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男と女 - (2008/04/11 (金) 21:42:59) の編集履歴(バックアップ)


目次

一夫一妻制の崩壊 (H19.11.3)


 一夫一妻といふのは、哺乳類には少いらしい。手長猿などに見られる程度だといふ。多いのは鳥だといふ。卵の孵化やその後の育兒に雄の助けが必要であるからではないかと言はれてゐる樣である。
 人間が一夫一妻制なのも、育兒に手間がかかるからだらうか。だとすると、昨今の樣に子供を託兒所に預けて女も働く樣な世の中になると、一夫一妻制は崩壊するのではないか。少くとも、その必要はない。亂婚或は一夫多妻、一妻多夫、何でも構はない。

 キリスト教は、倫理的によくないと言ふだらうが、我々日本人には關係ない。

 問題は、隨伴する家族の崩壊である。子供にとつて、親が片方しかゐないといふのは、問題ないだらうか。子供の方は、母親さへゐれば問題ないのかもしれぬ。それより、親の方が問題で、男は家族がなく單獨で暮すことになる。その孤獨に耐へられるか。
 よく、猫の雄は何のために生きてゐるのかと思つた。さかりのついたときに雌を追ひ囘すだけで、後は何をしてゐるのか分らぬ。單獨生活なので日々の獵をしてゐるのであらうか。

 キリスト教に逆らつて、ヨーロッパなどでの方が、先に未婚の母が増えたりして、段々そのやうになつていつてゐる樣にも見える。プロテスタントは、もともと、共同體から切離されてをり、孤獨に耐へる生活を強られてゐる。それゆゑ家族は最後の砦として大事にしてきたやうに見えるが、それもなくなると、本當に孤獨な生活を送ることになる。
 子供は欲しいが、結婚生活に耐へられないといふことなのかもしれぬ。銘々が己の救ひの確保に追はれてをり、他人のことに構つてゐられないといふことか。

日本女性の體の變化 (H20.3.1)


 日本女性の胸は大きくなつた。昔は胸が薄いのは遺傳のせゐで、永遠に變らないものと思つてゐた。ところが氣がついてみたら結構大きくなつてゐる。胴體の骨格が扁平なため、外人の樣に厚いといふ感じはしないが、大きくはなつた。
 食事の變化が原因であらうか。相對的に肉より比率が減つたといふ魚でも、昔に比べて何倍も消費してゐると云ふのであるから、蛋白質の量がいかに増えたかが分るであらう。一汁一菜などといふ言葉は死語になつた。
 しかし、男の方はあまり變つてないのではないか。相變はらず子供の樣な薄い胸のままである。そして年がたつとそのまま脂肪だけ増える。女性の胸もそもそも筋肉ではなく脂肪である。それで女性は變つたのであらうか。とすると、蛋白質ではなく、脂肪の摂取量が増えたのが原因か。いづれにしても榮養がよくなつたのが原因であることは間違ひなからうが。

Loveと愛の違ひ (H20.3.8)


 昔の切支丹は、「愛」と云ふ言葉は性愛を聯想させるので、神の「御大切」と言つた さうである。
ところが、明治以降、「愛」はloveの譯として使はれだしたのだと思はれるが、精神的な意味あひが強くなつてゐる。いつか何かで見たが、若い人に戀愛に關するアンケートを取つたとき、歐米では肉體的な愛を先づ問題にするのに、日本では、精神的なことしか考へてゐない樣な風だつた。かまととかも知れぬが。

 love の語源をみると、慾望の意の語から來てゐる樣である。従つて男女の愛にも勿論使はれる。ただ、辭書に最初に載つてゐるのは、家族や友達などに對する感情の意味である。ひいては神の愛にも使はれ、divine love といふ用例が載つてゐる。神については agape といふ言葉もあるのはあるが。

 男女間でloveと云ふ場合、當然、性愛を意味してゐる。make love は性交を意味する。
 映画 Forrest Gump で Gump が Jenny に 'I love you' と言つた時、Jenny が 'you don't know what love is' と答へる場面があつたが、Jenny の言う love は性愛を意味してゐる。以前 Gump が Jenny の部屋に入り込んだのに何も出來なかつたことがあつたから、かう言つたのである。

 ところが、明治時代に、何を勘違ひしたのか、love は精神的なもののみを意味すると日本人は思ひ込んでしまつた樣である。キリスト敎は受入れなかつたが、精神的な「愛」といふ観念だけ受入れて仕舞つたのである。といつても表面的なものであるが。
 しかしその表面的と云ふことが災ひしたのではないか。精神的な愛などには全く縁がないのに、何かそんなものがなければならぬと思ひ込んで來た。また、離婚はすべきではないといふ観念も出來た。ここにきていくらかメツキが剥げて來たのか、離婚は復活した樣である。しかし、精神的な愛と云ふ観念は相變はらず人氣がある。

 キリスト敎を本格的に受入れてゐれば、こんなことにはならなかつたかもしれない。キリスト敎の素地がなく、抽象的な観念の全く育たぬ不毛の地に、愛といふ言葉だけが一人歩きしてはびこつてゐる。
 尤も、本氣で信じてゐる譯ではない。しかし、意識して被つたのではないだけに、假面が肌に食ひ込んで苦しむ人も少くない。