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宗教、科學2 - (2007/04/15 (日) 16:48:58) の編集履歴(バックアップ)


目次

心は腦にあるか (平成19.1.3)

 香山リカといふ精神科醫が新聞に書いてゐた(平成19.1.1, 朝日新聞)。昔は謎の病とされてゐた精神の疾患も、最近は治療可能な腦の病氣とされるやうになつた。しかし、「藥だけぢやなく、もつと私の話を聞いてください」と訴へる患者さんを見るたび、「心とは脳の機能の一部ではなくて、腦を越えた何かなのだな」と感じずにはゐられない、と。一方、醫學の徒として、心が腦とは別に實體としてどこかに存在するものだと主張するつもりはないといふ註釋をつけてゐるが。

 ところで、心が腦にあると誰か證明した人がゐるのだらうか。「心は脳の中にあることを疑う人はもういないと思います。」とあるウェブサイトに書いてあつたが(http://www.toukoukyohi.com/trauma/nounokouzoutokokoro.htm)。
 心と腦の作用との關係がいろいろ調べられてゐるのは確かだが、それは心の機能の一部を脳がいかに受けもつてゐるかを解明してゐるだけであらう。心が脳にあるかどうかとは全く關係のないことである。すなはち、心の實體としては脳以外のものあり、それが脳を制禦してゐるといふ可能性は誰も否定してゐない。逆に、心の實體が脳にあるとは誰も證明してゐないのではないか。

 心の機能の多くが頭にあることは、現代醫學に俟つまでもなく、自明であり、昔の人もさう思つてゐたのではないか。日常のもろもろの思考が頭で行はれてゐるのは紛れもない事實だと思ふ。例へば、數の計算は頭でやつてゐるし、また、自分といふ意識が頭の作用であることは、誰しも感じられると思ふ。
 それにも拘はらず、昔の人は、心の實體は腹にあるやうに考へてゐたやうに思はれる。といふのは、腹に心があるかのやうな言ひまはしが數多くあるからである。例へば、腹を割る、腹を決める、腹を括る、腹を立てる、腹が黒い、腹に一物、腹に据えかねる、腹を探る、腹が据わる、腹が太いなど、數へあげればきりがない。
 英語にはそれらしき言ひ方はあまりなく、むしろheartを使つた言ひ方が多い樣な氣がしてゐたが、考へてみると、gutといふ言葉がある。ガッツは日本語になり、勇氣あるいは根性といふ意味あひでよく使はれるが、調べてみると、本能あるいは感情のやうな意味にも使はれてゐるやうだ。
OED 2nd editionより
gut 2.h. fig. Used, chiefly attrib., of an issue, question, etc.: basic, fundamental; also, of a reaction: instinctive and emotional rather than rational.
(用例から) 1969 Daily Tel. 14 Nov. 5/2 When we [sc. the Americans] first went into space, we had no idea how much it was going to benefit the economy. We went in as a gut reaction to the Soviet challenge.

 ところで、日本語には胸を使つた表現も多い。胸が騷ぐ、胸が熱くなる、胸が張り裂ける、胸が痛むなど。しかし、これは、心の動揺が心臟などの動きに影響する結果として、このやうに感じられるといふことではないか。心そのもののことを言つてゐるのではないと思はれる。
 これに比べて、腹に關する表現は、明らかに腹そのものに心があるかのやうな表現ばかりである。意識を越えた本當の自分、すなはち今日いふところの無意識なるものが、腹に宿つてゐるかのやうな感じを受ける。
 ロレンスは、受胎のとき、すなはち、卵子と精子の核が融合したとき、自分は自分であるといふ「根源的意識」が生じると考へた。そしてそれはすべての細胞核に存在するが、最初の核がなほ中心であり、根源であつて、それは太陽神經叢に含まれてゐるといふ。すなはち、受胎により出來た核は太陽神經叢になり、最初の分裂により生じる第二の核は腰椎神經節になるといつてゐる。といふことから、ロレンスは、「根源的意識」は太陽神經叢に宿ると考へてゐる。
 太陽神經叢が「根源的意識」すなはち「無意識」あるいは心または魂のありかであるか否かはともかく、心が頭など一部の器官にのみ存在してゐるとはなかなか言へぬやうに思へる。すなはち、受胎の瞬間に魂が宿るといふのが正しいとすれば、魂はひとつの細胞に宿つてゐることになり、特定の器官を必要としないことは明らかである。むしろ、全細胞に、あるいは全體としての人間に宿つてゐると考へる方が自然である。もし、心が脳にあるとすれば、他の器官なり細胞なりにはなぜ心がないのかを證明する必要がある。また、脳が出來るまでの間は、心はどうなつてゐるのかを説明する必要がある。

