「何があった」
小屋に足を踏み入れるや、リューはツカツカとうなだれている少年に近づいた。
「………何があった」
「――――――――――――」
少年は答えない。
その目には何も映っておらず、虚ろな視線は宙をさまよっている。
「何があったッ!!」
胸倉を引っ掴むも、反応はない。放心したままだ。
空洞どころではない。心と呼べるものは、少年から失われてしまっているのか。
「貴様―――」
「リュー、よせ」
喝を入れようと振り上げた手を、掴んで止める者がいた。
ヒロトである。
彼らは旅をして各地で生活する魔族の様子を見て回っているのだが、
リューの提案でこのアルラウネの森に立ち寄ったのだ。
アルラウネ一族はここ一帯の森を治める『主』である。
その土地に棲む魔族にいちいち会いにいくのでは千年かかってもまだ時間が足りない。
よって、その土地を治める主と面会するのが手っ取り早い方法なのだ。
ケダモノと同じように本能に生きる魔獣はともかく、悪魔や妖魔といった類の魔族たちには理性がある。
共に生きることができる世界の構築のため、
できるだけゴタゴタを起こさないようにと話し合って説得することもできる相手なのだ。
人間の側には大国に“選定”された勇者ヒロトが、
魔族側には全ての魔と闇の頂点に立つ魔王リューが説得にあたるため、理解を得るのは難しくなかった。
彼らの旅は割と順調だった―――の、だが。
アルラウネの森は、その気配が異常だった。
野生動物は落ち着きを無くし、木々にも覇気がない。
村人の中には森に入っての仕事中動物に襲われた者もいるという。
執拗に攻撃されたらしく、こんなことは一度もなかったと仕事場の親方らしい老人はしきりに頭を振っていた。
縄張りを侵せば、そりゃあ襲われても文句は言えないが、無論そんなことはないし、つい今の今まで普通だったのに、と―――。
リューはそれを聞くや否や、アルラウネの森に向かって一直線に走っていった。
長年森を治めていたアルラウネ一族は森の番人といってもいい。
森が無法に侵されたのなら、そこには必ずアルラウネの異常があるはずなのだ。
手短に事情を説明し、リューの後を追うヒロトが見たものは、
広がる、蒼い血溜まりだった。
それをしばらく睨みつけていたリューだったが、引き摺った後を見つけると、血が続く小屋の扉を蹴破ったのでる。
リューの手を放すと、ヒロトは血で蒼くそまった指先を見せた。
どうやら血の跡を調べていたらしい。
「まだ血が固まりきってない。下手人はまだ遠くに行っていないはずだ」
スラリと剣を抜き払い、
「見て回ってくる」
その眼光は鋭い。
いつもリューとだべっていたり、やれやれと呆れながらも優しく笑っているヒロトが滅多に見せない
――見せなくなった、『戦うもの』としての貌である。
ここで一戦交えるつもりなのだろう。ヒロトは相手を殺しはしないだろうが、
かといって森に混乱を、いや危機をもたらした者を放っておくことはできない。
「……さて、我は我でやることがある、か」
リューはヒロトを視線だけで見送ると、ひょいと首を戻した。
今の森の様子から見て、そしてあの出血量から見てまだ生きている可能性は低い。
が、まだ時間がそれほど経過していないのなら……もしかすると、できることがあるかも知れないのだ。
「できること、か」
リューは自分の考え強張った笑みを浮かべた。
アルラウネはどこにいるのか、と奥へさらに踏み入ろうとしたところで、
「――――――――――――ッ!!!!」
斧が、リューに向かって振り下ろされる。
だがそれはリューに届かない。彼女を包む魔法障壁が斧の無骨な刃を受け止め、弾いた。
「……ほう、ようやく目が覚めたか?」
少年は血が滴るほどに斧の柄を握り締め、息を荒くしてリューを睨みあげる。
その顔は真っ青。汗は額どころか首筋までぐっしょりと濡らし、
考えて動いているというよりは身体が無理矢理使命を果たそうとしているようだ。
「オォ…ァあぁあああああああぁああぁあああああああ!!!!!!!」
少年は次々と斧を叩きつけるも、リューの魔法障壁に阻まれて全く効果はない。
当たり前の話だ。
リューは生まれながらにして全ての魔族を超越する『魔王』。
対する少年は簡単な魔法も使えないただの人間である。
斧というなら、サイクロプスの大戦斧でさえリューの前には銀杏の葉程度の脅威でしかない程だから。
それでも、少年は止まらない。止まれない。
リューは知らない。
何故少年がこんなに必死に、命を削るようにリューを打ち続けるのかを。
その壊れた心の意味を、それでも流れる涙の意味を。
知らない。知らなかった―――だろう。かつては。
だが、今は察することができる。
この者は、護れなかったのだ。
無論、敵は太刀打ちできる相手ではなかったのだろう。しかし、そんなことは関係ない。
護りたくて、護ろうとして。でも護れなかったから、今、こうして戦っている。
それは、自分の命よりも、ずっとずっと。
遥かに大切な、愛するひとを。
これ以上、誰にも辱められないように。
絶対に、その先には、行かせない―――!!!!
