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キリスト敎 - (2008/12/07 (日) 22:50:15) の編集履歴(バックアップ)



キリスト敎の欺瞞 (H20.7.27)


 カトリックは異敎の傳統的生活を取込み守つたといふ。例へば、カトリックの祭は皆異敎の起源を持つてゐる。ただキリスト敎の意味づけが一應なされてゐるだけである。
 しかし、カトリックが保存したのはそれだけなのか。そんなうまい話はなからう。ローマやゲルマンの野蠻をすべて保存したのである。野蠻といつて惡ければ文化といつてもいいが、カトリックのしてきたことを顧みれば、野蠻といふ言葉の方が似合ふ。
 例へば、十字軍とか、南米などの侵略、掠奪を見ても、カトリックの野蠻さは分るであらう。これに似たものといへば、蒙古くらゐしか思ひつかない。
 ヒットラーの蠻行も、彼の獨創による突然の事件ではなく、北方十字軍など、この手の傳統の上に起つたものである。

 カトリックは何を行つたのか。すべてに尤もらしい理窟をつけることである。十字軍は、異敎徒を地獄落ちから救つてやるための彼らキリスト教徒の聖なる務めである。祭は勿論イエスの生誕や復活を祝ふための行事である。

 すべては神のためといふ衣裝を着せられる。人間の考へに過ぎないものが、神の意志だといふことにされる。つまり、自分の考へすなはち神の考へだといふ。主張する以上、一旦は信じる必要はあらう。しかし、絶對に間違ひないと、何が起らうが改めようとしないのは困る。改めるのは無責任だといふ。逆に、責任をもたうとすれば、その都度舵を切り直すのは當然ではないか。

 この性癖はプロテスタントも勿論引繼いでゐる。引継いでゐる所か、益々その傾向を強めてゐる。

キリスト敎の誤謬 (H20.11.30)


 イエスは心の持方次第でこの世は即天國になると言つただけである。
 ところで、ユダヤ敎に天國とといふ観念が元々あつたのか。それとも、イエスが造つたのか。
 それは兔も角、弟子達、或はその後繼者達は、イエスの言葉を文字通りに受取つた。天國に上げられるために如何にすべきか、眞面目に考へた。

 その結果が三位一體といふ奇妙奇天烈な説である。イエスは神と人間の兩方の屬性を持つといふ。あり得ないことであるが、であるからこそ、有限の存在である筈の人間が神の國に行けることになるのであるといふ。
 マリアは神の母であるといふ。人間イエスを産んだのであるが、そのイエスが神でもあるのであるから、當然、神の母であるとになる。
 殘る聖靈は分らぬ。例へば、マリアは聖靈に感じてイエスを孕んだとふ。いづれにしても、イエス同樣、神と人を繫ぐ存在である。神とイエスだけでは息が詰るからもう一つ欲しいといふことなのであらうか。

 イエスは、信ずるものは皆救はれると言つた。カトリックは、死ぬ時に囘心すればそれで十分と考へた。
 チェスタトンはカトリックは斷崖の島の周圍を守る壁の樣なものだと言つた(正統とは何か)。壁が出來ることで子供達は崖から落ちる心配がなくなり、安心して遊べる樣になつたといふ。しかし、何が心配なのか。諸々の邪惡な宗敎か。それとも、死後のことか。
 日本人たる私は死後の世界など考へぬ。死んだらお仕舞ひである。生きてゐる間が花で、その後どうならうと知つたことではない。

 死後に天國があると考へることで、人は強くなるといふ。失敗しても天國に行けると考へれば、他人が何と言はうと己の信ずるところを實行する強さが得られる。確かにヨーロッパ人は言ひだしたらきかない。しかし、それは、強さといふより、圖々しさに見える。利己主義に過ぎないものを、神の命であるかの如く主張して已まぬのは、厚かましいとしか言ひ樣がない。

 ユダヤ敎が元々さうである。ヨシュア記といふのはユダヤ人がカナンの地を侵略した記録である。しかしユダヤ人は神の約束でさうなつたとして正當化してゐる。
 神の聲を聞くといふのは、要するに、利己主義を正當化しようとすることでしかない。自分の得になることを、神から命じられたとして圖々しく主張してゐる。人間、自分の得になることが好きなのは当り前である。しかし、他人もさうであることを認めないといけない。自分の得になることのみを正當化して呉れるとしたら、それは少くとも神ではない。惡魔みたいなものであらう。

 出だしのユダヤ教から惡魔に取憑かれてゐる。イエスもその傳統から逃れられず、ずつとその状態が續いてゐる。