カルヴァンの二重予定説の目的 (H18.12.2)

-カルヴァンは、なぜ、ある者は永遠の地獄に落ちると予定されてをり神もこれを變へられぬという敎説を主張したのか-

 予定説とは、すべてがこの世の始りにおいて決つてゐるといふ決定論のことであり、絶對神を假定すれば、論理的には必然である。すなはち、法則が決り、初期条件が與へられれば、その後の現象はすべて決つてしまふ。
 しかし、それでは人生生きるに値しなくなるので、カトリツクは、神の恩寵により人間には自由意志が與へられてゐるとした。
 ところが、宗敎改革者ルターは予定説を主張した。これは自分の救ひが自由意志により不確實になつては困るといふ、まことに身勝手な思ひに發してゐた。ただ、ルターの場合は、予定説は敎義のなかで重要な位置を占めてはゐない。
 これに對して、カルヴァンの場合は、その二重予定説は敎義において非常に重要なものとなつていつた。二重予定といふのは、ある者は天國の救ひに、ある者は地獄で永遠の責苦に予定されてゐるといふものであり、信者たちを地獄落ちの恐怖に戰かせたのである。
 ウェーバーによると、カルヴィニズムが有害であるとして政府から攻撃を受けた點は、何よりもまずこの敎説であつた。ピューリタンであつた筈のミルトンが、「地獄に堕とされようとも、このやうな神を尊敬することは出來ない」と言つたという話があるさうだが、確かに、ある者は初めから地獄落ちに決つてゐて、いくら頑張つても變へようがないといふのは、あまりに悲慘である。
 この敎義は、カルヴィニズムの信者達の行動樣式に大いに影響した。しかし、二十世紀初頭においても、ウェーバーによれば、敎養ある人でも誰でもがこの敎説を知つてゐる譯ではない状況であつた。

 イスラム敎も決定論であるが、決定されてゐるのはあくまで現世のみであり、あの世のことまでは云々してゐない樣である。
 確かに、神はこの世を創造した時に、被造物はある法則に従つて動く樣に定めたかもしれぬが、あの世のことは、法則があるのかどうかさへ分らぬといふべきであらう。被造物が神の意志に反して勝手なことをしては困らうが、神自身は法則に縛られることもあるまい。もし縛られるとすれば、神を越える法則があることになり、それこそが本當の神であることになる。

 カルヴァンの二重予定説が變つてゐるのは、あの世のことまで決定されてゐるといふことと、神に見放され地獄に落ちる人間がゐるといふことである。これはユダヤ人の考へたことと同じである。ユダヤ人は政治的に辛酸を嘗めたが、不思議なことに、何とか打開しようと現實に努力をするよりも、選民たる自分たちに神が救ひ主を送込んでくれるといふ幻想に賭けてゐた樣である。その夢が破れると、この世で駄目ならあの世で復讐しようと、默示文學が書かれるやうになる。新約の默示録も、ローマ人への復讐の大活劇である。
 この世では駄目だから、あの世では確實に這ひ上がらうといふ魂膽である。その時、自分が救はれればいいので、どさくさに紛れて他人を地獄に落す必要は本當はない。しかし、憎い敵も一緒に天國に行くのでは面白くない。だからどうしても地獄がいる。天國に入つても、地獄に落ちるやつがゐなければ、いいところに來れたといふ實感がわかない。劣等感を持つた人間は、その裏返しで妙な優越感を持つてゐるが、そのためには見下す相手がどうしてもいる。ユダヤの選民思想もしかり、カルヴィニズムもしかりである。

