目次
日本人の苦惱
日本は西歐を受入れたが、「文明」だけのつもりで、和魂洋才などと稱して澄ましてゐる。しかし、實際は、文化的にも征服されてゐないか。アジアの他國は植民地として征服されたが、文化的には獨立を保たうとしてゐるのに對し、日本は植民地化は免れたが、文化的には知らぬ間に征服されてしまひ、その軋轢に無邪氣な魂をすり減らしてゐるのではないか。
H17.6.4
日本の學者
日本の學者は信用できない。人間的にどうのかうのといふのではなく、学問に對して眞面目でない。歐米の學者は、学問に對しては眞劍なやうに見える。
先日、永年使つて來たプログラムの中の式がまちがつてゐるのか分つたが、JIS 規格がさうなつてゐたといふ。JIS は既に改訂されてゐて、正しい式になつてゐた。最近、ISO に整合させてゐる樣なので、その際にでも修正されたのであらうか。古い JIS は既に廢棄されてゐたので確認できなかつたが、ある先生の古い總説にそのまちがつた式と同じ式が出てゐるのを見つけた。その式の出處は明記されてゐなかつたので、引用元が間違へてゐたのか、著者自身の勘違いなのかは分らない。
問題は、その先生よりも、JIS に採用する際に、誰も眞面目に式のチェックを行つてゐないといふことにある。誰もチェックをしてゐない、と斷定は出來ないかも知れないが、眞面目にチェックすれば誰か一人くらゐ見つけてもよささうなものである。先生が書いてゐるから間違ひなからうと、いい加減にしかやつてゐないのではないか。
英和辞典や和英辞典についても、似た樣な話を聞く。例へば、樫は、最初に誰かが oak と譯したので、後はみな右へ倣へでさう書いてゐるが、英語の oak は日本の樫とは大分違ふのではないかといふ。尤も、樫や楢などは、日本語自体が何から何まで指してゐるのか、分りにくい面もあるが。
學者と最初に書いたが、別に學者に限らない、日本人は、他人がいへば、特にある程度地位のある人間がいふと、そのまま信用してしまひ、自分で考へることを節約する傾向がある。自分で考へてなくても、知識として有難く拜領して滿足してゐる。「赤信號みんなで渡れば怖くない」とはよく言つたものである。タケシはやはり天才なのかも知れない。やはり、と書いたのは、或る人がいつかさう言つのを思ひ出したからで、その時はあまり贊同しなかつたのだが。
H17.6.5
甲子園
甲子園で夏の高校野球が行われてゐる。高校総体は毎年場所を變へて開催されるのに、野球だけはなぜ甲子園にこだはるのか。
かつて、甲子園だけでなく、近くの別の球場も使つたことがあつたが、甲子園でプレーできずに敗れ去つた學校から不平が出てすぐに止めてしまつたと記憶してゐる。また、最近はどうか知らぬが、負けると甲子園の土を持つて歸るといふをかしな習慣まで出來てゐた。
高校野球にとつて、甲子園といふのが絶對の存在になつてゐる。高校野球の目標は、全国大会に出場することではなく、「甲子園」に出場することである。有限の存在を絶對視するといふ倒錯は、絶對神を持たぬ日本においてはよくあることである。しかし、他の種目ではそんなことはないのに、野球だけなぜかうなつたか。古くから行われ、かつ、人氣があるといふのが野球の特徴だが、それが何か關係してゐるのだらうか。
なんとなく關係がありさうな気がする。テニスのウィンブルドンではないが、甲子園を聖地とすることで、他のスポーツ或はプロ野球などとは別格だとして、高校野球の權威を高め、人氣をあふらうとしてゐるやうにも見える。そんな感じがするのが、私の氣に入らぬ原因かも知れぬ。
H18.8.14
アメリカの日本空襲は戰爭犯罪か-否、民族虐殺である
A級戰犯が話題になつてゐるが、彼らは少くとも戰犯ではない。すなわち、戰爭において犯罪は犯してゐない。見込みのない戰爭を始め、長引かせ、負けた責任はあるかも知れぬが。
それよりも、アメリカの日本空襲こそ犯罪である。非戦闘要員を攻撃するといふのは、歐米の國際法では違法の筈である。しばしば原爆だけを非難してゐるのを見るが、なぜ空襲全體を問題にしないのか、理解できない。
といふのはよく聞く話である。しかし、ちよつと間違つてないか。非戦闘要員云々は、戰場においてのことではないのか。アメリカの空襲は、戰場を遠く離れた都市を狙つてゐる。これはもはや戰爭ではない。虐殺である。
ヒットラーのユダヤ人虐殺も、「戰爭犯罪」ではなく、「犯罪」である。戰爭のどさくさに紛れて行われた、戰爭とは無關係の殺人である。民族大虐殺である。アメリカの空襲も全く同じである。
言はずもがなだが、アメリカ人には racist が多い。もともと歐米には白豪主義が根強く殘つてゐるのに加へて、アメリカ人の場合、黒人を奴隸として使つたといふ歴史を否定したくないといふ氣持からか、人種的偏見を正當化しようとする傾向がある。彼らは、自分の過去を否定したり、謝つたりすることは出來ない。それは自分を否定することになるから。それはつまり地獄落ちを意味するから。
さらにまた、キリスト敎徒でないとなれば、まともな人間、神の加護するものではないから、殺さうが痛めつけようが、全く構わないことになる。
H18.8.15
日本は益々貧しくなる (H19.2.25)
日本は今結構金持ちで、また、どんどん豐かになつてゐると普通考へられてゐる樣である。しかし、本當にさうか。私には、日本も、世界も、どんどん貧しくなつてゐるとしか思へない。
昔のホワイトカラーは夕方になれば歸つてゐた。今はみんな何故か殘業ばかりしてゐる。貧しくなつたと言はずしてなんと言ふのか。
これは單に習慣の變化といふ樣なものではなからう。そこには思想の變化がある。思想が變化して生活が變つたのではないかも知れぬ。生活の変化が知らず知らず思想の變化を齎してゐたといふことかも知れぬ。
この變化は、仕事優先になったといふことであるが、それまでもずつと日本人はさうではなかつたのか。綿密なスケジュールに従つて行はれる農作業の傳統から、スケジュール優先で、それに合はせるべく人間が身を粉にして働くといふのが日本人に染みついた特性ではないか。以前と何が變つたのか。以前といふのは、つまり、高度成長以前といふことにならう。
氣がつかないうちに何かが變つたのである。見たところ、日本人がみな金の亡者になり、生活を無くしたのは確かな樣である。金が欲しいと血眼になつてゐるわけではないが、結局、それ以外に價値を知らぬのである。
グローバリゼーション、すなはちアメリカ化の波にのまれて藻掻いてゐるうちに、われわれ自身が變つてしまつたのではないか。われわれは、すべてが金のために組織された世界に組み込まれており、それ以外の發想は許されないのである。さういふ生活を續けてゐると、頭の中までさうなつてしまふ。もともと、日本人には精神といふ樣な能力はなく、外形がすべてであるから、餘計さうである。
アメリカ化とは金儲け至上主義を意味する。ただし、彼らにとつては、金儲けはゲームである。すなはち、金儲けそのものが目的なのではなく、天国に入るためにゲームに勝つことが必要なだけである。負けた奴は地獄に落ちると脅されてゐる。しかし、地獄に落ちても魂が消える譯ではなからう。また、ゲームに勝つのが目的であり、一旦儲けたら金はもう必要ない。金を貯め込む奴は地獄に落ちる。
