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政治・經濟2 - (2010/07/25 (日) 22:25:32) の1つ前との変更点

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目次 #contents() *不況は弱蟲經營者が原因 (H20.12.14)  今囘の不況くらゐ動きの速い不況はない。リーマンの件があつて何日か後にはトヨタが派遣を何千人か切るといふニユースが流れてゐた。その後は連鎖反応の樣に大企業がどんどん人員削減を發表しだした。  思ふに、最近はどうかすると經營責任を問はれるので、經營者が、兔に角、早め早めに何か手を打つておかうとするのではないか。努力してなんとか切拔けようとするよりも、先に手を上げておいた方が自分の責任を問はれる可能性が低いと讀んでゐるのであらう。  それが不況の傳染を速めた。  アメリカ流のコンプライアンスとかが導入された成果として、日本の經營者も骨拔きになり、己の責任を全うするよりも責任逃れのみ考へる樣になつたのか。 *アメリカは自由の國か (H21.2.15, 2.22)  アメリカは自由の國と言はれてゐる。しかし、本當にさうか。理念としてはさうなつてゐるかも知れぬが、實態はどうか。といふのは時々聞くが、ここで問はうとしてゐるのは、理念の上でも本當にさうなのかと云ふことである。  大統領就任の際に聖書を片手に宣誓するが、これはどう見ても、政治に宗敎を持込んでゐる。アメリカ人はこれを見て當然としてゐる。日本人にも、これは信教の自由に反すると糺彈する人は何故かゐない樣である。  憲法はどうなつてゐるか。アメリカ大使館のホームページによると、下記の樣な内容である。  アメリカ合衆國憲法 修正第一条  連邦議会は、國教を樹立し、あるいは信教上の自由な行爲を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集會し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。  國敎を定めてはならないと云ふことと、あとは、自由を制限する法律を制定してはならないといふだけである。政治に特定の宗敎的儀式を持込んではいけないとは書いてゐない。  歐米の言ふ自由とは、もともと、さういふものである。つまり、何をしてもいいといふのではなく、あることに關しては、それをしても殺されたりはしないといふだけのものである。  信仰について言へば、キリスト敎を信仰することは人間として當然のことであることを前提として、なかには他の宗敎を信仰する人がゐても、それを止めさせはしないといふだけである。當然ながら、差別はされるかもしれないが。  ちなみに、日本國憲法には、信敎の自由だけで一条設けられてをり、下記の樣にかなり具體的な内容である。自由を保障すると謳つてはゐるが、結局、國家の介入を禁止するのが主眼である。羮に懲りて膾を吹く類ひか。 日本國憲法 第二十条  信敎の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗敎團體も、國から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。  二 何人も、宗敎上の行爲、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。  三 國及びその機関は、宗敎教育その他いかなる宗敎活動もしてはならない。  歐米のいふ自由とは、上に書いた樣に、正統から外れてゐる人は昔なら彈壓されたのであるが、一應存在だけは許す樣になつたといふことである。正統はあくまでキリスト敎であり、それもアメリではプロテスタントである。他の宗敎を信仰しても命までは取られないが、差別はされる。  日本人は、何をするのも個人の自由だと思つてゐるが、歐米では社會が優先される。社會あつての個人である。他人は信用できないがゆゑに、信用できる友人との付合いを重んじ、その延長として社會の規範を尊重する。  但し、社會も、個人の精神にまで立入ることは出來ない。地獄に落ちるか天國に救はれるかは、純粹に個人の問題である。  ところで、日本人は、他人を基本的に信用してゐるがゆゑに、普段は友人も社會も特に意識はしないで暮してゐる。日本人の暮しは歐米よりも個人主義的である。  自由の國アメリカはずつとアフリカ人を奴隷としてゐた。彼らは劣等であり、また貧しい暮しをしてゐたのが、自分達のお陰で豐かになつたのだと、むしろ恩着せがましい。歐米人の常であるが。  アメリカの自由とは選ばれた自分達だけに認められるものであり、その他の劣等人や非キリスト教徒はその恩惠には与りやうがないものでもある。  アメリカの實體は選民たちの閉鎖社會である。ただ、自分達のやり方に從ふ人間は受入れ、己の社會の強化に役立てようとしてゐるだけである。 *貧しさの原因 (H21.5.10)  物質的には豐かになつたが、とテレビで言つてゐた。よく聞く表現である。しかし、そもそも物質以外に豐かさがあるのか。物質的に間違ひなく昔より豐かになつた筈であるが、滿足できないものがあるので、それは物質以外の問題なのではないか、といふことであらうか。  食へない、或は食ふや食はずであれば、豐かではない。食へて、かつ、多少の餘裕があれば豐かである。それだけではないのか。  豐かといふのは、生活していく上でさうであるに越したことはないが、だから滿足といふものではない。