「キリスト敎」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

キリスト敎 - (2012/04/03 (火) 23:00:24) のソース

#Contents()

*キリスト敎の欺瞞 (H20.7.27)

 カトリックは異敎の傳統的生活を取込み守つたといふ。例へば、カトリックの祭は皆異敎の起源を持つてゐる。ただキリスト敎の意味づけが一應なされてゐるだけである。
 しかし、カトリックが保存したのはそれだけなのか。そんなうまい話はなからう。ローマやゲルマンの野蠻をすべて保存したのである。野蠻といつて惡ければ文化といつてもいいが、カトリックのしてきたことを顧みれば、野蠻といふ言葉の方が似合ふ。
 例へば、十字軍とか、南米などの侵略、掠奪を見ても、カトリックの野蠻さは分るであらう。これに似たものといへば、蒙古くらゐしか思ひつかない。
 ヒットラーの蠻行も、彼の獨創による突然の事件ではなく、北方十字軍など、この手の傳統の上に起つたものである。

 カトリックは何を行つたのか。すべてに尤もらしい理窟をつけることである。十字軍は、異敎徒を地獄落ちから救つてやるための彼らキリスト教徒の聖なる務めである。祭は勿論イエスの生誕や復活を祝ふための行事である。

 すべては神のためといふ衣裝を着せられる。人間の考へに過ぎないものが、神の意志だといふことにされる。つまり、自分の考へすなはち神の考へだといふ。主張する以上、一旦は信じる必要はあらう。しかし、絶對に間違ひないと、何が起らうが改めようとしないのは困る。改めるのは無責任だといふ。逆に、責任をもたうとすれば、その都度舵を切り直すのは當然ではないか。

 この性癖はプロテスタントも勿論引繼いでゐる。引継いでゐる所か、益々その傾向を強めてゐる。

*キリスト敎の誤謬 (H20.11.30)

 イエスは心の持方次第でこの世は即天國になると言つただけである。
 ところで、ユダヤ敎に天國とといふ観念が元々あつたのか。それとも、イエスが造つたのか。
 それは兔も角、弟子達、或はその後繼者達は、イエスの言葉を文字通りに受取つた。天國に上げられるために如何にすべきか、眞面目に考へた。

 その結果が三位一體といふ奇妙奇天烈な説である。イエスは神と人間の兩方の屬性を持つといふ。あり得ないことであるが、であるからこそ、有限の存在である筈の人間が神の國に行けることになるのであるといふ。
 マリアは神の母であるといふ。人間イエスを産んだのであるが、そのイエスが神でもあるのであるから、當然、神の母であるとになる。
 殘る聖靈は分らぬ。例へば、マリアは聖靈に感じてイエスを孕んだとふ。いづれにしても、イエス同樣、神と人を繫ぐ存在である。神とイエスだけでは息が詰るからもう一つ欲しいといふことなのであらうか。

 イエスは、信ずるものは皆救はれると言つた。カトリックは、死ぬ時に囘心すればそれで十分と考へた。
 チェスタトンはカトリックは斷崖の島の周圍を守る壁の樣なものだと言つた(正統とは何か)。壁が出來ることで子供達は崖から落ちる心配がなくなり、安心して遊べる樣になつたといふ。しかし、何が心配なのか。諸々の邪惡な宗敎か。それとも、死後のことか。
 日本人たる私は死後の世界など考へぬ。死んだらお仕舞ひである。生きてゐる間が花で、その後どうならうと知つたことではない。

 死後に天國があると考へることで、人は強くなるといふ。失敗しても天國に行けると考へれば、他人が何と言はうと己の信ずるところを實行する強さが得られる。確かにヨーロッパ人は言ひだしたらきかない。しかし、それは、強さといふより、圖々しさに見える。利己主義に過ぎないものを、神の命であるかの如く主張して已まぬのは、厚かましいとしか言ひ樣がない。