「………………敬意を払おう、若者よ」
リューは、何を思ったか魔法障壁を解除した。
少年の斧はリューの目の前を紙一重でかすめ、勢い余って床に叩きつけられる。
よほど力んでいたのだろう、少年も斧と一緒にひっくり返ってしまう。
「く、ぁ、ぁあうううぅぐ………!!」
深く食い込んだ斧を抜こうともがくが、そう簡単にはいかない。
そこに、斧の刃で断ち切られたリューの髪がはらはらと落ちた。
「………ふ、ぁ、うう………!!」
少年がキッと顔をあげる――その頭を、包み込むようにして掴んだ。
「我が名はリュリルライア・トエルゥル・ネオジャンル」
高く、高く。凛と澄んだ声で。
「貴殿が想い人の命、この手に預かる。魔王の名に懸けて、必ずや―――救ってみせよう」
リューは生まれて初めて、誰かを『助ける』と言ったのである。
「結構足が速いんだな。割と遠くまで来たもんだ」
「森の中を進むなんて趣味じゃないんですけどね。
魔獣の情報をくれたあの村の神官さんが、出て行くときは大回りして欲しい、なんて言うものですから」
ほとんど小走りになって追跡し、焚き火の前で切り株に座ってパンを齧っている青年を見つけたのだった。
広大な森で青年の跡を追えたのは奇跡にも等しいが、決して偶然ではない。
柔らかい森の土に刻まれた足跡、折れた枝葉、落ち葉、
木に掠めた剣の傷跡、背の高い草を払った跡、そして何より、濃い血の臭い。
それら全てが青年の残した道となってヒロトを導いたのである。
もちろん、それらは人間の五感では到底見つけられない、感じ取れないものだ。
しかし集中したヒロトの嗅覚は犬と同じにまで高められ、耳は地を這う虫の足音さえ聞き分ける。
そもそも夜の森なので辺りは闇に包まれているが、彼は微かな月や星の光ではっきりとものを見ることができた。
長い旅のさなか身についた、超人的な感応能力である。
それは、どんなに鍛え上げようが人間では遥かに辿りつけないものだが―――それを気に掛けるものはこの場にはいなかった。
「ところで、こんな僻地にまで僕を追いかけてきた君は誰です?
どこかで見た覚えはあるのですが……人間の知り合いは少ないんですけどね、僕」
「アルラウネを斬ったろう。何故そんなことをした」
爽やかに笑う青年を無視して、ヒロトはちゃき、と剣を突きつけた。
青年の顔色が変わる。
意外そうに、心底不思議そうに。
「何故って……あれは人間を脅かす魔獣ですよ?野放しにしておくほうがおかしい。
……ははぁ。君もアレを狩りに来たという訳ですか。獲物を横取りされて怒っている、と」
「お前がアルラウネに手を掛けたことで森の主が失われ、混乱を招いている。
お前がしたことはいたずらに秩序を乱しただけだ!」
「秩序………?」
青年は目を丸くすると、
「ぷ、くく、く、ふはっ!あはははははははははははははははははははははははははははははは!!
