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政治・經濟 - (2007/06/10 (日) 22:10:28) のソース

目次
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*民主主義は人類普遍の原理か (H19.6.10)

 先ず、言葉から吟味せねばならぬ。「民主主義」といふが、英語でいへば democracy であり、民主制、あるいは民主政治といふことにすぎない。これに對するものは、貴族制、君主制などである。民主制の場合のみ、なぜ「主義」をつけるのか。「普遍の原理」などと言ふときに、單なる制度では釣合はぬと思つたのであらうか。

 すなはち、「民主主義」といふけれども、政治體制のことをいつてゐるのである。民主制とは政治を人民あるいはその代表者が行ふといふことであり、それ以上の意味はない。なぜかそれを人間の生き方全般に敷衍しようとしてゐる。敎育、企業、家族など、政治と關係のないところまで「民主的」でないといけないなどといはれてゐる。どうかしてゐないか。

 「人類普遍」といふとき、單に共通といふだけでなく、最高の、唯一の、あるいは理想のといふ意味が込められてゐる。しかし、政治に關して理想といふことはあり得ない。政治といふものは、社會が軋轢なく動くやうに對處する體制であり、もともと理想などとは縁のないものである。
 民主制もいいかも知れぬが、理想は政治のいらぬ世界である。政治が必要だといふことは、未だ理想にはほど遠いといふことである。
*多數決に文句を言ふ輩 (H19.5.6)

 多數決に文句はない筈と書いたが(H19.5.4)、これは基本的な考へ方が一致してゐる場合の話である。例へば、アメリカやイギリスなどの場合である。イギリスの場合、勞働黨でも王制に反對してゐる譯ではなからう。アメリカにも共産主義者がゐないことはないかもしれぬが、表立つた活動は出來てゐないのではないか。
 フランスにしても、ミッテランなどでも、國益を優先することは當然である。社會主義インターナショナルなどと浮れてゐたりはしない。

 ところが日本になると、共産黨の樣に現在の國家體制を顛覆しよういふ者まで合法的に議會活動をしてゐる。どうやら表向きは體制顛覆は謳つてはゐない樣であるが、今は勢力が弱いから隱してゐるだけで、共産主義を信奉してゐるのなら、天皇制など認められる筈がない。
 といへば、社會黨も似たやうなものではないか。共産黨と本質的にどこが違ふのかの分らぬ。

 富の分配を公平にしなければいけない、搾取をなくさなければならない、さうすることによつてみんなが幸福になれると考へてゐる點では、共産黨も社會黨も根本的に同じ穴の貉である。
 要するに、金さへ与へれば人民は幸福になり、善人になると、漠然と思つてゐる。それ以外に何かあるとは考へてゐない。本人は意識してゐないが、全て金で片が着くといふ思想に陷つてゐる。

 かういふ連中が、今、何のために政治に關はるかといふと、ただ自分たちの勢力を伸して天下を取るための手段としてゐるだけである。實際の政治に興味があるわけではない。潛在的に正しい筈の自分たちが天下を取れば全てうまくいく筈であるから、それまでは兎に角政府を追ひ込んで顛覆させればいいと思つてゐるだけで、今現在の政治を何とかしようとか、外交で外國にやられない樣にしようとか、そんなことは頭の片隅にもない。

 であるから、議論を盡くして相手を自分たちの主張に少しでも近付けさせようとか、妥協させようとか、そんなことは全く考へない。本來、多數意見に従ふのが民主主義であり、多數に對して數の暴力などと文句を言ふのはをかしい。少しづつでも多數を變化させようといふのが少數意見のとる道である筈である。

 今現在の政治、外交をよりよくしたいといふ共通の使命感を持つてゐない連中であるから、建設的な發言はなく、ただ體制に反對するのみである。全く對話にならない。議論をボイコットするから、あとは多數決で決めるしか、やることはない。さうすると、數の暴力と言ふ。兎に角、體制攻撃のネタを作ることしか考へてゐないのである。
*憲法は數の論理で勝手に變へていいか (H19.5.4)

