其の病はクシャスの湯でも・男湯にて

人は闇を恐れた。
そこに己の輪郭はなく、他者との距離をも無に帰す。
先が見えないという不安は希望のない明日に同じ。
獣の声に怯え、人は縮こまり、拠り所もなく膝を抱えていた。
それを打破したのは光の存在であるという。
人は光を手に入れ、かつて自らを不安に陥れた闇を排除してきた。
まるでソレは、恨みを晴らすかのように。
闇を悪性のものであると決め、自らの視界に一切の闇が入らぬように。

しかし、思う。

かつて、天地がまだひとところにあった時代。
光と闇にもまた、境はなかったのではないかと。
人が闇に怯えず、光に目を焼かれない時代もあったのではないかと。
少なくとも、彼には闇より出でる全てが邪悪だとは思えなくなっていた。
彼女と出会って、それは確信に変わる。
笑い、はしゃぐことができる闇の化身。
それは彼にとって闇どころか光でさえあった。

闇は、ただそこにあるもの。
それは決して、恐れ、憎まれるために存在しているのではない……。

―――それを、なんとかしたかった。



最初にその臭いに気付いたのはリオルだった。
卵が腐ったような、決していい香りとはいえないそれを鼻腔に感じて、
リオルはしかし、ぱっと顔を輝かせた。

「硫黄の臭いがする!」

長い山道を登るヒロトたちを追い越して、ぱたぱたと駆けていく。
無理もない。
彼女にとって、この臭いは故郷を思い起こさせる臭いでもあるのだから。

「………ということは、いよいよですわね」
「うむ、ようやっと汗も流せるというものだな」

長い山道で流石に疲れた顔をしていたローラとリューもほう、と息を吐く。
そう、期待しているのは勿論、リオルだけではないのだ。
彼らが次に停泊する予定の町は世界的に有名な『温泉街』。
スパリゾート筆頭、クシャス・トゥなのだから。

「ほらほら見えたよ!」

大岩の上にリオルはガーゴイルのように座り込み、興奮したのか翼を広げて小さく火を吹く。

「リオル、到着はまだ先ですよ」

ともすればそのまま飛び立って行きそうな彼女を、ジョンが諌める。
ただ、最近は火龍の魂が少女の義体に馴染んできたため、
部分程度の変身については何のお咎めもなくなっていた。
それにジョンだってリオルの気持ちもわからなくはないのだ。
彼女の言うとおり、幾筋も煙の立ち上る町はすぐそこ。
小さく見える町並みがなんとなく霞んでいるのは決して気のせいではないだろう。
よく見ると転がっている岩にも黄色いものがこびりついている。
街はまだでも、ここは既に温泉脈の上というわけだ。

「懐かしいなぁ。スレイヤー火山でもよく入ったっけ。温泉」
「あそこそんなものあったのか?」

遠い目をするリオルに、ヒロトが追いついて訊いた。
かつてヒロトはリオルの巣食うモン・スレイヤーに単身乗り込み、そして制覇したことがあった。
ちなみにその時リオルの『元の身体』はヒロトの剣の一撃によって殺されている。
リオルにとってヒロトは紛れもなく憎き仇であり、その『命の怨敵』と
もう長い間共に旅をしているのだから妙な話だ。

「あったよ。あたしがねぐらにしてた洞窟のずっと奥に湖があってさ。その水が全部温泉だったの。
 でもアンタが火山噴火させた所為でもう埋まっちゃったんじゃないかな?」
「そっか……。惜しいことしたな」
「そうよ。加減しろっての」

再会した始めの頃は牙を向いて襲い掛かっていったリオルだが、今ではこうやって軽口を叩くのみだ。
もともと明るい性格であるし、長いこと誰かを恨み続けることには向かないのだろう。
それに、ある意味ヒロトは最愛のジョンと引き合わせてくれた恩人なのである。