 ユダヤ敎が元々さうである。ヨシュア記といふのはユダヤ人がカナンの地を侵略した記録である。しかしユダヤ人は神の約束でさうなつたとして正當化してゐる。
 神の聲を聞くといふのは、要するに、利己主義を正當化しようとすることでしかない。自分の得になることを、神から命じられたとして圖々しく主張してゐる。人間、自分の得になることが好きなのは当り前である。しかし、他人もさうであることを認めないといけない。自分の得になることのみを正當化して呉れるとしたら、それは少くとも神ではない。惡魔みたいなものであらう。

 出だしのユダヤ教から惡魔に取憑かれてゐる。イエスもその傳統から逃れられず、ずつとその状態が續いてゐる。

*あの世といふ嘘 (H22.1.17-2.7, 2.11追記)

 キリスト敎では、信じるものは死後に天國に入れるとと宣傳してゐる。ことに、プロテスタントは二重豫定説を唱へ、以後、地獄に落ちるといふ恐怖が世界を動かしてゐる。
 しかし、イエスはそんなことは言つてゐない。ただ、心の持ち方次第でこの世は即天國になると言つただけである。「求めよ、さらば與へられん」である。
 福田恆在が「近代の宿命」に、イエスの考へを説明して「もしユートピアが存在するとすれば、ただ囘心によつて、各個人の心がまへによつて、たちどころに出現するであらう」と書いてゐるのを讀んでさう思ひ始めた。福音書を讀めば、「神の國は既に汝らに到れるなり」(マタイ傳12:28)の樣な表現があちこちに見られる。

 勝手にさう思つてゐたが、高山勝といふ神學者と思はれる人がその樣なことを書いてゐるの偶々を見つけた(マリアナ諸島の先住民チャモロに対するスペインによる初期カトリック宣教, 基督教研究, 第64巻, 第2号, 75頁, 2002年)。それには、次の樣な文章があつた:「永遠の生命」は神学的意味において「イエスの死と復活にあづかる者には“來世”ではなく、“今”与えられるもの」である。
 この論文は、スペインの宣教を批判したものであるが、「來世的な救濟に偏重」した結果、永遠の生命を得られれば、宣教者の殉教や被宣教者の肉体的な死は厭はなかつたと述べてゐる。
 「神学的意味において」とこの著者は書いてゐるが、この樣な考へ方がヨーロッパの正統的神學の世界で認められてゐるのであらうか。それとも、單に、自分が獨自に神學的に考へてさういふ結論に到達したことを言つてゐるのであらうか。

 現世を否定し、永遠の命を手に入れようといふ思想は、まさに歐米が支配する現代世界の諸惡の根源である。このような思想がどこから出て來たかについて、高山氏は、ファンダメンタリズムといふことを擧げてゐる。ファンダメンタリズムとは、聖書を字義通りに理解することである。天國とか地獄とか、イエスはすべて譬喩として語つてゐるのである。當時のユダヤ人にはその樣な表現が分り易かつたのであらう。
 戒律は、本來、言ひ訳を許さない。字義通りの實行を要求される。髭を剃れなかつたのも、自ら傷付けてはいけないといふ戒律を守るためであり、電気剃刀が出來たお陰で剃れる樣になつた。この樣に糞眞面目な人達であるから、譬喩といふものを解さないのであらうか。

 しかし、イエスは、布敎を始める時に既に、「時は滿てり、神の國は近づけり、汝ら悔改めて福音を信ぜよ」と言つてゐる(マルコ傳1章14-15節)。字義通りに解しても、神の國はすぐそこにあるといふことで、死んだ後のこととは思へない。悔改めれば、心の持ち方を變へれば、この世が神の國になる。すなはち、集團性にこだはらず、純粹な個人としての修養に努めれば、思ひ惱むことは何もない。
 なほ、マタイ傳のみは、神の國と言はずに天國と言つてゐる(英語では、それぞれ、the kingdom of Godとthe kingdom of heaven)。天國といふのも、神は天にゐるから天の國といつてゐるだけで、要は神の支配する國といふことであらう。

