ヒロトは突然の事態に、流石に驚いて顔を赤くした。
「な、なにやってるんだよお前!」
「……………」
リューは答えない。
その眼には様々な感情が浮かんでは消え、そしてまた浮かび―――。
何をするでもなく、佇んでいる。それは確かにそこにいるはずなのに、
湯けむりに儚く掻き消えていくような、そんな危うい虚ろさを漂わせていた。
―――これは、ただごとではない。
ヒロトはとりあえず前を隠すと、急いでリューに駆け寄った。
一糸纏わぬ彼女の小さな肩を抱こうとし、
「どうした、何か」
「触るなッッ!!!!」
俯き、叫ぶその声に身を硬くした。
「な、なにを―――」
上目遣いに睨みつける、その瞳に……光るものが浮いていた。
しかしそれを見たのは幻かと思うほどに一瞬であり、ヒロトは絶句する暇も無く衝撃に吹き飛ばされていた。
現れた影は龍。
いや、大きさこそ小型ではあるが―――それでも普通のドラゴン程の
大きさではある―――魔王リュリルライアの使役するゴーレム、クレイ・ドラゴンである。
リューはクレイ・ドラゴンの背に乗り一度だけヒロトに目を向けると、
そのまま打ち上げられたようなスピードで飛び去っていった。
雲が切れるような速さに風が舞い、湯けむりが吹き飛ばされる。
「……聞かれていたようですね」
「……………」
ジョンが小さく呟いた。
ヒロトは何も言えずに呆然とリューが消えていった空の彼方を見上げている。
ヒロトにはわからない。
確かに城から無理に引き摺りだした本人がまた孤独の城に押し込めようというのだ。
リューが怒るのも無理はないとは思う。
が。
それでは、あの眼の説明がつかなかった。
怒りよりも切なさと哀しみが色濃く浮かぶ、あの涙の意味が―――。
「……なんだってんだよ」
ヒロトは困りきった顔でくしゃりと前髪を掻き上げた。
その周りでは、
「なんださっきのドラゴン!?女の子を攫っていったぞ!」
「魔獣の襲撃じゃないのか?」
「馬鹿な、ここはスクナ様のお膝元だぞ!?」
「っていうか女湯が!女湯がぁぁぁああ!!」
「きゃぁぁぁああ!!こっち来るな変態!」
「な、なんだ!?真っ暗で何も見えないぞ!?」
「……リューマは、見ちゃだめ………」
「………ちょっと待って、あの男……まさか」
混乱で他の温泉客たちが騒いでいる。
伝説級の結界があっさり破られ、さらに直後ドラゴンまで現れたのだ。
ただでさえ異教徒の街で聖堂教会から目を付けられているであろうに、
この事態では最悪、聖堂騎士団が動き出しかねない。
「ヒロト様!」
「ちょ、バカ勇者何やったの?リュリルライア様飛んでっちゃったよ?全裸で!」
タオルを巻いたローラとリオルがぱたぱたと駆け寄ってくる。
おそらく今この場で最も混乱しているであろうヒロトに代わり、ジョンは冷静に言った。
「とりあえず、着替えて温泉を出ましょう。早くリューさんを探さないと」
ヒロトは唇を噛み締め、他の二人はこくりと頷いた。
リューは何だかんだと言っても破壊に関しては右に出るものは無い最強の魔王である。
それが、かつてのように自暴自棄になって暴れられたらどんな事態になるだろう?
ローラの時は人の住んでいない廃墟の町だったからよかったものの、
あの少女が一瞬で街ひとつを消し飛ばせる破壊力を有しているのは周知の事実。
とにかくどうにかして見つけ出して、落ち着かせないと―――。
「……待って。リューさんを探す前にあの娘が何を聞いたのか、教えてくださる?