「………ん?リオル、駄目ですよ。それ、道標みたいです」
「うぇ?」

ジョンが眼鏡を押し上げ、リオルを大岩の上から引き摺り下ろした。
なるほど、よく見ると岩には紋様が刻み込まれ、足元には小銭が散らばっている。
この土地に住む民族の慣わしだ。
山は神聖なものであり、そこを通る道にはこうして標(しるべ)を置いて
土地神に通行を許可してもらっているのだという。
小銭はまあ、通行料のようなものか。

「土地神といっても魔獣であろう。この地のヌシであろうが、我のが偉いのに」
「国王より領主を敬え、という諺もありますからね。
 遠く離れた『最果て(ネバーノゥズ)』の魔王には義理もない、といったところじゃないでしょうか」
「……なんだか身につまされる話ですわね」
「はー、でもいいなぁ。あたしなんか同じ火山のヌシだったのに目の敵にされてたよ?」

はぁ、とわざとらしくため息をつく。
彼女がまだイグニスドランの身体を持っていた頃棲んでいたモン・スレイヤーは、
年中溶岩で真っ赤になっていたような荒々しい土地だ。
豊かな土を湛え温泉が湧くモン・クシャスとは似ても似つかない。
その辺りに両者の違いがあるのではないかとヒロトは思ったが、それは口にはせずに飲み込んでおいた。
リオル―――灼炎龍リオレイアの首を刎ねた張本人がそれを口にするのははばかられる。

「それがどーよ、この差。聖堂教会も認めてるんだっけ?異教徒の街なのに」
「認めてはいないみたいですよ。ただ、黙認しているだけで」
「ククの村と同じということか。そういえばあの村で採れる木材は世界でも有数のブランドだったな」

………結局、利潤のあるところには目溢しをする、ということか。
異教徒というレッテルもようは聖堂教会に属さない人々を異端とした呼び方であり、
あからさまな言い方をすれば、属さないなら貢物を差し出せ、ということでもある。
それにすら抵抗する者たちには決して容赦せず、
聖堂教会が掲げる統和の妨げになる異分子として排除されるのみだ。
現に今このときでも聖堂騎士団(テンプルナイツ)が各地異教徒の国や街に攻め込んでいるし、
聖堂教会には専属の暗殺集団がいて、要人暗殺などを請け負っているという怪談じみた噂まであった。
ヒロトたち『勇者』にしても、聖堂教会から正式な『使命』が降りれば従わなくてはならないのである。
いつだったかの城壁破壊事件がいい例だ。
結局あとであれは取り消されたものの、たとえば教会に対する反乱軍の殲滅だとか、
異教徒が組する土地神―――ヌシの撃破だとか、そういう『使命』が発令されてもおかしくはない。
いや、聖堂教会直下のナルヴィタートの勇者はまさに『それ』を生業として動いているそうではないか。

―――結局のところ、いずれは対決しなければならないということか―――。

「………どうかしました?」

知らない間に難しい顔をしていたらしい。
ふと見ると、ジョンが心配そうにヒロトの顔を覗き込んでいた。

「いや、なんでもない。それより、急ごう。日が暮れると宿が取りにくくなるからな」

湯けむりで霞むクシャスの街並みに目を向ける。
温泉にでも浸かってゆっくり考えるのもいいだろう。
そのために、必要性が薄れたとはいえ魔王城へ向かうルートから外れてクシャスにまでやってきたのだ。
できるなら、決心ができるといいが―――。

「………………」

この湯は、胸のしこりにも効くのだろうか、と。
ヒロトはぼんやり考えていた。

「おん!」
「せん!!」
「がーい!!!」

リュー、ローラ、リオルは人波の前でバンザイした。

「……テンション高いですねー」
「……こういう観光地には滅多に寄らないからな」

どうせなので奮発して高めの旅館にチェックインし、
クシャスの街に入るときに購入した浴衣に着替えて早速温泉街に繰り出したのだ。
この街では武器や防具の装備は認められない。
街行く人々は皆一様に浴衣姿、桶と手ぬぐいを持ってからころと下駄を鳴らしている。
徒手空拳のジョンやリオル、指をぱちんと弾くだけで山一つを平地にできる魔王リューはともかく、
いつも帯剣しているヒロトやローラは落ち着かない様子だった。
まあ、そのローラも今は楽しそうに土産物店を覗き込んでいるのだが。
女性陣の興味はすでに温泉街クシャス・トゥに奪われているのである。