日本人にはこのゲームの感覺は分らぬ。アメリカの絶對的とも思へる脅威の前にただ生き殘らうとして、がむしやらに頑張つて來た。一所懸命といふやつである。
この一所懸命といふのが問題なのである。日本人には現世しかないから、兎に角この世で何とかするしかないと思ひ詰める。歐米人には一應来世もあるからもう少し懷が深い。
アメリカ人は地獄を恐れたが、日本人は歐米を恐れた。戰爭に負けただけなのだが。戰後の日本人はアメリカに憧れてゐたやうに思はれてゐるが、その實、壓倒的な力に恐れをなしてゐたのではないか。今でも治つてはゐないが。この状態は明治以來全く變つてゐない。日本人にとつては、何とか潰されない樣にといふのが唯一の願ひである。
最近は經濟力がついたせゐで少し自信がついたと言はれてゐる。しかし、その自信といふのがをかしい。他人をいちいち意識してゐるといふのがそもそも自信のない證據である。
何とか潰されぬ樣にと、明治以來、一所懸命やつてきた結果、徐々に何かが變つて來たのである。そして、高度成長で最後のひとかけらも無くしてしまつたのであらうか。ではそれ以前には何が殘つてゐたのかをたづねる必要がある。
がき大將になれなかつた話 (H19.4.15)
子供の頃、體も大きく喧嘩も強かつたが、がき大將ではなかつた。がき大將はゐなかつた。
六歳まではある都市の下町風のところにゐた。そこでは小學生以下の子供は集まつて遊んだ。學校が引けると、五六年生が親分になつて町内の子供がみんな集まり遊んだ。
學校にあがる直前に郊外に引越した。海岸沿いの國道に直交して山の方に向かふ二三本の縣道や市道に沿つて家が竝び、その間にはまだたんぼが殘ってゐる所だつた。今は完全に住宅地になってゐるが。
うちの町内は、新しく住みついた人ばかりで、もともとの住人はゐなかつた。そのせゐか、町内で子供が集まつて遊ぶといふ文化はなかつた。第一、遊べる樣な横町も空き地も公園も無かつた。
遊ぶのは學校が中心だつた。同じ組の子供達が放課後も集まつて遊んだ。野球をした樣な記憶が強いが、よく考へたら、ちやんばらをしたり、相撲をとつたり、陣中と呼ばれる遊びをしたり、いろいろやつてゐた。野球を始めたのは三年生くらゐからだつた。
そんな具合で、歳の違ふ子が一緒に遊ぶといふことはなかつた。それで、がき大將なんてものもあり得なかった。組の中のリーダー的な存在はあつても。さういふのも一種のがき大將ではあるかもしれないが、小さい子の面倒をみる必要がないところが決定的に違ふ。
歳の違ふ子が集まつて遊ぶといふ古來の風習は、今の日本には見られなくなつたのではないか。そして、このことは日本人の振舞ひに大きな影響を及ぼしてゐるのではなからうか。世代を越えて人びとが和氣靄々と暮すといふ氛圍氣がなくなつた樣に感じる。
アメリカの飼犬 (H19.5.21)
ヨーロッパなどはみな globalization といふ名の Americanization に抵抗してゐる。これに對して、イギリスと日本だけがアメリの肩を持ってゐる。イギリスはアメリカの本家本元であるから當然であるが、日本はどういふことなのか。
小泉の「改革」といふのは、アメリカの言ひなりになり、アメリカと同じ制度を日本に持込むといふことに過ぎない。勿論、それまでの政府も似たやうなものではあつたらうが、及ばずながらもいくらかは抵抗してきた。小泉に至つて完全に飼犬と化した。
なぜさうなるのか。さうしないと生き殘れないといふ判斷があるのであらう。弱小國として、大國の傘の陰に入るしかないのであるから。
傘の陰はさうかもしれぬが、だからといつて、すべていふことを聞かねばならぬといふのは勘違ひではないか。そんなことではアメリカの為にもならぬ。
日本の特徴 (H19.7.8)
日本は島國だから、とよくいはれるが、イギリスだつて島國なのになぜかうも違ふのか。
イギリスはヨーロッパから非常に近く、つまり英佛海峽にトンネルが出來る位近く、外敵に襲はれたが、日本は少し遠いせゐか、元寇以外は被害がなかつた。そのため、外國に對して自己を主張しようとか、國を守らなければとか、何も考へず、子供同然である。明治以來、外國と本格的につき合ひ始めたが、本質的にはお人好しのまま何も變つてゐない。他人が惡を犯しかねないことに氣づかず、また、それゆゑ、自分も他人に惡を犯してゐるとの自覺もない。
均質性も日本の特徴である。人種の面でも均質である。沖縄や北海道に繩文人の血が濃いなどと最近は言はれてゐる樣ではあるが。いずれにしても、國内で特にグループをなして自己主張しようといふことはない。それどころか、方言もなんとか無くさうなどと頑張つてゐる小學校の先生があちこちにゐたりした。
繩文人といへば、彌生人の侵入があつた筈である。また、繩文人も、いくつかの人種の混血であらう。しかし、結局、ひとつの「日本人」になつてしまつた。これに對し、インドではアーリア系とドラビダ系が混じりあふことなく今まで續いてゐる。ニューヨークは人種のるつぼと言はれてゐるが、實際には、人種が混ざりあふことは少いと思はれる。
ヨーロッパは、血は結構混ざつてゐるのかもしれないが、文化は各民族が、或は各地方が、それぞれのものを守らうとしてゐる。文化を守らなければ、自分たち自體が消滅すると思つてゐる。
日本に住みついた人たちは、もともと、その樣な強い自己主張を持つてゐなかつたのか。その結果、彼らの純粹の血は消滅し、その文化も分らなくなつた。世界中でどれだけの文化が消えたのだらうか。
しかし、彼らの場合、死んだわけではなかつた。新しい日本文化を産んだのである。その中に、彼らの文化も引継がれたのである。
自己主張の弱さを悔んでも仕方がない。むしろ、なんでも受入れる柔軟さを伸していくしかないのではないか。柔軟であるやうで、結局、氣に入るものしか採用しないのであらうが。
JAPは差別語か (H20.2.8)
以前、ばかちよんカメラの「ばかちよん」は差別語だと聞いたことがある。ちよんといふのは、取るに足らないものを指す言葉で、「馬鹿だ、ちよんだ」といふ言ひ方から「ばかちよん」が出來たのだと思つてゐたが、ちよんは朝鮮の蔑稱でもあつたといふ。ちよんがそんな風に使はれてゐたとは知らなかつた。
元々の意味はともかく、實際に蔑稱として使つてゐた例があるといふことで、ゆゑに使つてはならぬといふ。こちらにそんな意識がなければ別に構はぬではないか、しかも、「ちよん」單獨ではないし、と思つたのであるが、差別された側は非常に氣になるので、やはり使つてはならぬといふ。どうも納得がいかなかつた。
それからしばらくして、あるところで日本の略號としてJAPを使つてゐるのを見たが、あまりいい氣持はしなかつた。
普通は、三文字ならJPN、二文字ならJPを使ふ。しかし、その人は、アメリカ人か何かであつたが、Japanの略なら最初の三文字でJAPとするのが一番分りやすいとうそぶいてゐた。尤もな理窟であるが、やはりいい氣持はしない。