何かあったんでしょう?それもきっと、ヒロト様絡みで」
「………………」
ローラの厳しい声にヒロトは黙り込んだが、やがて背を向けた。
「俺は、最良の手段を考えただけだ」
「……………ボクから、説明します。でも一度、外に出てから」
ローラは、眉根を吊り上げて、しかし一応頷いた。そしてきびすを返すと女湯に戻っていく。
「ボクらも行きましょう」
「………ああ」
混乱の温泉を駆け抜ける。
人波を横切り、その途中で―――。
「……参ったよこりゃ」
小さく、小さく。
誰にも聞こえないほどの声で。
「まさかこんな所で見つけるとはなぁ……」
ポツリと。
呟いた者がいた。
クシャスを囲む外壁近く―――つまりは町外れにて、一同は集まった。
ジョンからの簡単な説明を受けて、リオルは眉根を寄せ、ローラはこめかみに手をあてた。
ヒロトは少し離れた場所で腕を組み、瞑想するように瞳を閉じている。
「……なるほどなー」
沈黙を破ったのはリオルだった。
「なんだ、ようは人間の側の意識を変えるために聖堂教会のボスと話がしたいんでしょ?
その為にはローちゃんと結婚して、王様にならなきゃならない。
でも魔王と仲良くしてる王様なんて聖堂教会に信用されるわけがないから、
リュリルライア様には魔王城へ帰っていて欲しい、と。そういうわけ?」
「ええ。その話を聞いたリューさんはショックを受け、飛び去ってしまった。それが今の状況です」
ジョンが頷く。
「立派じゃん」
リオルの素直な感想だった。
確かに、ヒロトのやろうとしていることは―――理屈としては通っている。
リューを仲間に引き入れた時点で魔族側の問題は目処が付いたといってもいい。
人間の王と違い、魔王は魔族を本能のレベルで支配するもの。
頭を押さえたら、手足は従うしかないのである。
実質、あとは人間側の歩み寄りをどうするかが問題だったのだ。
「それを解決するために聖堂教会に訴えかける。それはわかりますわ」
ローラはこめかみの手を顎に移し、そして聞いた。
「でも、今続けている各地ヌシへの協力要請はどうしますの?それも必要ではなくて?」
ローラの声はさっきのジョンと同じ含みを持っていた。
少なくとも、ローラのプロポーズを受けてヴェラシーラに帰る、
彼女にとって喜ばしいはずの事態に関してはまったく触れていない。
「それは―――」
「テイリー・パトロクロス・ピースアローとかいう謎の勇者は?
こちらも放ってはおけない問題ではないのですか?」
何か言いかけたヒロトに、ローラはさらに言葉を重ねた。
「さらに、凱旋するには魔王を倒したという事実が必要ですわ。
リューさんが健在である以上、それを証明するのは難しいと思いますわ。
なにせ魔王は普通の女の子ですものね?
ヴェラシーラ王城からはまったく期待されていなかった貴方が王になるには私の夫となるしかない、
それはわかります。ええ、私が言い出したことですもの。でもね、ヒロト様」
畳み掛けるようなその声は、触れれば斬り裂かれる様に冷たい。
そうして、ローラは続けた。
「―――今の貴方を、夫とすることはできません」
「な……!」
ヒロトは思わず顔を上げた。
驚いていたのは勿論ヒロトだけではない。リオルはあんぐりと大きく口を開け、ジョンも目を瞬かせている。
ローラがどれほどヒロトに惚れ抜いているのか、その様子をずっと見てきたから。
いつも前を向いていたヒロトなんかよりもずっと、
彼の背中をローラがどういう眼で見つめてきたのか知っていたから。
そのローラが、ヒロトを拒絶した……?