「ヒロト!見ろ!これ!なんだこの三角!……た、タペストリー?
 買っていいか!?なあヒロト!これ、買っていいか!?」

リューが『根性』と刺繍されたタペストリーを掲げているかと思えば、

「魔紅石の湯、名湯華玉、ミルク風呂……サンダー・バブ!?電気刺激で全身をマッサージ。
 HP・MP全回復……興味深いですわね。お肌効果は……と」

ローラは何やら真剣な顔でグッズコーナーに並んだ入浴剤を手にとっているし、
リオルに至っては、

「ンまぁぁぁぁぁぁぁぁあああいッ!!!!」

いつの間にか温泉タマゴをぱくついている。巨大化してどこぞの城を破壊せんばかりの勢いだ。

恐るべし温泉街。
温泉旅館だけではなく、土産ものや出店も充実している。
娯楽に乏しい旅を続けてきた少女たちはその華やかさに興味シンシンになってしまったのだ。
それはわかる。
わかるのだが。

「リュー、土産ものなんていったい何処に持っていくつもりだ。
 ローラ、HPとかMPとかよくわからない用語を使う商品には触らない方がいいぞ」
「リオル、タマゴ代はリオルのおこづかいから引いておきますからね」

女性陣があからさまに不満そうな顔をした。
興を削ぐような勇者たちの声色はいつもと変わらない。
安定しているといえば褒め言葉だが、ようはノリが悪いのである。
こちとら今をときめく花盛り。やはり潤いというものが欲しいのだ。主にお肌とかに。

「ヒロト様。せっかくの温泉街ですし、楽しもうではありませんか」
「そーだそーだ。大体、遊びに来たんでしょー?」
「………タペストリー……」

ヒロトとジョンは顔を見合わた。
ポリポリと後頭部を掻くヒロトに、ジョンは肩をすくめる。
ヒロトは少しだけ考えてから、やれやれと手を腰にやった。

「………わかった。自由行動でいいけど、遊ぶ金は自己負担、他のお客の迷惑になることはしないこと」
「はーい」

声を揃える少女たち。
その様子はどう見ても普通の女の子そのもので、
今の彼女たちを見てこの中の誰一人として只者ではないと気付ける人はいないだろう。
早速ぱたぱたと走り回っている彼女たちを見ていると―――。

「……………やれやれ、だな」
「ですね」

―――自然と、頬が緩んでしまうのだった。



「―――ということは、ジョンは親無しなのか」

男湯。
色気も何もないそこで二人は肩を並べ、他愛のない話をしていた。

「ええ。実験中の事故で亡くなったと聞かされています。
 物心つくまえにお師匠に引き取られて、それ以来ずっと研究所に篭って暮らしていました。
 拳法はお師匠の趣味でね、東洋の健康法で毎朝一緒に体操してたら身についてたんですよ」
「それが“霊拳”のルーツってことか」
「ええ。ヒロトさんのお師匠はどんな人なんですか?」
「俺のは我流だよ。基本的な型を親父に教わったあと、あとは自分でやれ、とか言われてそれっきり。
 仕方ないからずっと一人で稽古してた。手合わせしてくれる相手もいなかったし」

ヒロトは湯を掬うようにして己の手のひらを見つめた。
白く濁った湯がこぼれ落ちたあと、そこには無骨な剣士の掌(て)が浮かび上がる。
それを、固く握り締めた。

「ローラさんは?」
「アイツは初め全然剣振れなかったからなぁ。
 もっとちゃんとした先生を呼べばよかったのに、俺にくっついて剣振り回すもんだから、
 仕方ないから俺が教えた。打ち込みができるくらいになったのはずっと後の話だ」

