読書は子供の頃からの習いだとしても、帰京後三年間の読書は、自己の生き方が分からずに暗中模索の中で乱読したのに過ぎなかった。どう生きて行ったら良いのか分からなかった。これから先何をしたら良いのか分からなかった。その時から長い年月を経た今も分かってなどいない。当時、経済的な苦しさが根本にあった。妻子と共に食べていくだけなら充分でも、他のことを夢見ることなど出来なかった。せいぜい、年に一度旅行するのが家族の行事で、それは必ず国民宿舎へ泊まる旅であった。
読書と日記を書くこと、そしてジャズに浸りながら詩を書くことが私のしなければならないことであり、それが出来なければ生きていけなかったに違いなく、正気を保つことなど出来なかったに違いない。だが果たして本当にそれで正気を保っていたのだろうか。事実はそれを保てずに狂っていたのかも知れない。読書と書くことは私の狂気が凶器にならずに済んだという程度に意味で正気を保ったのだった。
誰かを刺すことも、火を放つことも無く済んだという程度の意味で正気は保ったが・・・。私の刃は自分自身へと向けられた。その帰京後の三年間の最期の年のことだ。私は躊躇うことなく私をトイレで切り裂いたのだったが、怖れをなした私は妻にすがり、妻に助けら、妻に負い目を感じ、その負い目は妻との距離を数年をかけて徐々に大きくした。やがて私は妻から離れていくことになる。まるで、妻との暮らしは人生のほんの一部でしかなかったとでも言うように。だが、私が唯一愛したのは紛れもなく、 “ あのひと ” であった。 “ あのひと ”への愛だけが、私の純粋さを記念するものだ。その後に私が途方も無く穢れたのは当然の成り行きに過ぎない。
当時、私が勤めていた職場は夫婦共稼ぎが当たり前で、二人で稼いで始めて恥ずかしくない暮らしが出来るという有様だった。実際、そこでは職場内結婚がとても多かった。とは言ってもほとんどが女性で占められている特殊な環境だから、男にとっては狙われたら最期なのだ。新しい男は必ずその職場の女性の誰かしらに巻き付かれ、呑み込まれてしまう運命にあった。男にとっては天国ではないかと言う人もいるが、それはそれは気を遣う毎日なのだ。誰とでも仲良くしなければならず、特定の人と仲良くなったりすると仕事でうまく行かなくなること必定。
私は妻子持ちだったから、さほどの誘いを受けた記憶は無いが、それでもその甘い罠に嵌ること数度。こちらの欲望を見抜いているにしても、妻子持ちでも構わないというあちらの欲望の方が得体が知れない。
郊外の住宅地での二部屋貸家暮らしは貧乏を絵に描いたような倹しさだ。六畳と四畳半それとキッチンがあり、風呂はタイル貼りで、釜が風呂場にある。都市ガスなどないから当然にプロパンガスだ。
妻は自分の物をほとんど買わなかった。私の酒とタバコと本の代金は可能な限り捻出された。私にはそれしか趣味は無かった。妻は一個一円にも満たない細々とした内職をし、趣味と言えば、小さな庭の草花の手入れと、庭に咲く花々を鉛筆でスケッチするのを唯一の楽しみにしていた。画法といえるかどうか分からないが、妻の描き方は細密画とでも言えるもので、細い線を用いて細部まで事細かに描くのだった。植物図鑑などに載っているあの類の絵に近かった。
彼女の性格と人間が表われていたのだろう。神経質で内省的な田舎娘であり、言葉は少なかった。愛という言葉を使うことを躊躇する人で、私を愛しているとは一度も言わなかった。彼女にとっては、私との暮らしは愛ゆえではなく、寂しさゆえだったのかも知れない。その妻と結局は別れることになったのだが、籍は未だに抜いていない。何度か離婚を言い出してはみたが、その都度拒否されて今に至っている。私はと言えば、面倒なのでそのまま放っている。現実の暮らしに何も支障がないからである。
日本という世間は建前と本音がどれほど乖離していようが気にしないのだ。建前さえ整っていれば誰も余計なことは言わない。建前がどれほど埃を被って暗い納屋の奥で眠っていようが、判別も出来ないほどに痛んでボロボロになっていようが一枚の紙切れとして存在する限り、その関係は存在するのだ。実際の現実がそこには無いにしても。
妻と私の間の関係は、今ではただの紙切れ一枚ほどの行文として行政府の中の資料室に記録されているに過ぎない。行政府はそれで満足している。私と妻の居所さえ分かれば良いのであり、税金を不足なく納めている限り何事も言い出しはしない。