人の暮らしとは、安定した収入があってこその穏やかさであり、冒険家の遺伝子的な因子が無いかぎり、心が安らかではいられないもの。前途に現れた霧の中へ身を棄てる覚悟をすることは恐怖に脚が竦むばかり。
私は今、気持ちが完全に堕ちてしまった。今まで経験したことのない厳しい時間を走り抜けて行かなければならなのかと思うと、心底から恐怖を感じる。
これが肉体的にも精神的にも柔軟な若さの中にいるならまだ救われるだろうが、経験という名の重く絡みつく鎖によって、精神を絡め取られてしまった前老期の私には、なす術がない。
すべてをチャラにすることが出来るというなら、もう一度 “ あの若さ ” を手にしたいと願うばかり。
この現実の存在として生きていかなければならない。どのような普遍からも、どのような定義からも漏れてしまうこの個という孤人の行方は、誰にも理解されることなどなく、ここに在るのだ。誰一人とも共有することの出来ない現実に飯を食う実存なのだ。針で指を刺せば痛むのはこの孤人でしかなく、海を前に死を決意しようとするのもこの孤人の在りようの断片的な思考なのだ。
人間世界は平等ではないのだということは、周知のことであり、神の前でのみ私は私以外の人間と同等なのだという認識にさえなれないで彷徨うしかなく、何に対してなのか分からぬまま手を合わせ祈りながら泣き崩れる孤人でしかない。生きることの幸も不幸も永遠への無意味な痛みとしか感じられない。
これほどに痛いのに、永遠にとってはどうでもいい瑣末ないたずらでしかない。それでもこの生を為さねばならない理由があるのだとしたら、それは何か。私にはその生きる理由が幸不幸の揺れ幅の範囲内に存在するとはとうてい思えない。
宇宙の永遠の深さに想いするとき、その余りに絶望的な時間と拡がりに驚嘆して、私はすべてが無意味だと感じてしまう。無意味だと感じてしまう孤人の感性の確かさの正当、不当の評価も為し得ないほどの “ 無 ” しかそこにはない。
絶望というに相応しい生を生きる理由がどこにあるというのだろうか。そう問いながらも私は生きることしか出来ないでいる。ただただ絶望しながら・・・。
ただただ絶望しながら、だって?それは本当か?!
そう問いかけてみるとき、絶望など知らないに違いないと薄々だが感じているはずで、言葉の上だけで私は“絶望しながら・・・”と書くに過ぎないはずだ。真の絶望は大いなる希望への道である。人生の雑事から自由になった状態を受け入れることが出来る土壌が絶望という意思する状態なのに違いない。