川沿いに歩いていけば街に出る……そう、確かにそれは正しい情報なのだろう。
なるほど、水は高いところから低いところに落ちる。それなら、下っていったところにその水の溜まり場があるの道理だ。
そして、そこに人が集まることも。人が集まれば、街ができることも。
人が集まれば、それだけ情報が手に入る。その中にはもしかしたら、あの人に至る手がかりがあるかも知れない―――。
だが。
「三日歩きとおしてまだ谷の真ん中なんて聞いていませんわ………!!」
翼と稲妻の国ヴェラシーラから来た姫君、ローラ・レクス・ヴェラシーラは断崖にへばりつくようにして叫んだ。
その声はこだまし、何処かへと去っていく。
ここは谷の底、川岸―――というよりは、水流によって削られた岩の壁際である。
思えば三日前、左右に分かれた道を右に進んだのが間違いだったのか。
その道は洞窟に通じており、一日目はその洞窟の迷宮を登ったり下ったり、襲い掛かってきた巨大ミミズを感電させたり。
で、
やっと抜けたと思ったら谷の底にいたのだ。
そこまではまだよかった。
まだ『河原』と呼べるものがあったから。
普通河というものは下れば下るほど川幅が広くなっていくのだが、この谷川はそれに比例して河原が険しくなっていった。
なんというか、
今では、
つま先ほどの足場の下に、
ごうごうと音をたてて、
濁流が流れていっている。
「ローラ様、ご無事ですか……?」
先を行く爺が振り返りもせず、というか振り返る余裕もなく話しかける。
確かに今頭を動かしてバランスを変えようものなら、足を踏み外して一気に湖まで辿りつけるだろう。
「誰に向かって言っているのです……!私、ヒロト様に一目お会いするまでは決して!決して死ねませんわウフフフ………!!」
「おお、なんと頼もしいお言葉……爺は感激で前が見えませぬ………!」
「爺ーッッ!!前見てーーッ!!ちゃんと前見てーーーーッッッ!!!!」
思うに、ここにはちゃんとした道があったのではあるまいか。
時折広くなったりもする足場には、よく見れば模様のようなものも見て取れる。
となれば、昔大雨が降って舗装されていた川岸が根こそぎもぎ取られたとか。
………ローラは切に、切に雨が降らないことを願った。
今水かさが増えれば、少しでもここが崩れれば間違いなく湖まで一気に下降できるだろう。
その運賃は高すぎるほどに高いが。
いや、雨だけではない。
ここは渓谷の底だ。
上で岩でも崩れて足場に直撃、なんてことも充分考えられる。落石注意、なんて看板があっても所詮は運任せなのだ。
「ある程度なら私の“稲妻”で回避できるでしょうが……」
そう、何も相手を痺れさせるだけが彼女ではない。
強力な磁場を発生させて金属や鉱物を誘導することもできるのだ。
ただし彼女の術は見境がないので、そうなった場合彼女は晴れて独り旅になるだろうが。
「っていうか、足が吊りそうですわ……!!」
「ローラ姫、爺は若い頃東方の暗殺集団『シノビ』に憧れていましてな!」
「いやぁ、爺が疲労のあまり現実逃避を!!」
「彼らは壁を垂直に走りきるといいますぞ!今こそ挑戦のときかも知れませんな!
