古びたラケットの掠れたゴム面から、黄色い弾丸が放たれた。
しゅるしゅると回転しながら台の上を飛ぶそれは羽のように軽く、
また矢のような速さを以って敵陣に堕ちた。
弾ける。
それはさながら炎の中から飛び出した火花。
高速を凌駕する神速に、―――しかし少女の碧眼はそれを完璧に掴んでいた。
めき、と。
玉のカタチが楕円に変わる。
ラケットの真芯で捕らえたのだ。
そこから放たれるスマッシュは稲妻と呼んで差し支えあるまい。
金糸の髪が踊り、大振りに振りかぶられた腕に筋肉が隆起する。
一閃。
金色の少女が放った会心のショットは紅の少女の台に突き刺さり、
そしてまた金色の少女のコートに跳ね返っていた。
「―――え!?」
ローラが身体も返せずに声をあげる。
信じられない、あれを返されるとは―――。
「リュリルライア様10-8ローちゃん」
浴衣のリオルがカウントする。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいまし!」
ローラは慌てて抗議した。
当然だ。あれはローラの持てる中でもベストに近いスマッシュだった。
だが、ピンポン玉は真実ローラの後ろに転がっている。
「んー、あたしもよく見えなかったんだけど実際玉は跳ね返ってるわけだしなぁ」
「そうとも、往生際が悪いぞローラ」
リューが着崩れた浴衣を直し、ニヤリ笑ってしゅるるとガンマンのようにラケットを回して見せた。
ローラは歯噛みするも、納得がいかない。
リューに10点取られた?
この魔法以外はまるで能のないへっぽこ魔王であるリューに?
そもそもこの試合、途中まではローラが8点先制していたのである。
が、そのあと何故かリューがフィーバーモードに突入したのだ。
どこに撃っても返される、技能はないローラが、
それでも状況を打破するためにかけたスピンも返される。
そんな悪夢に、敗北という終止符まであと一点。
このラリーの中で解決の糸口を見つけなければ、ローラに勝ちはないのだ。
(とりあえず、スマッシュは控えて相手のミスを誘うのが得策か―――)
リューからは決して攻めてこない、ローラの放ったショットを
そのまま返す鏡のような戦法にはこのスタイルが一番有効と思われた。
(……ん?鏡?)
どこかひっかかるものもありながら、ローラはリューのサーブを待つ。
弱々しいサーブはローラよりも初心者丸出しだ。
このままスマッシュを打ってしまいたいくらいである。
だが、それではまた返されるかもしれないし―――。
「……なにやってんだ、お前ら」
だからだろうか、その声にビクッと反応して、つい手元が狂った。
「あ!」
ピンポン玉は大きく弧を描いてリューの後ろに飛んでいく。
これで11-8、リューの勝利なわけだ。
「……なにやってるって、卓球だ。見てわからんか?」
リューが肩をすくめた。
その先には浴衣に風呂桶を持ったヒロトと、同じ格好でコーヒー牛乳のビンを傾けているジョンがいる。
さっきまで温泉に入っていたためだろう、その身体からはまだほこほこと湯気が立ち上っていた。
―――温泉街クシャス。
モン・クシャスの麓にあるこの街は世界的に有名な名湯の地として知られている。
ここの住人はヒロトとリューがかつて立ち寄ったアルラウネの村のように、
モン・クシャスに住む『土地神』スクナを奉る異教徒たちであり、
しかもあまりに有名なため教会にも黙殺されているという変則っぷりだ。
無論ククと同じようにスクナもこの地のヌシであるため、顔を見にクシャスにやってきたというわけだ。
いや、クシャスの栄え振りを知るなら魔獣スクナが人間に対し友好的であるのは明らかであるわけで、
別にこんな『とんでもない迂回』をしてまで目指す必要はなかったといえよう。
ここに来たのはほとんど、ただの観光だった。
彼らが目指しているのは魔王城。
主であるリューや赴いたヒロトの先導でそこを目指しているのだ。
しかし、真っ直ぐに魔王城に向かっているのではない。
