われた私に、優しい驚きを与え、安堵させた文章が次に現れる。それこそが、祖父の最期のあがきを記録したものだった。

 悲痛の入院生活を続けながらも、日記を書き綴り続けたある日のこと。祖父はふと一つの行動を思い立った。――それは、自らの体に雛見沢症候群のウィルスを寄生させることだった。
 祖父は、研究への名残と共に、ただ死を待つのみの自分の身に、一種の寂しさを感じていた。それは、いくら日記を書いても満たせず、祖父は散々にそれが何なのか悩み続けた。
 その思考の末、祖父が起こした行動が、雛見沢症候群を自分の身に感染させることだった。
 つまり、祖父は怖かったのだ。心から自分を信頼してくれる者が、私と小泉のおじいちゃんくらいしかいない状況で、死を迎えてしまうことが。
 祖父はその異常な行動から、看護婦たちにも嫌われていた。だから、病院内でも祖父は孤独に近かった。
 人間は脆い。例え、祖父のようにどんなに偉大な人物であろうと、寂しさには勝てないのだ。
 そこで、祖父が目を付けたのが、自分の人生ほとんどを使って研究し続けた、相棒とも言える雛見沢症候群のウィルスだった。
 こいつらなら自分の寂しさを埋めてくれる。こいつらと最期の瞬間まで共に過ごし、共に墓の中へ入ろう。
 そう思い、祖父は見舞いに来た小泉のおじいちゃんに頼み込んで、ウィルスを注射し、……そして感染した。
 祖父がその行動の結果、寂しさを消すことが出来たのかはわからない。なぜなら、その日付以降の日記は、紙がシミでぐちゃぐちゃになっていて、読むことが出来ないのだ。だから、祖父の自殺直前の思考は、全く読み取れない。
 ……ただ一つ、美代子という文字、つまり私の名前が書かれているのをを判別することができたが、それが原文で何を示していたのかは、全くわからなかった。

 私は祖父のその行動に、いたく感嘆した。そして、これこそが私を満たすための行動なのだと気づいた。
 なぜなら、……私も祖父と同じなのだ。
 祖父と同じように、私も心から私を信頼してくれる人物が全然いなかった。山狗など金だけでの繋がりだし、入江所長も私を恐れて距離を置いている。東京や野村たちなど論外だ。
 唯一いるとすれば、……そう、ジロウさん。純粋な彼なら、心から私を信頼してくれているだろう。……だが、そんな彼も作戦で必ず死ぬ。だから、私がこの世を去る時にはもういない。
 つまり、私は一人ぼっちで孤独に死を迎えることになる。
 ……私は、それが寂しかったのだ。
 そして、その寂しさこそが私を満たさないモノの正体。私の心に引っ掛かり続けていたモノの正体だった。
 私はそれを完全に理解し、祖父と全く同じことをしようと決断した。無論、それで寂しさが埋められるとは限らない。
 だが、何もしないよりも何かをして、一刻も早くこの寂しさを消してしまいたいという思いが、今日私を突き動かしたのだ。

 しかし、いきなり壁にぶつかる。どうすれば、私にウィルスを感染させることができるのか。それが関門として私の前に立ちふさがった。
 私の体内には、対雛見沢症候群用の強力な予防薬が打たれている。だから、普通の空気感染では寄生させることが出来ない。
 予防薬を体内から抽出することも考えたが、空気感染は感染までの期間が人によってかなりのブレがあり、終末作戦までに感染できる保証がなかった。
 が、それは別の感染経路を思い出すことによって、すぐに解決した。
 通常、雛見沢症候群は雛見沢独特の風土による、空気感染からキャリアになることがほとんどだ。しかし、それ以外にも感染経路はしっかり存在する。
 ――それが、感染者からの接触感染だ。
 普通接触ならほとんど感染することはないが、粘膜・体液の接触で予防薬投与に関わらず、ほぼ確実に感染する。
 つまり、感染者との性行為、または血液、排泄物などが体内へ侵入することによって、それと共にウィルスが空気感染よりも遙かに濃く体内に入り、感染へ至るのだ。
 それを思い出したら、後はトントン拍子で事を運ぶことができた。
 まず、感染方法は性行為による粘膜接触に絞った。活発なウィルスが含まれた血液や排泄物は、ここが病院と言えども入手が困難だからだ。
 雛見沢症候群のウィルスは、人間の体内で最も活発に活動をする。それを体内に入れるからこそ重度感染する訳で、キャリアから外へ出て長時間経った物では、空気感染とほとんど変わらない感染力しか持たない。
 かと言って、新鮮な血液などはなかなか用意できない。。
 そして、性行為をするならば、次にその相手を選ぶ必要が出てくる。
 ……最初、私はジロウさんを選ぼうとした。彼なら予防薬が打たれていないため、村人と同じようにウィルスを体内に保有している。
 しかし、もうすぐ殺さなければならない人間と体を重ねたら、最期に余計な情が出てくる可能性があったので、すぐに却下した。
 ……そこには、私を心から信頼してくれているジロウさんを、最期の作戦以外では利用したくないという思いも、少なからずあったかもしれない。
 しかし、だからと言って他に条件に合った相手が見つからず、考えあぐねて結局翌日の昼頃を迎えた時、ようやくその相手が見つかった。
 ――それが、前原圭一だ。入江所長が、誰か彼の家へ往診に行ってくれませんかと言ったとき、私はすぐに名乗り出た。多少仕事が残っていたが、それらは後で消火することにした。
 彼は、こちらへ引っ越してきて大体一ヶ月近く経っている。そのくらいの期間滞在しているならば、ほぼ確実に感染していると言って良い。それは、過去の実験データからも十分断言できた。
 そして、もうひとつ彼が私の相手に適切だと思った理由に、年齢がある。彼ほどの年頃、つまり思春期ならば、性行為をしたということに大きな羞恥心を感じ、他の人にそのことを打ち明ける可能性が低い。
 だから、多少私が無理矢理に彼を犯しても、警察や村中にそれが漏れる確率が低いのだ。それは、作戦を前にあまり目立ちたくない私にとって、無視できない要因だった。
 そうして、私は彼の家へ往診を称して入り込み、食事の中へ媚薬と睡眠薬を混ぜ、彼の体の自由を奪い、――多少途中で遊び過ぎてしまったが――最後には無事粘膜接触をし、その精液を体に流し込んだ。
 事後の彼の茫然とした様子からして、狙い通り私との行為を言い触らすことは無いだろう。
 そして、その結果が今、正に私の前で煌びやかに輝いている。