人間は追い詰められた時普段以上の力を発揮すると言います故!!」
「窮鼠は猫を噛めても次の瞬間怒り狂った猫に食い殺されますわよ爺!!」
色々と限界のようだった。
…………………………運の悪い時というのは重なるものである。
『何故』かは、彼女たちは知らない。
物事には万事しかるべき理由があるのかも知れないが、それを知ることができるものは余りに少ない。
そもそも、何が原因なのか。どこからが『因果の原』といえるのか。
すべての事象は波紋となって広がってゆく。
それはさながら雨降りしきる中の水面のように。
雨粒は波紋を起こし、広がっていく。
無数に、無数に。
それは不運だが、彼女らにとってこの上ない幸運とも言える。
事実は確かにひとつかも知れない。
だが真実とは、必ずしもひとつとは限らないのだ。
『風が吹けば桶屋が儲かる』。
それが、その魔法―――いや、技術の原則であった。
それ自体には、それこそ煉瓦の連結をひとつだけ解く位しか力はない。
しかし吹いた風は砂を巻き起こし、人の目を失明させる。光を失った者にできることは限られている。
―――解かれた連結は隣り合う、重なり合う欠片に伝わり。
数少ない職のうちもっともポピュラーなのは、琵琶法師である。琵琶屋が儲かる。しかし困った。そうなると琵琶の数が足りない。
―――橋の一部がまず、崩れていく。だが、一部だけ。一部だけだ。
かわいそうだが琵琶の革地のため、猫を絞めなくては。猫を殺してしまうと、鼠を狩るモノたちがいなくなる。
―――それでも、重心が変わる。もともと橋というものはヤジロベエのようにバランスをとって形が保たれているのだ。大風が吹けば揺れるもの。
鼠はところかまわず齧っては穴を開ける害獣。当然、桶なんかも齧られる。穴の開いた桶が、何の役に立つものか。新しいのを買いに行かなくては。
―――しかし、今回は崩れた場所が悪かった。橋全体が軋みをあげる。そして、とうとう。
………………桶屋が儲かる。
――――――橋が崩れる。
実行された勅令は『この橋、渡るべからず』。
それが手違いから橋に刻まれた術であった。
それは、鳥が風を読むが如く力の流れを知り、その方向性を利用するもの。
ただきっかけを作るしかできない、既に廃れた秘伝のひとつである。
しかし儲かった桶屋はまた新しい風となる。
なんと桶屋が儲かったことにより遥か遠く離れた大陸で竜巻による被害が出るのだ。
……それもまた、因果の連鎖である。
「って、爺!上から何か降ってきますわ!!」
「………ッ!!ローラ様、剣を!」
何を言わんとしているのか、理解するのに刹那もかからなかった。
ローラは壁から手を離して抜刀すると、目にも留まらぬ早業でそれを目の前の岸壁に突き立てる。
あまりのスピードなので足を踏み外すことさえない。
剣の柄に捕まってその『何か』をやり過ごす―――岩?いや、破片だ。
上を見る余裕がなかったので気が付かなかったが、この渓谷に橋でも架かっていたのだろう。
それが崩れてきたようだった。
「何も私たちが下にいる時に崩れなくても………!」
磁気で結界を張ることも考えたが、独り旅は嫌だ。それにある程度の破片は弾けても、大きなものはどうしようもない。
結局、天に運を任せるしかないようだ。
「………………………!!」
波立つ大河。
その波に浚われぬよう、剣を握り締めて必死に耐える。
まったく、不運にも程があろう。
ここまで苦労するのだから、せめて次の街では探し人の情報のシッポでも見つからないと割りに合わない。
なんてことを考えているうちに、なんとかやり過ごせたようだった。
緊急のため仕方がなかったが、この足場で深く刺さった剣を抜くのはかなり危険な作業になるだろうことは明白だ。
………やれやれ。
見ると、河も深いが橋も相当大きかったのだろう。破片が河から頭を覗かせていた。
「せめて木造だったら、流れに乗って河下まで行けそうなものですが……」
「おお、ローラ様。少し進んだところに破片が刺さっていますぞ。あそこで休憩できそうですな」
………というより、そこまで進んでいたらと思うとゾッとするのだが。
はぁ。
ローラはため息をついて、何気なく上を見上げた。
そして、
目を剥いた。
「人が………!?」
降ってきたのである。
たまたま橋を渡っていた者なのだろう。
荷馬車は降ってこなかったからただの旅人だろうが―――この高さでは助かるまい。
バタバタとマントをはためかせ、まっさかさまに落下するその彼と目が合ったのはほんの一瞬にも満たなかっただろう。
だが。
彼女には。
それで、充分だった。
「ヒロト様………!!」
そう、空から降ってきたその旅人こそローラが探してやまなかった幼馴染みにして心を寄せるその相手、勇者ヒガシ・ヒロトその人なのである。
―――――――――――――――ごき。
再会の言葉を掛ける間もなく。
ヒロトは河から顔を覗かせていた破片に直撃し、大きくバウンドしたかと思うと、河に落ちていった。
そして沈んでいく。