なぜいい氣持がしないのか。JAPの方が分りやすいから、などと言ひながら、陰で舌を出してゐるのではないか、JAPが蔑稱であるのを知らずにゐるのか、このアホどもはと、といふ風に無意識のうちに感じてゐたやうな氣がする。そんな風に考へてしまふのは、結局、劣等感のせゐだといふことになる。劣等感とは、自分に確たる自信がなく、すぐに他人と比較してしまふ症状をいふ。優越感も同じことで、いはば裏返しの劣等感である。日本人がすぐ歐米と比較したがるのは、やはり、自分に確固たるものがないからである。かつては劣等感のみであつたが、最近は一部優越感になつたりしてゐる。しかし、比較するといふこと自體が自信のない證據であり、自分を見失つた状態から回復してはゐないのである。
JAPは過去にどうのかうのとか言はずに、分りやすいから略號はJAPにしようと言ふくらゐでないといけない。
遠慮してJAPを使はないのも、逆に、意識してゐることにならないか。過去にとらはれず、どんどん使つた方がいいのではないか。
實感依據 (H20.2.11)
福田恆在「作家の態度」中の一編「横光利一」は、「・・・いつたい彼の救ひはどこにあるのであらうか」といふ文で終つてゐる。横光利一の小説は讀んだことがないが、この書に引用されてゐる文章を讀むと、確かに、自己欺瞞の連續であるやうに思へる。
しかし彼は救はれてゐる。書散らした小説などは、恐らく、本人にとつても何の意味もないものなのである。横光の小説の主人公は、福田恆在が述べてゐるやうに、偉さうなことをつべこべ言つてゐるが、見掛けだけであり、實際は、金とか女とか、即物的な興味に突動かされて生きてゐる。
偉さうなことを言ふのは、たまたま敎育を受けてそんなことを敎はつたから鸚鵡の樣に譯も分らず喋つてゐるだけである。本當は、即物的な生活で十分自己を實現してゐる。その實感に滿足し、それに依據して生活が組立てられてゐる。それ以外に實は何の興味もない。
日本人はそもそも抽象的な觀念などを操る氣はない。といふより、抽象的なことを考へたこともないと云ふのが本當のところである。來世がどうのかうのとか、地獄に落ちるとか、何も考へないから、そのままで「救はれて」ゐる。思ひ惱むことは何もない。
死期の迫つた年寄などで極樂往生を願ふ人もゐるかもしれぬ。しかし、極樂とは何か、その觀念なりイメージなりを持つてゐるか。さう禱ることにより死の不安を紛らしてゐるだけなのではないか。死後のことで本當に願ふことと云へば、殘される連合ひや子供の仕合せとか、そんな具體的なことなのではないか。
日本にも宗敎めいたものはあるが、すべて現世利益を願ふものではないか。死後の世界を本當に考へてゐるものはどこにもない。目に見えぬものは、實感には頼れず、抽象的に考へる必要がある。そんな藝當を演じる人はなかなかゐないのではないか。科學など學問の世界でも、具體的なイメージで日本人は考へてゐる。
大リーグが何故人氣があるのか (H20.3.24)
アメリカの大リーグが日本のプロ野球よりも人氣があるやうだ。テレビで中繼してゐても、大リーグだと何となく見てしまつたりする。
日本選手が出てゐるからだらう。もし、日本人が一人もゐなければ、誰も見はしないだらう。
何故か。日本人が外人に交じつて健氣に鬪つてゐるのがうれしいのだらうか。それが日本人の劣等感をくすぐるのか。さういふことしか思ひつかない。
神も佛もないのか (H20.3.15-H20.5.6)
「『神も佛もないのか』といふ事態に直面して、はじめて私たちは神や佛を必要とする條件を具備したといへる」と福田恆在が書いてゐる(少數派と多數派、昭和三十ニ年)。
その通りであると思ふ。この世には本當は神も佛もゐないのであるが、日本人は何となくゐるかのやうに感じ、この世で自分たちを守つて呉れてゐると思つてゐる。しかし、神や佛が司つてゐるのは本當はあの世である。そしてこの世は神も佛もゐない地獄だと覺つた時に初めてあの世での勝負を考へる樣になる。ユダヤ人の樣に。
日本人は民族滅亡の危機などに直面したことはない。従つて、自分たちを祀つてくれる子孫がこの世にゐなくなるなどといふことを心配したことがない。ヨーロッパでもアラビアでも、或はアジアでも、滅亡した民族はいくらでもゐるのだが。
日本民族自體は色々な民族の混血であるといふのが今のところ定説となつてゐる樣である。永い間に、あちこちから色々な民族が侵入したが、それぞれが自分たちの血と文化を守るといふことがなく、混じり合つて一つの民族といふ意識が育つた。
例へば、インドでは、アーリヤ系とドラビダ系は明らかに隔離されてゐる。お互いに多少は混血してゐるかも知れぬが、少くとも融合して一つの民族とはなつてゐない。
ヨーロッパでは、色々な國があるが、例へばスコットランドやウエールズは、連合王國すなはちいはゆるイギリスに屬しながらも、別の國であると主張してをり、文化の違ひを大事に保存しようとしてゐる。政治的、經濟的にはイングランドに付従ひながらも、文化の違ひは守つていかないと、民族そのものが消滅してしまふ。問題なのは血よりも文化である。
その点、日本人はもともと混血民族で、文化を守らねば自分たちの存在自體が危ふくなるといふ認識すらない。本當は、文化的に征服されれば、征服した文化の一部に成下がり、血は殘つてゐても、民族としては消滅したに等しいのである。ひよつとすると、何も守らず、流れのままに流されていくのが、日本流であり、それこそ日本人の守るべき文化である、といふことなのか。
といふのは、いくら征服されても、日本は不死鳥の樣に生き殘つてゐる。漢字が入つて、支那語が日本語に入り込んだ。元々の文化とは、恐らく、相當變つたものになつたのであらう。しかし、支那化した譯ではない。ヨーロッパ文明を受入れ、着物も洋服に變へ、表面的には大きく變化した。しかし、富國強兵のために必要なものや氣にいつたものだけ眞似し、本質は何も受入れない。キリスト敎には全く興味がない。
興味はないが、キリスト敎文明の表面は受入れた。精神の才能のないところに、愛だ正義だとキリスト敎倫理が這入り込み、日本人の特性は大いに歪められたと思ふ。しかし、それでも變り樣のない島國根性は殘つてゐる。
問題なのは、キリスト敎倫理に抵抗しないことである。技術を導入したのと同じ樣に、海外で試されたものであるから間違ひないと素朴に信仰してゐる。しかし、信仰は氣分だけで、實は何も信じてはゐない。何も考へてゐないのである。にも拘らず他人を愛さねばならぬといふお題目だけは大事に床の間に飾つてある。普通の人はそんなものは氣にしないのであるが、なかには額面通り受止めて苦しむ人もゐる。
苦しむのは結構だが、例へば、「愛」とは何だと考へてゐるのか。「愛のない結婚」などと眞しやかにいふ。性愛だけで精神的な結び付きがないと言ひたいらしいが、精神的な結び付きとは何か。それがもしあるとしても、性愛からしか始らないだらう。
日本には何か變な筋が一本通つてゐる。これは何なのだらうか。
島國根性と書いたが、いいところより、惡いところを探した方が良ささうである。一度だけの戰爭に懲りてやたら平和、平和と叫ぶ。最果ての島國でなければ隣國に侵入されてゐるだらう。バブルに踊つて不動産などに投資した金をみんな外國に取られて仕舞つた。それでも平氣で次の仕事に精を出し、何とか取戻してやらうなどとは誰も考へない。