誰でも食ふために何とか稼がうとする。それで食へる樣になれば十分である。さらに稼ぐ必要はない。ただ、先々の不安から、もう少し稼ぎたいとか貯金したいとかいふことはあり得るが。  ところが今は食ふだけで大變なのである。ちよつと氣を拔くと競爭相手に出し拔かれてしまふ。世の中がどんどん變つていくので、何かを身につけておけばそれで一生食へる譯でもなくなつた。常に稼ぐことに專心してゐないと、食つていけなくなる心配がある。いくら稼いでも安心出來ない。全く餘裕がない。それで貧しさを感じるのである。  なぜさうなつたか。原因は、今や世界がある自動運動に陷つてゐることにある。歐米は、特にアメリカは、この世を理想郷にする爲の一直線の道を進んでゐる。人間は皆そのための齒車に過ぎなくなつた。そして日本人もその一翼を擔はされてゐる。船に乘せられて絶えず櫓を漕がされる奴隷みたいなものである。ただし、本人氣がついてはゐない。知らぬ間に、仕事に追立てられ心休まらぬ生活を送らされる樣になつてしまつてゐる。明治以來、ただ植民地化を恐れて藻掻いてゐたらかうなつてしまつた。  アメリカでは、自分の救ひは自分で稼がねばならぬ。眞つ當な人間、救はれる人間は現世でも役に立つ筈であり、役に立つかどうかは金を稼げるか否かで判定される。それ以外に客觀的な評價はない。  金儲けを追求すると、結局、金融に盡きる。アメリカでは金融に皆が群がり、金融がすべてを支配してゐる。  惡貨は良貨を驅逐するで、アメリカの金儲け至上主義が、全世界を卷込んでゐる。この力には誰も抵抗出來ない。助けあひであつた「保險」も、今やビジネスに成下つた。サブプライムローンの樣な詐欺紛ひも罷り通る。  貧しさの話から結局プロテスタンティズムに行着いてしまつた。諸惡の根源はここにあるので、どうしてもさうなつてしまふ。これを打破するにはどうしたらいいのか。 *ならずもの國家は北朝鮮かアメリカか (H21.6.2)  北朝鮮が核兵器を開発してゐると非難されてゐる。しかし、核を既に持つてゐる國にそんなことを言ふ資格があるのか。  アメリカは北鮮を「ならず者國家(rogue state)」と非難した。國際法に從はない國といふことだらうが、ではアメリカの核は國際法で認められてゐるのか。さうではなからう。實力で他國を默らせてゐるだけではないか。支那なども、最初は非難されたが、持つて仕舞へば、既成事實となり、アメリカも非難しなくなつた、といふことであるが、正確には、持つてゐる奴を怒らせたら怖いからアメリカも言へないだけである。  要するに、核保有國は、他國を脅しで默らせてゐるだけである。すなはち、ならず者以外の何ものでもない。  日本だつて大きな面は出來ない。アメリカの核で守られてゐるのであるから。勿論、アメリカを非難してゐる人もゐるが、自分自身が傘の下でうたた寢してゐるのを忘れてゐるのか。國としては、勿論それを認めてゐる。それでゐて、北朝鮮を非難するのは、以つてのほかではないか。これでは日本もならず者である。  國際關係は力のせめぎ合ひである。力を持たぬ者は持つ者の風下に立ちながら何とかやつて行くしかない。こんな世界で、刃向ふ國に、偉さうな顏をして「ならず者」と非難するだけで澄ましてゐるのはをかしい。何故、力で押へつけようとしないのか。さもないと核は無限に擴散していくであらう。  勿論、アメリカとしては、直接、力に頼らず、自由主義とか民主主義とかの理念の力で制覇したいのであるが。しかし、そんなものはあくまで力の前提があつての話である。  結局、アメリカもそれだけの力は持つてゐないと云ふことなのか。「力」といつても、核は簡單には使へない。となると、通常兵器での戰ひになる。海上であれば近代兵器で簡單に優位に立てる。船を沈められればおしまひである。しかし、陸上ではなかなかさうはいかない。自分の國土を脅かされれば、窮鼠猫を咬むの必死の抵抗を受ける。  これにはアメリカの「理念」も吹つ飛ばされる。アメリカは、理念があるから正義であり、神の後ろ盾により必ず勝つと信じてゐる。しかしその神は猫の神樣でしかなく、鼠にとつては惡魔に過ぎない。鼠は、惡魔に支配されまいと、とことん抵抗する。たとへ戰ひに負けても、白旗はあげず、最後まで粘る。  思ふに、正義を振り囘すからをかしくなるのではないか。外交は、單なる政治の世界に過ぎないのである。そこに理念の押しつけををするから、話がをかしくなる。他國の理念も認め、問題を政治の世界に限定すれば、相手も話を聞きやすくなるし、互いに妥協點も見出しやすからう。勿論、話し合ひの裏には、最後は力づくでもといふ脅しがある。  アメリカは、自分こそならず者であること自覺し、ならず者に徹するしかない。さもないと世界の平和を守れないであらう。 H21.6.22 追記  アメリカが、自分は正義で北朝鮮はならず者だと言ふと、言はれた方は自分達を殲滅しようとしてゐるのではないかと恐怖を感じ、益々核を持たうと頑張る樣になる。  アメリカが、俺の方が強いのだから言ふことをきけと脅せば、北朝鮮もそれなりに損得勘定して妥協もするだらう。お互いにごろつき同士であるが、單に得しようとしてゐるだけであり、皆殺しなどは考へてゐないと思ふだらう。  アメリカの理念も、立派なものかどうか知らぬが、たとへ立派だとしても、どうせ完全に實現されてはゐないのであるし、北朝鮮に理念があるかどうか知らぬが、そんなことは他人の知つたことではないので、内政には干渉せず、ただ云ふことを聞けばよしとするしかない。  歐米の理念を押しつけようとするのは、そもそも他國の文化を破壞しようとする行爲である。