詩とは何かについて、だらだらとモニターに向かって箇条書きする

まるで、思いつき自動筆記のように・・・


 shi : この音の日本語を並べてみる。

死・詩・詞・師・市・視・士・誌・史・氏・資・紙・四・子・志・刺・至・歯・私・紫・巳・髭・覗・之・漬・弛・只・芝・柴・偲・次・砥・雌・賜・笥・脂・肢・糸・祉・獅・止・枝・諮・孜・指・屍・姿・矢・姉・始・司・旨・仔・匙・祇・柿・茨・試・飼・斯・施・伺・此・使・支・嗣・自・示・仕・思・梓・四・

 こんなに同じ音の言葉があるというのに、shi と発音するときに思いつくのはいくつくらいだろうか。思・死・私・詩・市・これくらいか。せいぜい、「師」が追加されるくらいだ。あとは他の言葉と一緒になって初めてその音が使われる。

 死と詩と私と思 - この四語が私の shi だ。四語(shi-go)の shi → 
死後の shi
私語の shi
詩語の shi
死語の shi
死期の shi


 視覚に頼って書いている。目が見えている私は詩を書くとき、あるいは駄文を書くときに視覚に頼りきっているに違いない。言葉なのにそれはまるでキャンパスに塗られる絵の具のようだ。もし目が見えていなかったら私はどんな言葉を使うのだろうかと考える。この考えはほとんど毎日のように脳裏に浮かぶ想念だ。もし目が見えず耳も聴こえず指も使えないとしたら、私は言葉を使うことで何かを表現することが可能なのだろうか。あるいは、言葉以外の素材を探してきて何かを表現するだろうか。
行を変える。字をトップから下げて配置する。一字分の空白を空けて文をつなぐ。これらはすべて視覚に頼った言葉の表現方法なのだ。私は純粋な言葉というものに疑いをかけている。言葉の大切さとはきっと他者との交感の中にしかないのだろう。


 詩とは何かと問うとき、私が真っ先に思いつく状況は五体の満足度だ。それはどういう意味かというと、考えてみれば容易に分かること。例えば、目の見えない人にとっての詩は耳から入る音としての、あるいは触ることの出来る作品としての言葉になる。耳が聴こえない人は書かれた文字を目からしか感じ取れない。とは言うものの、聴覚に障害がある人よりは視覚に障害がある人の方が言葉である詩を感じるための障害は大きいような気がする。
 つまり、目が見えている、ということがどれほどに感覚の多くを支配しているだろうかと思うのだ。耳が聴こえないことの障害はとても大きいが、それでも目が見えないことよりは言葉を知る機会も感じ取る量も多いのではないか。いや、それは書き言葉として書物、あるいはモニター上の情報量が多いのだから当然か。
 点字書物、あるいは朗読記録媒体などがどれほど出回っているか知らないで言っているのだが、どうしたってこの世界は目の見える者を前提に言葉が発せられているのだろう。ドラマであっても、映像を観るからこその言葉であるだろうし、映画もしかりだ。ラジオドラマがほとんど無くなってしまった現在は目の不自由な人には寂しいことだろうと思う。


詩が死んでから久しいが、
憂鬱は一層その階層を深く沈潜させ、はがしてもはがしても現れない。
ただ「ある」ということだけが分かる。

すべての人に平等に訪れるものを懼れることはない。
去り行くことは誰にとっても寂しさの極みだが、
寂しさこそが真理だと知れば、微笑んで受け入れることは出来るだろう。

あちらのサイトから逃れてただ一人で書き綴るのは、
内なる憂鬱な詩の死の詩の憂鬱。
最終更新:2007年02月05日 21:08