つまりは、状勢を冷靜に分析し判断する能力がない。なかにはそんな人もゐようが、實行出來る人が出てこない。政治的能力がない。外國と激しい鬩ぎ合ひをしたことがないから、政治や外交の傳統がない。國内の丸く収めるまつりごとの傳統しかなく、それで外國ともつき合へると思つてゐる。正確にはさう思つてはゐまい。何も考へないのでそれが分らないだけである。
何も考へないのが日本人の特性なのか。抽象的な思考が出來ない。論理的に考へることが出來ない。
さういふお前は出來るのかと言はれれば、やはり出來ない。冷靜になればある程度は出來るつもりでゐるが、緊急事態が發生したときに、情況を冷靜に把握して論理的に考へ判斷出來る自信はない。さういふ訓練がなされてゐない。
日本人も抽象的な議論をすることはする。しかし、殆ど實體のない議論である。歐米から輸入した用語を使つてゐるが、適當な漢語の譯語をつけて分つた氣になつてゐるだけである。考へた氣分になるだけで滿足してゐる。最近では譯語さへつけず、英語のまま使つたりしてゐる。かうなると益々實體がなくなる。
もつとも、漢語でさへ、その強力な画像の力により理解したつもりになつてゐるだけである。
日本人は音でなく映像で理解してゐる。言葉を耳にしたとき、音でそのまま理解するのではなく、漢字の像を思ひ浮べて理解してゐる。漢字を輸入したせゐでさうなつたのであらうか。元々さういふ性向があり、それに漢字が合つてゐたのかもしれぬがと。漢字を使ひこなしていた頃はまだよかつたが、漢字をないがしろにしてゐる昨今は理解力がなくなつたのか。
それよりも、元々言葉は音であり、音で理解しないと云ふことが問題なのではないか。文字の力を藉りず音で理解するには、言葉の意味をちやんと知らないといけない。それが頭に入つてないと分つた氣にならない。これに對して、文字の像による理解は、言葉の意味するところが頭に入つてゐなくとも分つた樣な氣になるのではないか。その言葉が何を指してゐるのか考へてゐなくても、強力な漢字の像の力を藉りて分つた樣な氣になる。
勿論、ヨーロッパでも、文章を讀むとき、アルファベットを一字一字見てゐるわけではなく、單語を一つの固まりとして見てゐる。すなはち、單語の綴が漢字に相當してゐる。しかし、漢字ほど強力な力を持つてはゐない。實際、歐米では言語の本質は音にあり、文字は補助であると考へる人が多い。ロゴに熱心であることからして、文字の力も分つてはゐると思ふが。
日本人は映像の力で何でも理解した積りになつてゐるが、本當は何も理解してゐない。それでなければ、空虚な議論がかうまで續けられる筈がない。自分に全く關係のないことを、従つて自分のこととして眞劍に考へたことのないことを、眞劍に考へた積りになつて書いたりしやべつたりしてゐる。哲學でもなんでもどんどん紹介されるが、自分の問題として捉へてゐる人が何人ゐるか。
單に職業として成立つから學者をしてゐるだけで、思想で物事を動かさうなどとは全く考へてゐない。
では日本では物事は何で動いてゐるのか。行き當たりばつたりの思ひつきである。
【まとめ】
日本人は、言葉を音で理解しないためか、抽象的な思考が出來ない。漢字の像の力に頼つて、形式的な思考をしてゐるだけで、思惟に實體がない。
すべての用語が表面だけの理解であり、自分の問題として理解されてゐない。全く必要を感じてゐないのに、外國で實證された有難い學問だからと、知識として學んでゐるだけである。すべて文字の像により理解したつもりになつてゐるが、實は何も分つてゐない。そもそも、考へてもゐない。すべては思想ではなく氣分で決定される。
例へば、神(God)も佛も、名前は輸入したが、實體は八百萬の神と變りない。すなはち、素朴な先祖崇拝から一歩も出てゐない。死んだら皆神樣であるから、神(God)も佛も要らない。世代を越えて人を恨むことも理想を追求することもない。現世のみの世界に生きてゐる。
來世に冒されてゐない素朴な魂で、形あるものしか分らず、それを唯物論だと信じて生きてゐる。
爭ひはなるべく起さず、政治には本質的に興味がなく、趣味の世界に生きてゐる。極東の離れ小島では、それで生きて來れた。
これが日本人の特性であり、外国文化に制壓されても、全く變りやうがなく殘つてゐる。この素朴な魂のお陰で征服されても日本文化は變り樣がない。そしていつも頓珍漢なことばかりしてゐるのである。
特攻は犬死か (H20.9.20)
特攻の映画をテレビで見た。どう思つて作つたのか知らぬが、何となく肯定的な印象を受けた。
戰後、犬死だといはれたりして、などといふ言葉も出てきた。
朝鮮出身の少尉も出てきた。親族に反対されたにも拘はらず志願した。それでも自分の人生とは何なのか惱んでゐる。この人だけではない。他の人も惱んだに違ひない。
ではなぜ志願したのか。強制に近かつたのかもしれぬ。しかし、結局、名譽といふことでなかつたのか。
山本定朝がいふ樣に、死ぬか生きるかといふとき、死ぬ方を取れば、犬死と言はれることはあつても卑怯者と蔑まれることはない。最低限の名譽は守られる。これが日本人の傳統である。
特攻は犬死だつたのか、と問はれれば、それを否定は出來ない。そもそも、特攻は何らかの效果を期待してのものではなからう。負けと決つた時に意地を見せただけである。
しかし、特攻を犬死だと責めることは出來ない。日本人はいずれ犬死しかないのであるから。
日本は何かを目指してゐる譯ではない。個人も何かを目指してゐる譯ではない。従つて、死も何かのためではない。何の意味も持たぬ。
歐米は、キリスト敎の傳統に従つて、この世に神の國を建設すべく突進んでゐる。個人もすべてそのために鬪つてゐる。そこに繋がつた死であれば意味があることになる。
意味があるといへば聞えはいいが、歐米の生き方は、人間を目的のための單なる齒車にしてゐる。
神の國に到達出來るのか。彼らは出來ると信じて疑はぬ。しかし、そんなことは論理的にあり得ない。相對のこの世に絶對が現れることは絶對にない。もし到達するとしたら、それは惡魔の国であらう。
われわれは、犬死かも知れぬが、眞つ當な生き方をしてゐる。
アメリカの勸告が日本社會を崩壊させる (H20.10.27)
アメリカから日本に改革の指示が來てゐるとは思つてゐたが、昨日のテレビによると、毎年要望が出てゐて、今年度版がこの15日に出たといふ。毎年文書で出せば、出す方もよく整理できるといふものだ。ちやんと前年版の進捗をチェックしてゐるのであらう。
日本側が作成したと思はれる飜譯では、「要望」となつてゐたが、ちらつと映した原文の表題は、recommendations となつてゐた。さうであれば、普通の譯語は「勧告」ではないか。弱く訳しても「提案」であらう。少くとも上の立場からの発言であり、下手に出ての「要望」ではない。
その勸告に從つた結果、いまや日本の社會は崩壊寸前に追ひ込まれてゐる。農地改革により農村社會が崩壊したが、今度は日本全體が崩壊の危機にある。
派遣の普及で日本の會社は變貌してゐる。勿論、派遣だけが原因ではない。アメリカ經濟に飜弄される日本の會社は、アメリカ流のビジネス至上主義の影響が徐々に體中に囘つて來てゐる。しかし、それにとどめを刺すのが派遣である。派遣は從業員の一體感に亀裂を生じさせる。仕事を單なる金儲けのためだけのものに貶しめてしまふ。今のところはそれなりに職業意識を持つことでなんとか取り繕つてゐるが。