各地のボスである魔獣たちに会い、
暴れないよう説得して回っているためそのルートはかなりフラフラしていた。
それでも一応今までは一方に進んでいたものの、
今この道筋は矢を射って観客を貫くほどの暴投っぷりなのである。
無論、魔王城を最優先に目指すべきジョンはヒロトの都合にあわせる必要はない。
魔王リュリルライアの了解を得ている彼は本来なら、
ヒロトたちと別れてでも魔王城を目指すべきなのだが。
「………無茶言わないでくださいよ」
クシャスを目指す前、そう言うヒロトにジョンは困ったように笑った。
魔王城がどこにあるのか。
それは遥か北にある前人未踏の大地・『最果て(ネバーノゥズ)』のどこかだと言われている。
しかし『最果て』に挑み、無事に帰ってきた者はあまりにも少ない。
その中の一人が、神代の時代に天より使わされ、
世界を滅亡させようとしていた邪悪なる魔王を斃した『はじまりの勇者』である。
以来無数の冒険家たちが探索キャラバンを組んで
何度も何度もその大地に挑んでいるのだが、その深層に至った者は一人もいない。
いや正確にはたった一人、この勇者ヒロトこそがその偉業を達成しているか。
しかしそれはこのパーティのメンバーしか知らない事実であって、
『最果て』がどんな場所なのか、正確に知っている者は誰もいないのである。
……そんな土地にジョンが挑めば結果は見えていた。
毎年千人は『最果て』に挑むものの、帰ってきたものはいないという。
その千人が千とんで一人になるだけの話だろう。
だから、もしヒロトが寄り道をしたいといってもジョンにはヒロトたちと別れる選択肢など初めからない。
―――それに。
「ボクの目的は確かに魔王城の書庫に辿り着くことですけど、問題はありません。
なにせ、当のリューさんと一緒に行動しているんですから、
もうボクの目的は八割方終了しているんです」
『最果て』に挑むことができる仲間を探して、魔王城を見つけて、魔王に取り入って―――。
最低十年はかかると見込んでいた使命だ。
それをこんなにも早く達成の糸口が見えるなんて、とんでもない奇跡に違いない。
「それよりさ、バカ勇者こそいいの?温泉なんか行ってる場合じゃないんじゃない?」
「一応ヌシはいるんだし、鋭気を養うためにも休息は必要だろう。
それに―――結局、急いで魔王城に行く必要はなくなったんだしな」
そう。
先日『E.D.E.N.』から得られた情報を総合的にまとめた結果、わかったことがあった。
それは、『わからない』ということである。
勇者権限を持つヒロトたちは一般人が知りえないかなり深い領域にある情報をも
『E.D.E.N.』から引き出すことができる。
それでも神に選ばれし勇者、そして全ての魔族を滅ぼすと宣言した狂刃、
―――テイリー・パトロクロス・ピースアローの動向はまったくわからなかったのだ。
いや、ヒロトと一戦を交えたあと幾度かそれらしい活躍は見せているのだが、
ある時期を境にぷっつりと姿を消しているのである。
「不自然なんですよ。それまでは宿も店も普通に使っているようなのに、ある日、突然それを止めている。
何かあったのは間違いないのでしょうが……身を隠さなければならない何かが」
「そもそも、ヤツは神に選定された勇者だ。知り合いなんているはずないのに、
なんでそんなことする必要があるんだ?」
「………っていうか、宿とか店とか誰が使ってるとか全部わかっちゃうわけ?コレって。怖ッ」
「勇者権限でリミットを外しましたからね。普通はここまで調べられませんよ」
姿を消すまでも『最果て』に向かっていた様子はないし、
そもそもくだんの狂刃が魔王城に向かっていると思っていたのはヒロトとリューの勝手な予想だった。
一応リューの魔王としての能力をフルで発揮できる魔王城を最終目的地点としているものの、
急いで魔王城に向かわなければならない理由がなくなってしまったのだ。
………というわけで、手詰まりとなった彼らの旅路、
せっかくだから温泉に行こうとヒロトが言い出したのだった。