 新聞を見ていたら、或る人が「重要な法案などが數の論理で簡單に決つて行く世の中に疑問を持つ樣になつた」といふ記事があつた。
 政治體制として民主政を採用してゐる以上、多數決に文句は言へぬ筈である。民主主義といつても、政治は、要は、多數者、強い者の言ひ分を通すしかない。まさか、多數意見は破棄して少數意見を採用すべしといふ譯にはいかないだらう。

 ただ、ことが憲法となると、數がたまたま多いといふだけで、勝手に變へていいのかと思ふ。憲法といふのは、国の根本的なあり方を決めるものであり、ちよつとした状況の變化ですぐに變へるべきものではあるまい。
 例へば、イギリスは特に憲法として法典化されたものは持たない。昔からの慣習なども憲法を構成してをり、その意味では勝手に變へられない。逆に、一般の法律と同じ手續で憲法に相當する法律を作ることが出來るなどと言つてゐる人もゐるやうである。しかし、やはり、慣習を勝手には變へられぬといふ方が當つてゐるのではなからうか。

 日本國憲法についていへば、占領中に勝手にいぢられたものであり、無效であるとしか言ひ樣がない。
*ニート (NEET: Not in Education, Employment or Training) (H19.1.4)
 新聞によると、ニートは、平成17年現在で64万人、そのうち、25から34歳が39万人とのことである(平成19.1.3, 朝日新聞)。大變な數である。
 ニートには入つてゐないが、好んでゐないのにフリーターなどの不安定な仕事を續けてゐる人を加へると、ずつと多くの人が無職あるいは不安定職業といふ状態にあるのだらう。
 ある會社では、失はれた10年間に採用しなかつたつけで人員構成がいびつになつたため中途採用を募集したところ、いはゆるブルーカラーであるにも拘はらず、國立大學卒の應募もあつたといふ。それくらゐ、安定した職場ならどこでもといふ、切羽つまつたものがあるのだらう。
 かうなつてしまつた以上、中途採用の増加しか對策はないのだらうか。
*差別用語(politically correct) (H18.11.23)
 これは公園の植込みで拾つたノートにあつた走書きを寫したものです。

 chairmanはpc (politically correct)でないといふので、chairpersonといふ樣になつた(ballboyやballgirlがballpersonになつたのは子供に失礼だからか?)。
 しかし、他の動物を差別しているといふことからか、單にchairといふ樣になつた。そのうちに、deskに失禮だからと、chairとも言へなくなつた...

 到頭人は言葉を發することが出來なくなつとしまつた。字を書くことも出來なくなつた。
 そして、聲帶が退化し、また、耳も退化してしまつた。
 つひには人類は絶滅した。
*政治と理想
	
 民主主義が理想的だとか、非武裝中立が理想だとかいふ。しかし、政治の世界に理想などない。政治は現實を處理するものである。他の國、民族、地域などに對して、現實に損をしないやうにうまく立ちまはらうとするだけである。
 政治は永遠に理想とは相いれぬ。理想の世界は、政治のいらぬ世界である。理想に達し得ないからこそ、政治が必要なのである。

H18.10.20

*日本國憲法から
	
 日本國憲法前文の第二、第三文「そもそも國政は、國民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は國民に由来し、その権力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。」
 議會制民主主義のやり方を述べ、それを「人類普遍の原理」と稱してゐる。
 民主政治はヨーロッパに生れたひとつの政治體制に過ぎぬ。人類共通ものだとどうして言へるのか。最高の政治體制だといふうぬぼれからこのやうな言ひ方が出てきたのだらう。
 しかし、果して最高か。最高級に效率の惡いやり方であることは間違ひなからう。民主主義では、政治などといふ詰らぬ仕事に、猫も杓子もやたらと精力を注ぐことを要求される。少しでも損をしてはいけないと、互いに不斷に監視しあふやうになり、生活を樂しむ餘裕などなくなる。
 現に、今の日本がさうなつてゐる。

 いずれにせよ、ヨーロッパの傳統に過ぎないものを、なにもかも、普遍だとか理想だとかいつてありがたがるのはいい加減に止めないといけない。

H18.10.11

*惡意のこもつた日本國憲法
	
 改憲の動きに對して、護憲論が賑やかになつてゐるが、一體、肝心の憲法をちやんと讀んでゐるのか。本氣で讀んでゐたら、あれを子孫に殘さうなどとは思はないはずである。眞面目に讀んでゐて、かつ、あれがいいといふ人がゐたら、少しをかしい人であらう。あれはとても讀める文章ではない。