歐米のやり方が正しいと思ふのは勝手であるが、それのみが正しく、それ以外は間違ひであるといふのはとんでもない思ひ上がりである。まして、それを傳道するのが自分達の使命であると思つてゐるから始末に負へない。  この樣な行爲は、ヒットラーの民族殲滅と、やり方は多少異なるが、結果は全く同じことになる。命を取るより文化を破壞する方が罪は重いかもしれぬ。 *鳩山由紀夫、中國皇帝により日本國王に封ぜられんと欲す (H21.8.16)  民主党の鳩山由紀夫は、朝日新聞(H21.8.15朝刊)の誤報でなければ、といふのは、こんなことがあり得るとは常識では考へられないから一應斷つておくのであるが、首相になつても靖国神社に參拜しないと、黨代表になつた時に中國政府に伝へてあるといふ。  日本の首相は中華人民共和國皇帝に封じられてゐるのか。  冗談はさておき、と言ふべきところであるが、冗談ではなく、吉田茂にしろ、小泉純一郎にしろ、歴代長期政權は皆、米國皇帝に封じられた奸臣ばかりである。奸臣と言つたのは、天皇に對して奸臣といふ意味である。田中角栄だけ、ちよつと刃向はうとしたのか。  それが最近は、中國にも二重朝貢といふ譯である。  鳩山といふ人は、政治といふものが全く分つてゐない樣である。この人だけではないが。  中國は、ジャブを入れてゐるだけなのである。そんなことで相手が怯むとは思はないが、相手から少しでも多くを引出すために、何かの足しになればと、あれやこれやとつついてゐるだけである。それを一々まともに受取つて反省してゐるから、逆に、中國の方が驚いてゐるだらう。  いや、もうずつと前からこの状態であるから、かうなることは豫測してをり、驚いてはゐないだらう。あまりにも豫想通りなので嗤ひ笑ひが止らぬといつたところか。  国際關係といふのは、弱肉強食の世界である。歴史を見れば明らかである。どれだけの民族が絶滅させられたことか。  それでも、今は、正義を貫くべく、世界は變りつつあるといふだらう。しかし、國連にしても、第二次大戰の聯合國側の組織に過ぎない。國際法といふのも、歐米の慣習を押しつけ、自分達の支配を維持しようとしてゐるだけである。國際法が正しいといふ根據はどこにもない。  正義といふのは、澤山の人間がゐれば、人間の數だけの正義がある。この世に絶對的な正義などあり樣がない。敢ていへば、人間存在自體が惡であり、國家自體が惡である。他人を押しのけることにより辛うじて生きてゐる。正義などどこにもない。  この相對の世界で、なんとか自分達が生延びられる樣にするのが、政治を擔當するものの責任である。過去の惡がどうのかうのと言ひだしたら、中國でもどこでも山ほど惡を犯してゐる。因縁をつけられたら、つけ返せばいいだけである。それが政治である。勿論、ジャブを入れながらも、あくまで友好的に交渉するのであるが。 *まず、政権交代でなく、考へ方 (H21.8.31)  民主黨のキャッチフレーズは、「まず政権交代」だつた。舐めるにも程がある。  まず、基本的な考へ方があり、それに基づいた政策が要るのではないか。それがあつてこそ、政權を持たせるべきかの判斷も出來る。  子供手當てとか、こまごました人氣取り策だけで、政権交代などと、馬鹿なことを言つては困る。  昨日も今日も、テレビには鳩山代表は出てこず、幹事長などが出てきて、代表ではないからとお茶を濁してゐる。考へがあるのなら、チャンスとばかり、自分が出て來て、責任ある發言をする筈である。何も考へてないから、こそこそ逃げてゐるのであらう。 *官僚の無力化 (H21.9.6)  衆議院選擧で民主黨が勝つたが、どうせ大したことが出來るとは思へない。といふのは、基本的な理念を何も表明してゐないからである。であるから、役人をちやんと支配できないであらう。  元々、日本人は政治には興味なく、幕府の役人に任せてゐた。明治になつて、ヨーロッパに倣つて議會制を導入したが、形式に過ぎない。相變らず、政治は役人が取仕切つてゐる。  ところが最近は官僚の腐敗、無能がしきりに言はれる樣になつた。  幕府の役人は原則世襲である。生活は保證されてゐた。ところが今の役人は生活の保證がない。若い間は、薄給とは言はぬが、高給ではない。年取つてからの收入の確保に目がいつてしまふ。その結果、天下り先の確保に懸命となる。肝腎の仕事が、天下り先を作るための方便となる。  會社でも、サラリーマン經營者は碌なのがゐない。自分で會社を持つてゐる經營者の方が、責任ある仕事をしてゐる。同族經營は、馴れあひになりよくないかも知れないが、世襲の經營者は基本的には惡くない。  いい加減でも、國内のことはまだ何とかなる。文句をいふ奴も多少はゐるし。しかし、外國との競爭のことになると、役人連中は殆ど頭にない樣である。その結果、色々なところで日本が劣勢になるといふ現象が起きてゐる。例へば、港も、所謂ハブ港を韓國に取られてゐる。  國としての戰略を考へるべき役人が、我身の事ばかり考へてゐる。役人の處遇も含めて考へ直す必要がある。 *國債は止めて、日銀から借りろ (H22.4.24)  日本国が多額の国債を発行してゐることが問題になつてゐる。殆ど国内から借りてゐる樣なので、外国から取立てられて破綻することはなからうとも思ふが、やはり氣になる。高度成長期の樣に經濟規模がどんどん擴大して、債務負担が相対的に小さくなればいいのであるが。  結局、国債として民間から借りるからいけないので、例へば、日本銀行から借りるなどすればいいのではないか。つまり、紙幣を政府のために発行させるのである。今念頭にあるのは、江戸時代の貨幣改鑄である。金が足りないから、貨幣を澤山出した譯で、なんとお手輕なことか。