「それにしても、意外だなぁ」
リオルがジョンからコーヒー牛乳を奪ってそれをごくごくやりながら呟いた。
「バカ勇者、休むとか遊ぶとか縁遠いタイプだと思ってたけど」
「そうですね。ボクも同感です」
確かに、ヒロトは見てきた限り、そして聞く限りに於いても
日々是精進、人生とは修行なりといった感じで、
いざ休むとなるとどうしていいのかわからず結局剣の素振りをして一日を終えてしまう典型例だろう。
ジョンも不思議に思っていたのだが、さっき一緒に風呂に入っていて、
ヒロトが本当は何をしたかったのかなんとなくわかったような気はした。
少なくとも彼は休みに来たんじゃない。
あれは、きっと―――。
「……で、ローラはなんで両手両膝をついているんだ?」
ヒロトが桶から取り出したいちご牛乳の蓋を開けながら不思議そうに訊く。
「ああ、あれはリュリルライア様に完膚なきまでの大敗北を喫した
負け姫の姿だよ。あんま見ないでやって」
「……そうですわ。私は惨めな負けローラなのですわ。まさかリューさん如きに敗れるとは」
「落ち込んでてもムカつくなお前」
orzなローラと勝ち誇っているリューを交互に見やって、ヒロトは一口、いちご牛乳を啜った。
「………でも、さっきの魔法障壁だろ。ルール違反じゃないのか?」
「え?」
「う」
ピクンと顔を上げるローラ、そして同じく固まるリュー。
ローラはすぐさまリューを睨みつけ、リューは慌ててそっぽを向いた。
魔王リュリルライアが持つ天地最強の盾、魔法障壁。
それはリュリルライアを害する全てを拒絶する。
………ピンポン玉でも。
なんのことはない、リューは玉にあわせて適当に動いていただけで、
実質ローラに壁打ちピンポンをさせていたのだ。
そりゃあスマッシュ打てば致命的になるはずである。
実際にゲームをしていたローラは気付けなくても、岡目八目、
かつてその障壁を真正面から対決した勇者ヒロトは端から見て一瞬で悟ったのだった。
「リューさん!!」
「え、あ、いや、そのだな。とっさについ出てしまったのだ」
「11点分とっさに出てしまったというのですかっ!?」
「だ、だって貴様汚かろう。速いし曲がるし」
「ソレが勝負というものですわ!!」
「まぁまぁ、ローちゃん落ち着きなって」
「……主審、貴方も見ていたのではなくて?」
「………えー、あ、あはは。あたしはホラ、基本リュリルライア様の味方しなきゃだしぃ」
「イカサマー!!」
ぎゃあぎゃあ。
他の温泉客が迷惑そうな顔をしているのを尻目にまた喧嘩を始める三人娘。
しかし、その光景は……なんだか微笑ましく、仕方がないなぁ、と和んでしまう。
「……ま、楽しんでもらえているみたいじゃないですか」
「………ああ……そうだな」
ジョンが微笑みかけると、ヒロトは静かに、噛み締めるように呟いた。
それはやはり、いつもの調子ではなくて。
「………………」
―――ジョンは、心配そうにヒロトを見上げたのだった。
「………まったく、卑怯なことはやめて欲しいものですわね」
ローラはまだぶつくさ言っている。
結局勝負はリューの反則負け。温泉上がりのフルーツ牛乳はリューのおごりとなったのだった。
ちなみにご自慢のツインロールは下ろされ、まとめてタオルの中に収まっている。
ほんのり火照ったうなじがなんとも色っぽい雰囲気をかもし出していた。
「はー…ここじゃ狭くて泳げないよねー………スレイヤー火山の温泉湖じゃ潜水することもできたのにサ」
とは言うものの、リオルは顎まで湯に浸かってマッタリしている。
快楽主義者であるとともに活発な彼女にとって、こういう『静』の楽しみは新鮮なのだろう。
完全に脱力して、目を細める。
特徴的な緑髪が白い湯にふわりと広がった。
「………」
そして、何故かすみっこにいるのはリューだ。
顎までどころではない。蛙のように鼻先まで湯に浸かって、しかめっ面でローラやリオルを凝視していた。
さっきの勝負で罪悪感を感じているのであろうか?
