人混みの隅で、梨花の演舞を終始虚ろな目で見届けた後、圭一は観客の拍手と歓声に背を向けて歩き出した。何処へ行くともなくふらふらと彷徨っていた彼は、文字通り天から振ってきた言葉にハッと我にかえる。
「どうしたのですか、圭一?」
「――――羽入か」
気が付けば、夜の闇に沈んだ祭具殿の前に立っていた。たまたま辿り着いたのか、それとも無意識の内に足を向けていたのか、自分でもよくわからなかった。
「すごく、苦しそうな、切なそうな顔をしているのです。何かあったのですか?」
祭具殿の扉の前に、すうっと微かに光が灯り、闇の中で人の姿を形作る。頭の左右から下向きに一本ずつツノが生えているのを除けば、それは確かに人の姿であった。光は弱々しく、透き通ったその姿は今にも掻き消えそうだ。
声の主であるそれと、圭一は視線を合わせることなく、不貞腐れたように言葉を吐く。
「なんでもねぇよ」
「嘘だ」
羽入と呼ばれた声の主――古式ゆかしい巫女衣装を身に纏った少女は、両目を見開き、
「……ならば、早く梨花のもとへいけばいいのです。何故、こんなところで煩悶としているのですか?」
直立不動のまま、羽入はひたすら、じっと射抜くような視線を圭一に向け続ける。
それに対して圭一は、疑問……或いはやり場のない憤りのようなものを滲ませた顔を向けて、羽入の問いには答えないまま、
「―――梨花を幸せにする。俺は、お前にそう託された。でもそれは、本当に俺でなければいけなかったのか?」
「…………」
「何故、あんな夢を俺に見せたんだ?」
昭和63年6月―――実は昭和最後の綿流しであることは無論誰も知る由もない――に入ってから三週間余り、圭一は何度となく不思議な夢を見ていた。
いつの頃の情景かは、正確には分からない。雛見沢分校に通っていたあの頃なのは確かだったが。
その夢の中の前原圭一は、今ここにこうしている圭一の過去の姿とさして変わりはなかった。
もっとも、単純に過去の記憶とは思えない、違和感を抱いた箇所は幾つもあった。
最初に首をかしげたのは、羽入と思しき少女がごく普通にクラスメートとしていたこと。現実には巫女装束しか見たことがないのに、夢の中の羽入は洋服を着て、クラスで馴染んでいた。
まさに昭和58年6月のあの日、消えゆく間際の羽入が、梨花や圭一の前でうわ言のように話した内容そのままの情景であった。
更に奇妙なことに、その夢には「圭一」が映っていた。まるで映画のスクリーンかテレビの画面で見ているかのように、いや正確に言えば、幽体離脱して自分を見下ろしている――そんな感覚だった。
そのため、本来圭一が知覚できるはずのない光景――その場に圭一が居ない場面を、彼は夢の中で目の当たりにすることとなった。
まず印象に残ったのは、レナや魅音や沙都子が、おまけに羽入が何やら圭一を巡って、鍔迫り合いを演じているらしい、彼にとっては舞台裏じみた衝撃的な情景であった。
現実には、レナは近所のとても親切なクラスメートの女の子、沙都子は過酷な生い立ちを乗り越えつつも兄に近いものを感じる自分にまだまだ甘えたいところを残した女の子、魅音に至っては男友達のような親友、などと卒業まで半ば思いこんでいた始末だった――正確には、気付いてあげられない理由もあった――が。
勿論羽入はクラスメートとして対等に接した覚えなどない。
こうして第三者視点のごとくまざまざと見せ付けられると、今更ながら、俺はこんなにも女の子の気持ちに疎かったのかなどと、圭一は自分自身のことなのに見ていてもどかしくなったくらいだった。まるで暢気に他人を見ているかのようだ。
情けない話だが、それ自体はハッキリ言って彼の歩んできた過去とさして変わりはない。ただ、自らの過去とは決定的に異なる部分があった。
レナと魅音と沙都子と、そして羽入。そう、圭一を巡る鍔迫り合いの中に、梨花――今の圭一が早くも将来の伴侶と定めている女の子は含まれて居なかったのだ。
圭一が居る時は作り笑い――最近は人前ですら見せない、自分と二人っきりの時に戯れでだけ見せるようになっている表情と口調を、圭一が居ない時には三人……いや四人が四者四様に圭一への好意を垣間見せる中、さも他人事であるかのようにどこか冷めた様子だった。