「一度やりかけたことを投げ出すような、そんな無責任な人に王位を継がせるわけにはいきませんから」
「投げ出そうなんてしていない!俺はただ、お前やリューが、どこでだって笑っていられるように……!」
「ならば!」
ローラの強い言葉に、ヒロトは気押され口をつぐむ。
その気迫はいつもの少女、ローラのものではなかった。
ジョンやリオルは知っている。
いつか渇きの国で兵士たちを一喝した王女―――ローラ・レクス・ヴェラシーラの王気。
いや、もっとローラの裡から溢れるような、切実な訴えであった。
ローラは少しの間口を閉ざすと、ヒロトに歩み寄ってそっとその頬を包み込む。
「―――ならば、どうして……!どうして、一人で決めてしまうのです……!」
ヒロトは、絶句した。
そんなつもりはなかった。しかし、記憶にない。
誰かに相談したり、助けてもらおうとしたことが。
いつも、一人だったから。
無心に剣を振るう。そこに他者はいなかった。
三つ子の魂とはよくいったものだ。
我は擦り切れ、執着を持つことも無く。
求めることを知らず、旅の果てに使命を見つけた。
己の為ではない。ただ、それで救われる者がいると思ったから。
魔王を殺さず仲間にしようとしたのも、必要だったから。
そこにあったのは何より効率を優先する鉄の心。
ただ他者を救う為に存在する、『勇者』の体現―――。
「俺は―――」
ただ。
自分に、できることを。
「出来ないでしょう!?だって貴方は一人ですもの!
なんでもかんでも一人でこなそうなんて、ヒロト様にできるはずが無いでしょう?
ひとつのことしかできないくせに!!
それに、聖皇に直談判する?馬鹿いわないで。
相手は何千年も続く組織の総帥。口下手なヒロト様が敵う相手だと思って?
少し位剣の腕が立つからといって思い上がらないで頂戴。
一人で世界を変えようなんて、そんな傲慢は聞いたことがありませんわ!!
ねえ、ヒロト様。私たちがいるではありませんか。
貴方の理想の礎となれるのなら、私は火の中にでも喜んで身を投げますわ。
でも、今から貴方がやろうとしていることはそうじゃないでしょう?
何でも独りで決めて、他の人がどういう想いでいるのか考えもしないで……!
嫌なの!そういうのは!折角、折角ヒロト様の跡を追ってここまで来たというのに、
私は貴方にちっとも近づけていない―――!」
ローラは、ついに泣きだした。
ヒロトの胸にすがり付いて、泣きながらヒロトを責めていた。
「ローラ……」
その肩を、抱いた。
細い肩が震えている。
―――ああ、そうか。俺は、一人ではなかった。
あの時、裏庭で一人剣を振っていたヒロトに声を掛けてくれた少女が現れたときから―――。
ヒロトは、とっくに一人ではなくなっていたのだ。
ならば、これは自分が悪い。
それを忘れ、ないがしろにしたことで、この少女は涙を流しているのだから……。
「………あたしは、アンタのやろうとしてることが正しいのか正しくないのかわかんないけどさ」
リオルがポリポリと頬を掻きながら口を開いた。
「まあ、間違ってはいないと思うよ。でもさ。
―――リュリルライア様を一人にはしないで欲しいかな。だって、リュリルライア様は」
「リオル」
ジョンが、首を振ってリオルを止める。
それ以上は、他人が言っていいことではない。
リオルは、そっか、と呟いて言葉を切った。
ヒロトは―――。
「早く、探してきてあげてくださいまし。あの娘、拗ねると長いんだから」
ぐず、とすすり上げるローラに、小さく頷いた。
そして、三人にぺこ、と頭を下げる。
飛び去ったクレイドラゴンの衝撃波で切り裂かれた雲を辿り、
“豪剣”で神経を研ぎ澄ませば追跡することも可能だろう。
「すまん。………リューに謝ってくる」
ヒロトは背を向けると、跳躍した。その姿は高い外壁を飛び越え、闇の中へ消えてゆく。
相変わらずとんでもない身体能力だった。
ローラはその姿が見えなくなると、大きくため息をついて涙を拭った。
「……よかったんですか?一人で行かせて」
「仕方がないでしょう」
大きく髪を掻きあげると、もうそれはいつもの気丈なローラに戻っていた。
腰に手をやってまた大きく息をつく。