確かにそれもあるだろう、しかし視線から察するに大半はそれではないようだ。
「そういえば、ひとつ気になったんですけど」
温泉の効果の説明書きを一通り読み終えたローラが、くるりと振りかえってぽつりと呟いた。
「………何故リューさん、お子様サイズなんですの?」
「………」
魔王リュリルライアは魔力を抑えることによって正体を隠し、普段よりずっと若い、
いや『幼い』姿になることができる。
もっとも普段は魔力を抑える必要なんて無いし、
長旅の生活にも支障が出るのでそんなことはしていない。一種裏技のようなものだ。
以前【蘇生】という世界の理をも超越した奇跡を行使しようとしたため魔力の大半を消費し、
回復までこの姿でいたこともあったが、もうそれも随分前の話だ。
今、この時、リューが何故わざわざお子様化しているのか理解できなかった。
「バカ勇者に叱られたのがそんなに堪えたんですか?」
「それはないで……いや、あるかもしれませんわね。どこか悪いんですの?」
心配そうに近づいてくるローラとリオル。
麗しい友情だが、今のリューはじーんとする余裕など皆無である。
「く、来るなっ!」
と、ますますすみっこで小さくなってしまった。
「?」
顔を見合わせるも、勿論リューの拒絶の理由がわからない。
とりあえず、近づいてみる。
逃げるリュー。
回り込むリオル。
進むローラ。
退がるリュー。
首を傾げるリオル。
目を瞬かせるローラ。
追い詰められたリュー。
迫るリオル。
迫るローラ。
たわわな胸。
「タオル巻け!!」
リューはついに叫んだ。
そんなこと言っても、湯船にタオルを入れてはならない決まりである。
女同士、別に気にすることもあるまいに。もしやリューはソッチのケがあったのか。
「違うわ馬鹿者!ただ貴様らの胸が理不尽なだけだ!!」
――――――。
そういうことだ。
その気になれば島ひとつを一瞬で消し飛ばせる程の魔力を有するリューだが、反面コンプレックスも多い。
というか、一皮剥けばコンプレックスの塊である。
料理は必ず爆発するし、50メートル全力で走れないし、恋愛小説を読みながら一人でニヤニヤしてるし、
そして―――あおむけにねてもたいらだし。
リオルもローラも平均以上、特にローラに至っては歩くたびに効果音が鳴りそうな勢いなのだ。
そんなものが迫ってくる恐怖、リューにとって計り知れないものであるのは想像に難くない。
そりゃあお子様サイズにもなるというものである。
この姿ならぺたん娘でも騙せるのだ。自分を。
「なーんだ、そういうことですかぁ」
「心配して損しましたわ」
「あっれー?珍しい。ローちゃんがリュリルライア様の心配だって」
「なっ!べっ、別に心配なんかしていませんわ!さっきのは言葉のあやというもので!!」
「あはは、そういうことにしておくよ」
リューはしばらく黙っていたが、やがてトプンと白濁の湯の中に姿を消した。
そしてもう一度顔を上げたその姿は、いつものリューのものに戻っている。
やっぱり薄いけど。
「うるさいな!」
何故か虚空を睨みつけるリュー。
「でも、ま。いいではないですか。ライバルに性的魅力が少ないというのは結構なことですし」
「それは貴様側の意見だろ!」
「大丈夫ですって、リュリルライア様。肝心なのはサイズより形です!