政府であるからそんなことも出來るのであるが、恐らく、經濟が發展してゐたのに貨幣の流通量が足りなかつたとか、そんな事情もあつたかもしれぬ。さういへば、藩札といふのもあつたが、これもさういふ意味もあつたらう。さうでなくて金が多く發行されれば、經濟がをかしくなる筈である。  日銀から借りれば、政府内の貸借りであるから、そのうち徳政令でちゃらにすればいい。民間から借りてゐると、徳政令は出せない。  金は、物々交換の代りに、単に、人間の労働量を測る物差しとして使つてゐるだけでであるので、貸借りの當時者同士が合意してちゃらにするのは、何ら問題ない。  もちろん、政府が日銀から借りる金と、企業が銀行などから借りる金の総和が、日本の生産量以上になつては経済が破綻する。しかし、今は輸出超過で外国に売つてゐる分を国内に囘せばいいのである。  国内消費が増加すれば、税収も増加し、政府も借りる必要がなくなつて來る。  国債を止める効果のひとつは、金利を上げられることである。国債の金利が上がつては困るので、今は低金利を続けざるを得なくなつてゐる。 (金利だけは許せないとか言つた人もゐるが、人類始つて以来、金利はあるのではないか。お禮の氣持である。また、金利があるから金を貯め込まないで貸すので、經濟が囘る。金を貯め込むのは、金利を稼ぐより惡いのではないか)  金利が低いことが、経済停滞の最大の原因ではないかと、前から感じてゐる。昔は、小金があれば、年金と金利で老後は何とかなると思つてゐたのが、この低金利ではさうはいかない。それで國民は皆貯金して金を使はない。金融機関は、國内は低金利なので、外國のファンドなどを買つたりする。  經濟の目的は、金儲けではなく、生活に必要な物や用役を提供するこで、金融機關は經濟がうまく囘るための潤滑油なのであるが、金さへ儲ければいいと勘違いしてゐる。本來、金はとんとんでいいのである。アメリカ流の金儲け至上主義が入り込んで來た所爲であらうか。 ※貿易黒字  國債を止めて日銀から借りると、民間の金が餘るが、これを企業に貸せばいい。かうなれば、企業は貿易黒字を稼ぐ必要がなくなる。また、稼いだ外貨で海外進出する必要もなくなり、國内で頑張ることになつて、雇傭も増える。  貿易黒字の原因は、民間の金が國債として政府に流れてしまひ、企業が貸して貰へないことにあるような氣がする。このあたりは、にわとりと卵で、どちらが原因でどちらが結果かはつきりしないところがあるが。相互に影響しながら進展したのかもしれない。  いづれにせよ、企業は儲けないと投資が出來なくなり、儲けようとするが、国内では足りないので、海外に儲け先を求めて、貿易黒字になる。  以前は、企業は儲けなくても、とんとんで良かつた。投資は借金でしてゐた。さらに、最近は、アメリカ流が入り込み、儲けないと経営責任を問はれる。  その結果、外貨が手に入り、それを使ふため、海外に投資する。工場建設、企業買収などである。  それで、国内生産は伸びず、雇用も減る。驚いたことに、最近は、アメリカのGDPが伸びてゐるのに對して、日本は停滞してゐる。  派遣やパートの増加で、平均的には賃金も低下してゐる。  ある會社では、女性社員はずつと採用がなく、派遣ばかりになつてゐる。ただ、この春は何故か少し採用た樣である。派遣の規制を懸念したのか。  派遣の女性は、以前の正社員よりずつと熱心に働く。以前はさぼつてゐたとは言はないが。嚴しい情勢から、首にされる口實を與へない樣にと思ふのであらうか。
目次 #contents() *不況は弱蟲經營者が原因 (H20.12.14)  今囘の不況くらゐ動きの速い不況はない。リーマンの件があつて何日か後にはトヨタが派遣を何千人か切るといふニユースが流れてゐた。その後は連鎖反応の樣に大企業がどんどん人員削減を發表しだした。  思ふに、最近はどうかすると經營責任を問はれるので、經營者が、兔に角、早め早めに何か手を打つておかうとするのではないか。努力してなんとか切拔けようとするよりも、先に手を上げておいた方が自分の責任を問はれる可能性が低いと讀んでゐるのであらう。  それが不況の傳染を速めた。  アメリカ流のコンプライアンスとかが導入された成果として、日本の經營者も骨拔きになり、己の責任を全うするよりも責任逃れのみ考へる樣になつたのか。 *アメリカは自由の國か (H21.2.15, 2.22)  アメリカは自由の國と言はれてゐる。しかし、本當にさうか。理念としてはさうなつてゐるかも知れぬが、實態はどうか。といふのは時々聞くが、ここで問はうとしてゐるのは、理念の上でも本當にさうなのかと云ふことである。  大統領就任の際に聖書を片手に宣誓するが、これはどう見ても、政治に宗敎を持込んでゐる。アメリカ人はこれを見て當然としてゐる。日本人にも、これは信教の自由に反すると糺彈する人は何故かゐない樣である。  憲法はどうなつてゐるか。アメリカ大使館のホームページによると、下記の樣な内容である。  アメリカ合衆國憲法 修正第一条  連邦議会は、國教を樹立し、あるいは信教上の自由な行爲を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集會し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。  國敎を定めてはならないと云ふことと、あとは、自由を制限する法律を制定してはならないといふだけである。政治に特定の宗敎的儀式を持込んではいけないとは書いてゐない。  歐米の言ふ自由とは、もともと、さういふものである。