「ここで邪魔をするということは、何よりヒロト様を穢すことになりますもの。
何があろうと……それだけは、許されないでしょう?」
たいしたものだ。
ジョンはくつくつと笑った。
「ローちゃん、本当にバカ勇者のこと好きなんだね」
リオルも微笑んで、ジョンの心うちを代弁した。
当然。
ローラ・レクス・ヴェラシーラはヒロトを愛している。
だから、彼が間違った選択をしようとしたとき、それを正すのだ。
ヒロトには、王の誇りを捧げるに相応しい男性でなくては困る。
「なにせ、ヒロト様は将来の私の伴侶。ヴェラシーラ王となるべきお方なんですからね」
ジョンはしみじみと思った。
―――たいしたものである。本当に。
「はぁ……」
どれほど飛んだだろうか。
月が映りこむ湖のほとりで、リューはクレイドラゴンの背に寝そべっていた。
素っ裸では流石に寒いので、その身体には適当に魔力で編みこんだ服を纏っている。
魔王の魔力で編まれたこの法衣、もし巷に出回れば伝説の防具クラスの
対魔力と防御力を兼ね備えているのだが、まあ今はそんなことはどうでもよく。
……このため息は何回目だろうか。もしため息に色がついていたなら、
この空はもうため息で覆い隠されていただろう。それほどには吐き出した気がする。
しかし気分は沈んだままだ。
かつてのリューなら嫉妬のままに暴れて破壊の限りを尽くしていたかもしれないが、
とてもそんな気分にはなれなかった。
無論、悔しい。妬ましい。
だがその一方で、どうしても攻撃的にはなれない自分がいる。
名を知らぬ感情が彼女の中でないまぜになって、あの場から逃げ出すことで精一杯だったのだ。
―――結局、ヒロトはローラを選んだということか。
そりゃあそうだろう。ヒロトは人間。同じ人間であるローラと結ばれるのが正しい結末なのだ。
背格好は人間と変わりなくても、所詮は魔族であるリューと添い遂げる選択肢などはじめからない。
わかりきったこととはいえ、今までそれを見てこなかった―――見ようとしなかった自分だ。
突然の現実は少々………身に沁みる。
円い月に手をかざす。
その肌は滑らかに白く、指は五本。指先には爪がついている。
関節を丁寧に折り曲げ、握る。
当然、月は掴めていない。
「せめて、この身が魔獣のそれであったならまだ諦めもついていようがな……」
リューはむくりと起き上がると、湖に足を浸けてぼんやりと水鏡に映った自分を見つめた。
そこにいたのは少女。
人間と変わらない、魔王の姿である。
でも―――ヒトではないのだ。
ローラと添い遂げる決心をしたということは、リューはもういらないということなのだろうか?
ヴェラシーラに帰り、王となり、そして……そこで暮らす。
それがヒロトの選んだ道だというのなら、リューはどうすればいい?
本当にヒロトに必要とされなくなったら?
その身を刻まれるような寂しさに、くらっ、と目の前が揺れる。
思わず叫びだし、ありったけの魔力を解き放ってしまいたい。
しかし、それすら彼女には許されないのだ。
彼女は魔王。自暴自棄になって暴れれば、それだけで世界が滅んでしまいかねないのだから。
………その想いを受け止めてくれるたった一人の青年は、今リューから離れていこうとしていた。
「……確かに、それがヒロトの幸せなのだろうな」
人間の王というものがどういうものなのか、リューにはよくわからない。
しかし、少なくともあのがらんどうの魔王城よりは華やかな生活を送れるのだろうし、
根無し草の放浪生活よりは楽ができるに違いない。
何より、あのローラが傍にいるのだ。あの女ならば、
ヒロトが嫌がったって強制的に幸福にしてしまうだろう。
少なくとも、自分よりは、ずっと上手く。
「なら」
ああ、それなら。
ヒロトの為を思うなら、リューは、ここで、身を、引くべき、なのだ。
涙、流れるな。
祝福してやらなければ。
あの二人の前に立って、幸せにならなければ容赦はしないと。
笑って、言ってやらなければならないのに。
どうして―――こう、涙というものは、思い通りにならないのか。
「ええい、みっともないぞ。魔王リュリルライア……!」
ぱしん、と自分の頬っ面を叩く。