端的に言って、夢の中の梨花は圭一が全く眼中にない様子だったのである。
今の彼にとって、あんまりといえばあんまりな話ではある。昭和58年6月以降の圭一は、古手梨花のことを誰よりも気に掛けるようになっていたのだ。それは幾つかの必然と偶然が重なり合い、きっかけと過程を紡いだ結果であった。
だが夢の中では、それが重なった様子は片鱗も見えなかった。
圭一が梨花を気に掛けている様子はこれといって無かったし、梨花もそれをどうとも思っていないようだったのだ。
どうやら夢の中の梨花が想いを寄せるのは―――圭一があの昭和58年6月の戦いで知り合った、赤坂らしい。
まめに手紙を書いたり、或いは偶に彼が来訪した時には、実に親しげたっぷりに接していたりした。羽入に恋心を弄られてムキになったらしい光景もみられた。
それは、自分に向けて見せていた、いや今も見せてくれているはずの顔だった。想い人を見つめる少女の顔。
夢から目覚めたとき、ここ四年近く惜しみない愛情を注いでいる「はず」の女の子のそんな姿に、圭一は薄ら寒いものすら感じた。堪えきれなくなって、「声が聞きたくなった」などと適当な理由をでっち上げて何度も電話を掛けたほどだ。
「……あれは、もう一つの可能性。ありえたかもしれない未来なのです。梨花が、そして僕が選んだかもしれない“選択肢”」
「梨花は兎も角、羽入がって……? 俺じゃなくて、か?」
羽入は深く頷いた。祈るように両手を胸の前で重ねて、
「僕が選んだのです。梨花の想いを託す人を誰にすべきか、を」
「想い……誰が梨花を守り、支えるかってことか」
「圭一が見たその夢は、決して絵空事ではない。その世界の僕は、間違いなく赤坂を梨花の想い人に選んだのです。世界を、そういう風に紡いだ。でも――」
羽入は右手を、すうっと圭一の方へと伸ばす。指差すのではなく、掌を差し伸べるような仕草だった。
「僕が選んだのは、圭一、あなたなのです」
「そいつは、光栄だな。オヤシロさまのお墨付きってか」
慰めるような言葉を掛けられても、圭一の投げやりな口調は変わらない。
人ごみの中で、梨花が赤坂の腕にしっかり抱きついていたあんな光景を見せ付けられては、今まで築き上げてきた自信も揺らぎ、悶々としてしまう。
声を掛けることすら出来ずに、圭一はその場を離れてしまったのだ。相次ぐ不運で帰省が遅れて、やっと梨花を見つけたらこの始末だ。お陰で今日はまだ一度も、梨花と直に顔を合わせてはいない。奉納演舞も遠巻きに見ていただけだった。
「幾らあなたが鈍感でも、今更……自分が梨花に愛されてるのか、などとのたまうつもりではないでしょう?」
「正直自信が無いぜ」
それまでほとんど無表情だった羽入は、突然頭を抱え、首を横にぶんぶんと振りながら、心底呆れたような声を上げた。
「あぅあぅあぅ! なんて情けない! 僕の選択は間違っていたですよ! こんなへたれた男に梨花は到底任せられないのです!」
「ま、待てよ。俺だって、今更後には引けねえぞ。そ、その……ずっと梨花を大切に思ってる。それだけは誰にも負けねえぞ」
「はいなのです。圭一がこの五年間、梨花のためにどれほど尽力したかは、僕もよく知っているのです。これでもし圭一を裏切るような真似をしたら、僕はオヤシロさまとして梨花に天罰を下してやりたいくらいなのですよ」
「お、おい……」
両手の拳を握り締め、オヤシロさまにしては妙に俗っぽく気合の入ったポーズと表情に、圭一は圧倒されてしまう。
梨花のために尽力、というのは手前味噌だが決して嘘ではない、という自負は今の圭一にはある。
そもそもの切っ掛けは、悟史の回復と北条家バッシングの終焉だった。
園崎家の後見と援助のもと、沙都子は悟史のリハビリのために北条家本宅へと戻ったのである。梨花の家で悟史まで一緒に暮らすのは厳しかったのだ。広さだけではなく、元来が防災倉庫である梨花の家は、21世紀の時代でいうところのバリアフリーの面で、かなりの難があった。
梨花が北条家へ居候する、という選択肢もあったはずだったのだが、彼女はそれを選ばなかった。沙都子は何度も勧めたのだが、梨花は頑なに首を縦には振らず、一人で暮らす道を選んだのだ。