 前文の書出し「日本國民は、正當に選擧された國会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

 一見して、まともな文章ではない。
 全體として、何を言ひたいのかはつきりしない。結局、「この憲法を確定する」と言つてゐるのだが、その前の「・・・行動し、・・・確保し、・・・決意し、・・・宣言し」との關係がさつぱり分らぬ。また、行動、確保、決意、宣言の相互のつながりも分らぬ。
 英文原稿を見て初めて言ひたいことがおぼろげながら分る。

 「諸國民との協和による成果」、「自由のもたらす惠澤」などとあるが、何のことかよく分らぬ。
 「正當に選擧」、「惠澤を確保」、「憲法を確定」などといふをかしな言ひまはしが出てくる。「われらとわれらの子孫」、「政府の行爲によつて再び戰爭の惨禍が起る」、「起ることのないやうにする」などといふのも長たらしく締らぬ。

 ひよつとしたら、飜譯者は、わざとをかしな文章にして、日本國民からすぐに罵聲を浴びようとしたのではあるまいか。急いでゐたとしても、この飜譯のいい加減さは尋常ではない。こんな憲法は一刻も早く破棄して貰いたいといふ惡意のこもつた文章としか思へぬ。

 殘念ながらこの必死の願ひに呼應する人はゐない樣である。戰後の國語力低下教育の成果大いにありといふべきか。

H18.10.9

*金儲けゲーム
	
 アメリカでは金儲けはゲームである。金を儲ければ、選ばれた人間であることが證明され、天國に入れる。儲けられぬ輩は地獄落ちである。命懸けのゲームではある、それも、永遠の命を懸けた。ちなみに、それ故、ルールは嚴密に守らねばならず、公正かつ公平であることが必須であつて、そこからコンプライアンス、グローバリゼーションなる言葉も出てきたし、そのお先棒をかつぐ小泉も出てきた。
 金儲けはあくまでゲームである。救はれるものを選ぶためのゲームである。従つて、儲けることは究極の目的ではなく、勝つための手段に過ぎない。儲けた金は次の投資に廻すとか慈善事業に使ふとかすべきで、蓄財してはならぬ。金持が天國に入るよりは駱駝が針の穴を通る方が樂だとイエスは言つた。
 キリスト敎の神は人格を失ひ抽象化され、「眞理」とか「法則」とかになり、敎會に通ふ人はゐなくなつた。しかし、「眞理」に忠實に生きなければならぬといふ義務感は、相變はらずアメリカ人の心を壓迫している。

 マネーゲームを眞似する者が日本にも出てきた。しかし、アメリカ人のやうな「倫理」は日本人にはなく、金儲けそのものを惡として捉へていない。そもそも日本には惡もなければ、惡人もゐない。
 村上某にしても、全く子供の顏をしてゐる。惡いことをしたとは思つてゐないので、ただ、ちよつとやり方が下手だつた、見つかつたのは失敗だつたと思つてゐるだけである。

 村上某のことを笑ふ資格は誰にもない。日本人は歐米の眞似をして兎角かうなる。日本人には形しかないから、形だけ眞似る。それで同じだと思ふが、歐米の場合、實は冰山のやうに、永い歴史を背景に出てきた行動である。彼らに取つては歴史的必然であるが、決して普遍的なものではなく、日本人には眞似る必然性は何もない。
 ただ、眞似をしないと、歐米にやられるから、せざるを得ないとあせつてゐるだけである。その結果、技術は發達したが、何の爲の技術なのかもとんと分つてをらぬ。ただひたすら便利さに向けて盲目的に突進してゐる。

H18.6.6

*戰爭を起したのは誰か
	
 大東亞戰爭は戦犯たちが起したので、日本國民も被害者だということになってゐる。しかし、ある日本在住の支那人が、樂しそうに軍歌を歌ってゐる元兵隊たちを見て、このことに疑問を抱いたと書いてゐた。
 その通りで、日本国民も一丸となつて戦つたのである。勿論、一部の軍が獨走して泥沼にはまつたといふことはあるが、それは戰略の拙劣といふことでしかなく、それが國民の戰意をそぐことはなかつた。

