06/12/29

文化としての科学、信仰としての科学

長岡技術科学大学 06515687原徹也

第一節 序論

日本では、神を信じないことは珍しいことではない。信じない理由は人それぞれだと思うが、「神の存在は非科学的だから信じない」と考えている人達が多いのではないだろうか。

科学的なものは信じ、非科学的なものは信じないという人達は、わが国では決して少数派ではなく、むしろ多数派という印象をうける。科学的だから信じるということはつまり、科学的なものを信じているのであり、「科学」を信じているといって問題がないであろう。ところで、「神の存在は非科学的」という命題は、果たして科学的な事実なのであろうか。

第二節 科学とは

科学とは何かというと、事実を元に論理的に考えて矛盾のない結論を導くことにより発展した学問、思想と考えられる。矛盾がなければ正しいと考えるのが科学である。科学知識を用い、自分の頭で論理的に考えて命題が正しいことを証明できれば、命題は科学的である。逆に命題の誤りを証明できれば命題は非科学的である。このような証明による方法で命題の真偽を判定する人は、科学的な態度で物事を判断しているといえる。他人が証明した結果を鵜呑みにすることは、科学的な態度で物事を判断することにはならない。命題が正しいのかどうか、常に疑いの視点をもち、命題の真偽を追求する姿勢、これこそが科学的な態度と考えられる。

第三節 科学の存在意義

ところで、科学の存在意義について次に述べてみる。仮に、科学的な態度でこの世界に存在する命題に接することにより、この世界の真実を知ることができるのであれば、科学的な態度には意味があり、科学には存在意義があるといえる。逆に、科学的な態度でこの世界に存在する命題に接したところで、この世界の真実を知ることが不可能だと仮定したなら、科学的に考えることに何の意味があるのであろうか。科学の存在意義を見出すためには、科学的な態度でこの世界に存在する命題に接することにより、この世界の真実を知ることができるとする仮定を認める必要がある。この仮定を認めることはつまり、科学を信じることである。科学に意味があるのは、科学を信じる文化の中に限定される。科学を信じない文化の中では、科学的であることは何の説得力ももたない。科学を信じる文化の中にのみ科学は存在するのである。


第四節 科学の限界

ところで、科学的な態度は頭で思考することを要するため、多くの時間や労力といったコストを要する。これらのコストは有限なので、身の回りの全ての命題に対して科学的な態度で臨む人間の存在は考えにくい。コストが有限なので、科学で真偽を判定できる命題の数は有限であることがわかり、命題の数を無限と考えれば、真偽を判定できない数多くの命題が存在することになってしまう。科学の力を信じていても、全ての命題に対して科学的な態度で臨むことができないのは、科学のパラドクスとでも呼べそうな事実である。また、論理的に考えても答えを出すことが不可能な命題、所謂「解は不定」となる命題についても、科学的手法では命題の真偽を議論することが不可能である。以上の二つの観点からわかることは、科学的手法では世の中に存在する全ての命題を説明することができない、ということである。これは科学の構造的欠陥と考えることができる。

第五節  文化としての科学

 キリスト教における神は、この世界を創造した創造主である。創造主は唯一無二の存在で、キリスト教では創造主以外の神の存在はいっさい認められない。「神が世界を創造した」という命題を認めたうえで、とその関係諸概念について理論的考察を行う学問が神学である。過去の西欧のおいては、この神学と哲学、自然科学が相互に関係しあいながら発展してきた。というよりも、自然科学は神学や哲学の一分野だったようだ。

 そのような自然科学が、やがて「神が世界を創造した」という前提をとりはらい、現在の科学になったと考えられる。このような経緯をもつ自然科学は、論理的に物事を考える西欧の文化のもとで、先人たちがこの世界の成り立ちや仕組みについて真剣に考えた結果発展したものである。

 

第六節  まとめ

ところで、第一節で述べた「神の存在は非科学的だから信じない」としている人達のなかには、科学的な態度でこの命題の真偽を判定していない人が多いのではないだろうか。つまり、「神の存在は非科学的」という命題を自分で確認したのではなく、「神の存在は非科学的」であるに違いないと信じたために、神の存在を信じていないだけではないのか、ということである。科学を信じているのに、科学的な態度をとっていないのである。

科学的な態度とは無縁なのに科学の結論は正しいと信じている人もいるであろう。現在のわが国では、結局は一部の専門家だけが科学的な態度をとり、他の人達は何となく科学を信じているだけで科学的な態度とは無縁なように思える。専門家であっても、科学的に理解しているのは自分の専門である狭い領域だけであり、他の分野に関しては素人であり、やはり科学的な態度とは無縁な場合が多いのではないだろうか。全ての「科学的」と言われる命題について科学的な態度で確かめた人はいないはずであるが、「科学的」といわれるだけで信じてしまう。科学信仰という言葉がよく似合う文化という気がする。

参考文献

[1] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6

[2] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E_%28%E7%A5%9E%E9%81%93%29

[3] http://www.ecf.or.jp/shiki/1999/arima-lecture.html

[4] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AD%A6


最終更新:2006年12月29日 12:11