しかし、涙は止まってくれない。ぽろぽろと零れ、足元に落ちていく。
「う、う、うぅ……うわぁぁぁぁあ……」
ああ。
ならいっそ、ここで全て流しきってしまおうか。
そうだ。今は、泣いていい。今は、誰も見ていないから。
「ひぐ、ぅう、ヒロトぉ…ヒロトぉ……うぅ、わぁぁぁぁぁぁぁああん」
泣いてしまえ。
そして、強くあろう。
今度、ヒロトたちの前に立ったとき、強く、笑顔でいられるように。
「ヒロト、ヒロト、ぐす、ヒロトぉ……」
泣くな、リュー。
「うるさいっ。だって、ヒロトが、ヒロトがぁ……」
「はぁ、はぁ、だから、謝りに来たんだ、って」
「はぇ?」
ぱちくりと目を瞬かせ、涙に濡れた顔をあげる。
そこにあったのは、見慣れた青年の見慣れぬ姿だった。
ヒロトである。ヒロトが、肩で息をしている。
“豪剣”という規格外の身体能力強化法を使うヒロトは、通常疲れるということがない。
筋繊維に魔力を通わせ、血液や血管さえ強化し、傷や疲労を端から回復していくため
自らの魔力が尽きるまで最高のコンディションで動き続けることができるのだ。
そのヒロトがここまで汗だくになっているということは、
つまり回復が追いつかない運動量をこなしたということ。
何故?
「決まってるだろ。リューを探してたんだよ」
自分を?
……ああ、そうか。勝手に飛び出してきたのだ。そりゃあ、探しもするだろう。
だが、今はまだ気持ちの整理がついていないのだ。朝までには戻るから、少し一人にしていて欲しい。
そう言うと、ヒロトは首を振った。
「いや、こっちが先だ。リュー、すまなかった」
ヒロトは目を丸くしているリューの前で頭を下げた。
おざなりのものではない。きっちりと腰を90°に曲げている。
「何を―――」
「怒られたんだ、ローラに。勝手に決めるなって。
俺はもう一人で旅をしているんじゃないんだから、お前たちに相談して決めるべきだった」
リューはごしごしと目元を拭って、背を向けた。
喉がつっかえてうまく言葉にはできないが、それを言っても仕方がないだろう。
謝られても、ヒロトはもう旅を終えると決めてしまった……。
「……いや、それも怒られた。途中で投げ出すなって。俺にはできることとできないことがあって、
今からやろうとしていることは俺にはできないことなんだって。だから、俺は―――」
「は?」
リューの涙が止まった。
くるりと振り返ったその顔にはもう一切の感情と言うものがない。
口を真一文字に結んで、全くの無表情である。
「なんだと?」
「……少し考え直そうと思う。これは俺一人で解決できるような問題じゃない―――なにせ、
世界を変えようって言うんだから。だから、俺は勝手にこんな半端な形で
旅を終わらせちゃいけなかったんだ。聖堂教会のことは気になるけど、
今は俺にしかできないことをやっていこうと思う。だからリュー、また俺と一緒に」
何を、言っているのか。
この男は。
旅をやめるのをやめる?
ということは、ローラと結婚するためにヴェラシーラに戻ることも無く、
リューはまだヒロトと一緒にいてもいいということで。
また明日から、今度はどこのヌシが一番近いところに棲んでいるのかと
地図を眺める日々が始まるということか。
「……………こ、こ、こ、」
リューはヒロトの顔を見ていられなくなり、たまらず俯いた。
その声は震え、歯の根があわずがちがちと鳴る。
ああ、知っている。知っているとも。
この、腹の底から湧き上がってくる感情は、
―――怒りだ。
「このアホンダラがァァァーーーーーーッッッ!!!!」
爆発した。
怒髪天を突くとはこのことか。目を三角にして、リューはヒロトの胸元を殴りつけた。
何度も、何度も。
「貴様はッ!何を舌の根も乾かぬ内からッ!そんなたわけたことをッ!」
「痛い、痛い、なんだよ!?」
それは所詮は女の子の力。ぽかぽか、という擬音が似合うほどの些細なものだ。
歴戦の勇者ヒロトの前には文字通り蚊程のダメージも与えられないだろう。
しかし、それは今まで受けた攻撃の中でもとびきりの想いが込められているに違いなかった。
「我がッ!どんな想いでッ!貴様とローラをッ!祝福してやろうと努力したかッ!
