(なぜフリーターとなったか)
それこそ新卒時代は景気は上がる一方の時代だった。当時「フリーター」という言葉は無かった。バイトという言葉しか無かったし、あってもプー太郎くらいか。結婚した当初はキチンと厚生年金に加入する組織に属して仕事をしていた。当然に9時5時の勤務で、土曜半休・日祭日休みというごく普通の勤務をしていた。残業などもほとんどなく、給料はさほど貰っていなかったが、生活が苦しいなどということはなかったし、風呂など付いていないアパート暮らしは、若い世代には当然の時代だった。仕事から帰ってくるとまずは洗面器を片手に新婚夫婦は銭湯へと出かける。帰ると共稼ぎだったとうこともあるが、手の込んだ夕食などは作らず簡単に済ませたものだった。食べることにはほとんど興味を示すことはなかったので、なんでも良かった。魚と味噌汁とごはんに一品野菜などの副菜があれば充分。だけど、それも娘が産まれて数ヶ月までの暮らし方だった。
娘が産まれる数日前に母が亡くなった。娘は母の生まれ変わりだった。実際、娘の笑顔は母に良く似ていると感じる。とは言いながらも娘にはもう何年も会っていない。会うことが出来ないでいる。すべては私の不徳の末の結果であるから、私は弁解しない。だが、本当は会いたくて仕方がないのだが・・・。哀れな父である。これは余談。
秋に娘は生まれた。次の年の春、私は仕事を辞めバイト生活を始めた。娘の母親は仕事を続けていた。週に二日か三日のバイトでそれまでの勤めより多い収入があった。なぜそんな生活を選んだか。私は演劇を始めたのだった。とある俳優座系の劇団の夜間俳優養成所へ入所した。
と、ここまで書いたが、実際は春からだったか、秋からだったのか定かでない。とにかく一年半養成所にいて、その後は演出部の研究生になったがそれも半年ほどで終わった。それは病に倒れた父の世話をしなければならなくなったから。二年ほどのバイト生活にピリオドを打ち、私たち家族は私の郷里へと旅立った。まるで、都落ちする気分だった。演劇で身を立てる夢は潰えた。
郷里に帰った私はまた通常の勤務者となった。ところが、郷里には二年ほどしか住まなかった。父の面倒を叔母たちがみるからというので私たちは再び上京した。上京と言っても、住んだのは隣の県。勤めは東京の下町。毎日一時間半をかけて通勤した。その生活は三年ほど続いたのだが、その三年間で私は精神を病んでいった。キルケを最初に読み出したのはその頃で、乱読時代だった。一日に一冊読むのは当たり前で、日曜などは二冊三冊と読んだ。
ドストエフスキー(罪と罰)、チェーホフ(かもめ、桜の園)、トルストイ(戦争と平和)、カミュ(異邦人)、ベケット(ゴドーを待ちながら)、プルースト(失われた時を求めて)、C・ウィルソン(アウトサイダー)、ハイデッガー(存在と時間)、サルトル(嘔吐、存在と無)、マルクス(資本論)、エンゲルス(フォイエルバッハ論)、ヘーゲル(美学)、ニーチェ(人間的な、あまりにも人間的な)、カフカ(変身)、ボーヴォワール(第二の性)、ルイス・キャロル(不思議の国のアリス)、チャールズ・ディケンズ(二都物語)、ブロンテ姉妹(ジェーン・エア、嵐が丘)、モーム(月と六ペンス)、エンデ(モモ)、ヘッセ(車輪の下)、トーマス・マン(魔の山)、サド(美徳の不幸)、スタンダール(赤と黒)、ゾラ(居酒屋・ナナ) 、ショーロフ(静かなドン)、椎名麟三(自由の彼方)、高橋和巳(邪宗門)、阿部公房(砂の女)、太宰治(斜陽)、稲垣足穂、井上光晴、井伏鱒二、遠藤周作、大江健三郎、織田作之助、開口健、梶井基次郎、川端康成、久坂葉子(幾度目かの最期、ドミノのお告げ)、坂口安吾、柴田翔、中上健次、深沢七郎、船戸与一、丸山健次、三島由紀夫、中原中也、立原道造、高橋新吉、宮沢賢治、吉本隆明、原民喜(夏の花)、萩原朔太郎、寺山修司、北園克衛、石川啄木・・・・
ほとんど覚えていない。残っているのは印象だけである。
子供の頃、出版社名は忘れたが「少年少女文学全集」があり、毎月本屋さんが配達してくれて、待ち遠しかったのを覚えている。有名どころのお話はすべて収まっていた。当然、これらの物語りもほとんど覚えていない。何か血になり肉になっただろうか?はなはだ怪しい。
ひとつだけ。キリスト者ではないのになぜか神のことが気にかかる。西欧の物語りの基底にあるからだろう。私はそうした西欧の物語りを好んで読んでいたのだったから。
この章に「なぜフリーターとなったか」と表題したが、その “ なぜ ” を探るための章にする気はない。なぜなのかはこうしてそのころのことを書き留めることで、なんとなく浮かび上がってくるものに違いなく、あれかこれかと結論することは、あれかこれかに限定することに他ならず、一切の思考の流動を止めることになる。よって、私は何一つ結論することなく、ただひたすらに書き留めることにする。
書くことの愉楽を存分に愉しみながら、痛みと救いの人生を見つめてみたい。そう思う。