「ふう…」
悟史は疲れによるものではない溜息をつきながら、畳に座り込んだ。
背中から壁によりかかり、読み途中だった本を開く。
「ええと、」
どこまで読んだっけ、と心の中で呟いてペラペラと適当にページを捲ると
「栞は持ってないんですの?」
それまで無言で近づいてきた沙都子が、悟史に寄り添って体重を預けたところで、ようやく口を開いた。
「うーん、前に持っていたのが見当たらないんだ」
沙都子はその返答に特にコメントはないらしく、「そうなんですの」と表情だけで意思表示をしてみせた。
悟史も「うん、そうなんだ。」と、相槌すら打たずに意思を示して、本へと目線を戻す。
ぺらり、また新しいページを捲る。
こうしている時が、一番落ち着く自分がいることに気付く。
(部活も野球も好きだけど、やっぱりこういうのがあってるのかな)
他にも好きなことは沢山ある。
それらの多くが大切な妹や仲間達と過ごせるもので
かつてからは考えられない、今の幸福がとても、とても嬉しかった。
ふと気が付いて、隣にいる妹に目をやると眠ってるのか
すうすうと静かな呼吸音と共に体を揺らしている。
「………」
悟史は沙都子の頭に手を乗せて優しげに撫でた。
すると、沙都子はぱちりと目を開けて兄の顔を見上げた。
どうやら眠ってはいなかったようだ。
沙都子は少し微笑むように目を細めると、こてんと首を傾けて胸の辺り頭を乗せた。
「にぃにぃ…」
愛おしむように様に兄のことを呼ぶが、彼からの返事はない。
それでも沙都子には全く気にした様子がない。同様に悟史も解っていた。
この発言に応える必要はないと、ただ慕ってくれるこの妹の頭を撫でれば満足なのだと。
(そろそろ…)
頭を撫でていたことによって、一端中止していた読書を再開しようかと考えた時だった。
沙都子はなにか意を決したようで、体の位置を悟史の正面に移動した。
「にーにー」
今度はさっきとは明確に違う、何かを感じさせる口調でもう一度兄を呼ぶ。
「なんだい、沙都子」
対照的に、悟史は少しもいつもと変わらない様子で妹に応える。
お互いにこの世で最も気心の知れた仲であるから、
多少いつもと違う挙動にでても、その意図を思索・推測するなんてことはありえなかった
沙都子は一度うつむくような動きを見せた後、すぐに顔を上げたがその時には再び瞼は閉じられていた。
それから、少し顎を出すかのように顔を悟史の方へ近づけていく。
が、10㎝程近づけた頃になにか気付いて、眉を僅かに動かした。
そして片目だけをちらっと開けて、悟史の顔のー正確には唇の位置を確認した後、
先程とは比較にならない早さで、悟史の唇に自分のそれを押し当てた。
こう、がばっと、覆い被さる要領で。

「!?」

それまでなんとなく、いつもの、魅音曰くぽやーんとした状態に拍車がかかった、
和みモードだった悟史は、このー彼にとってはだがー突然の妹の行為に驚きを隠せなかった。
というより、なにが起こっているか完全に頭が置いてきぼりで、ただ硬直していた。

ーーーーちゅぱっ

悟史が無抵抗なのをいいことに、なるべく長く行為を、キスを続けていた沙都子は
色々な理由で自らが耐えられなくなり、唇をようやく離した。
意図せずして鳴った名残の音で我にかえった悟史は、
「え、沙と、え?その、ええ?」ーやはり動揺することしか出来なかった。
あんまり悟史が動揺するものだから、沙都子はかえって冷静になる自分に気付いた。
「ーた、ただの愛情表現ですわ!」
しかしそれは冷静というより、只の開き直りなことに本人は気付いていないらしい。
故に、頬の上気も瞳の潤みも声の震えも隠すことは出来ていなかった。
「愛情表現って…これはその、そういうことなんだけど…」
悟史が言葉に詰まっていると沙都子は再びがばっと、
ただし今度は顔の位置をずらして抱擁に留まったが、ぎゅうっと兄の体にしがみついた。
「にーにー…駄目ですの?」
なにを、とは訊けなかった。沙都子の体全体から自分を想う気持ちが伝わってくるから。
同時に、悟史の頭によく自分たち兄妹が言われる言葉がよぎる。

