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文化 - (2009/04/08 (水) 23:48:09) の編集履歴(バックアップ)


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フィレンツェの繪畫は好きですか (H20.12.20)


 テレビでフィレンツェの話をやつてゐた。ルネサンスの巨匠がここで多く輩出したすばらしい街であるといふやうなことであつた。その語りを聞いてゐて、ちよつと引掛かるものがあつた。
 錯覺かもしれぬが、誰もが認める藝術であるといふ「常識」に寄掛つて、眞劍にものを見てゐないやうな印象を受けたのである。

 實をいふと、モナ・リザを見ても格別美しいと思はない。少しひねた女といふ感じがするだけである。西洋の繪の常として細かく描き込んでゐるとは思ふが。

 細かく描くといふのが元々好きではない。さらつと描いたのが好きである。さらつと描いてゐて、感じが出てゐるのがいい。

 勿論、西洋の繪の好きな人もゐるであらう。好きならばそれでいい。
 しかし、世間でいいと言はれてゐるからいいといふのでは困る。他人がどう言はうが、自分が好きならばそれでいい。

テロップはやめろ (H21.4.8)


 テロップとは Television Opaque Projector の略らしいが、いつ頃からか、テレビでやたらと出す樣になつた。最近は NHK まで眞似してゐる。

 いつだつたか、「木緜のハンカチーフ」といふ歌を聽いてゐて、この歌が女と男の掛合ひであつたことに初めて氣がついた。その時、如何に歌詞を認識しないで聽いてゐたかに氣づいて我ながら驚いた。

 しかし、なぜそれに氣がついたかには氣が付かなかつた。今日テレビで歌番組を見てゐてなぜ氣がついたかに氣がついた。それは、テロップが出てゐたからである。
 テロップが出てゐると、ついそちらに目が行つてしまふ。歌ひ手の顏などそつちのけになる。そして歌詞の意味が頭にびつしりと入つてしまふ。それで歌が掛合ひだつたと分つたのである。

 歌詞を知らなかつたのではない。昔よく聽いた歌で、歌詞は結構頭に入つたゐた。完全に覺えてゐる譯ではないが、ちよつと聽けば思ひ出す。しかし、しかと意味を考へたりはしない。なんとなく感じてゐるだけである。それでよいのである。
 それが、テロップをみて仕舞ふと、恐らく漢字の力によつて、その意味が、イメージが、頭に定着される。その結果、言葉の力に支配され、歌どころではなくなる。

 芝居でもさうである。知つてゐる芝居なら、役者の臺詞は初めから分つてゐる筈である。しかし、實際には役者の所作を見てゐて、次の臺詞など考へたりはしない。臺詞はそこで登場人物が初めて喋つたものとして耳に入つて來る。
 初めから分つてゐてはいけない。あくまでその時突然起つたことなのである。それが芝居である。歌もさうではないか。何囘聽いても、初めて聽くのと同じなのである。