「………………………………………………………………………………………………………………………」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………」
脂肪は水に浮くが、筋肉は浮かないのだという。
細身ながらも鍛え上げられたヒロトの肉体は岩のように沈みやすいに違いない。
加えてこの流れだ。運が良ければ湖で再会できるだろう。
随分、顔色は変わっているだろうが。
「ヒロト様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!!!!」
「ローラ様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああ!!!!!」
迷わず飛び込もうとするローラを、驚異的な瞬発力で飛び出した爺が捕まえる。
寸でのところでローラの剣を掴み、犠牲者三人とならずに済んだ。
「放しなさいッ!爺ッッッ!!!!」
「決して!決して放しませんぞローラ様!!放して欲しくばこの老骨を丸焼きにして逝きなされ!!」
「だってヒロト様が!ヒロト様がぁ!!!!」
「アレはヒロト様ではないかも知れませぬ!よしんばヒロト様だったとして、いくらあの方でもああも見事にバウンドされては助かりませ」
「ヒロト様はこれしきのことで死にませんわ!!万が一のときは、私跡を追います!!」
「ローラ様!!」
じたばたもがく二人。
しかし考えてみれば、一人でもう一人を抱え、
そしてその一人は完全に足場から離れてしまっているという時点でチェックメイトな気もしないでもない。
この体勢ではどう身体を捻っても、足場で体勢を整える手段はないのだから。
そして余計まずいことに、二人分の重量を剣が、いや壁が支えきれていない。
ずりずりと滑るようにして、その刃は段々と、しかし確実に抜け始め―――
そして、
姫君と爺は宙を舞った。
犠牲者三人。
大橋崩壊の記事にはそう書かれるのか。
符術によって引き抜かれたたったひとつの欠片は、勇者や一国の王女を含む三人もの命を奪うのか。
そう思われた瞬間―――――――――
河が。
「……我としたことが。た、たかが手を握るだけで………ぶつぶつ」
消滅した。
いや、消滅したのではない。
水の奔流が裂け、そこだけ流れるのを避けているのだ。
川底であった地面に落っこちたローラには何が起きているのかわからない。
無数の光の輪を従えて舞い降りたその少女が何者なのか―――いや『何』なのか、知る由もない。
そして、そんなことはどうでもいい。
今最も優先すべきものは―――たった一つ。
「「ヒロト!」様!」
叫んだのはローラだけではなかった。
謎の少女もまた、同じ名を叫んでいたのである。
「「え――――――?」」
「痛たたたた……おい、リュー!何してくれるんだよおま………え……」
ヒロトが恐るべき頑丈さで立ち上がる。
多少ふらついているが、それでも常人なら三、四度転生して余りある衝撃だったろう。
この男を物理的攻撃で殺せるのかどうか、はなはだ疑問である。
ヒロトは頭を抑えて、ただ一人を見つめていた。
すなわち、目の前に立ち尽くす金糸の幼馴染みを。
「ローラ……?」
名を、呼ばれる。
ああ。
この瞬間を、何度。
何度、夢見たことだろう。
もう一度、その声に。
自分の名前を呼んで欲しいと。
何度、願ったことだろう。
瞬間、世界が白に染まる。
露出した川底も割れた濁流も謎の少女も爺も空も雲も世界も、すべて消滅した。
ただ一人、ヒロトだけが変わらずにローラを見つめてきてくれている。
駄目だ。全身が、甘く痺れてしまった。
会えない時間が愛を育てると詩人は歌った。
なら天を衝くほどに育ったこの想いは、いったい何を望むのでしょう。
考えなくてもいい。今は唯、抱擁を。
ローラはヒロトに駆け寄り抱きつくと、思い切りその胸に頬ずりした。
「ヒロト様………!!」
「ローラ、やっぱり、ローラ……なのか」
「はい、はい……!!」
ヒロトはしばらく両手を彷徨わせていたが、やがて片手を背に、もう片手で頭をポンと優しく撫でた。
「久しぶり、ローラ」
「お久しゅう御座います、ヒロト様………!!」
いつか、世界を救えたら。
そう指を交わして再会を誓った二人。
しかし、その約束は余りに遠く。
姫君はついに自ら塔を飛び出し、勇者を求める。
波に浚われたひとつの貝殻を探すような彼女の旅は。
ここに、その目的を果たしたのであった。
「よかったですな、ローラ様」
降りてきた爺が目を細める。
歳相応に笑う主人と、未だ状況が掴めないながらも、再会を喜ぶ青年に。
だが。
なんの呪文の詠唱もなく、おそらくは魔法とさえ呼べない魔力の放出だけで河を割ってのけたあの少女は
―――一体、どんな貌をしているのか。
彼のいる位置からでは、それは見ることができなかった。
「――――――なんだ、あの女は」
呟く言葉は千年もの間波ひとつ立たぬ沼より昏く。
双眸は血に濡れたルビーの様に紅く。
闇に棲む者統べての王は、ここに。
―――――――――闇の暗さの種を得る。
風が吹けば、巡り合い~新ジャンル『空から降ってくる』英雄伝~ 完
最終更新:2007年09月15日 16:26