つまり、何をしてもいいといふのではなく、あることに關しては、それをしても殺されたりはしないといふだけのものである。  信仰について言へば、キリスト敎を信仰することは人間として當然のことであることを前提として、なかには他の宗敎を信仰する人がゐても、それを止めさせはしないといふだけである。當然ながら、差別はされるかもしれないが。  ちなみに、日本國憲法には、信敎の自由だけで一条設けられてをり、下記の樣にかなり具體的な内容である。自由を保障すると謳つてはゐるが、結局、國家の介入を禁止するのが主眼である。羮に懲りて膾を吹く類ひか。 日本國憲法 第二十条  信敎の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗敎團體も、國から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。  二 何人も、宗敎上の行爲、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。  三 國及びその機関は、宗敎教育その他いかなる宗敎活動もしてはならない。  歐米のいふ自由とは、上に書いた樣に、正統から外れてゐる人は昔なら彈壓されたのであるが、一應存在だけは許す樣になつたといふことである。正統はあくまでキリスト敎であり、それもアメリではプロテスタントである。他の宗敎を信仰しても命までは取られないが、差別はされる。  日本人は、何をするのも個人の自由だと思つてゐるが、歐米では社會が優先される。社會あつての個人である。他人は信用できないがゆゑに、信用できる友人との付合いを重んじ、その延長として社會の規範を尊重する。  但し、社會も、個人の精神にまで立入ることは出來ない。地獄に落ちるか天國に救はれるかは、純粹に個人の問題である。  ところで、日本人は、他人を基本的に信用してゐるがゆゑに、普段は友人も社會も特に意識はしないで暮してゐる。日本人の暮しは歐米よりも個人主義的である。  自由の國アメリカはずつとアフリカ人を奴隷としてゐた。彼らは劣等であり、また貧しい暮しをしてゐたのが、自分達のお陰で豐かになつたのだと、むしろ恩着せがましい。歐米人の常であるが。  アメリカの自由とは選ばれた自分達だけに認められるものであり、その他の劣等人や非キリスト教徒はその恩惠には与りやうがないものでもある。  アメリカの實體は選民たちの閉鎖社會である。ただ、自分達のやり方に從ふ人間は受入れ、己の社會の強化に役立てようとしてゐるだけである。 *貧しさの原因 (H21.5.10)  物質的には豐かになつたが、とテレビで言つてゐた。よく聞く表現である。しかし、そもそも物質以外に豐かさがあるのか。物質的に間違ひなく昔より豐かになつた筈であるが、滿足できないものがあるので、それは物質以外の問題なのではないか、といふことであらうか。  食へない、或は食ふや食はずであれば、豐かではない。食へて、かつ、多少の餘裕があれば豐かである。それだけではないのか。  豐かといふのは、生活していく上でさうであるに越したことはないが、だから滿足といふものではない。誰でも食ふために何とか稼がうとする。それで食へる樣になれば十分である。さらに稼ぐ必要はない。ただ、先々の不安から、もう少し稼ぎたいとか貯金したいとかいふことはあり得るが。  ところが今は食ふだけで大變なのである。ちよつと氣を拔くと競爭相手に出し拔かれてしまふ。世の中がどんどん變つていくので、何かを身につけておけばそれで一生食へる譯でもなくなつた。常に稼ぐことに專心してゐないと、食つていけなくなる心配がある。いくら稼いでも安心出來ない。全く餘裕がない。それで貧しさを感じるのである。  なぜさうなつたか。原因は、今や世界がある自動運動に陷つてゐることにある。歐米は、特にアメリカは、この世を理想郷にする爲の一直線の道を進んでゐる。人間は皆そのための齒車に過ぎなくなつた。そして日本人もその一翼を擔はされてゐる。船に乘せられて絶えず櫓を漕がされる奴隷みたいなものである。ただし、本人氣がついてはゐない。知らぬ間に、仕事に追立てられ心休まらぬ生活を送らされる樣になつてしまつてゐる。明治以來、ただ植民地化を恐れて藻掻いてゐたらかうなつてしまつた。  アメリカでは、自分の救ひは自分で稼がねばならぬ。眞つ當な人間、救はれる人間は現世でも役に立つ筈であり、役に立つかどうかは金を稼げるか否かで判定される。それ以外に客觀的な評價はない。  金儲けを追求すると、結局、金融に盡きる。アメリカでは金融に皆が群がり、金融がすべてを支配してゐる。  惡貨は良貨を驅逐するで、アメリカの金儲け至上主義が、全世界を卷込んでゐる。この力には誰も抵抗出來ない。助けあひであつた「保險」も、今やビジネスに成下つた。サブプライムローンの樣な詐欺紛ひも罷り通る。  貧しさの話から結局プロテスタンティズムに行着いてしまつた。諸惡の根源はここにあるので、どうしてもさうなつてしまふ。これを打破するにはどうしたらいいのか。 *ならずもの國家は北朝鮮かアメリカか (H21.6.2)  北朝鮮が核兵器を開発してゐると非難されてゐる。しかし、核を既に持つてゐる國にそんなことを言ふ資格があるのか。  アメリカは北鮮を「ならず者國家(rogue state)」と非難した。國際法に從はない國といふことだらうが、ではアメリカの核は國際法で認められてゐるのか。さうではなからう。實力で他國を默らせてゐるだけではないか。支那なども、最初は非難されたが、持つて仕舞へば、既成事實となり、アメリカも非難しなくなつた、といふことであるが、正確には、持つてゐる奴を怒らせたら怖いからアメリカも言へないだけである。  