静かに降りてみようと、ふと思った。
誰もが降りていけるその階段の入り口はいつでも開かれていると知っていた。会社帰りの街路樹の切れた辺り突然に明るくなる白壁と白壁の間や、深夜の自動販売機の陰、その暗闇の壁と壁の間に身を滑り込ませるとき、いまだ知らぬ精神の底へと降りて行けるエントランスがある。
夜であれ昼であれ、ぼくらは突然の発作を抑えることなど出来ないことを知るだろう。それは運命に似た不可避の間隙として口を開けて待ち構えている。
なるほど人生は虚しい。僅かであるかタップリであるかは知らぬが、いずれにしろせいぜいが100年を限度の生命活動の時間しか与えられていないという不条理とも思える認識の悲しさをどう克己できるというのか。
さて私は生きている。死を持って全霊を救済する他ないと知りながら生きている。そのことを思えば心が痛い。痛いのに知る他ないということ。