他の国ではアメリカの專横にどう對處してゐるのであらうか。大國中國はともかく、例へば、韓國などはそれなりに抵抗してゐるのであらうか。
見田宗介氏の世相分析 (H20.12.31~H21.1.11)
見田宗介氏が秋葉原の無差別殺傷事件を論じる記事を見た(朝日新聞、平成20年12月31日朝刊(東京))。
【時代区分】
見田氏は戰後をいくつかの時期に分けて理解してゐる。すなはち、戰後から1960年頃までを「理想の時代」、高度成長が完成した1970年代前半までを「夢の時代」、1990年代前半までを、もうリアリティーを愛さない「虚構の時代」、その後は、「バーチャル(假想)の時代」と分析してゐるといふ。
「バーチャルの時代」とは、否定的なイメージである虚構と違ひ、バーチャルな世界だけでやつていけると思ひ込み、虚構に居直つた時代といふ意味だといふ。
果して虚構に居直つてゐるのかどうか疑問であるが、それは兔も角、その前の「虚構の時代」といふのは、高度成長の夢がそれなりに實現しても一向に良くならぬ世の中に幻滅したといふことか。そして、「假想の時代」とは、コンピューターの普及で假想空間に惑はされる人が増えたことを言つてゐるのか。居直つてゐるのなら結構であるが、實態は、振囘されてゐるだけではないのか。
【連續射殺事件と無差別殺傷事件の比較】
いづれにせよ、この考へ方から、昭和43年の連續射殺事件と今囘の事件を比較して、表面的にはよく似てゐるが、事件の核心は正反對であるといふ。すなはち、昭和43年の事件は夢破れての犯行であるが、平成20年の犯人は初めから夢がないと。
また、「まなざし」について言ふ。昭和43年の時は、世間の「まなざし」が纏はり付いて自由に生きられなかつたが、今年の場合は「まなざし」の不在に耐へられなかったといふ。
二つの事件はそんな風に正反對であるかも知れぬが、それは見掛だけで、要は、社會での自分の位置が掴めないといふことが共通の原因であらう。見田氏はただ世相の變化を指摘したいのかも知れぬが。
世相は變つても、人間の生き方は根本的には變らない。變り樣がない。社會の中での自分の役割が得られないと、人は、特に男は、ぐれる。ただそれだけである。
以前はあつた夢が今はないといふが、夢といつても單に物質的な目標に過ぎない。歐米といふ高嶺に近づいてしまつたので、もはや目標が描けなくなつただけである。元々、日本人に夢や未來はないのである。日本語に過去も未來もない樣に。歐州語文法を飜譯して適用し、日本語にも過去や未來の助動詞があると學校文法では敎へてゐるが、實は、確認や推量の意でしかないものをさう思ひ込んでゐるだけである。
「まなざし」が氣になるのは要するに劣等感であらう。社會で地歩を得てゐないといふ意識から來る劣等感である。今は逆に「まなざし」の無さに耐へられぬといふ。ぐれたい氣持なのに、ぐれて當る相手がないから餘計にいらいらする。それ程現代は他人と接觸する機会が減つてゐる。
【生活の機械化と寂しさ】
日本は歐米以上に生活の機械化が進んでゐる。スーパーマーケットが魚屋や野菜屋を驅逐し、自動販賣機が路上を占領してゐる。一日何も喋らずとも、金さへあれば、命を繫いでいける。たまたま喋つても、多くの店では標準作業化された機械的な應答である。
歐米の目標とする社會の完全機械化に日本の方が先行してゐる。歐米では色々抵抗のあることでも、極東のこの國では何のためらひもなく進歩の名の下に實行されてしまふ。すべて歐米で試驗済でいい筈のものだからと安心してゐる。進歩の大義名分に抵抗しようとする人もゐない。
歐米は何世紀も掛けて徐々に機械文明が進展して來た。また、カトリックの曖昧な世界からプロテスタンティズムの孤獨な裁きの世界に移行して來た。日本はほんの一世紀の間に物質的な面では追越したかの樣である。
神を持たぬ日本人がこの孤獨に耐へられるのか。と言つてみたが、日本人は孤獨ではない。孤獨とは、周りに人はゐるが、誰も信じることが出來ないことである。日本人は未だに他人を漠然とながら信頼してゐる。といふことは、孤獨は見掛でしかない。他人と付合ふ機会が少く、人戀しくて淋しい思ひをしてゐるだけである。歐米の孤獨は、誰も信じられぬ地獄である。
【無關心と見榮】
それにしても、日本人が他人に無關心になって來たのは事實であらう。アパートなどでは、隣は何をする人ぞといふ感じで暮してゐる。ただ、仲間内だけで付合つてゐる。
見田氏は、戰前は共同體がしつかりしてをり濃すぎる社會であつたが、現代は薄くなりすぎたと言ふ。濃すぎたかどうかは兔も角、戰前にはまだなんとか生きてゐた共同體意識が、農地改革で農村が破壞されてから稀薄になつたことは事實であらう。
仲人などといふ風習もあつといふ間に廢れた。周圍で見合寫眞をやりとりしてゐるのを見ることは無くなつた。ちよつと前までは、結婚式となれば、少くとも形式的に仲人を立てたものであるが、それすら無くなつた。
結婚しない人が増えたのはそのせゐではないか。結婚したいのだが、出會ひが少いし、紹介してくれる人もゐない。さりとて、自分で積極的に探す氣力もない。結婚を斡旋する組織はいろいろあるのだが、そんなのに登録するのは恥しい。思ひ惱んでゐるうちに歳を重ねてしまつたといふ人が多いのではないか。
他人のことを氣にしなくなつたのであるが、相變らず、見榮で生きてゐる。見榮とは、つまり、人の目に映る自分の姿を判斷基準とするといふことである。他人が見て見苦しいことは良いことではないといふことである。お天道樣に恥しくない樣に生きたいといふことである。日本人はこの生き方しか出來ない。
キリスト敎徒は、他人の代りに神を基準にしてゐる。自分の姿も神の目を通して眺められる。しかし、神の目などがどこかにある譯ではない。結局、自分の判断を神のものとしてしまふ。自分の姿が自分に見える筈はない。詰るところは、單なる利己主義を世界のための樣に主張する。
歐米の神は、絶對神と言つてゐるが、ユダヤの族長の樣なものの延長でしかない。それを絶對と錯覺してゐるのでかう云ふことになつてしまふ。
見榮で生きる日本人は決してこの樣なことはない。逆に、自己を主張するのをためらつてしまひ勝ちである。時流にうまく乘つてゐる間はいいが、それが出來なくなると、すぐにぐれさうになる。漫然と歳を重ねるといふのも、一種のぐれである。
しばしば、見榮を捨てろといふ。確かに、自尊心の樣なものは捨去るべきであらう。自尊心とは詰るところ劣等感である。自己を他人と比較しても仕樣がない。すべては自分の責任である。しかし、自分の姿を見苦しくない樣にしたいといふ氣持は失つてはならないのではないかと思ふ。
國家と個人 (H21.1.1)
「國への使命感の薄れ」と題する記事を新聞で見た(朝日新聞、H21.1.1)。内田樹といふ人へのインタビューであつた。
「佛文學の世界でも、1980年代に研究者がどんどんフランスへ出た。その結果、日本の佛文學に地盤沈下が起きた」といふ。そんなことで沈下する樣なら、初めから何もなかつたといふことではないか。