 ロレンスは、自分の身近にゐたイギリスのプロテスタント達について、彼らにとつて聖書とは默示録であり、福音書などは決して讀まないと書いてゐた。カトリックは一般信徒が聖書を讀むのは危險であるとしたのに對して、ルターは聖書のみと主張したが、結局は、憎きローマを地獄に落さうといふ默示録のみ愛讀されてゐるといふ次第なのである。
 彼らが讀むのは、むしろ、舊約である。舊約の裁く神、妬む神が彼らの神なのである。

*ヨブの喜劇とイエスの悲劇 (H23.12.11-17)

 舊約聖書ヨブ記の主人公ヨブは義人であつたが、義人と云ふのは常に神を信じたといふ意味であるが、財産や子供を奪はれ、皮膚病にもなつた。當時、皮膚病になることは社會的に死を宣告されることであつたらしい。それでもヨブは神を信じたといふ。
 當り前のことの樣に思へる。しかし、ユダヤ人にすれば、義人にはそれなりのご襃美がある筈なのであらう。或は、ご襃美が貰へない人は義人ではないことになる。この因果應報の希望を、ヨブは、自らが不仕合せになることにより打破らざるを得なくなつた。
 ヨブは、神の前に正しい者はゐないことは認めてゐる。しかし、世間的な意味で自分に落度があつたから神の怒りを買つたとは認めない。さうすることは、神の心を忖度することになる。それこそ不遜ではないか。ヨブに至つて初めて現世利益の世界を脱出した。

 ところが、最後にはヨブは仕合せになる。作者は因果應報を否定できず、どうしても喜劇で終りたかつたのであらう。結局、現世利益の世界が續くことになつた。

 因果應報と現世利益の否定は、イエスに俟たねばならなかつた。イエスは、罪は犯さなかつたが、捕へられて死刑になつた。このことにより、身をもつて因果應報を否定した。この世の仕合せ、不仕合せは、神のみぞ知ることであり、罪の有無により決るのではない。なぜなら、無垢の人イエスが罪人として死刑になつたではないか。
 イエスは、しかし、死後に救はれたのか。それは神のみぞ知る。ただ、地上において、イエスは自分が不仕合せだとは思つてゐなかつた。これが己の運命だと諦念してゐた。人間はさうして生きていくしかない。

*イエスはなぜ十字架にかかつたか (H24.3.20~4.3)

【イエスは神か】
 イエスといふ人がゐたが、實は神だつたといふ。どんな人なのかと、イエスの事を知らうとすると、福音書しか讀むものがない。しかし、この書はイエスが神であつたとする人達の書いたものであり、どこまで信じていいのか分らぬ。マリアの懷胎、病者の瘉しや死者の復活、磔の後の復活など、いろいろ書かれてゐるが、普通にはあり得ないことである。合理的な解釋をしてゐる人もゐるらしいが、餘計に胡散臭く感じる。
 イエスは人として生まれたが神であるなど、そんなことはあり得ないと決めて掛つてゐる。絶對神がこの世に關はつては困る。それでは絶對と言へなくなる。もしかしたら、イエスは本當に神だつたのかもしれぬが、といふのは絶對神が何をするかは人間には分らぬのであるからそういふことが絶對に起らぬとは言へぬからであるが、しかしそれが人間に分つてはいけない。
 さう考へると、福音書はまともな書とは思へない。奇蹟物語は、イエスを神と信じさせるための針小棒大の作り話としか思へない。少くとも、そこにかかずらつてゐても埒があかないので、イエスが何を言つたかだけを讀むことにする。それにしても、すべてそのまま書かれてゐるといふ保證はないのであるが。

