(序文として吐く)


 長い社会人生活中、厚生年金に加入した時期は少ない。つまり、ほとんどの年月を国民年金に加入していたわけだ。まあ、一種の職人みたいなものだから、それなりの技術的なキャリアがあってこその仕事だったわけだけど、よく考えれば社会の仕組みなんて時を経ることでいくらでも変わり得るわけで、実際私の職業も国の政策変更の度にあっちへフラフラそっちへフラフラ。決して、こっちへフラフラをやって来はしない。いつだって遠ざかる方向へと逃げていくだけだったが。福祉と医療の再編(実はコストの削減)はモロに私の職能へもその荒波を逆巻かせるのだった。

 とは言っても、この大変化はここ数年の出来事で、いつその波に飲み込まれるかと不安視していたが、ようやく具体的な形でこの身を飲み込むことになってしまった。予感・予想は疑心暗鬼であったが、まさか実際に襲ってくるとは心外な!とは言っても致し方ない。私の準備不足・予防措置の不備が現実の生活にカラカラと渇いた風を送り込んできたわけだ。

 凋落というに相応しい私の人生だが、それで良し。所詮、勝ち組は私には似合わないことで、どこかアウトサイドに棲むことにアイデンティティを見出している私としては願ったり叶ったり、ってわけよ。夜も昼も懸命に働いて金を稼いでいたあの頃に比べたら、なんと平穏な暮らしであることか、今は。そして “ この今 ” こそが私には相応しいのだと思っている。思っているが、それはそれで安定することが必須条件だったなんて、今頃気付いてハッ!としている次第。

 長年のフリーター生活を過ごしてきて、こんな暮らしが “ ある老いた夜にベッドで呼吸停止 ” の瞬間まで続いてくれたらいいのに願っていたことに思い至った。ふーん、やはりこの私でさえ、金は必要なのだ。食べ・住み・笑うためには日本国民としての最低限度の文化的生活は大切な条件だったのだなぁ。つまり今、 その日本国民としての最低限度の文化的生活が脅かされているというわけ。

 で、どうする?これから先の “ どうする? ” を考える前に私は、これまでのフリーター暮らしを総括することで、我が人生に悔い無きかどうかを検討してみることにしようと考えた。その悔い無き人生への希求が為されてきたか、あるいは為されてこなかったのかを考察することは決して、老い先長くないこの身の僅かに残された時間への対応を豊かなものにしてくれるのではないかと考えたとしても、誰も私を責めることはないだろうし、第一誰も気にも留めはしないのだから、ここに立ち止まっている私はいつだって私にしか向き合えないという道理なのだったね。

 売るわけでもないこうした駄文の中で “ 書くことの快感のためだだけ ” に総括・考察・思考を行うことは全面的に許される。なぜなら、これは何処まで行っても自己考察でしかなく、他の誰とも置き換えることの出来ない愛すべき主体との相聞なのだ。人はそれを自己中・自己満足と揶揄し非難することは出来るが、それは批評の身勝手(批評の自由とも言うらしいが…)と言うものである。と、とりあえず断言しておきたいものだ。賛意を乞う。

 この序文ではフリーター生活をしてきたことへの肯定的な考察への入り口、その門扉をキチンと築いておきたいと願ったが、どうもうまく行ってないらしい。次の章ではフリーターへ至った初期段階への考察から始めようというのだが、序文がこんな調子では、次の章もあまり期待出来ない。

 ところで、フリーター初期段階を、主体の形成過程の考察無しに書くことは許されることだろうか、と考えてみた。フリーター主体の幼少期および青年期の考察を飛び越えて始めることに無理はないだろうかということなのだが、それはあまりに具体的な事象へと踏み込むことになり、ネットでは少々臆する以外にないとも思えるが、いかがか?って誰に訊ねているのか分からないな。

(この序、見直しの末に書き直すことおおいに考えられるため、記述途中!としておく)

 あああ、書く事の快感に襲われる、今この時のわが身の不運よ

 もっと、もっと私をして快感へと誘い出したまえ!


注)

しかしこの wiki だが、本文の語句に連動して↓に出る広告の鋭いこと、「高収入・・・」とかの求職サイトへ繋がるように出来ているぞ。これでこそ無料で作れる「wiki 」って分けだ。

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最終更新:2007年03月28日 19:29