人生は常に流れの中にあり、決して同じ時刻・場所にとどまることは出来ないのである。現状満足などどこにも存在しないし、現状などという安易な状況はどこにもない。

 変わることを躊躇していては私は進めない。どれほど老いようとも、私は変わらなければならない。昨日より今日は新たな地点に着地していなければならない。

 これは世界に対する私の決意であり、  世界が私に要求する運命であり、文学的に生きるための試練である。

 これから先、どれほど苦境に晒されよとも、私は読書と書くこと、思索することをしなければならない。そのためには時間が必要なのだ。それも具体的な時間そのものが必要なのだ。私は賃労働としての仕事に追われる生活を拒絶する。たとえ世間的に充分な賃金を得ることが出来なくなっても、フリーな時間を確保する。食べて住んでいければ充分だし、せめてそれだけは今のところ確保したいと願っている。路上で暮らすことだけは避けたい。路上生活は雑事が多すぎて時間が不足するからだ。

 が、最悪もしそれさえ叶わない事態になったとしても構わない。その時は死を為すだけのことだから。

 それが私の決意だ。

 というのも、これから先、私の収入は極端に減ることが確かだから、今ここで宣言しておかなければならない。そうでないと、私の決意は揺らぎ、世俗の常識に負けてしまいそうになる。特に同居している相方との関係が壊れることを恐れるあまり、私はこの精神的な必然性への希求を諦めてしまうかも知れないからだ。つまり、相方との離反・別離は受け入れることが前提だ。なぜなら、私は私のこの孤独と「ひとりで立つ」ことの運命からだけは逃れることが出来ないからだし、世俗的な安寧が得られないとしても、それは「私が私であろうとする」限り避けることは出来ないのだから。

 この先の状況は実は私のもっとも望むことであり、衣も食もどれほど貧しようが構わない。ただ願わくば住だけは確保したいと思う。これは倫理的に“欲”であるだろうか。

 願わくば住だけは確保したい、と書いてから数週間が過ぎて書き足そうとしている。

 今思うことは、その“住”をさえ願うこと止めること、それさえ失うという状況を予見することが必要なのだと。そう、人生から奪えないものは食とわずかな衣服と雨つゆしのぐことの出来る橋の下であるべきかも知れない。

(常に加筆中・・・)     

最終更新:2007年04月29日 20:48