 戰爭を日本の責任にしようとしたのはアメリカである。さうすることで、歐米のアジア侵掠から目をそらさせ、誤魔化さうとした。
 もともと歐米がアジアを植民地化し侵掠してゐたのであるが、そこに日本が割込んできた。といふより、まごまごしてゐると植民地化されるから、先手を打つて朝鮮を併合した。そして支那にも出て行かうとした。それが氣に食はぬから、歐米、ことにアメリカが嫌がらせをし、日本を戰爭に追ひ込んだのである。

 日本國民はこぞつて「聖戰」に参加した。これは疑ひようのない事實である。福田恆在が書いてゐたが、彼の學友の共産党員でさへ、聖戰に感激してゐたといふ。
 こんな史實は、歐米としては認められない。ひとつには、歐米の感覺では、戰爭は支配者が起すもので、國民は常に被害者である。日本のやうなことが起る筈はなく、彼らの常識では、軍部の強制が強力であつただけだといふことになる。
 しかし、彼らの狙ひは、日本をスケープゴートにすることで、自分たちの罪からアジアの目を逸らせることにある。そしてアメリカの作戰はまんまと成功した。

 日本をスケープゴートにと書いたが、具體的には戰犯を造つてそれをスケープゴートにした。もし、日本そのもの、或は日本國民を非難したら、もつと抵抗を生じただらう。さうなれば、ことのついでに、歐米の舊惡も明るみに出される恐れがある。だから戰犯を造るに如くはないのである。
 占領のどさくさに紛れて「國際法」違反の軍事裁判を行い、處刑してしまつた。そして軍事力を背景に無理矢理日本に押付けた。今や阿呆な日本人はこれを既成事実として何の疑ひもなく認めてゐる。押付けられたなどとこれつぽつちも疑つてゐない。

 軍隊を持たないと嘗められる。或は、現在のやうに持つてゐても、刀は拔かぬと分つてゐれば、やはり嘗められる。しかし、本當に問題なのは、嘗められてゐると氣がついてもゐないことである。さらに滑稽なのは、嘗められてゐるのに、嘗めている奴と一緒になつて「正義」だと喜んでゐることである。

 靖國神社に參るのが怪しからぬと中國や韓國の政府がジャブを出してゐるが、そんなのは大した問題ではない。これは、歐米との鬪ひなのである。

H18.4.15

*グローバル化による壁
	
 グローバル化で新しい壁が出來ているといふ。例へば、ロサンゼルスでは、樣々な人が自由に集う公共空間はなくなり、人々は一定の人にしか入場を許さない閉鎖的な空間で、同じやうな人としか會はないやうになつてゐるといふ(スラヴォイ・ジジェク,朝日新聞,平成18.1.1)。

 グローバル化といふのは、アメリカ流のビジネス至上主義がすべての良貨を驅逐して蔓延することであるとすれば、かうなるのは必然である。
 ビジネスの競爭を、世界中同じ条件でやらうといふのがすなわちグローバル化である。日本では日本人が有利な条件で戰つてゐるやうでは不公平だといふことである。公平とコンプライアンス、すなわち拔け驅けを許さないことが、グローバル化の大義名分である。

 ビジネス至上主義が、單に金儲けしていい暮しをしたいといふのならどうといふこともなからうが、その裏には侘しい選民思想が隱れてゐる。選民思想といふのは、實は、賤民思想であり、不當に虐げられたといふ被害妄想から、他人を押しのけてでも自分だけは這ひ上がりたいといふさもしい根性である。這ひ上がつた仲間だけでつき合ひ、選ばれてない民は相手にしないやうになつても、何も驚くことはない。

 イエスも、ユダヤ人に染みついた賤民思想は取除けなかつた。新約の末尾を飾る默示録は、全篇これ賤民の復讎である。そして、默示録はイングランドのピューリタン(ノンコンフォーミスト)たちの好んで愛唱した一卷である。

H18.1.2