要するに、核保有國は、他國を脅しで默らせてゐるだけである。すなはち、ならず者以外の何ものでもない。  日本だつて大きな面は出來ない。アメリカの核で守られてゐるのであるから。勿論、アメリカを非難してゐる人もゐるが、自分自身が傘の下でうたた寢してゐるのを忘れてゐるのか。國としては、勿論それを認めてゐる。それでゐて、北朝鮮を非難するのは、以つてのほかではないか。これでは日本もならず者である。  國際關係は力のせめぎ合ひである。力を持たぬ者は持つ者の風下に立ちながら何とかやつて行くしかない。こんな世界で、刃向ふ國に、偉さうな顏をして「ならず者」と非難するだけで澄ましてゐるのはをかしい。何故、力で押へつけようとしないのか。さもないと核は無限に擴散していくであらう。  勿論、アメリカとしては、直接、力に頼らず、自由主義とか民主主義とかの理念の力で制覇したいのであるが。しかし、そんなものはあくまで力の前提があつての話である。  結局、アメリカもそれだけの力は持つてゐないと云ふことなのか。「力」といつても、核は簡單には使へない。となると、通常兵器での戰ひになる。海上であれば近代兵器で簡單に優位に立てる。船を沈められればおしまひである。しかし、陸上ではなかなかさうはいかない。自分の國土を脅かされれば、窮鼠猫を咬むの必死の抵抗を受ける。  これにはアメリカの「理念」も吹つ飛ばされる。アメリカは、理念があるから正義であり、神の後ろ盾により必ず勝つと信じてゐる。しかしその神は猫の神樣でしかなく、鼠にとつては惡魔に過ぎない。鼠は、惡魔に支配されまいと、とことん抵抗する。たとへ戰ひに負けても、白旗はあげず、最後まで粘る。  思ふに、正義を振り囘すからをかしくなるのではないか。外交は、單なる政治の世界に過ぎないのである。そこに理念の押しつけををするから、話がをかしくなる。他國の理念も認め、問題を政治の世界に限定すれば、相手も話を聞きやすくなるし、互いに妥協點も見出しやすからう。勿論、話し合ひの裏には、最後は力づくでもといふ脅しがある。  アメリカは、自分こそならず者であること自覺し、ならず者に徹するしかない。さもないと世界の平和を守れないであらう。 H21.6.22 追記  アメリカが、自分は正義で北朝鮮はならず者だと言ふと、言はれた方は自分達を殲滅しようとしてゐるのではないかと恐怖を感じ、益々核を持たうと頑張る樣になる。  アメリカが、俺の方が強いのだから言ふことをきけと脅せば、北朝鮮もそれなりに損得勘定して妥協もするだらう。お互いにごろつき同士であるが、單に得しようとしてゐるだけであり、皆殺しなどは考へてゐないと思ふだらう。  アメリカの理念も、立派なものかどうか知らぬが、たとへ立派だとしても、どうせ完全に實現されてはゐないのであるし、北朝鮮に理念があるかどうか知らぬが、そんなことは他人の知つたことではないので、内政には干渉せず、ただ云ふことを聞けばよしとするしかない。  歐米の理念を押しつけようとするのは、そもそも他國の文化を破壞しようとする行爲である。歐米のやり方が正しいと思ふのは勝手であるが、それのみが正しく、それ以外は間違ひであるといふのはとんでもない思ひ上がりである。まして、それを傳道するのが自分達の使命であると思つてゐるから始末に負へない。  この樣な行爲は、ヒットラーの民族殲滅と、やり方は多少異なるが、結果は全く同じことになる。命を取るより文化を破壞する方が罪は重いかもしれぬ。 *鳩山由紀夫、中國皇帝により日本國王に封ぜられんと欲す (H21.8.16)  民主党の鳩山由紀夫は、朝日新聞(H21.8.15朝刊)の誤報でなければ、といふのは、こんなことがあり得るとは常識では考へられないから一應斷つておくのであるが、首相になつても靖国神社に參拜しないと、黨代表になつた時に中國政府に伝へてあるといふ。  日本の首相は中華人民共和國皇帝に封じられてゐるのか。  冗談はさておき、と言ふべきところであるが、冗談ではなく、吉田茂にしろ、小泉純一郎にしろ、歴代長期政權は皆、米國皇帝に封じられた奸臣ばかりである。奸臣と言つたのは、天皇に對して奸臣といふ意味である。田中角栄だけ、ちよつと刃向はうとしたのか。  それが最近は、中國にも二重朝貢といふ譯である。  鳩山といふ人は、政治といふものが全く分つてゐない樣である。この人だけではないが。  中國は、ジャブを入れてゐるだけなのである。そんなことで相手が怯むとは思はないが、相手から少しでも多くを引出すために、何かの足しになればと、あれやこれやとつついてゐるだけである。それを一々まともに受取つて反省してゐるから、逆に、中國の方が驚いてゐるだらう。  いや、もうずつと前からこの状態であるから、かうなることは豫測してをり、驚いてはゐないだらう。あまりにも豫想通りなので嗤ひ笑ひが止らぬといつたところか。  国際關係といふのは、弱肉強食の世界である。歴史を見れば明らかである。どれだけの民族が絶滅させられたことか。  それでも、今は、正義を貫くべく、世界は變りつつあるといふだらう。しかし、國連にしても、第二次大戰の聯合國側の組織に過ぎない。國際法といふのも、歐米の慣習を押しつけ、自分達の支配を維持しようとしてゐるだけである。國際法が正しいといふ根據はどこにもない。  正義といふのは、澤山の人間がゐれば、人間の數だけの正義がある。この世に絶對的な正義などあり樣がない。敢ていへば、人間存在自體が惡であり、國家自體が惡である。他人を押しのけることにより辛うじて生きてゐる。正義などどこにもない。  