まあ、ローちゃんは大きいくせに形も綺麗ですけど。すごいねー、重力に逆らってるねー」
「ふふ。ありがとうございます、ですわ」
余裕たっぷりに大きく伸びをし、ぷるんと張った二つの果実を際立たせる。
湯の水滴がなめらかな白い肌を伝い、大きく弧を描いておなかへと滑り落ちていく。
その艶めかしさには同性であるリューとリオルでさえ、息を飲むほどだ。
「はー、いいなー。ねー、どうしたらそんなに大きくなるの?」
「いえ、特に何かしたというわけでありませんわ」
それも純天然、特に何をしたわけでもなく、よく寝てよく食べてたらいつの間にか成長していたのである。
………信じられない話だが。
「世の中理不尽なものですよね、リュリルライア様」
「何故我に話を振る。それに義体である貴様と違って我には希望がある!……かも知れぬ!」
声を張り上げるリューだが、それが虚勢であることは一目瞭然だった。
ローラもリオルも哀れみの眼差しでその虚ろな胸元を見やる。
思わず“天輪”を展開しかけたが、そこは我慢だ。
ここには他の温泉客もいる。短絡で事件を起こしてしまってはまずいことになるのは見えていた。
………とりあえずあとで仕返しだな。
リューはそう、心のメモに書き込んだ。
「ところで、温泉といえば覗きだと思いません?」
と、リオルが何やらニヤニヤしながら露天を仕切る壁の向こう側をチョイチョイと指差している。
確かここの温泉の壁は特殊な結界で、透視や遠視をしようにもジャミングとなってそれを阻止するのだとか。
大昔ここがまだ街ではなかった頃、天然の温泉だったここに立ち寄った魔導師の一団が張ったものであり、
あまりに強力な為ここでは覗きは合法。ただし実行できたらの話だが。というおかしなルールができていた。
そのため朝になるとよく男湯では無謀チャレンジャーたちが魔力切れで気を失って湯に浮いているのだとか。
気絶するまで挑戦し続ける猛者たちは多いが、それでも開業以来一度も除き行為を許してはいないらしい。
「―――と、そこの看板に書いてあるが」
「でしょ?つまり合法ですよ合法!ここはチャレンジして損はないでしょ!」
「……そもそも、普通覗きとは殿方がすることではなくて?」
「そんなの、関係ないナイ!だってあたしローちゃん、バカ勇者の裸見たくないわけ?」
……………………。
二人は押し黙った。
こんなことをするのは馬鹿らしいというのもある。
それにあまり騒いだら怒られそうなのと、乙女の恥じらい。
それらが三位一体となって彼女らの中に渦巻き、伸るか反るかの書類にNOサインを書き込もうとする。
しかし。
温泉の湯気に紛れて、ピンク色のもやが湧き出していた。
それは勿論想像力の産物。
ちょっとイケナイ妄想をしたとき少女の脳みそが生むもやである。
………。
……………。
……………………。
(少女妄想中)
「………私は何をすればいいんですの?」
「―――は、何を言うか。黙ってみているがいい。我が魔力の奔流の前にかのような古壁など紙も同然」
恋する乙女は時にわかりやすいのだ。
ざわざわと。
温泉にさざなみが立つ。
リューを中心に、波紋が広がっていく。
「お?お?何々?お姉さんたち何始める気?」
「………ものすごい…妖力……何者………?」
「はいはい、近づいちゃ危ないよー」
「注意一秒怪我一生、ですわー」
集まってきたほかの温泉客はローラとリオルに誘導を任せ、リューは目の前の壁を睨み付けた。
確かに強力な結界だ。
この壁を作った魔導師は相当な使い手だったことは確かだろう。
おそらく、“湖”クラスの魔力の持ち主か。
しかし、それでもリューの前には妨げと為り得ない。
「―――出番だ。デ・ミ・ジャルグ」
プチ、と一本髪を引き抜き、それに魔力を通わせて真紅の槍とする。
それをぴた、と壁に突きたて、そのまま押し込んでいった。
「…………すごい…」
背後にいる温泉客から感嘆の声があがる。
今まで誰も破れなかったはずの強靭な結界は、まるで流砂のように槍の矛先を飲み込んでいった。
魔王の紅、デ・ミ・ジャルグ。