ローラ、いやヴェラシーラ王家の者はもともと魔導師の家系である。
剣の才能など無いに等しい彼女が今あそこまでの剣士に成長を遂げたのは、
ひとえにその時の努力の成果に違いない。
もっと言えばヒロトに認められるため、抱いた恋心が才能の壁をも破る原動力となっていたのだ。
そのローラにプロポーズされた今のヒロトはそれに気付いているはずだが、
その辺はどう思っているのだろう。
ジョンの立場から言えば、ローラには悪いが
リューが落ち込むような結果はできる限り回避したいところではある。

「あいつには感謝してるよ。こんな俺を待ってるって言ってくれた。
 剣以外、何も持ってなかった俺に居場所を与えてくれたのはローラだから。
 その上、俺を好きだとも言ってくれた。だから―――」

ジョンはひやっとしたが、声の調子から考えてどうも色恋で浮かれた話ではないらしい。
ヒロトは、なんともいえない顔をしていた。
何かに耐えるような、奥歯を噛み締めているような、そんな表情だ。
耐える?何に?
それは罪悪感―――。

「悪いと思ってる」
「ローラさんなら気にしていないと思いますよ?むしろ楽しそうじゃないですか。
 リューさんやリオルっていう友達もできたことですし」
「……だと、いいけどな」

呟くヒロトの顔は、少しだけ緩んで見えた。


湯上りには牛乳を飲むものと相場が決まっているものだ。
特に、ただの牛乳ではなく甘く味付けされたコーヒー牛乳やいちご牛乳を
腰に手をやって飲むのが格別なのである。

「じゃあ、ボクはコーヒー牛乳を頂きます」
「俺も同じモノを」

ちゃりんと小銭を渡し、カウンターに置かれていたビンを取ろうとする、その手が何かによって払われた。

「ッ!?」

ヒロトの手を弾いてカウンターの上に落ちたそれは小銭である。
数枚のそれらが、ぱたぱたと重なって落ちていく。まるで手で揃えたかのような見事さだ。

「待ちな、兄さん。そのコーヒー牛乳は俺んだぜ」

振り返ると、そこにいたのは乱暴に刈り込んだような短髪の男だった。
見たところ体格も年齢も、だいたいヒロトと同じくらいだろうか。
顔つきもヒロトと同民族系であり、黒髪に黒い瞳を持っている。
しかし似ているかというと、なまじパーツパーツが同系なため逆に全く似ていない。
ヒロトが夜の湖畔を思わせるような静けさを湛えているのに対し、
この青年の猛禽類を思わせる眼光は鋭く、口元は好戦的に歪められているのだ。
浴衣姿であるところから見て、この青年も温泉客らしいが。

「こっちが先ですよ」

ジョンはその殺気にも似た男の雰囲気に気付いていないらしく―――いや、
この男が気付かせていないのだ―――口を尖らせて抗議した。

「違うね。俺のが疾いね!」

青年は自慢げに手に持っていた何かを見せた。
それは―――。

コーヒー牛乳。

「え!?」
「……!」

いつの間に?
驚くヒロトとジョンにニヤリ笑ってコーヒー牛乳をあおる男。
いったい、あの距離からどうやって勇者二人に気付かれずカウンターのビンを取ったというのだろうか?
戦慄が二人の背を駆け上る。

と。

「なにやってるの」

これまたどこからともなく飛んできた桶が、カッコーンといい音を立てて男のこめかみに直撃していた。
そしてそれを投げつけたらしい無表情の少女が倒れた男の襟を引っ掴んでずるずると引き摺っていく。

「……なんだったんだ」
「さあ。観光地には色んな人が来ますからねー」

残されたヒロトとジョンは……結局いちご牛乳を買った。

さて、牛乳をあおりながらリューたちを探してみると、どうも据付の卓球で遊んでいたようだ。
しかもリューは魔法障壁でイカサマをしていたらしく、
目を三角にしたローラに噛み付かれてしどろもどろになっている。
助けを求めるような視線を送られたが、ヒロトは顔をしかめて首を横に振った。
リューが泣きそうな顔になる。