この相對の世界で、なんとか自分達が生延びられる樣にするのが、政治を擔當するものの責任である。過去の惡がどうのかうのと言ひだしたら、中國でもどこでも山ほど惡を犯してゐる。因縁をつけられたら、つけ返せばいいだけである。それが政治である。勿論、ジャブを入れながらも、あくまで友好的に交渉するのであるが。 *まず、政権交代でなく、考へ方 (H21.8.31)  民主黨のキャッチフレーズは、「まず政権交代」だつた。舐めるにも程がある。  まず、基本的な考へ方があり、それに基づいた政策が要るのではないか。それがあつてこそ、政權を持たせるべきかの判斷も出來る。  子供手當てとか、こまごました人氣取り策だけで、政権交代などと、馬鹿なことを言つては困る。  昨日も今日も、テレビには鳩山代表は出てこず、幹事長などが出てきて、代表ではないからとお茶を濁してゐる。考へがあるのなら、チャンスとばかり、自分が出て來て、責任ある發言をする筈である。何も考へてないから、こそこそ逃げてゐるのであらう。 *官僚の無力化 (H21.9.6)  衆議院選擧で民主黨が勝つたが、どうせ大したことが出來るとは思へない。といふのは、基本的な理念を何も表明してゐないからである。であるから、役人をちやんと支配できないであらう。  元々、日本人は政治には興味なく、幕府の役人に任せてゐた。明治になつて、ヨーロッパに倣つて議會制を導入したが、形式に過ぎない。相變らず、政治は役人が取仕切つてゐる。  ところが最近は官僚の腐敗、無能がしきりに言はれる樣になつた。  幕府の役人は原則世襲である。生活は保證されてゐた。ところが今の役人は生活の保證がない。若い間は、薄給とは言はぬが、高給ではない。年取つてからの收入の確保に目がいつてしまふ。その結果、天下り先の確保に懸命となる。肝腎の仕事が、天下り先を作るための方便となる。  會社でも、サラリーマン經營者は碌なのがゐない。自分で會社を持つてゐる經營者の方が、責任ある仕事をしてゐる。同族經營は、馴れあひになりよくないかも知れないが、世襲の經營者は基本的には惡くない。  いい加減でも、國内のことはまだ何とかなる。文句をいふ奴も多少はゐるし。しかし、外國との競爭のことになると、役人連中は殆ど頭にない樣である。その結果、色々なところで日本が劣勢になるといふ現象が起きてゐる。例へば、港も、所謂ハブ港を韓國に取られてゐる。  國としての戰略を考へるべき役人が、我身の事ばかり考へてゐる。役人の處遇も含めて考へ直す必要がある。 *國債は止めて、日銀から借りろ (H22.4.24)  日本国が多額の国債を発行してゐることが問題になつてゐる。殆ど国内から借りてゐる樣なので、外国から取立てられて破綻することはなからうとも思ふが、やはり氣になる。高度成長期の樣に經濟規模がどんどん擴大して、債務負担が相対的に小さくなればいいのであるが。  結局、国債として民間から借りるからいけないので、例へば、日本銀行から借りるなどすればいいのではないか。つまり、紙幣を政府のために発行させるのである。今念頭にあるのは、江戸時代の貨幣改鑄である。金が足りないから、貨幣を澤山出した譯で、なんとお手輕なことか。政府であるからそんなことも出來るのであるが、恐らく、經濟が發展してゐたのに貨幣の流通量が足りなかつたとか、そんな事情もあつたかもしれぬ。さういへば、藩札といふのもあつたが、これもさういふ意味もあつたらう。さうでなくて金が多く發行されれば、經濟がをかしくなる筈である。  日銀から借りれば、政府内の貸借りであるから、そのうち徳政令でちゃらにすればいい。民間から借りてゐると、徳政令は出せない。  金は、物々交換の代りに、単に、人間の労働量を測る物差しとして使つてゐるだけでであるので、貸借りの當時者同士が合意してちゃらにするのは、何ら問題ない。  もちろん、政府が日銀から借りる金と、企業が銀行などから借りる金の総和が、日本の生産量以上になつては経済が破綻する。しかし、今は輸出超過で外国に売つてゐる分を国内に囘せばいいのである。  国内消費が増加すれば、税収も増加し、政府も借りる必要がなくなつて來る。  国債を止める効果のひとつは、金利を上げられることである。国債の金利が上がつては困るので、今は低金利を続けざるを得なくなつてゐる。 (金利だけは許せないとか言つた人もゐるが、人類始つて以来、金利はあるのではないか。お禮の氣持である。また、金利があるから金を貯め込まないで貸すので、經濟が囘る。金を貯め込むのは、金利を稼ぐより惡いのではないか)  金利が低いことが、経済停滞の最大の原因ではないかと、前から感じてゐる。昔は、小金があれば、年金と金利で老後は何とかなると思つてゐたのが、この低金利ではさうはいかない。それで國民は皆貯金して金を使はない。金融機関は、國内は低金利なので、外國のファンドなどを買つたりする。  經濟の目的は、金儲けではなく、生活に必要な物や用役を提供するこで、金融機關は經濟がうまく囘るための潤滑油なのであるが、金さへ儲ければいいと勘違いしてゐる。本來、金はとんとんでいいのである。アメリカ流の金儲け至上主義が入り込んで來た所爲であらうか。 ※貿易黒字  國債を止めて日銀から借りると、民間の金が餘るが、これを企業に貸せばいい。かうなれば、企業は貿易黒字を稼ぐ必要がなくなる。また、稼いだ外貨で海外進出する必要もなくなり、國内で頑張ることになつて、雇傭も増える。  貿易黒字の原因は、民間の金が國債として政府に流れてしまひ、企業が貸して貰へないことにあるような氣がする。このあたりは、にわとりと卵で、どちらが原因でどちらが結果かはつきりしないところがあるが。