 カルヴィニズムの場合、敎義上の論敵との論爭が進むとともに、二重予定説の重要性が増していつた。カルヴァンは自分が救はれること自體は確信してゐるので、問題はただ敵を地獄にたたき落すことであり、二重予定でなければならなかつた。彼には、誰が救はれ誰が地獄に落ちるかは、はつきり分つてゐるのである。默示録の作者がさうであつたやうに。そして、敵を確實にたたき落すために、神の予定は絶對で變更できないといふ予定説を主張したまでである。
 すなはち、二重予定説は、カルヴァンの信仰から出て來たものでもなければ、神學的な論考から出てきたものでもなく、政治的な觀點から採用されたものに過ぎない。
 ところが、のちの信者たちはこれをまともな神學と受止めた。カルヴァンのやうに己の救ひを確信出來てゐない信者にとつては、二重予定説は恐怖であつた。この誤解から、カルヴィニズムは、資本主義を、そしてアメリカのビジネス至上主義を産むことになる。
 (H18.12.16 追記) 宗派と敎義が確立したとき、信者には地獄に落すべき憎い敵はゐなかつた。敵がいれば、相對的に己は救はれると確信できるが、敵を持たない信者は、救ひを絶對的に證明する必要があったのである。

ジョン・レノンのイマジン (H18.11.12)

 ジョン・レノンのイマジンを聞くと、英米人の生き方がよく分る。
   Imagine there's no heaven
   It's easy if you try
   No hell below us
   Above us only sky
   Imagine all the people
   Living for today...
この歌の裏を返せば、人々は地獄に落ちたくないと必死になつてゐるといふことである。今日のためでなく、のちの世で苦しまないで濟むようにと禱つてゐる。

 ジョン・レノンがどこまで本氣だつたのかは分らぬ。小野洋子に目が眩んで書いたものかもしれぬ。しかし、夢としてこんなことを考へてみたくなるといふのは、僞りのないところだらう。

 實際、のちの世のために生きるといふことを改めねば、世界は生きた屍状態から再生出來ぬ。

(H18.11.17追記)
 この歌の樣ではいけないとずつと思つてゐた。實は後の方しか記憶になかつた。
   Imagine no possession
   I wonder if you can
   No need for greed or hunger
   A brotherhood of man
   Imagine all the people
   Sharing all the world...
そんなことを言ふのなら、まず己が財産をすべて擲つてみせればいいのである。人は、生きていく限り、必ず他人と衝突する。餘裕があれば道を譲ることも出來よう。しかし、生きるか死ぬかのぎりぎりの時になつても譲れるか。イエスは讓るかもしれぬが。
 逆に、みんながみんなさうなつたら、世の中崩壊してしまはないか。生きようとい本能を殺して、あの世での安逸を願ふのみ。これは死の世界である。
 冒頭の句は、かういふ死の世界への反撥だつた筈である。ところがすぐその次からをかしくなる。no heavenとの語呂合せかもしれぬが、no countriesときたものだからをかしくなつた。
 既成の權威と思はれるものに反撥したらかうなつたといふだけかもしれぬ。しかし、heavenとcountriesとでは宗敎と政治、或は理想と現實であり、同類ではない。
 しかし、出だしにheavenやhellが出てきたといふことは、それだけ、hellの重壓を感じてゐるといふことなのではないか。

世界の機械化 (H18.10.22)

 今の世の中、「科學的」といふ呪文を稱へると、すべて眞實だと信じ込まれる。本來、科學は假説である筈である。その科學の息をちよつとかけると、直ちになにもかも眞理と化してしまふ。なぜこんなことになつたか。
 どうも日本だけではなささうである。歐米人も科學的といふ言葉をよく使つてゐる樣である。日本ほどひどくはないのかもしれぬが。

 理想もさうである。民主主義は理想、民主主義の理想などと、大安売りされてゐる。今にも實現されさう、といふより、地上のどこかでは既に實現されてゐる樣な口吻である。

 キリスト敎は、もともと、イエスが神だつたとしてゐる。といふことは、一度はこの世に理想が出現したといふことになる。こんな馬鹿なことを言つたのは、イエスの弟子達がユダヤ人であつたからだらう。ユダヤ人にとつて、神とは族長程度のものでしかなかつたのではないか。しかし、その族長が唯一絶對の神となつたものだから、をかしなことになつた。
 しかし、カトリックはこのことに蓋をした。カトリックは、そもそも、イエスの教へを無視して、敎會といふ聖俗を統一した救濟の施設に所屬しさへすれば皆天國に行けるとした。教へを忠實に實行することは不可能と知つての聖俗一致であつた。

 プロテスタントは、愚直にイエスに從はうとした。その結果、イエスの神性にもまともにぶつかつた。そして、神が自分の似姿に人間を造つたからには、自分たちにも神性が一部あるはずであり、神の眞理の斷片は掴めると考へた。本當は、自分たちが神を人間の似姿に造つてゐるのであるが。
 斷片は掴めたとしても、それをいくら繋ぎ合はせても全體には到達できない筈である。しかし、彼らは、イエスが一旦はこの世に現れた以上、眞理もこの世に現れ得ると考へた。
 汚い陶器のかけらを掘出しても、それが立派な美術品の一部かもしれぬと思はねば、それ以上の斷片を探さうとはしないだらう。しかし、それが眞理への道だと思へば、斷片探しに熱が入る。かくして、近代科学が始まつた。