返せッ!我の流した涙を返せぇぇぇぇぇッッ!!!!
だいたい貴様は勝手に過ぎる!一方的に人のことを惚れさせてからに、
振り回されるこっちの身にもなってみろこの大馬鹿者!!」
何か言った。
「………え?リュー、今なんて」
「ああ!?好きだといったのだ、貴様を!!やってられるか馬鹿馬鹿しい!
もう知らん!我ももう勝手にやらせて……も、ら……」
リューは、そこで言葉を切った。
腕を組んでそっぽを向いていたその首が、ギギギと錆びた機械人形のようにヒロトを向く。
ヒロトは、ぽかんとしていた。
リューと目が合うと、頬に見る見る赤みがさしていく。
どう贔屓目に考えても、リューの突然の告白に仰天し、そして照れている反応だった。
リューは血の気が引いていく音を耳元で聞いた。
間違いなく、砂漠の底が抜けたようにざざぁ、と音を立てて青くなっていく。
そして次の瞬間には火を放たれたかのように真っ赤に染まる。
それはもう、頬どころか耳から首元、胸元まで一瞬にして。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
リューは絶叫すると、逃げ出した。
しかし運動方面はからっきしのインドア魔王、湖畔の砂に足をとられてあっという間にすっ転ぶ。
べしゃ、と湖畔に顔型がついた。
「リ、リュー、大丈夫か?」
「来るな馬鹿者ぉぉぉぉぉぉ!!」
駆け寄ろうとするヒロトの前に魔法障壁が現れてそれ以上の接近を許さない。
「忘れろ!今言ったことは違うぞ、その、あれだぞ!」
「……あれってなんだよ」
「五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い!」
ついに座り込んでしまう。
三角すわりで膝の間に顔を埋めるその恰好はなんだか妙にリューに似合っていた。
さすが魔王、こんな見晴らしのいいところで引きこもるとは常人にはできない神業である。
ヒロトは少し息をつくと、魔法障壁にそっと触れた。
そしてそのまま歩を進める。
魔王に近づくもの全てを拒むはずの絶対防御は、彼を拒絶することなく自然に侵入を許していく。
いつかのように障壁を砕いたわけではない。が、これは当然のことだ。
―――リューはいつだって、ヒロトを受け入れたいと願って止まなかったのだから。
「………………うー」
「………………………」
しかし、ヒロトは何をするでもなくリューの隣に座り込んだ。
「……俺は、誰かを助けようと思ったことがない」
何をするのかとちらりとヒロトを見やったリューは、その意外な言葉に驚きを隠せなかった。
だって、それを言ったのはあの勇者ヒロトである。
いくつもの戦歴を持ち、旅の途中で人々を苦しめる魔獣を斃し続け、
さらにはそれにも疑問を抱いて世界の調和なんてものを計るこの男が、
誰も助けようと思ったことがないなんて。
信じられない、というよりは言っている意味がわからない。
こいつは現に、数え切れないほどの人間を救ってきたのではないのか?