ち、秩序!あの魔獣が?あははははははははは!!あはは、はは、く、苦しい」
弾けるように嗤い出したのだ。
「……何を嗤う」
「ふっ、ふふ……はは、あ、あのですね。魔と闇から生まれるものは混沌なんですよ。闇の化身たる魔族は混沌、秩序とは真逆の存在ですよ。
神は光を以ってこれを滅し、人々に秩序と安寧をもたらす……教わらなかったんですか?」
「あいにく、俺は神聖教会の徒じゃないんでね」
「んー、僕も正確にはそうなんですけどねぇ。なにせ、神官経由じゃなくって直接教わってた身ですし」
青年が口にしたのはこの世界で最高位の歴史と勢力と権力を持つ宗教の教えであった。
信仰している者もそうでない者も、もはや常識として刷り込まれている魔族=悪、神族=善という図式を描いた張本人である。
もっとも、神聖教会はかつて魔王がこの世界を征服しようとしていた時代、
人間を救うべく立ち上がった神と彼らに仕えた騎士を崇める者たちから端を発した信仰であり、
先の図式もその時代に唱えられたものであるため、
民衆の理解を得るためにもっとも単純な、わかりやすい形で広まったものと容易に想像がつくのだが。
ある意味、魔族と人間の共生を目指すヒロトたちの最大の敵といえるかも知れない。
………その、化身みたいなヤツだな。
直接教わった、という言葉に若干の違和感を覚えながらも、ヒロトは剣を握る手を緩めない。
「それが正しいか間違いなのか、そんなことはどうでもいい。
だがはっきりしているのは、お前がやったことは間違いだということだ。
村の人の中には仕事中に野生動物に襲われて怪我をした人もいる。
お前には村の人たちに………あの少年に、アルラウネに。土下座して謝ってもらうからな」
青年は……あくまで笑みを絶やさない。
そのしなやかな指が、スッと空を指した。
「夜の空に月があるのは、何故だと思います?」
………何を言っているんだコイツは。
「星があるのは、何故だと思います?それはね、夜を照らすためですよ。
暗闇を排除するために、人々を安心させるために、夜の月は明るく光っているんです。
………僕はね、そうありたいんですよ。誰かが闇に囚われているなら、その誰かが安心できるように照らしてあげたい。
それは所詮、神の後光を借りた虚構でしかないのかも知れない。でも、それでもいいんです。誰かが、それで助かるんだから」
「…………お前」
「現に、僕は今日、一人の人間を助けました。胃が痛そうでしたからね、あの神官さんは」
「……お前、」
「今度は村の人が困っているんですか。だったら、それも僕が助けますよ。簡単なことです。
ええと、野生動物に襲われたんでしたっけ。
ああ、だったら、この森で人間を襲う凶暴な動物を全て斬ればいいんですよね」
「お前、それ以上、喋るな」
「嫌だなぁ、もう剣は収めてくださいよ。僕なら連行じみた真似されなくても自分の足で村まで行きますって」
ヒロトの剣が、青年に襲い掛かった。
巨岩さえ断ち切る豪剣が森の地面を抉り、火薬が炸裂したかのような轟音と共に粉塵が舞い上がった。
普段比較的温厚な彼からは考えられない、怒りに満ち満ちた斬撃。
怒髪天を突くほどに、
ヒロトは、怒っていた。
『我にはできぬ。こんな美味い料理はおろか、人を喜ばせるような事など何も知らぬ。
我は魔王。全ての魔の頂点にあり、常闇の災いを司るモノ……』
『……………』
『我は、おまえといると楽しい。我にも、いつか破壊以外のなにかができる気がしてくるからな。
勇者とは我とは反対に、光で心を照らすものなのだな』
いつかした何気ない会話を思い出す。
そうそう、あの時は励まされて、おまけに「お前といると楽しい」なんて言われて、
嬉しくてつい魔力が暴走して大爆発が起きたんだっけ。
その後しこたま怒られたけど、そんな記憶もこうしてリューの心を暖めてくれる。
そう、ヒロトはまるで、太陽のようだ。
リューを暖かく照らしてくれる、輝く陽光。
『いつかと言わず今やれ今』
ああ、そうとも。だから、それが『今』なのだ。
案内された寝室で、アルラウネを看る。
ひどい有様だった。
まず、腰から肩にかけての深い傷である。
あまりに深い傷なのでほとんど身体がふたつに分かれている程だ。そこから、中身がごっそりと零れ落ちてしまっている。
これだけでも十二分に致命傷、それも即死級の傷なのに、さらに生命の中心、心臓を串刺しにされている。