 それでも、初期の科學者は謙虚だつた。科學に裏打された技術がそれなりの成果を収める樣になると、次第に科學が假説であることが忘れ去られる樣になつた。

 今の世は、すべてが世界の完全なる機械化に向けられてゐる。世界の機械化といふのは、人間が自分の意志を實現するのに、全く人の手を必要とせず、機械がすべてを行つてくれる樣になるといふことである。かうなれば、人間は完全に獨立した個人として存在出來る。他人と爭ふ必要もなくなる。これは、神の國をこの世にうち立てることである。神の國といつて惡ければ、理想郷の實現である。ユートピアといふのは、そもそも、どこにもない場所のことだつた筈だが。

 神の國は、勿論、未だ實現してはゐない。しかし、いずれ到達できると信じられてゐる。といふことは、心理的には、既に實現しているのである。我々は、いまや神の國に住んでゐるのである。
 未知の場所に向つてゐるとき、道に迷ふと不安である。もしジャングルの中などであつたら、永遠に脱出出來ないのではないかと思つたりする。しかし、たまたま平地に出て、目的地への高い目印を見つけたりしたら、安心して、もう着いたかの樣に感じるだらう。

 科學と技術により理想郷が實現できると信じた途端、心理的には我々は理想郷にゐるのである。そして、すべては理想郷の改善に向けられる。さうしなければならないといふ強迫觀念を生じ、人間はそのための機械になつてしまふ。機械化された世界のひとつの機械と化してしまふのである。

にせ科學 (H18.9.30)


 平成18年9月20日の朝日新聞より(菊池誠氏筆)。「『ニセ科學』が蔓延してゐる。代表的な例として血液型性格判斷やマイナスイオンを擧げれば、なるほどその手の話かと合点がいくかたも多いのではないだらうか。念のために述べておくと、前者は心理學の調査によりとつくに否定されており、また、マイナスイオンが体によいといふ科學的根據はほぼ皆無といつてよい。」
 血液型性格判斷やマイナスイオンは科學的に否定されてゐるといふが、果してこれらは科學で扱ふものなのか。科學が追求するのは、自然の法則である。これらは、勿論、自然現象と關係してはゐるが、その法則を追求してゐる譯ではない。ただ、生活に有用な何かを追求してゐるものであり、いふならば、技術の領域に屬する。
 技術が、いかにして「科學的に」否定されるのか。技術は、役に立てばいいのである。そのためには、科學の成果も活用はする。しかし、科學によつて肯定されたり否定されたりするやうな代物ではない。

 「寫眞があまりにも印象的なためか、これを『科學的事實』と信じ込んでしまふ人は意外に多いらしい。」
 科學的事實なるものがあるのか。科學は假説である。自然の法則がかうなつてゐるといふ假説を提案するだけである。假説はそのうち新しい假説にとつて代はられる。ニュートン力學が相對論にかはつたやうに。
 假説は「事實」に基づいて構築される。また、實驗事實により檢證される。しかし、事實といふのも、その時點の技術の限界内で事實と思つてゐるだけである。測定技術の發達により、事實そのものが否定され、新しい事實が發見されてていく。

 「科學の結果だけが求められ、その本質である合理的思考のプロセスは求められてゐない。」
 くどいやうだが、科學の本質は、自然法則の假説を提示することにある。そのために、合理的思考も必要であらう。しかし、そこに科學の本質があるわけではない。
 また、合理的思考は科學の專賣ではない。技術においても、政治の世界でも、いや、すべての人間の營みにおいて、合理的思考は必要である。
 もしかすると、昔の日本人とか、原始人とかは、合理的思考はしてゐなかつたと思つてゐないか。そんなことはない、人間は常に合理的思考をしようとするし、それしか出來ない。

 昔の人は合理的でないものを信じてゐたと思へるかもしれぬ。しかし、例へばビッグバンなど、最先端の物理も、ひよつとしたら、何十年後、何百年後には、全く根據のないことをよくもまあと言はれるかもしれぬ。勿論、ずつと生き殘る可能性もあるが。