「本当に仲がいいね、兄妹ってより恋人みたい」

そうか、そうだったのだ。
沙都子はーいつからかは知らないけれどー自分に、僕に、家族としてじゃない好意を抱いていたのだ。
「ー駄目、ですの?」
もう一度沙都子が訊く。
確認は出来ないが確信は出来る。
沙都子の瞳は先程よりも潤んで揺れて、頬は真っ赤であることが。
何故なら、その声は短い言葉でさえ聞き取りづらいほど震えていて、
密着した胸からは早鐘の様な動悸が伝わってくるから。
「………っ」
悟史はずっとまともな言葉を言えない自分に苛立ちを感じた。
もう事態は把握した。だがそんなに早く答えを出せるはずがない。
かつて、これほど重大な問答があっただろうかーーいや、ない。
一つ言えるのは、自分は絶対にこの娘を拒めないということだ。
かつて拒んでしまいそうになったこの妹を、 自分に認められようと己に厳しくしていたこの妹を、
拒むだなんて、それだけは絶対有り得ない。
「にーにー大好きですわ」
未だに悟史の返答を得られないから不安になったのか、沙都子はもうわかりきってるその胸の内の真意を明かす。
今度こそ自分のターンを終えたとばかりに、ほうと息を漏らした。
自分が眠っていた間、その永い時間をずっと待っていてくれた妹を
再び待たすことも悟史には出来ずに、言葉を漏らし始めた。
「僕も沙都子は好きだよ…でも、それは家族としてなんだ」
「…………」
「それに仮に僕が沙都子を、その…女の子として好きになっても…諦めるしかないんだ」
僕達は兄妹だから、とは言わなかった。
悟史は陳腐なことしか、当たり前のことしか言えない自分が情けなくなった。
でも、これが誤魔化しなんて一切ない、自分の正直な気持ちなんだ。自分にはこれしか言えない。
「…わかってますのよにーにー」
沙都子はそう言うと、体を離して悟史と向き合った。
「…え?」
悟史は沙都子が何を言わんとしてるかが解らずに、間の抜けた声を出した。
「私達は兄妹で…それは絶対に変えられないこと。でも…、どうしても気持ちを伝えられずにはいられなかったんですの。妹としてじゃなくてにーにーに触れたかったんですの。」
沙都子は一呼吸置いて、
「それが…今回の、この、これの理由ですわ。ごめんなさいにーにー。私の軽挙で混乱させてしまって………今回のこれは忘れてくださいまし。」
今度は三呼吸置いて、
「っさあ!今からもう元通りに兄妹ですわ! 今夜の夕飯はにーにーの好きな鶏の唐揚げですわよ!」
パチっと自分の両頬を叩いて立ち上がり、誰もが空元気だと解る様な声を上げながら 、沙都子は振り向いて台所へ向かおうとした。
だが、悟史はそれを許さず沙都子の腕をつかんで、自分のもとへと引っ張った。
「あっ…!」
どさっと音を立てながら、沙都子は悟史の腕の仲にすっぽりと収まった。
この予想できなかった兄の行動に、沙都子は体は強張らせる。
「に、にーにー?」
「沙都子…さっきから聞いてればちょっと勝手がすぎるんじゃないか…」
やや低い声での兄の言葉に身を縮こまらせながら、
「ご、ごめんさいにぃにぃ…」
泣きたくなってきた。自分でつくったドツボに自分ではまっている。
言訳も出来ない。全て自分が悪いのだから。
しかし悟史の次の言葉は、沙都子の予想の裏をいくものだった。
「じゃあ僕の我儘も聞いてくれるかな…?」
「へ…あ、な、なんですの…?」
「僕と付き合って欲しいんだ」
全世界が停止したかのように思われた。
しばらくした後、悟史が「むぅ…なんとかい言ってくれないかい?」
と言うまで沙都子はあんぐりと口を開けていた。
身をよじって悟史の顔を見上げる形にして、動揺を隠せないまま沙都子は、
「予想外でしたのでなんと言ったらいいか…と、というよりどういうことですの!?」
「あ、いつまでもってことじゃなくて… 僕達にいつかそれぞれそういう人が出来るまでなんだけど…駄目かな?」
沙都子は言葉足らず気味な、兄の言いたいことを読みとるのは慣れたもので、
すぐに悟史の言わんとしていることを具体化した。
「それは…つまり代理人、というより疑似恋人ということですの?」
「あ、うんそういうことだよ」
今度は驚愕によってではないが、再び沙都子は大口を開けた。
なんというか、沙都子は呆れてしまった。
一見ひどくふしだらなこの関係を、この兄は実の妹に提案したのだ。
しかしこれまた迅速に妹は、兄がそういう不埒な意味を含まずに、
純粋に「兄妹以上、恋人未満な程に仲良くやっていこう」と言っているのが解ってしまった。
沙都子の表情が、驚きから呆れに変わってしばらくしてから、
悟史は「むう…駄目かな?」とズレた心配をしはじめた。
沙都子はなんだか、この純粋天然記念物な兄となら、そんな関係もいいのかも思えてきた。
それに、ずっと願っていたことが曲がりなりにも叶いそうなのだ。
自分のモラルを除いて、もともと沙都子に断る理由はない。
「そう…ですわね、にーにーこそいいんですの?」
「なにがだい?」
「私のことを考えての妥協案なら、無理しなくていいんですのよ?」
「む…違うよ沙都子僕は本当に…」