「明治以來の日本の研究者たちは、日本が世界標準に追ひつくため、知識と技術を日本へ傳へるといふある種の使命感を持つてゐた。近年は自己利益のために研究するのが當り前。その結果、國内の佛文學への關心は低下した」とも言つてゐるが、學問は、もともと、自分の興味のためにやるのである。明治は「文明開化」、「富國強兵」の時代で、植民地にされない樣に、歐米に追ひつくため、「學問」も總動員されたのであるが。
福澤諭吉は、「瘠我慢の説」の冒頭に「立國は私なり、公に非ざるなり」と書いてゐる。徳川時代は、「國」といへば藩のことであつた。明治になって日本を意味する樣になり、そのうちアジア、世界と拡大するのかどうか知らないが、何れにしても、國といふものは私の集りに過ぎず、絶對的なものではない。國のためが世界のためにはならぬこともあらう。學問は普遍的なものを目指すものであり、國のためのものではない。國にも役に立つかも知れぬが。
國などと小さなことを言ふな、などと言つてゐるのではない。國や民族は大事であり、これなくしては自己もあり得ない。家族、近所、町、國、と大きさは變つても、屬する所があつての自分である。しかし、國を守るのは政治のやることであり、學問の使命ではない。
國民として國のために盡くすのは當然である。他國のために盡くしてはいけない。しかし、それがすべてでは困る。
人間、最後は獨りである。國も世界もない。自分のことで精一杯である。人のことを考へる餘裕などある筈がない。人のためとか、國のためとか、偉さうなことを言はずに、素直に自分を伸すことに專心すればよいのである。それがひいては世のためにもなる。
もし、人のために盡くすとすれば、國とか人類とかではなく、身近な人のために盡くすのが眞つ當である。
君が代の太鼓 (H24.5.27)
バレーボールの國際大會を日本でやつてゐるのをテレビで見たら、試合前の國歌演奏で君が代をやるのはいいが、肝腎のところで入る筈の大太鼓がない。外國のスポーツ大會でやるとき、太鼓が入らなくて締らないと思ふことがあるが、日本でやつてゐるのに太鼓が入らないとは何事か。譯のわからぬ奴ばかりになつてしまつたものだ。
女性より先ず若者を雇へ (H24.10.17)
NHKテレビで女性は日本を救へるかといふ番組をやつてゐた。女性の力を活用することで經濟を立て直せるのではないかと云ふのである。
しかし、それよりもまず、若者を使へと言ひたい。今、アルバイトなどで凌いでゐる若者が澤山ゐる。そんな若者の力を活用することを考へるべきではないか。
そもそも、機械化で人は要らなくなってゐる。接客業などはともかく、製造業では機械化、自動化で少い人數でやれる樣になつていつてゐる。女性の活用とか、外國人勞働力の導入とかを考へねばならぬ情況ではないのではないか。
女性の能力が低いなどと言つてゐるのではない。男が外でやつてゐる仕事など大したことはない、女性はもつと大事な仕事をして貰いたいと云ふことである。勿論、外の仕事をしたい人はやつて貰つて構はないし、その場合は差別はなくすべきである。
お金のはなし (H24.12.8)
經濟の發展は、日本が世界で生延びるために必要であらうけれども、いいことだとは必ずしも思つてゐないが、景氣が停滯したままずつと回復しない。地獄の沙汰も金次第といふが、日本人は皆、閻魔大王の前で困つてしまふのではないか。不況の原因は單に金が廻らないことにあると前から思つてゐるが、實は、金の仕組を全く知らないので、四十の手習ひで調べてみた。
【金は民間銀行が創る】
金は、日本では日本銀行が發行してゐる(硬貨は政府)。しかし、實は、これは實際に流通してゐる金の一割程度でしかない。有效な金の大部分は民間銀行が勝手に創つたものなのである。
銀行は預金を集め、それを貸出して金利差で稼いでゐる。例へば、Aが銀行に預金し、銀行がその金をBに貸す。しかし、Bの口座に振込むだけで、現金を動かすわけではない。Bがその金をCに拂ひ、Cがそれを預金すると、銀行はそれをまたDに貸せる。これを繰返すと、實際に集めて保有してゐる金の何倍も貸せるのである。貸出し高は帳簿上の預金残高を超えないのであるが。
かうして、銀行は無から金を創造する(信用創造, money creation/credit creation)。そして、この金が經濟を囘轉させてゐる。
元々、金は紙切れでしかないが、實は、大部分は紙でさへなく、銀行の帳簿に記録されてゐるだけである。このシステムを成立たせてゐるのは「信用」である。銀行の「信用」がこの魔術を成立たせてゐる。銀行の信用と言ふが、實は借手の信用であり、借手が滅多には潰れないといふ前提で成立してゐる。
【不景気の原因は銀行の貸渋り】
景気を左右するのは金である。金が十分供給されてゐれば、生産と消費が噛みあひ、景気は順調に推移する。金が足りないと、企業も個人も消費が減り、その結果生産が減り、景気が落込み、それで更に消費が減少する・・・といふ惡循環に陷つて不景気になる。
金の流通量を支配してゐるのは、日本銀行券の量ではなく、民間銀行の融資量である。景気が惡くなると、借手が借りやすい樣にと金利を下げる。しかし、最近は、金利はとことん下げてゐるが、景気は一向に浮上しない。
なぜか。銀行が貸さないからである。最近、銀行もグローバリゼーションで利益重視になつたためか、海外の高金利債權に投資して、國内の低金利の貸出しは減らしてゐる。低金利が、逆に、災いしてゐるとも言へる。
昔は、「窓口指導」と稱して政府・日銀が銀行の貸付を指導してゐたらしいが、昨今はアメリカの指導でそんなことは止めさせられてゐるらしい。そこで、銀行はより有利な投資先を勝手に選んでしまふ。その結果、國内は金が不足し、景気は停滞し續ける。
昨今は、國内は先行き不透明で借手が見つからず、海外はかつて焦げつかしたのに懲り、農協など、金をもて餘してゐる金融機關もある樣であるが。
【景気浮上には銀行に代つて政府が金を創造して公共事業を】
國内の金が足りないのが不景気の原因であるから、金の流通量を増やすしかない。民間銀行を指導するのも必要であらうが、先づは、政府・日銀がやるしかない。
日本銀行券を出せばいいのであるが、それはどうもやりにくい樣である。幕府が小判を出す樣にはいかぬらしい。そもそもお札は金融機関が日本銀行に保有している當座預金を引き出して日本銀行券を受け取ることによって發行されるとされてゐるが、そのからくりがさつぱり分らない。金融機關の當座預金がどうやつて出來るのかが分らない。日本銀行が國にお札を渡せばそれでいいのであるが、それでは世間が信用しないのか。また、多額の紙幣を貰つても取扱ひに困るかもしれない。
となると、國債と云ふことになる。銀行の貨幣創造が足りないので、代りに国債といふ形で金を創造するのである。幕府が小判を作つても誰も怪しまなかつたのは、金といふ金屬そのものに価値があると誤解してゐたからであるが、實は、幕府を、といふより經濟制度を信用してゐただけである。同樣に、經濟が廻つてゐる限り、國債も怪しむべきものではない。
國債發行は問題であり、子孫につけを囘すといはれてゐるが、國民や銀行から借りるからいけないのである。信用創造にすぎないのであるから、とりあへず日銀にすべて引受けさせればよい。金を創造するのであつて、借りるのではないので、返す必要はない。利息もいらない。形式的に利息を多少付けてもいいが、日本銀行に一旦拂つて、また政府に戻させればよい。