 ――そう、私は見事、体内に雛見沢症候群の寄生虫を入れることができたのだ!

「あっはははははははは!! あーはっははははははっ!!!」
 その事実に、私は息が続く限り笑い声を上げた。愉快で愉快で仕方がない。
 雛見沢症候群のウィルスは、おじいちゃんが発見し、研究を続けてきた。それはつまり、この寄生虫はおじいちゃんそのものだと言っても良い。
 そのウィルスが今私の体の中で生きている。私は体内で確かにおじいちゃんの温かさを感じた。
 その温かさは、私の中で引っ掛かっていたあの寂しさを飲み込み、私に大きな安らぎを与えてくれる。私におじいちゃんが生きていた頃の温もりを感じさせてくれる。
 この世界でどんなに孤独に死を迎えようとも、私の体にはおじいちゃんがいる。だから、最早私は孤独な死を恐れる必要はないのだ。
 そう思うと、あれだけ感じていた死への恐怖すら、嘘のように消し飛ぶ。
 いや、むしろおじいちゃんと永遠に一緒にいられるようになるのだから、死というものは、今日から私にとって祝福すべきモノへと変化をしたのかもしれない。それは、本来死を恐れるべき人間と言うものから、大きく逸脱した考え。
 人間と大きく違う。それはつまり、人間ではない別のモノになったということ。
 ……そう、私はもしかしたら人間から神になれたのかもしれないのだ。おじいちゃんが言っていた方法と別に、神になることができたのかもしれないのだ!
「あっはっはっはっはっはっはっ! あっははははっははっはは! あーっはははははははっ!」
 その事実に、私の笑いはますます大きくなる。
 神は今ここに降臨した! オヤシロさまのような紛い物ではなく、人間を祟ることを目的とした神が、今誕生したのだ!

 そして、私はいつしか一人で涙を流していた。それは悲しみが原因ではない。
 おじいちゃんを感じることによって、おじいちゃんの無念さが私の体にひしひしと伝わり、それが私の身を焦がすのだ。悔しくて悔しくてしょうがないと、確かに私の身へおじいちゃんが伝えてくるのだ。
 その悔しさは、落涙と同時に私の体を怒りで熱く燃えたぎらせた。
 許せない……! おじいちゃんをこんなに苦しめた奴らが許せない! おじいちゃんの研究を認めない、この世界が許せない……!
 その恨みが、終末作戦を成功させることへの意欲を、急激に昂らせる。
 死を恐れなくなった私に、もはや作戦の執行を止められるものはいない。必ず成功させる。
 そして、おじいちゃんの研究を散々に踏み躙った奴らを、その研究で苦しめてやる。雛見沢症候群というものが、いかに神に近い存在であるかを、神である私自身が教えてやる……!

 そうして私は、私に啓示を下したノートを胸に抱きかかえながら、天に向けて言った。

「おじいちゃん、待っててね? もうすぐ、おじいちゃんも神様にしてあげるから――」


 ひぐらしのなく頃に 蟲遷し編 ―完―
最終更新:2007年06月26日 01:37