また、唇が重なった

「むぅ、なんだか沙都子とってもませちゃったね」
「女は日々成長するんですのよ。それよりにーにー」
沙都子の手は、悟史の肩に、
「その件、謹んで受けさせて貰いますわ。不束者ですがよろしくお願い致しますわ。」
「こちらこそよろしくね…ん」
三度目、だが今度は悟史の方から唇が寄せられた。
「な、な…!」
自分からしようと思っていたのに、悟史の予想だにしない行動に沙都子は 顔から湯気を出した。
今日のこの兄妹はお互いに驚かされっぱなしだった。
「ただの愛情表現、じゃないのかい?なにか問題でも?」
にこりと屈託なく笑う悟史が、なんだか意地悪に見えたのは気のせいか。
「にーにー意外と根に持ちますのね…」
「?なにがだい?」と答える兄を見て、やっぱりこの兄は天然だと妹は悟る。
だがそんな彼だからこそ、自分は親情以上のものを抱いてしまってのかも知れない。
頼りにないのだけど、同時に自分の最大の心の拠り所である北条悟史に。
そう思うと、ふっと沙都子は笑みをこぼした。
悟史も微笑み返して妹の頭を撫でる。精一杯の愛情を込めながら。


ーまたしばらくして、二人は言葉を交わし合う。
「それにしてもファーストキスもセカンドもサードも相手がにーにーだなんて…」
「むぅ、僕も沙都子が初めてだよ」
「あら、ご不満でも?」
「沙都子こそ」
「あら、私は身に余る光栄ですわって言おうとしたんですのよ」
「あはは、じゃあ僕もそれで」
「…にーに、改めてですが、よろしくお願いします。」
「うんこっちこそ…いつまでかはわからないけどそれまでは沙都子を泣かさないように頑張るよ」
「それはこっちの台詞ですわ!」
「じゃあそれもよろしくね、僕も頑張るから…」
「………はい!」
そして誓い合う。互いに、そして自らの心に。
最終更新:2008年03月08日 14:01