かういふと、無制限に国債を發行してインフレになるなどと言ふ人がゐるが、戰後のどさくさの失敗を繰り返す樣な馬鹿はゐない。民間銀行に金の創出を任せておいて、しかも指導もしないから景気が変動するのであり、政府がきちんと管理すれば、現状よりは格段にいい筈である。
問題があるとすれば、國民や金融機關がこれまで国債を買つてゐたのが買へなくなり、代りの投資先を見つけなければならないことである。よく分らぬが、その分、企業などへの投資が増えれば、国債の發行が少くて済むだけかもしれぬ。
それと、散々批判されているが、いはゆる公共事業をやるしかないのではないか。ただ金を増やすだけでなく、實際にものを作つたりしないと、循環効果がない。震災復興、下水道、電柱廃止(地中埋設)、道路擴幅など、やることはいくらでもある。
以上の樣なことをいふと、それは古い考へ方だと非難するむきが多い。しかし、では新しい考へ方ではどうするのかと訊くと返事がない。
ちなみに
【銀行券のいはれ】
日本の貨幣は、今は日本銀行券であるが、元々は幕府、つまり政府が自身で小判などを發行してゐた。なぜ銀行券になつたか。ヨーロッパがさうなので眞似をしたのであらう。
ヨーロッパも、元々は王などの支配者が金貨、銀貨を發行してゐたのであらうが、なぜ銀行券になつたのか。17世紀に、英國王チャールズが民間から預つてゐた金塊を取上げる事件があつてから、富豪達は金塊を金細工職人の金庫に預ける樣になつた。その際、金細工職人が預かり證(goldsmith note, noteは預かり證の意)を發行したのが銀行券(bank note)のはじまりらしい。結局、銀行券が通貨として使はれる樣になつて、銀行家が經濟を支配することとなつた。
【アメリカの憂鬱、日本の憂鬱】
イギリスではイングランド銀行やスコットランド銀行がポンドを発行してゐるが、アメリカの場合、政府の發行する国債を民間銀行が買ふ形で、民間銀行から紙幣が發行されている。
聯邦準備制度理事会(Federal Reserve Board)の管理のもと、12の聯邦準備銀行(Federal Reserve Bank)がドル紙幣を發行してゐる。一見、いかにも政府の息のかかつた制度の樣に見えるが、聯邦準備銀行は政府とは無關係の民間の銀行であり、株主は、例へば、ロスチャイルド銀行などである。アメリカは、ドル紙幣を出すために、ヨーロッパの財閥に金利を貢がねばならぬといふ譯である。
ところで、このアメリカ國債が、日本や中國政府の金庫にも貯まつてゐる。中國は元の相場を維持するための政策かもしれないが、日本の場合はアメリカの強制ではないか。勿論、アメリカを支へるためである。結果として、ドルが大量に出まはるのを助け、ドル安・円高を促進してゐるのではないか。結局、円相場の上昇で、稼いだ金をみなアメリカにお返しし、ひいてはヨーロッパに貢ぐ定めになつてゐるのか。
つけたし
人は金に支配されてゐると思ふ。必ずしも意識はしてゐないが。若い頃は食ひはぐれない樣にと夢中で稼ぎ、段々老後が心配になり、年取ると慾張りぢいさんになる。
世の中に絶えてお金のなかりせば 人の心はのどけからまし
インドネシアのどこかに貨幣のない部族がゐて、皆で助けあつてのどかに暮してゐるといふ話を聞いたことがある。ある人類學者は、發生當初にか弱い人類が生延びたのは、部族間でも助け合つたからではないかと言つてゐる。しかし、貨幣が出來ると、私有財産制が始まり、貧富の差が出來、競爭が始まる。分業制で基本的には協力しあつてゐるのであるが、表に出てゐるのは競爭である。金が人間を變へてしまつた。
イエスは、これを憂へて、『己がために財寶を地に積むな』、『明日のことを思ひ煩ふな』と言つたが、これではしもじもは生きていけないと、カトリック敎會は、危險な聖書は讀ませず、異敎の傳統を保存した。ところが、愚直なルターが、ドイツ人の金をなぜローマに貢ぐのかと怒り、聖書のみの標語のもと、イエスに忠實たらんとした。その末裔たるアメリカ人は、救ひに選ばれてゐることを證明すべく、時は金なりと寸暇を惜しんで金儲けに專心して、地獄落ちの恐怖から逃れようとしてゐる。忠實たらんとした擧句に完全に不忠の弟子となつた。ジョン・レノンが地獄はないと歌つても效き目はない(ロンドン五輪で「イマジン」を歌つてゐたのには驚いた。イギリスも變つたのか、ただだらしなくなっただけなのか)。
ルターやカルバンは自分が救はれることを確信してゐたが、天國でローマの連中と一緒になつては堪らぬと、豫定説を稱へて地獄に叩き落さうとした。ところが、一般信徒は、救ひの確信を持てず、選ばれてゐることを證明しようと、金の力にすがつた。金は有無を言はせぬ力を持つ。金がからむと、人は眞人間になる。升田幸三や藤澤秀行が名人、棋聖を取れたのも借金したお陰である。東電がだらしないも、金を稼がなくていいからで、原價が上がれば電氣代を上げて貰へばいいのでは、仕事に魂は入らぬ。修繕費を湯水の樣にかけて昨今の停電頻度では、停電の本場インド人もびつくりである。金が人を支配すること神のごとし。神と金と、どちらも人の作つたものでありながら、逆に人に君臨する。信徒達が「金縛り」にあつたのも分らぬではない。しかし、人は神とマモンの兩方に仕へることは出來ない。『富める者の神の國に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反つて易し』金が彼等の神になつた。
かくして、金儲けの效率化のため、産業革命がイギリスで始まつた。また、彼等は儲けても蓄財や贅澤は出來ないため、事業に再投資するしかなく、拡大再生産がとどまるところを知らない。ここに技術主義と資本主義が揃ひ、經濟のビッグ・バンが勃發した。今や世界中を卷込んで誰も止められない。行着くところは完全に機械化された世界で、人は神のごとく孤獨に暮すのである。勿論、絶對に到達はしないのであるが、その方向に向つてゐることは間違ひないし、實際、それが正義になつてゐる。誰も目標と意識はしてゐないのであるが。
「グローバリゼーション」とはこのビッグ・バンの先兵たるアメリカに倣ふことである。その一の子分が日本であり、例へば、小泉の「改革」とはアメリカ化でしかない。ちなみに、戰後日本の「戰犯」は、先づは戰犯を認めた吉田茂で、次が小泉位か。
日本には江戸時代からのあきんどの傳統があつて、會社はすべて今日いふところのNPOであり、世の中のために存在し、從業員を食はせさへすれば、利益など要らなかったのであるが、惡貨に驅逐されて、株主配當のための利益が目的と成下がり、擧句に最近は社長が何億円もの年俸を取つたりしてゐる。金の支配を受けるのは仕方がないが、自ら奴隷になることはない。
(H25.1.6)
以上を書いた後、自民黨が勝つて、景氣を浮揚させると喧傳してゐる。堂々と金を創造して貰ひたい。金は、もともと、經濟をうまく廻すために政府が責任を持つて發行・管理すべきものである筈である。
靖國參拜の前にすべきこと (H26.1.11)