「―――そんなものはただの結果だ。俺は、俺にできることを続けてきただけだった。
助けを求められたから助けたし、おかしいと思ったから正そうとした。
その過程で運よく何人かの人が楽になっただけだろう。別にその人たちのためにやったことじゃない」
「………………」
「それに、暇だったしな。たぶん、世界中で俺より暇な人間なんてそういないと思うよ。
生まれもはっきりしていないし、物心ついたときには長旅の途中だった。
やっと落ち着いたかと思えば、勇者なんてものに選定されて放浪生活だ。
……俺には、するべきことなんて一度も与えられなかったのさ」
それはきっと、今まで誰にも話してこなかったヒロト自身の物語。
リューは黙って、それを聞いていた。
「だから、せめてその暇な時間を誰かのために使おうと思った。
何も持ってなかった俺が唯一沢山持ってたのが時間だったから。でも、それだけだ。
俺は結局一度も、誰かを助けたことなんてなかった。
目の前の敵を斬って、またどこかへ行って、同じことの繰り返しだ。
それでもいいと思ってた。だって俺にはやるべきことなんて何もないんだから。
でも―――」
そうして、ヒロトはリューを見つめた。
リューは心臓が止まるかと思った。こんな風にヒロトに見つめられたことなんてなかったからだ。
少なくとも今この時までは、一度も。
「今は違う。
助けたいと思ってるヤツがいる。
そいつのために、世界を変えてやりたいと思ってるヤツが」
それは。
「それが、お前たちなんだ。リュー。お前たちが俺を変えてくれている。
今回の件で骨身に沁みたよ。俺は、まだまだだ。お前たちの助けが必要なんだ、って。
リュー、お前の力をまた貸して欲しい。頼む」
リューは、熱に浮かされているようだった。
ヒロトの言葉は、ああ、まるでプロポーズのようではないか。
その言葉のひとつひとつがリューの全身を愛撫し、骨抜きにする。
今ここでヒロトに覆い被されたら、リューはへなへなになってしまうに違いない。
が、何か引っかかる。
「待て。お前『たち』?」
ヒロトは実に邪気のない、不思議そうな顔をした。
「リューと、ローラ。俺にとって大切な二人だから」
「………………」
リューはしばらく黙り込んだあと、奇声をあげて魔力を解放した。
―――クシャスに帰ってきたとき、すでに東の空は白んでいた。
湖だった場所はもうない。
魔王と勇者の宿命の戦いに巻き込まれて今ではクレーターが大口を開けているのみだ。
まあ、数日もすればまた水が染み出してもっと大きく深い湖になっているだろう。
二人ともへとへとになってしまったため、宿に辿り着いた途端にぐうぐうと折り重なって眠ってしまった。
ローラはあからさまに不機嫌そうな顔をし、リューの逆側、
ヒロトの腕の中に潜り込んで今は寝息を立てている。
まあ、無理もない。昨晩ローラは一睡もせずヒロトたちの帰りを待っていたのだから。
ちなみにジョンらは空に魔力波が幾筋も立ち上っていくのを確認したあと、
仲直りできたものと見てさっさと床についてしまったため目覚めはバッチリだ。
「うぅ、ん………痛てて…」
「………くぅ」
「ん…ヒロト様ぁ……」
二人にひっつかれてヒロトはかなり寝苦しそうだが、それも彼ららしいといえば彼ららしいか。
彼らは、一人だった。
ある者は王族であるが故に、
ある者は魔王であるが故に、
ある者は数奇な運命故に。
だが、彼らは出会った。
そして、想いあった。
それがどんな意味を持つのかはわからない。
しかし、それは決して不幸なものではないと。
彼らの在り方は、そう物語っていた。
「―――困ったなぁ……」
クシャス温泉宿の一角、高い煙突の上に少女は座り込んでいた。
足元には目も眩むような景色が広がっている。
もしバランスを崩したら、彼女は真っ逆さまになって、
地面に叩きつけられるまでの間、走馬灯を二巡ほどできるだろう。
しかし、この竦み上がる高さに少女は毛ほども恐怖を感じていないようだった。
「他人の空似じゃなくて、完全に本人じゃん、あれ」
彼女は視ていた。
そこから幾重にも物陰を縫って、砂粒ほどになっている彼の寝顔を。
少女二人にしがみ付かれて、ちょっと寝苦しそうだ。
「―――どうした?フミナ」
「……なんで、そんなところ、登ってるの?」
遥か下から仲間たちが声を掛けてもまだなお、彼女はブツブツと呟き続けていた。
「王になる、とか言ってたっけ………最悪だよ。
―――ヒロト・アヅマ」
ゆらり、と立ち上がる。
そうして何事か胸の前で手を様々な形に組み合わせると、
彼女の姿は一陣の風に巻かれて消えていった。
其の病はクシャスの湯でも・湖畔にて
~「新ジャンル達が銭湯にやってきたようです」英雄伝~ 完
最終更新:2008年02月10日 23:19