学校でこれが話題になった時、看過できなかったのが圭一であった。彼は、“あえて”両親が“いる”日ばかりを見繕って、梨花に前原家へ泊まりにくるように誘ったのだ。両親が居ない日によその家の女の子を泊めるのは甚だ外聞が悪いものだったし、何より圭一をその行動に突き動かした「ある動機」は、周囲に隠れて邪な劣情を抱きかねないがごとき行為を是としなかった。少なくとも、梨花の方から求めるまでは。
そう、この時点での圭一は、梨花に異性としての何らかの感情を抱いていたわけでは全く無かったのである。この流れだけでは年齢からいって、恋愛感情を抱くのは余りにも無理があった。何より彼は、色恋には全く疎い類の男であったから。
お呼ばれされた梨花の方も、最初から圭一に明確な好意を抱いていたわけではなかった。
だが圭一の、前原家両親をも巻き込んでの行動は、次第に彼女の心を変化させていく。
両親を、羽入を失った後の深い心の空洞が、いつしか圭一の――何故か熱心極まりないお節介を止め処もなく渇望し始めたのだ。
圭一が一向に邪な意志を―――鈍感故のものでもあったが――見せない事も相まって心を許したのか、梨花は徐々に圭一に寄りかかるようになってゆく。そして同時に、圭一を“失う”ことをひどく恐れるようになっていった。
皮肉にも、そんな節々の行動が圭一に一大決心をさせることになった。
昭和60年3月。圭一は古手神社の石段で―――
「圭一をここまでキツく束縛しておいて、浮気など許さないのですよ。あぅあぅ…………圭一」
「ん?」
「……ごめんなさい、ごめんなさいなのです」
何の脈絡もなく、羽入がぺこりと頭を垂れたので、圭一はもうわけがわからなくなった。
「どうして羽入が謝るんだよ?」
「僕の勝手な願いを、貴方に押し付けてしまったのです。梨花のことが、気がかりでならなかったばっかりに…………貴方にだって、未来の選択肢は、無数にあったというのに……それを僕が奪って、狭めてしまった。僕が圭一の人生を穢し――」
「やめろ!」
「あぅ……」
周囲に憚ることなく、圭一はピシャリと羽入の言葉を遮った。そして先ほどの些細な嫉妬など児戯に見えるくらいの、激しい怒りを露にした。
「俺は、選んだんだ。選ばされたわけじゃねえ! あの時、梨花に手を差し伸べない選択肢だってあった。でも俺は自分の意志で梨花と支えあう道を選んだ! 羽入、お前に強制されたなんてこれっぽっちも思ってねえぞ! だから二度とそんな事を言うな!」
圭一を突き動かした「動機」の一つに、羽入の存在があったこと自体は事実だった。
一つ前の世界で、他でもない己のエゴが梨花を時の迷宮に閉じ込めていた罪を、梨花を歪な魔女にしてしまっていた事実を突きつけられ、耐えられなくなった羽入は、新たな世界へと赴くにあたって決心した。
―――決別を。
予定とはいささか違う顛末ではあったが、羽入は梨花の眼前で「消滅」した。
それこそが、梨花を気の長くなるほどの間己が箱庭に囲ったことへの贖罪であり、自らへの罰であり、梨花を解き放つための布石でもあった。
あえて冷酷なことをいえば、羽入が「消滅」する原因となった行動は、鷹野を庇ったわけではない。その後の彼女には彼女なりに、死ぬよりも辛いかもしれない人生が待ち構えているであろうからだ。罪人に安易な死を許さず、生きてその咎を背負う事を強制したのだ。
そして鷹野に対して強要したことを、羽入は自らに対しても課した。その身を古手神社へと封じたのである。
今の羽入は、もう実体化はおろか、気ままに人の前で姿を見せることも足音を鳴らすことすらもままならない。古手神社の本殿や祭具殿の周辺から離れる事もできない。
羽入が顕現できるのは、一年でただ一日―――綿流しの日だけであった。
梨花を迷宮に追い込んだのと同じだけの時間を、この世界で残留思念だけの状態で過ごす――それこそが、羽入が自らに課した罰だった。この事実を知るのは、圭一ただ一人。
昭和59年の綿流しの前夜、一年の時を経て力を徐々に回復させつつあった羽入は、蟄居していた祭具殿へ圭一を密かに呼び出して、全てを明かし――そして託した。
開口一番「僕に代わって、梨花を導いてやってほしい」と頭を下げて懇願したのだ。唐突な申し出に圭一がひどく困惑し、簡単に首を縦に振らなかったのは言うまでもない。最後の最後まで、梨花のもとに帰ってくるべきだと譲らなかったが、羽入のこの言葉で遂に圭一は折れた。
