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日本語 - (2009/04/19 (日) 22:20:03) のソース

目次
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*アイヌ語
	
 アイヌ語は日本語とは全く異なる言語だといはれてゐると、大野晋などが書いてゐた。變だとは思ひながらそんなものなのかと濟ましてゐた。しかし、最近では、繩文時代の日本語が殘つてゐるのではないかと考へられてきてゐるやうだ。
 或る人がいふには、金田一京助がアイヌ語は日本語と無關係と言つたさうである。金田一は、アイヌ人はヨーロッパ系の民族だと信じてをり、従つて、言語も日本語と同系統であるはずがないとしたといふ。
 何の根據もなく斷定したのだが、アイヌ語研究の先覺者が言つたので、それが通説となつたといふことらしい。「何の根據もなく」と書いたが、「アイヌ人はヨーロッパ系の民族である」といふ根據があると言へなくもない。しかし、「日本語とは全く異なる」という點についての具體的な檢證は缺けてゐたのではないか。

 人はとかく斷定したがる。狹い自分の経験から、何とか全體を推し量らうとする。それはそれで構はないので、そこから發展させていけばいい。
 問題はそれを聞いた方で、ああさうですかと根據もなく鵜呑みにしてゐてはいけない。
 とはいへ、聞いたことを何から何まですべて先づは疑つてかかるといふ譯にもいかないだらう。そんなことをしてゐたらきりがない。とりあへずは承りつつ、批判精神は持ち續けるといふことしかないのか。

H18.3.19

*二重否定
	
 なに小唄だつたか、「雪にかはりはないぢやなし」といふ文句があり、「ないぢゃなし」では「ある」になつてしまふから、「あるぢゃなし」でないとをかしいと思つてゐた。

 しかし、もし、「ないぢやない」と現代調でいふと、二重否定でなくなり、「ない」といふ意味になつてしまふ。「何々ぢやない」と疑問文風に言ふと、反語的な響きを持ち、肯定することに贊同を呼びかけてゐる感じになる。發見の感動を込めていふと、斷定的な響きをもつ樣にもなる。また、「ではないか」も、同樣に、完全に肯定するのに使はれる。この違ひは何なのか。

 「ぢやない」或は「ではない」は、普通にいふと、單なる否定になるのは、「なし」と古典調でいふ場合と同じである。現代語では「ない」を反語的に使ふ用法が出來たといふことか。

H17.6.1

*歌詞と旋律	

 テレビでヒット曲の歌詞を覺えているかどうかといふのをやってゐた。平井堅の「瞳を閉ぢて」といふ曲で、「瞳を閉ぢて、君を描くよ、それだけでいい」の「それだけでいい」といふ文句を當てられない人がかなりゐる様だつた。
 ごく最近のヒット曲なのになぜかと思つたが、なんとなく分る気もする。「それだけでいい」の「それ」の部分の旋律が、普通にしゃべるときのアクセントと違ふのだ。日本語のアクセントは高低アクセントなので、言葉のアクセントとメロディーが異なつてゐると、不自然で頭に入りにくいのではないか。そのため、「それ」がなかなか出てこないのではないか。
 隨分昔の話だが、「こんにちは赤ちゃん」といふ歌がはやつたことがある。その時、或る人が、この歌は覚えやすいと言つてゐたのを思ひ出す。旋律が言葉のアクセントと一致してゐるので覺えやすいのだと思ふ。

H17.1.6

*かな表記は頭に殘らぬ (H20.8.15)

 買ひ物に行つたら店員の名札が假名で書いてあつた。なにかしつくり來なかつたものの、その時はそれなりに分つたつもりでゐたが、一時間後に歸つて來たらもう思ひ出せない。
 もし、漢字で書いてあつたなら、こんなことはないだらう。漢字の像が頭に燒きついてゐて、一時間やそこらは殘つてゐる。

 支那で先に文字を発明したのが入つて來たので、日本人は漢字を使ふ羽目になつた。それがたまたま表音文字でなく表意文字であつた爲、をかしなことになつた。
 ひとつは訓讀みの發生である。これは、例へば英語の「rain」を「あめ」と讀ませるのと同じで、ある國語學者は日本人の發明と書いてゐたが、實は朝鮮の眞似である。

 漢字は表意文字であるから、音は勝手に變へてもいいのであり、すべてこの手でいけばよかつたのである。しかし、なかなかさうはいかなかつた。
 訓読みだけでなく、音讀みと稱する讀み方が普及することになる。これは支那語が日本語に入つたといふことである。

 結局、日本語は支那語と原日本語のクレオールの樣なものになつた。ここで、原日本語と呼んだものも、もともと、いくつかの言葉からできたものなのであらう。

 いい惡いはともかく、それが現實なのであり、日本語から漢字を外すことは出來ない。少くとも、日本人は、漢字の像によつて言葉を理解してゐる。口語においてすらさうである。ここで口語と言つたのは、話し言葉の意味である。よく、古典文語に對して現代文語(文章語)を「口語」と稱してゐるが、その意味ではない。
 漢字の力のお陰で、日本人の理解力、記憶力は優れたものになつてゐるのではないかと思ふ。また、漢字かな交じり文のお陰で、文章も非常に讀みやすくなつてゐる。
 アルファベットを使つてゐても、文章を讀むときは、単語を一つの塊として認識してゐる。つまり、単語が一個の漢字みたいなものである。それゆゑ、イギリスでは発音が變化してゐても、綴はなかなか變へられない。
 漢字は一字で一単語を凝縮して表してをり、一旦覺えれば、アルファベットなどより強力であることは間違ひない。

 韓國では漢字を止めてハングルのみにしてゐるといふ。朝鮮語にも、日本で音讀みと稱してゐる讀み方が入り込んでゐる樣であるが、だとすれば、日本で漢字を止めるのと似たやうなことになるのではないか。
 或は、漢字の像に頼らない新しい言語が創造されていくのか。と言つてみても、現在の朝鮮語の漢語由來の言葉をすべて止めてしまふ譯にはいかないだらう。
 漢字を知つてゐる世代がゐるうちはまだいいが、ハングルしか知らない人ばかりになつた時に、一體どうなるのであらうか。よそ事ながら心配である。

*縦書の効用 (H21.4.19)

 パソコンで日本語を讀むのは讀みにくい。ひとつには文字間や行間が適切でないといふこともあらう。フォントの問題もある。畫面では通常ゴシックにしてゐるが、明朝體と比べると、ぱつと見たときにすぐ分る感じがしない。また、根本的に、ディスプレイは光るから疲れる樣な氣がする。

 ところが、青空文庫 (http://www.aozora.gr.jp/) の作品をあるソフトで讀んだら、意外に讀める。字を少し大きくしたり、明朝體にしたりはしてゐる。しかし、明朝體とはいつても、ディスプレイ上であるから、ゴシック體より少し細い程度で、縦横の線の太さの差もあまり分らない程度である。詰るところ、縱書きのせゐなのではないかと思つた。
 若い世代だとこんなことはないのかも知れぬが。