 ユダヤ敎では、ヤハウェを唯一の神として祀つてゐるが、ヤハウェはずつと人間と關はつて來てゐる。ユダヤ民族の守護神みたいなものであらう。唯一の神と言つても、ユダヤ民族は他の神を信じないといふことに過ぎず、絶對神ではない。
 從つて、イエスを弟子たちがヤハウェの子と言つても不思議はない。ユダヤ人が待望した、ユダヤを救ふメシア(救世主、ギリシャ語ではキリスト)であり、かつ、ヤハウェの分身であると思つたのである。ヤハウェは八百萬の神の一つに過ぎぬ。
 ところが、いつの間にか、彼らの神が絶對神であると言ひだしたものだから、をかしくなつた。キリスト敎が、ユダヤ人以外の異邦人に廣まつていく過程で、ユダヤ人のみの神ヤハウェでは困るので、絶對神にされたのであらうか。

【明日のことを思ひ煩ふな】
 イエス自身は、自分は「人の子」であると言つてゐる。「人の子」とは何なのかさつぱり分らぬが、黒崎幸吉著「註解新約聖書」(http://stonepillow.dee.cc/)によると、メシアのことをいふらしい。つまり、イエスは自分がメシアであると思つてゐたのである。
 と云つても、ユダヤ人たちが待望してゐた樣に、ユダヤを政治的な屈辱から解放するのではなく、精神的に救ふのである。
 「明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。」(マタイ傳6章34)とイエスは言つてゐる。明日を思ひ煩ふから地獄に落ちるのであり、今日に集中すればこの世は即神の國ではないか。あらぬ期待をもつたりせず、ありのままの生活を樂しめばよいのである。この世は神の造つた國であり、地獄ではない。
 イエスは「神の國は近付けり」と言つたと、日本語譯福音書には書いてある。しかし、原文は完了形であり、正しくは、神の國は來たといふ意味であるといはれてゐる。文脈からしてもさうであると思ふ。すなはち、心の持ち方ひとつでこの世は神の國になる。といつても、勿論、明日死ぬのかもしれぬのであるが。
 世の中何が起るか、人には分らぬ。いいこと許りではない。早い話が、人は皆死ぬ。早いか遅いかの違ひはあつても、何れは死ぬ。永遠の生命は貰へないどころか、何百年生きる譯にもいかぬ。舊約によれば、アダムは百三十歳で子セツを得、九百三十歳まで生きたといふが。人はすべて、神の決めた通りに動かされるだけである。
 ここで舊約のヨブを思ひ出す。ヨブの運命は神に飜弄された。ヨブ記では、しかし、最後に救はれることになってゐる。これは後で付加へられたのではないかと疑はれてゐるが、しかし、ユダヤ人がこれでは堪らぬ、必ず信心のご利益がある筈と思つたといふことである。イエスはこれを打ち破らうとした。ユダヤ教の現世利益、因果應報の世界を覆さうとした。信仰により、ユダヤ人に都合のよい世界がもたらされるなどと甘い考へを抱いてゐても何にもならぬ、目を覺ませと言つたのである。
 イエスは絶對神の思想に近づいてゐる。しかし、あくまでユダヤ教の傳統に生きてゐたイエスは、そんなことは考へてゐなかつたかもしれぬ。考へてはゐたが、絶對神は信仰の對象にはならぬと捨ててゐたのかもしれぬ。

【十字架にかかつたのは現世利益の否定のため】
 それにしても、なぜイエスは十字架にかかつたのか。人類の罪を贖うためなどと言はれてゐるが、何のことやら分らぬ。イエス自身も、「人の子の來れるも、事へらるる爲にあらず、反つて事ふることをなし、又おほくの人の贖償として己が生命を與へん爲なり」(マルコ傳 10章45)などと言つたりしてはゐるが。
 イエスは、ユダヤ人の現世利益待望を打ち碎くためには、義人でも不幸に陷ることもあることを身をもつて示さねばならぬと思ふ樣になつたのではないか。イエスの死が意味を持つとしたら、それ以外にない。
 絶對神の考へることは人間には分らぬ。冷たい仕打ちと見えることもある。しかし、それが神の定めたことであり、人はひたすら努力し續けるしかないのである。

