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やきもの雑記 - (2006/01/03 (火) 21:07:08) のソース
*やきもの雑記 : 宮島焼-神への感謝| 神砂焼(のすなやき)ともいう。厳島神社本殿床下の神砂をまぜた楽焼で、名古屋の不二見焼に似て黄色の肌をした茶碗や皿・土鍋などで、主として土産物とされた。 芸州(広島県西部)から旅立つ人びとが、道中安全を厳島神社に祈願して、境内の砂を神砂符(のすなまもり)とし、無事帰国すると、これに他国の砂を加えて“砂返し”をしたというならいに由来する名で、天明・寛政(一七八一~一八〇一)のころ、単なる砂返しのかわりに、土器にして供えたのが興りといわれる。 宮島に窯が築かれたわけではなく、砂は舟で江波皿山へ運ばれた。現在の広島市江波町の江波山東南麓に築かれた窯は、浅野藩の殖産万策の一つにほかならなかった。 宮島焼の最盛期は、天保年間(一八三〇~四四)で、京から陶工を招き、鳥居・橋・紅葉の絵柄をあしらった陶器は、神砂入りゆえに評判をあつめたが、長くはつづかなかった。 一方、江波皿山の窯では、江波焼といわれる磁器も焼かれていた。山水図、ぼかし染付、余白ある図柄が特徴の裏白皿だが、江波村の商人・冨士屋桂斎が、宮島焼も作ったため江波焼=宮島焼の称ともなった。 神砂焼といい、江波焼といい、工芸をめざしたものではなかったし、名ある陶工も知られていない。 (以上 集英社 日本の技8 山陽・四国 潮の技 S58.11 より引用) : 松本御用窯| 坂家が代々作った茶陶は武士階級が独占していた 李勺光の弟助八が初代坂高麗左衛門に任じられたのは、勺光が姿を消してから10年ほど後のことである。 その後、勺光の高弟たちは独立して長門市の深川三ノ瀬に窯を開く。定心坊もかつて住んでいた土地だ。三ノ瀬窯は初めから自由な制作「自分焼」が認められ自家営業を行った。 一方、高麗左衛門の松本窯は藩の御用窯であった。ここでは、毛利輝元が利休の弟子だったということもあり、茶陶を焼いていた。 文化・天保の頃には民間窯との区別が厳しく、松本窯の作品は武士階級の独占下にあったようだ。 : 萩の七化け| 瀬戸内から運ばれてくる土が萩独特のやわらかみを生む 萩焼の器は使っているうちに、その色合いが変化してゆく。「萩の七化け」といわれる理由である。 これは陶土に浸透性があって、焼き締まりが少ないためらしい。茶がわずかにしみこんでゆき、茶碗は時とともに異なった風情を醸し出す。 伝統的な萩焼の土は、わざわざ瀬戸内沿いの防府市近郊大道村から運ばれてくる。この辺りの地層は朝鮮半島につながっているのだという。大道土が使われ始めたのは、坂家三代目からのようだ。 手のひらに包み込むと、やわらかな土の感触がよみがえる器ができた。 : 菊造腰刀 刀身無銘 伝当麻| 腰刀とは、太刀に添えて差す短刀のことで、腰の帯に差して用いた。 これは鐔のない合口造と呼ばれるもの。柄と鞘は、金の鑢粉を蒔いた上に漆をかけて仕上げた金梨地で、柄には枝菊を高彫した筒金をはめる。鎌倉時代の腰刀が完存するのはきわめてまれである。 中身の短刀は無銘ながら、鎌倉末期の大和物の特徴を伝える冠落造の当麻派の名品。 毛利家に長く伝来したものである。 : 紺糸威鎧 兜、大袖付 一領| 平安時代の典型的な形式を示す鎧。胴正面の染韋に、菱襷に獅子の丸文、金物に菊形を用いている。威の糸など随所に補修のあとはあるものの、当初の面影をよくとどめている。社伝によれば、平清盛の長男重盛が奉納した鎧という。