目の前で愛するものをこんなに凄惨な形で手に掛けられたのだ。ソーマと名乗ったあの少年が正気でなくなっていたのも頷ける。
問題は、大きく二つ。
ひとつ、リューは回復魔法を使えないということだ。
稲妻を発生させたり、大気を氷結させたり。もっとも得意とするのは、火焔を熾して全てを焼き尽くすこと。
ようするにリューが得意とする魔法は“破壊”に大きく偏っているのである。
もともと他人と関わらず生活してきたので、何かを直したり癒したりすることは大の苦手なのだ。
性格的にも割とヤッツケ主義の大雑把な性分なので、そういう傾向にあるのだろう。
だが多岐に渡る魔法の種類であるが、回復魔法ほど精密な魔力の使用を求められるものはない。
一歩間違えれば体内に染み込んだ魔力はその者の肉体を逆に破壊してしまうことになる。
命というものは、かくも揺らめくヤジロベエなのか、というほどに、至極簡単に患者を死に追いやってしまうのだ。
それが他者の魔力ならなおさらである。
そもそも己以外の魔力は肉体が受け付けないもの。水と油のように交わらない異物として排除しようとし、アレルギーを起こす。
酷いときにはそのまま死んでしまうこともあるほどだ。
魔力を以って他者に干渉し、害をもたらす。これは“呪い”という最古の魔法のひとつである。
回復魔法を呪いとしない為には、患者の魔力感知能力を麻痺させ、さらに肉体に気付かれないように治療しなければならない。
それには薄氷の湖を走り抜けるような、あるいは眠る龍の鱗を千切って持ち去るような技術と知識が必須となるのである。
それはいい。
リューは氷が割れようがお構いなしに向こう岸まで湖を踏みしめて走りきる自信があったし、
龍の鱗が欲しいなら叩き起こして真正面からねじ伏せて、鳥肌が見えるまでその巨体を蹂躙してやるまでである。
どんなに難しい魔法であろうと、最高位の魔力量を持つリューに扱えない魔法など存在しない。
なんなら召喚魔法で魔王城から魔道書を持ち出し、それを参考書に術式を行ってもいい。
そう、ただ、もうひとつの問題は。
すでにアルラウネ・ククは、回復魔法がどうのこうのという状態ではなかったということ。
この若い花妖姫は、すでに。
その命の花を、散らしていたのだから。
「覇ぁぁァアアアアッッッ!!!!!」
踏み込んだ軸足は大地を砕き、全身は竜巻を起こすように捻りから開放され、
固く束ねられた筋肉が隆起し、鋼の剣が天をも斬り裂く勢いで振るわれる。
その一閃の前には一切の例外なく全てが乖離し、粉々に砕かれるだろう。
魔王の魔法障壁―――世界最強の“盾”さえ打ち破った世界最強の“剣”には、驚くことに欠片の魔力も込められていない。
純粋な力のみの破壊。ヒロトが鍛え上げた無色の刃である。
それを、青年は神業のような体技で躱していく。
紙一重でいて、そのなんと遠いことか。こんな相手とは、ヒロトは終ぞ刃を交えたことがなかった。
まるで実体を持たない流水のようにこちらの攻撃からするするとすり抜け、連撃と連撃の隙間を縫って突風のように接近し、
弾けた火の粉のように軽い一撃を放ってまた流水に戻る。
だが、砂飛礫のような攻撃も積もり積もれば泰山となろう。青年は、そういう戦いを組んでいた。
せめてもっと“溜め”の効いた攻撃ならあえて受け、そこにできた間隙に必殺の一撃を放てるものを。
ヒロトはぎり、と奥歯をかみ締めた。
長期戦は別に苦にはならない。それが証拠に、彼はかつて一昼夜かけて千人もの敵と戦い、全て倒したという経験を持っていた。
……しかし、捉まらない相手はヒロトの苦手とするところである。
つぅっと額から血が一筋流れ出すが、気にもかけない。裂傷にまみれた戦いは慣れたもの。
それに、今のヒロトは放っておいても瞬時に傷口が塞がってしまうのだから。
さて、青年の方はというと。
(………なるほど、面白い魔法を使うものだ)
ぶつぶつと、口に中だけで不思議なことを呟いている。
ヒロトは魔法を使えない。それは周知の事実であった。
魔法が使えないからこそ、彼は剣を鍛え、ここまで剣一本で戦ってきたのだ。
しかしそれは半分正解であり、そして半分間違っていた。
魔法は、その七割が才能だといわれている。
生まれながらにしてその才があるか、ないか。これは魔法を扱う上でもっとも重要なウェイトを占めているのだ。