 イエスは、自分の受難について、「かくの如くなるは、みな預言者たちの書の成就せん爲なり」(マタイ傳 26章56)などと言つて、神の決めたことである樣に言つてゐる。いささかこじつけがましいが、一種の譬喩であり、以前から同じ樣な考へがあつて、その流れの末に自分が現れたと言つてゐるのであらう。さう言ふことにより、受難に對する決意を固めてゐる樣にも見える。
 しかし、神の定めたことであるなどと、人間の分際で分るはずがない。ある思想を持つて生きて行くうちに、段々とその氣になつたのであるが、受難を避けようとすれば避けられたかもしれぬのである。避けようとしても避けられなかつたのであれば、運命と言へる。しかし、避けようとせず、自ら破局に向つて突進むとすれば、それは運命と言へるのか。
 イエスは、受難をいづれ避けられぬと觀念したのであらう。また、言ふべきことは言つたので、ここで幕を引くことにより、より感銘を與へるとの思ひもあつたかもしれぬ。生き長らへるよりも衝撃が大きくなると思つたかもしれぬ。
 などと考へても、やはり、運命とは、自ら選び取るものではないのではないかといふ思ひが消えない。しかし、逃れようとして捕まるのも運命なら、自ら掴み取るのも、さうなつて仕舞へばやはり運命なのか。自ら選び取らうと思ふ樣になるのが、一種の運命なのか。

 ここで思ひ出すは、ドン・キホーテである。ドン・キホーテは自分が騎士だと思ひ込んで遍歴の旅に出る。ついでだが、芭蕉も、遍歴の歌人たち氣取つて歌枕を巡る風狂の旅に出る。イエスも、世に理解されぬ預言者の列に連なる者であると信じて、宣敎の旅に出る。
 ドン・キホーテは人々に笑ひを提供する。芭蕉を笑ふ人は、昔はゐたかもしれぬが、今は笑ふどころか俳聖と崇められてゐるし、イエスに至つては、神と崇められてゐる。
 ドン・キホーテと一緒くたにしてはと怒られるかもしれぬが、自分が何ものかであることを固く信じてゐる點は似てゐる。ドン・キホーテは風車に突進するが、イエスは十字架に向つて突進む。弟子たちにも理解されぬ以上、默つて十字架につくしかなかつたのか。理解させようと死ぬまで努力する氣はないのか。
 それよりも、死後に統べることに期待したのであらうか。であるとすれば、イエスの、この世が神の國といふ敎へに反する。可能性は低くとも、理解されるべく努力して、力盡きれば倒れればいいのである。
 その氣はあつても、弟子たちさへ全く理解しないのを見て、身をもつて眞實を示すしかないと觀念したのであらうか。弟子たちは、相變らず神のご利益に期待して、メシアによるユダヤ解放を夢見てゐた。その夢を打破るには、自分が慘めな死に方をして見せるしかないと。

【イエスの敎へはどうなつたか】
 イエスはユダヤ敎の改革者であつた。現世利益、因果應報を否定し、絶對神の嚴しさを説くとともに、日々の暮しの充實を敎へた。

 しかし、弟子たちにより八百萬の神のひとつに祭りあげられてしまつた。擧句の果てに、キリスト敎の異邦人への滲透に伴つて、絶對神にまで成上つた。
 しかし、キリスト敎はあくまで異敎のまま、すなはち多神教のままである。ジャンヌダルクに現れる神もゐれば、イギリス軍の守護神もゐる。革嚢は新しくなつたが、中味は古い酒のままである。ある意味では、新しい革嚢により、古い異敎の酒を守つて來た。
 しかし、プロテスタント達が現れ、異敎世界を殲滅せんとした。守護神を失つて、人々は天国行きの切符を我先にと求めて爭ひ始めた。天路歴程のクリスチャンは家族も捨てて「天の都」を目指す旅に出る。これが今日の世界である。

(さういへば、イエスも、「我がため、福音のために、或は兄弟、あるひは姉妹、或は父、或は母、或は子、或は田畑をすつる者は、誰にても今、今の時に百倍を受けぬはなし。」(マルコ傳10章26)などと言つてゐる。しかしこれは譬喩にすぎぬ。明日のための蓄へなどのしがらみを捨てろといふのみである)