それが、なんだかとてもおかしかった。

「……ま、楽しんでもらえているみたいじゃないですか」
「ああ……そうだな」

微笑みかけるジョンに、ヒロトは静かに、噛み締めるように呟く。

ヒロトは基本的に面白みに欠ける人間だ。それは自分でもそう思う。
気付いてみれば、物心ついたときから、またはヴェラシーラ王城に暮らすようになってから、
勇者として長い旅に出てから―――およそ娯楽と呼べるものには手をつけてこなかった。
自分はそれでもいい。興味があればいつでもできたことだ。
それを遠ざけていたということは、自分には必要でなかったということである。
しかし、リューと出会ってからはどうだろう?
ヒロトがもしもう少しユーモラスな性格をしていれば、
リューはもっと早くに普通の―――妙な言い回しになるが、普通の女の子のように笑えていたのではないか。
そして、もっと早くにこうやって笑っているリューを見ることができたのではないだろうか。
そしてそれはローラとの稽古のさなかにも言えることだし、だからこそ、
ああやってじゃれあっている二人を愛おしく思うのだ。

―――できるなら、自分以外の前でも、いつか彼女たちと笑いあえるように。

「ヒロトさん、どうです?ひと勝負、ボクたちも」
「……ああ。でも、俺ルール知らないぞ」

そのためにはやはり、対決しなくてはならないのだ。

つまりは、簡単な話である。
人間の世の理は聖堂教会が握っているといってもいい。
だから、その聖堂教会をなんとかする。

教会が掲げる統一意思という理想郷、それを否定しようとは思わない。
だが、せめて、知って欲しい。
闇はヒトの敵ではない、と。
確かに友好的ではない魔族も沢山いた。
しかし、友好的な魔族もまた沢山いる。
同じなのだ。人間と。
ならば、わざわさ敵対する必要などどこにもないだろう。
時に歩み寄り、時に距離を置けば共に生きることもできる。
ヒロトは現にそういう例をいくつも見てきたし、今もその化身と旅をしているのだ。

しかし、聖堂教会は未だ怯えている。
かつての魔王進攻のトラウマ、世界が崩壊しかけた神話の時代を引き摺っているのだ。
ならば世界を変えるにはそれを壊してやらなければ。

―――どうやって?

「……何か難しいことを考えているんですか?」

顔を上げると、声の主はやはりジョンだった。
ヒロトと卓球で勝負したあと、リオルやローラと対決していた。
また温泉に入ってきたということは、やっと解放されたらしい。
華奢で可愛らしい容姿は相変わらず男湯には似合わない。
通り過ぎる他の温泉客がぎょっとしているのも頷ける話だ。
そのあと、思わず下半身に目をやってさらに驚愕するのが最早パターンになっているのだが、まあそれは別にいい。

「………いや、別に」
「ヒロトさん、仏頂面な割にわかりやすいんですよ。魔王城へ向かう道を外れて
 わざわざクシャスに来たのも、温泉に浸かってじっくり考えたいことがあったからじゃないですか?」
「………………………」

ヒロトはますます苦虫を噛み潰したような顔になった。
図星だったからである。

「……まあ、ちょっとな」

ヒロトは白状した。
放浪の旅の末に見つけたヒロト自身の使命、ヒロトの抱く理想の姿。
リューと、ローラと。
二人の少女が共に笑いあうのを見て、やはりこの願いは間違ってはいないと感じたこと。
そして、それにたいする問題、聖堂教会。
ヒトと闇の眷属がいがみ合う、この世界をどうにかしたければ巨大に過ぎる組織と対決しなければならないこと。
だが、なにせ相手は有史以前から存在する最古にして最大の組織である。
いくら勇者であろうとも、一個人にすぎないヒロトに何ができる?
しかもその時、彼の唯一の特技である剣は必要ではない。
さらにそもそも、まずは舞台に立たなくては話にすらならないときた。
今のままでは聖堂教会には声すら届かないに違いない。