まず、魔力量。
多ければ多いほど高度な魔法を使うことができ、またその効果も絶大なものになる。
レベルの高い魔法はそれだけ多くの魔力を消費するためだ。
ほとんどの人間はこの魔力量があまりにも少ない。
簡単な魔法もいたずらに使おうとすれば、足りない魔力を生命力から差っ引かれてあっという間にミイラとなるだろう。
だから、王族や魔法使いの一族は優秀な魔力を求め、家柄を第一に婚姻を進めようとするのだ。
そして、もうひとつ。魔力の放出量である。
魔法とはつまり、自分の魔力を使って奇跡を行使する術のことだ。
たとえば貯水タンクにある蛇口を捻ってコップに注ぎ、喉を潤すというように。
このタンクは、水を使ってもしばらくすれば雨が溜まってまた満杯にすることができる。
このたとえで言うなら、先の魔力量の才能はタンクの大きさだ。
タンクが大きければ、喉を潤す程度の水ではない、畑に撒いて野菜だって作れる水量を使うこともできるという訳だ。
そして、この蛇口の大きさが魔力の最大放出量である。
いくら大きなタンクを持とうと、か細い蛇口では大量の水を一度に使うことはできないのだ。
コップで水を撒いてもすぐに乾いてしまい、瑞々しい野菜は育つまい。
大きな蛇口を持ってさえいれば、
栓の開け閉めの加減を覚えることで少ない水量も沢山の水量も使い分けることができるというわけである。
ちなみに魔の頂点、『魔王』リューが持つ魔力量と最大放出量はもう貯水タンクだとか、そういうレベルでは遥かに語れない領域にある。
プール……貯水池………ダム。いや――大海。
放出量は、かつて世界を押し流したと云われる終末の洪水。
リューは今、それを一滴一滴、
鍾乳洞を作るかのような精密さでコントロールしているのだが―――それは、彼らが知らない静かな戦いである。
通常はこのタンクと蛇口はそれぞれに相応しい規模のものだが、稀にバラバラな者がいるらしい。
コップ一杯のタンクしか持っていないのに、底を抜くように一気に全ての魔力を使い切ってしまう者。
こういった者は、枯れるのも早いが回復するのもまた早かったりする。
大きなタンクを持ちながら、か細い蛇口しか持たない者。
彼らは大きな術は使えないものの、長く休みなしで魔法を使い続けることができる呪術師に向いたタイプである。
そして、ヒロトは―――おそらく巨大なタンクを持ち、なおかつ……蛇口を持たなかったのだろう。
いくら魔力を持とうとも、それを放てないものには魔法は使えない。
ただ体内に蓄積され、それっきり。
使い道のない魔力を抱えたまま、その者は生涯普通の人間として生き続けるだろう。
だが、ヒロトは違う。
ヒロトは魔力を放出せずに体内のみで魔力を使う術を編み出したのだ。
一心に磨き続けた剣の果てに得た絶技か、はたまた天武の才か。
骨格に、筋肉に、神経に。身体に流れる血潮の微細な粒にさえ魔力を通わせ、ヒロトは超人的な身体能力を発揮する。
それが、鋼鉄以上の強度を持つドラゴンの鱗さえ力押しで貫く豪剣の正体だった。
(一撃でも受けたら即死だなぁ……あれは)
だから、青年もまた攻めあぐねているのだ。
一撃でも受ければ、反撃できる。受け流し、勢いを殺せず泳いだ身体を返しの刃で斬り付ければいい。
ヒロトの身体は強化されていて相当に頑丈だろうが、
それでも眼球や後頭部など少しでも削れれば致命的となる急所に叩き込めば、こちらの勝利はもらったも同然。
(…………いやいや、無理無理)
けれど、それは『受ける』という前提が間違っていた。
柔よく剛を制すという言葉があるが、それには続きがあるのを知るものは少ない。
曰く、『剛よく柔を断つ』。
絶大な力は防ぐことも流すこともできないのである。
正直言って、青年の師の中にもここまでの豪剣使いはいないだろう。
いくら多くの師を持ち、あらゆる戦いに臨機応変に対応できる青年の剣も、
『触れるだけで死ぬ』相手に活路を見出すのは至難の業だ。
お互いがお互いに苦戦する中で―――――しかし、青年だけは笑顔を崩さない。
いや、それどころか。
百年の仲となろう友人に、やっと出会うことができたように。
きゅうっ、と。
ますます、笑みを深めるのだった。
夜明の抱擁~新ジャンル『月』英雄伝~[前編] 完
最終更新:2007年07月27日 01:25