――共に己が罪を、最後まで背負おうぞ。この思い、罪人たるそなたにならわかるはず。わからなければ、即刻梨花から離れよ。
梨花に対して親身な行動をとるようになっていた、その真の「動機」を突かれた圭一は、この瞬間、覚悟を決めたのだった。
ただ、羽入の意を汲んで、という意識はない。あくまで覚悟を補強し、後押ししてくれた力に過ぎない、と今もずっと圭一は思い続けている。
「俺は断る事だって出来た。でも俺は逃げねえって決めたんだ。それが重荷だと思ったことなんか一度もねえぞ! 梨花の笑顔は、俺にそんな思いをさせなかったからな!!」
両手の拳を握り締め、羽入を見上げる圭一の両目には、いつしか消えかけた赤き炎が再び点っている。そう、彼は見失いかけた本来の姿を取り戻していた。
羽入は微笑を浮かべると、透き通るような、それでいて響き渡るような不思議な声音で言い放った。
「全く揺らいでなどいないではないか。そこまで強固な意志ならば、何を今更不安に駆られることがあろうか。さあ、早く胸を張って梨花のもとに行くがよい。…………きっと今頃、梨花は待ち焦がれてるのですよ、あぅあぅ」
「っ!!」
急に口調をがらりと変えられて、圭一は頭を掻きながら苦笑した。まったく、梨花は本当にこの「オヤシロさま」の血筋なのだな、とつくづく思う。口調や態度を巧みに変化させて、煽ったり翻弄したりするのは、三年前のあの日以降、梨花が圭一に晒すようになった性癖であった。
偶に圭一が躓きそうになったり、気弱な顔や隙をみせたりすると、梨花は巧みに突いて煽ってくる。
つまりは、まんまと羽入にまで同じように尻を叩かれたのであった。
「これでは、まだまだ古手家の将来は安泰――とはいえないのです。早く立派になって僕を安心させて欲しいのですよ。あぅあぅ」
「なぁ……羽入は、本当にもう―――会ってやらないのか?」
「そのことについては、もう何度も言っているのです。圭一もそれを納得してくれたからこそ、僕の願いを受け入れてくれたのではないのですか?」
「…………わかってる。けど、納得はしてねえよ。あの日以来、梨花がどんなに寂しがっているか、知らないわけはないだろ? それでも平気なのか?」
「平気なわけがないのです。でも、それでもこれが僕の選んだ道なのです。梨花を大事だと、愛しい我が末裔だと想うからこそ――」
声は震えていたが、涙は零さなかった。彼女は、とある日まで泣かないと決めたから。
「辛そうな顔をしてるじゃねえか。意地張るなよ」
「そ、それこそ、今更……どの面下げて梨花の前に出ろというのですか?」
「どの面も何も、素直に謝って、また一緒に暮らせばいい。少なくとも百年一緒にいたんだろ? 今の俺なんか足元にも及ばないほど、深い絆があるんじゃないか?」
「あぅ、当然なのです。まだ圭一は僕の足元にも…………いいえ、もう負けたのです」
自嘲とも見える笑みを浮かべる。かつて、梨花に幾度となく見せた諦観の表情――ではなかった。そこにあったのは、喜びと羨望、微かな嫉妬。
「もう、僕は梨花の顔を、奉納演舞の時にしか見る事が出来ませんですが、この三年間、見る度に顔つきが見違えるように変わってきているのです。女の子から女の顔になってきているのです。やっぱり、圭一には人の運命を捻じ曲げてしまう何かがあるのです」
「……買いかぶり過ぎだぜ」
「僕にはわかるのです。こう見えても、僕はかつて娘の母親だったのですよ」
「…………母親」
「親の真似事をしてしまった以上、せめて我が娘同然に思ったあの子を――桜花の面影を持つあの子を、ただの人として幸せに人生を全うさせたい、それが僕の最後の願い――いえ、わがままなのです。僕が傍に居ては、あの子は人ではなくなってしまう……魔女になってしまうのです」
時を巻き戻す長き旅がすり減らした心の傷は、深い。
そして、梨花に残された時間は、それまで費やした年月に比べれば、あまりにも短い。
だから魔女根性を叩きなおすには荒療治も必要なのだと、四年前に羽入はそう説いたのだ。「いっそ、梨花を交通事故にでも遭わせますか?」などと言われては、圭一も閉口せざるを得ない。梨花が後ろ向きで意志が弱くなってしまった、どこか捨て鉢な部分があるのは、圭一も薄々憂慮してはいたから。