「………まあ、そうですね。ヒロトさんなら強引に『大聖城』に侵入して
 聖皇と直接対談することもできなくはなさそうですが」
「それじゃ意味がないだろう。罪人扱いされて意見なんて聞いてもらえるわけがない」
「ですよね」

たとえ聖職者であろうとも、かの聖皇と話が出来るものなど極々少人数だ。
あるいは勇者であればその機会も設けられるかも―――いや、まずそんなことはないか。
魔王が再びこの世界を脅かそうというのならまた話は別だが、
それではますます聖堂教会は闇に対して警戒心を強めるだろう。
だいたい魔王リュリルライアはまず絶対にそんなことはしないだろうし。

「じゃあ、何か考えがあるんですか?」
「………………ああ」

そう。
ヒロトには、術があった。
以前、ローラに言われたことを思い返す。

『私の良人、ヴェラシーラ王になり、共に良き国を治めてはださいませんか?』

王。

聖堂教会の『聖皇』にも、一国の―――しかも『勇者』を
選出する資格を持つ国の王ならば、あるいはその声も届くだろう。
ましてや元・勇者であり、世界を巡った者の言葉である。

「………なるほど」

ジョンも神妙に頷いた。
何か言いたいが、うまく言葉にできない。そんな表情である。
ヒロトは続けた。

「でも、それはきっと、ローラに対するこの上ない裏切りだ。
 俺なんかを好きだって言ってくれた、その気持ちを利用しようっていうんだから―――」
「………リューさんはどうするんです?」

ジョンがまっすぐにヒロトの目を見て言う。
ヒロトは言葉に詰まった。

「リューには……とりあえず、魔王城にいてもらうしかないだろうな。
 聖堂教会に意見しようっていう王が魔王と繋がってるって知られたら、誰だって怪しむに決まってる」

途端に、ジョンの顔色が変わった。
人形のような冷たい無表情で、薄い唇をわずかに動かす。

「………ヒロトさん、本気ですか?」

それは決して肯定的な響きではなかった。
むしろ咎めるような、諌めるような、落胆したような声色であった。
本気で言っているのかと。
本気で、そんな馬鹿げたことを考えているのかと、この少年は言っている。

確かに。
自分から連れ出しておいて、自分でまたあの城に押し込めようというのだ。
こんな酷い話はそうそうないだろう。
だが、きっと―――。

「―――ああ。それが多分、最良の手段だと思う」

そしていつか、今度こそ。
彼女を、また迎えに行けるように。

「ヴェラシーラに帰って―――そして、ローラには俺の子を産んでもらう」

そう、はっきりと口にした。
歩むべきは王の道。
全ては己の理想のために。
そのために、ヒロトは―――。

ぱきん、と。

乾いた音が響いた。

「な……!?」

驚いて振り向いたそこには、さっきまであったはずの壁が―――男湯と女湯を隔てるはずの壁が消滅している。

「きゃぁぁぁああああああ!!」

女性たちの悲鳴が響いた。
男たちはとっさのことで反応できずにいるようだ。
慌てて前を隠すものもいれば、湯に飛び込むもの、逆に凝視する不埒者もいた。

砕け散った壁―――結界の欠片が崩れ、掻き消える。
そこにいたのはリューだった。
彼女も例によって一糸纏わぬ姿を衆目に晒しているが、今の彼女を見て劣情を抱く者はいまい。

其れは、魔王。

紅の魔力を纏わせて、紅の魔槍を携えて、こちらを。
―――ヒロトを、じっと見つめている。

「………………」
「………………」

温泉中がパニックになる中で、リューはただ、その瞳にヒロトを映していた。



                 其の病はクシャスの湯でも・男湯にて
~「新ジャンル達が銭湯にやってきたようです」英雄伝~ 完

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最終更新:2008年02月10日 23:18
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