安倍首相が靖國に參拜して話題になつてゐる。中國や韓国が文句をつけるのは毎度のことであるが、アメリカからも失望したなどと言はれたと報道されてゐる。アメリカの「失望」は意外でも何でもなく、當然の反應である。問題は靖国にA級戰犯が祀られてゐることにある。
A級戰犯はアメリカにとつて重要であリ、決して名譽回復してはならない存在である。聯合軍は、毆州大戰はヒットラーが勝手にやつたことであるとしたのと同樣に、アジアでの大戰は日本のA級戰犯が勝手に始めたとした。これらの惡魔から善良な國民を救つたのが天使アメリカであり、そのためには燒夷彈や原爆を開發して非戰鬪要員を殺戮するといふ國際法違反を犯したのも許されるとしてゐるのである。その頼みの惡魔を靖國に祀るといふこと自體がアメリカにとつては許されざることであるし、參拜するなどもつてのほかとなる。
歐米では、惡魔や地獄に落ちる人をつくることにより自分たちを正當化せんとする。ドイツ人は、全てはヒットラーのやつたことで、自分たちも被害者であり、全く責任はないが、氣の毒だから金はあげませう、と言つてゐる。
吉田茂が極東軍事裁判の判決を認めたので、日本のA級戰犯も惡魔であると、政府が公式に認めたことに歐米ではなつてゐるのである。それを知らずに、なし崩しに名譽回復しようとしても、アメリカは絶對に認められない。認めた途端に自分たちの舊惡を追究される道が開けてくる。惡魔は永久に惡魔でなければならない。
日本人は、どんな人でも死ねば神樣と思つているが、歐米にはそんな考へは通用しない。靖國にA級戰犯を祀るといふことは、彼らを惡魔でないと主張することである。それは、大東亞戰爭には日本人全體が責任があると言ふことにもなる。
そして、アメリカやイギリスやロシアやその他先進諸國がこぞつて支那の植民地化を狙つてゐたので、さうなれば日本も危ないと、機先を制して日本が侵略を開始し、それを妬んでアメリカがいちやもんをつけたので、日米戰爭になつたのだと主張することでもある。
さういふ主張をしないで、素朴な氣持だけでは、外交は出來ない。
(追記 H26.1.25)
最近、中國が、ヨーロッパなどで、A級戰犯をヒットラーになぞらへて日本を非難してゐるといふ報道があつた。大部分の日本人は、ふざけたことを言つてゐるとしか思はぬだらう。しかし、これは歐米人には結構理解される。さういふ歐米の體制と鬪はねばならぬのである。
天皇陛下の苦悩 (H28.8.9)
八月八日、天皇陛下のお言葉があつた。テレビで録画が放映された。
陛下は天皇として何をなすべきか、ずつと追究して來られた。そして、國民に寄り添ふといふ獨自のあり方を築かれた。明治憲法の統治者の役割がなくなり、「象徴」とされたことで、何をなすべきか模索され、その答へが國民と共にといふことであつた。
本來なら、天皇陛下は、宮中傳統の儀式を執り行なふのが最も重要な役割であり、さらに、日本の傳統の趣味の世界に生きていただけばよいのである。ところが、明治になつて、政治の世界に引きずり出され、趣味の世界に遊ぶいとまがなくなつて仕舞つた。
そこへ、新憲法が出來て統治の仕事がなくなり、梯子を外された昭和天皇は、趣味の世界もさして持つてをられず、ともに遊ぶ華族もなくなり、國民と触れあふしかなかつた。今上陛下もこれを受け継がれた。
天皇家が存續する以上、おつきあひする華族がどうしても必要である。戰後廃止された一部の皇族を復活させてはどうかといふ人がゐたが、その際、華族も一部復活させてはどうか。皇室と遠いながらも縁があるとして、準皇族とすればいいのではないか。
今の樣に天皇家が孤立した状態では、天皇制を維持していくことは出來ない。對等につきあへる華族がゐなければ、天皇家はまともに暮していけない。實際、陛下も、皇太子殿下も、非常に苦しい生活を送つてをられるのではないか。
日本企業弱體化の原因 (H29.5.28)
日本の企業が弱體化してゐるといふ。經營者は決斷をせず、我身の保身ばかり考へ、却つて身を滅ぼしてゐる。從業員は、勤務時間は長いが生産性が低く、何より仕事に熱意がないといふ。
なぜさうなつたのか。助けあひの氣持が弱まり人々が孤立してしまつてゐるのではないか。會社が、以前は株式會社といへども世の中に役立つためにやつてゐたのが、アメリカ流が入り込んできて、株主に配当するための存在に成り下つて來た。社員も、かつては大事な財産だったのが、金儲けための奴隸に成り下つた。
かうなつたのは、外國人株主が増えて會社に注文をつける樣になつたのがきつかけであらうか。それでなくても、日本人は官民挙げてアメリカの眞似をしなければバスに乗り遅れると思つてゐるから、渡りに船と云ふことか。最近は小泉の「英斷」により派遣社員を増やし、アメリカに追ひつかうと必死である。
アメリカの會社は金儲けのためだけのものである(ヨーロッパもさうなのであらうが、まだ若干の抵抗をしてゐるのかもしれぬ)。それでも從業員がちやんと働くのは、それが當り前の厳しい競爭社會と皆が認識してゐるからである。場合によつては家族でさへも裏切らねば生きて行けない孤立無援の社會である。アメリカ人が家族をことさら大事にするのは、さういふ危険を感じてゐればこそのことである。
日本はそんな地獄ではない。そんな呑気な社會に地獄の會社が持込まれてきたので、社長も社員も戸惑つてしまつてゐるのが現状である。
それにしても、最近まで、日本にはなぜこのやうな家族的な會社が續いてゐたのか。農村では、農地改革で共同體が打撃を受けたが、壊滅はせず、助けあひの氣風は殘つてゐる。地主が根拠を失つただけで、大部分の人々には影響は小さかつたのであらう。その後、都市への人口流入や核家族化が進んで、都市では地域共同體が弱體化したが、代りに會社が共同體として殘つた。
しかし、最近の變化は會社の根本を危ふくしてゐる。その結果、共同體は家族だけとなり、仕事は金を稼ぐためだけのもと化してしまふ。かうなると、アメリカ化の一歩手前である。
アメリカ人は「神」とか「眞理」とかいふ名前の仕へるべきものを持つてゐるが、日本人は家族以外に仕へるべき共同體がなくなると、何をなすべきか分らなくなつてしまふ。アメリカ以上に金の亡者になる。アメリカでは金儲けはゲームであり、勝てば天國に行けるので、儲けた金は寄付せねばならぬが、日本では金儲けが目的になつてしまふしかなく、個人も社會も全てが崩壊する。今、あちこちのの會社でその兆しが表れてゐるのではないか。
かうなつたら、株式會社をやめて、別の會社制度にするしかないのではないか。或は、株式會社のままでうまい運営方法を考へるか。
貨幣經濟が發達してから、人間は競爭に明け暮れし、助けあひの本能を素直に發揮出來なくなつてゐる。キリスト敎徒は神に繋がることで助けあふとするが、隣人と直接助けあふことは出來ない。日本でも貨幣經濟は發達したが、助けあひの集團本能を素直に發揮して來た。他民族から侵略されず、仲間うちで和気藹々とやつてこれたからであらう。人の道が自づと出來てゐた。人の道とは、本能のままに素直に生きると云ふことである。
歐米では、本能に從つて助け合つてゐては生きて行けない。本能を押し殺した、生きにくい生き方のほうが生きやすいのである。日本では、生きいい樣に生きられる。まさに神の國である。それもいよいよキリスト敎文明に押し潰されんとしてゐる。