神槍さえ凌駕するそれは星さえ貫く最強の槍である。
男湯と女湯を隔てる結界など、この矛先の前にはあってないようなものなのだ。
「………よし」
デ・ミ・ジャルグを引き抜くと、そこには小さな穴が開いていた。
結界自体は壊さず、ただ穴を開けるに留まる。
それがどれほど研鑽された魔力を必要とするのか。
鉄板を細く、細く、針にするほどの行為ではあるのだが、
それを気にする者は彼女を含め仲間の中にはいなかった。
「ナイスですわリューさん!」
「さあ、レッツ覗き!」
「……いやお前は別にせんでいいだろう。ヒロトを見てどうするつもりだ」
「何言ってるんですか。あたしはジョンが目当てです!」
とは言うものの、この穴はリューのデ・ミ・ジャルグあってのもの。
覗きのトップバッターは当然、リューのものとなった。
ちなみに本音を言えばヒロトの入浴シーンを独占したいリューだったが、
見せてくれないとチクりますわよ的なローラの気迫に押され交代制となったである。
「三分、三分ですからね!」
「うるっさいなぁ。いいからあっちへ行ってリオルと順番でも争っていろ」
「ローちゃん、じゃんけん!じゃんけんだかんね!」
さて。
リューはドキドキしながら穴を覗き込んだ。
湯けむりに視界が霞む。人影がちらつき、そして目の前に飛び込んできたのは―――。
「ぶっ!!?」
……全裸のオッサンだった。
そう、除きである以上ターゲットのみを見つめることはできない。
この毛深いデカッ腹も視界に入ってきてしまうのだ。
「………ぐ、ぁあ…く」
とりあえずあとで呪っておこう。
呪法はやったことがないが、今のこの気持ちを魔力に乗せるだけで充分相手を呪えよう。
しかし、今は目当てを見つけて早く消毒、消毒。
お子様、戦士風のマッチョ、一瞬ヒロトと似た背格好の男を見つけるも、まあ違うだろう。
風呂なのに手裏剣持ってたし。
きょときょとと狭い視界を見渡して、―――いた!!
あれは見間違えるはずもない、ヒロトの横顔。
その隣にはジョンもいるようだが、今はそんなことはどうでもいい。
息が荒くなるのを自覚しながら、食い入るように見つめて―――なにか、喋っているようだ。
何を?
……リューたちのことだろうか?
そのことに思い至ったとき、リューは首筋まで真っ赤になった。
二人は真剣な顔をしている。
そも、ヒロトとジョンの話は風呂での会話でなくとも気になるところである。
旅のメンバーの中でお互い唯一の同性だからか、あるいは世界で七人しかいない勇者同士だからか、
彼には通じ合うものがあるらしく、リューやローラ、リオルにはしない話もいくらかしているのだという。
リューには、それが悔しかったりもするのだが。
………気になる。
リューは穴から目を離し、代わりに耳をつけた。
そして鼓膜に波紋を広げるイメージで、極小の“天輪”を展開する。
魔法水晶があれば音声どころか映像も、たちどころに感知することができるのだが―――まあ、
あれは城に置いてきてしまったし仕方がないだろう。
少しだけ良心が痛まないこともない。
しかしそれを言うならリオルの誘いに乗って覗きをしている時点で倫理的にはアウトなわけで、
つまり毒を食らわば皿までということだ。
「問題はできるかどうか、だが……」
集中する。
意識をヒロトに向け、神経を張り詰めさせ。
『……ヒロトさん、本気ですか?』
『ああ、それが多分、最良の手段だと思う』
意外とあっさり聞こえた。
流石に魔と闇の頂点、魔法に関しては天地隔たれて以来の類まれなる大天才といってもいいだろう。
やってることは盗聴だが。
―――最良の手段?何が?
胸が高鳴る。
リューはむずむずとした感覚を抑えきれずに口元に微笑みを浮かべ、
さらによく聴こうと瞳を閉じて―――。
『ヴェラシーラに帰って―――そして、ローラには俺の子を産んでもらう』
目を、見開いた。
其の病はクシャスの湯でも・女湯にて
~「新ジャンル達が銭湯にやってきたようです」英雄伝~ 完
最終更新:2008年02月10日 23:17