相互に影響しながら進展したのかもしれない。  いづれにせよ、企業は儲けないと投資が出來なくなり、儲けようとするが、国内では足りないので、海外に儲け先を求めて、貿易黒字になる。  以前は、企業は儲けなくても、とんとんで良かつた。投資は借金でしてゐた。さらに、最近は、アメリカ流が入り込み、儲けないと経営責任を問はれる。  その結果、外貨が手に入り、それを使ふため、海外に投資する。工場建設、企業買収などである。  それで、国内生産は伸びず、雇用も減る。驚いたことに、最近は、アメリカのGDPが伸びてゐるのに對して、日本は停滞してゐる。  派遣やパートの増加で、平均的には賃金も低下してゐる。  ある會社では、女性社員はずつと採用がなく、派遣ばかりになつてゐる。ただ、この春は何故か少し採用た樣である。派遣の規制を懸念したのか。  派遣の女性は、以前の正社員よりずつと熱心に働く。以前はさぼつてゐたとは言はないが。嚴しい情勢から、首にされる口實を與へない樣にと思ふのであらうか。 *外交音癡・日本人 (H22.7.18-25)  何かの感覺が鈍いのを何々音癡といふことがあるが、日本の政治を見てゐると、差當り、外交音癡とでも呼びたくなる。  外交で大事なのは、国益を損ねないことである。大儲けする必要はないが、損をしては困る。歐米なら、共産黨が政権を取つても、これだけは間違ひなく追求する。日本はこんな當前のことが出來ない。  古くは、安政の不平等條約といふのがあつた。経験がなく、それが何を意味するのか分らずに言ひなりになつたのかも知れぬ。黒船の脅威もあつたかも知れぬ。また、支那の阿片戰爭の話も聞いてゐたらうが、それにしてもお粗末である。  後智慧の謗りを顧みずこんなことを言つてゐるのは、不平等を押付けられたとよく書かれてゐる樣に思ふからである。外交において、押付けられたなどと嘯いて平然としてゐるのは呑氣すぎないか。失敗は失敗として捉へ、反省すべきを反省しなければ、また同じ失敗を繰返すことになる。實際、日本の外交は、その後もずつと失敗ばかりではないか。  敗戦の處理もしかりである。ソ連の火事場泥棒に何故抵抗しないのか。アメリカ軍に占領されたのは兎も角として、主權を失つてすべてGHQの言ひなりになつたのはどう云ふことなのか。  吉田茂は氣骨ある人の樣に取沙汰されてゐるが、講和を急いで極東軍事裁判を認めたのはをかしい。義を主張せず、實利さへ取ればいいといふ考へは、外交の最も拙なるものである。そんなことをしてゐるから、利も取れなくなるのである。  歐米は大義名分を主張する。正義とか、自由とか、文明の發展とか。それは完全に嘘である譯ではない。しかし、それが自分達の利益になるから主張してゐるだけである。早い話が、文明と言つても、所詮、西歐文明を受入れさせるといふに過ぎない。西歐文明を世界標準であると無理矢理押付けようとしてゐるだけである。  小泉などは、グローバリゼーションの名の下に、アメリカの要求をすべて受入れようとした。グローバリゼーションを世界標準と文字通りに受取り、これを受入れないと、バスに乗遅れて國益を損なふと心配したのであらう。アメリカはただ自分のやり方に合せろ、さうすれば自分達が樂であると言つて來ただけなのであるが。  問題は、他人の大義名分を簡單に信じ込んで仕舞ふことである。自分達に大義がないから、何かそれらしきものを出されると、恐れ戰いて仕舞ふ。擧げ句に、胡散臭いものでも、よく分らない儘に絶對視して仕舞ふ。絶對といふ觀念がないから、安易になんでも擬似絶對化して仕舞ふ。  「議會制民主政治」が唯一絶對と思はれてゐる樣に、「グローバリゼーション」も他に選擇の余地のない、世界の流れと思つてゐる。少くとも、アメリカ人が主張する場合は、單に、アメリカ化に過ぎないのではないかと何故疑はないのか。大義名分が出てきたことに先ず喜び、それが本當に普遍的なものなのかを吟味しない。かつ、それを持出した裏に、單なるエゴイズムが隱れてゐないかと疑ふこともしない。全くのお人好しである。外交は惡と惡の戰ひであることを知らない。  惡い奴ほど、大義名分で身を固め、あなたの爲ですよと囁くのである。  大義名分といふのは、抽象的であればあるほどいい。共産主義の傳道といふ大義は、ソ連の崩壊により壊滅した。大東亞共榮圈も日本の敗戦で潰えた。具體的なものは、いつか襤褸が出る。自由とか、平等とか、或は神の國、つまりユートピアの建設とか、具體性の薄いものが好適なのである。傷がつく心配がないからである。  神を持たず、抽象的な大義名分を考へられぬ日本人はどうすればよいのか。大義など、一切顧みず、實利に專念するしかないのではないか。その結果、世界中から叩かれるかもしれぬ。その時は、ではあなたの大義は何の役に立つのですか、逆襲したらよいのである。詰るところ、ご自分の得になるだけではないのですかと。  歐米はなぜ大義を持出すか。キリスト敎の布敎といふことが、彼らの世界制覇の大義名分になつてゐる。彼らは神の國を建設するといふ義務を背負つてゐると思つてゐる。制覇、征服に過ぎないのであるが、彼らに言はせると、進んだ文明の傳道といふことになる。進んでゐるといふのも、神の國へと向つてゐるといふ認識から生れる觀念である。少しでも最終目的地に近づいてゐるといふ驕りである。キリスト教徒でない者からすれば、この世に神の國など來る筈はなく、歐米の文明が進んでゐるとも思はない。それぞれ自分のやり方で生きて行けばよいだけである。

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