 絶對神の思想に近づいてゐたといつても、イエスはユダヤ敎の傳統の中にゐた。異邦人の女の願ひをきくまいとしたこともあつた(マルコ傳7章25~)。ユダヤの神をより純化しようとしただけであつた。ユダヤの神は、もともと、あまたの神のひとつであるが、ユダヤ人はその神に選ばれて契約したと思つてゐた。なぜ選ばれたと思ふ樣になつたのか。嚴しい民族間のの抗爭に敗れて自信をなくし、神頼みに走つたといふところであらうか。いづれにしても、劣等意識の裏返しであり、失敗すればするほど、神頼みに依存する樣になる。神や律法に對する絶對服從が叫ばれる。
 しかし、この神も律法も、絶對神とは異なる。ユダヤ人の契約した神であり、その契約が律法である。

 絶對神は、觀念としては存在してゐるが、信仰の對象にはならない。信仰するまでもなく、有無を言はさず、我々を支配してゐる。ただその事實を知るのみで十分である。
 それでは信仰とは何か。自分の祖先なり、屬する共同體なりと一致融合を確認するものである。人間、絶對神や無限の自然あるいは宇宙などと一體化することは出來ない。もつと身近な共同體が必要である。
 信仰は、いづれ、現世利益と結び付く。そんなことを願つても無駄であると分つてゐても、さうしないではゐられないのが人間である。願ひは叶ふとは限らぬものであることは皆分つてゐる。禱りにより安心が得られればそれで十分である。

 プロテスタンティズムは異敎世界を破壞せんとしたのであるが、代りに現れたのはやはり神々の世界である。すなはち、守護神の代りに、自分を神としてゐる。
 マックス・ウェーバーはプロテスタンティズムを「魔術からの解放」と言つたが、解放されたつもりで別の魔術にはまつてゐるだけである。病膏肓に入るである。魔術から無理に逃れようとするよりも、適當にかけられておく方がよいのである。
 人間は、己より大きな何ものかに對する素朴な信仰を持つてゐないと、自己を神とする不遜に陷る。何ものかとして、絶對神を無理矢理もつて來ると、そんなものは具體的に見えないから、己を絶對神と錯覺する愚に落込む。實際、彼らは自分に向つて「お前は」と話しかける。あたかも神が話しかける樣に。

 イエスは、目の前に集中し、明日を思ひ煩ふなと敎へた。これは理想であり、現實にはあり得ない。この生き方が出來るのなら、「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。」(マタイ傳5章39)も出來る。
 未だ貨幣のない部族では、互いに助け合つて生きてゐるといふ。獲物を得ても獨り占めにしたりせず、皆で分けあふ。もともとは皆さういふ暮しをしてゐたのかもしれぬが、貨幣の發明により、私有財産が發生し、競爭が生まれた。貨幣は、一方、分業を可能にし、その結果、技術が格段に進んだのであるが。貨幣のない世界に戻れば、イエスの理想に近付けるのかもしれない。
 「富める者の神の國に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反つて易し」(マルコ傳10章25)とイエスは言つてゐるが、その前に、戒律を守つてゐるといふ人に「なんぢ尚ほ一つを缺く、往きて汝の有てる物をことごとく賣りて、貧しき者に施せ」と言つた。共同體が強固な強制力をもつてゐた先史時代をイエスは理想郷として思ひ描いてゐるのか。それとも、人間の本能を言つてゐるのであらうか。人間は、本能的に、助け合つて生きる樣に出來てゐると思ふ。自分だけ、あるいはユダヤ人だけ、よくなつても嬉しくはない。しかし、人間は本能のままに生きられなくなつて仕舞つてゐる。その結果、思ひ煩ふ。

 明日を思ひ煩ふ人間には、やはり、八百萬の神が必要なのではないか。人間は絶對神との機械的なつき合ひだけの孤獨に耐へられるほど強いものではなく、仕へるべき具體的な存在との有機的な繫がりが要るのである。その上に絶對神がゐるのは間違ひないが。