ただ、羽入も少し自分を咎めすぎではないのか、という思いは捨てきれないでいたのだが。
「……決心は、変わらないんだな?」
尚も未練を残す圭一の問いに、羽入は両目を瞑って静かに頷いた。「そうか……」と肩をすくめて溜息をつく圭一に、すうっと薄く両目を開いた羽入は神様というよりは悪魔に近い類の笑みをにたりと浮かべて、
「それに、僕との今までのことが梨花に知られたら、圭一とてタダではすまないのです。きつーいお仕置きなのですよ。或いは破局で一巻の終わりかもしれないのです、あぅあぅ」
さも他人事であるかのように、そっぽを向いてふふんと勝ち誇ったかのようなそぶりをみせた。
「おい、人聞きの悪いこと言うな! つーかそれ、マジでシャレになんねえぞ!」
「あぅ、あの日の僕の実技指導を随分と熱心にまじまじと聞いていたのです。一歩間違えたら僕が手篭めにされてたのです」
「実体もないのに、どうやって一線を越えるんだよ?」
梨花と初めて身体を重ねる十ヶ月前、つまり丁度一年前の綿流しの日未明のことを思い出して、圭一は顔を紅潮させて慌てふためいた。
羽入と会えるのは一年に一度きり。
昭和59年の綿流しの日以来、圭一は羽入に祭具殿の中へ――屋根裏から侵入するルートで――呼び出されては、決して長いとはいえない時間、言葉を交わしていた。羽入が直接見聞きできなくなってしまった、主に梨花にまつわるよもやま話に花を咲かせるのだ。
羽入は行動が制限されるだけでなく、梨花との感覚共有も失われた――羽入の意志で一方的に遮断したようだ。
際どい事件があったのは一年前のこと。
祭具殿の中で自らの裸身を晒して、「本番では、優しく“してあげる”のですよ」などと言って、来るべき夜に向けて際どい指南をしたのである。
まるで、娘の婿を寝取らんと欲する義母みたいだ、などと、梨花にエロ本を禁じられるまでのごく短い期間に得た乏しい知識を引っ張りながら、圭一は思ったものだ。
舌を噛み、腕や腿をつねりながら、圭一は辛うじて暴発を堪えた。梨花以外をオカズにして果てない、という約束があったからだ。
端的に言えば、羽入は実体ではなく、肌を直に接したわけではない。だから一線を越えたわけではないと必死に言い聞かせながら、圭一はその夜の事を胸の内にしまいこんだ。
「圭一の話を聞く限り、今の梨花は最早独占欲の塊なのです。僕と逢引をしてたなんて知られたら、魔女どころではないほどに怒り狂うこと必至なのですよ、あぅあぅあぅ」
「だから逢引ってなぁ……疚しいことは、まぁ全くないとは言えねえか、くそっ」
今の梨花に対して、言い訳など恐らく通用しない。言ってしまえば因果応報ではある。馬鹿で不器用で真っ直ぐで熱い圭一の愛情が、梨花をそういう風にしてしまったのだから。
「あぅ、そろそろ時間なのです。圭一も早く梨花のもとへ行かないと怪しまれるのです」
「そうか。じゃあ、行くぜ」
「あうっ、圭一!」
背を向けようとする圭一に、消え行く間際の羽入は問うた。
「僕は正直、圭一がここまでやるとは思わなかったのです。もっと尻を叩く必要もあるかと思っていたのですよ。――何故、梨花のためにそこまで頑張れるのですか?」
「“オヤシロさま”なら、どうせお見通しなんだろ?」
背を向けたまま、圭一はぶっきらぼうに答えた。この世界では、梨花と羽入しかそれは知らないはずだった。
圭一が梨花のために尽力するもう一つの「動機」――それは。
「屑だった俺にだって、女の子一人を幸せに、笑顔にすることぐらいは出来るんだぜ。贖罪だの罪滅ぼしだのとはいわねえよ。ただ、十字架を背負う……重みに耐える支えが少しだけ欲しかったんだ」
険しい顔でそう言った圭一はしかし、直後に顔だけを羽入に向けて、こう言葉をつけ加えた。
「…………そして、俺は何よりご褒美に弱い男だからな。へへっ、アレには参っちまった。可愛くてしょうがねえぜ」
走り去る圭一の後姿を見つめながら、羽入は最後にポツリとこう呟いて、消えていった。
「…………きっと今宵は、暑くて熱い一夜になるのです。あぅあぅ……」
最終更新:2008年05月09日 19:37