腕に抱くもの、背に負うもの

ヒロトが倒れ臥すのを見て、リューは空白となった。
眼球が理解するのを拒み、神経が理解するのを拒み、脳が理解するのを拒む。
彼女にとってヒロトとは絶対なるもの、恋愛を通り越して崇拝の対象ですらあった人物だ。
ヒロトを屠れるものがいるのならそれは他ならぬ自分以外にありえないと、そう確信していた。
それが、どうして、ぴくりとも動かないのだろう。
いきなり何もなかった空間から現れて、ヒロトを刺していた女は一体誰で。
ヒロトに、ヒロトに、ヒロトにヒロトに、一体何をしたのか。
何故ヒロトは倒れたまま動かないのか。

それが、わからない―――。


ローラは絶叫した。

「ヒロト様ぁぁッッッ!!!」

駆け寄る、躓く。それでも倒れず、走る。
ジョンも同じだ。ただし、こちらは拳を握り締めていた。

「―――ヒロトさんから離れろッ!」

ヒロトを刺した少女―――フミナは特に抵抗しようとせず、あっさりと退いた。
しかし逃がさず、リューマが立ちふさがる。

「答えろフミナ、なんのつもりだ!こいつが俺たちに何をしたってんだよ!」
「………………」

フミナは答えない。
その瞳は氷のようで、リューマが知る普段の明るく能天気な彼女とはまるで別人のようだった。
いや、リューマは確かに『この』彼女を知っている。
それは昔見たシノビとしての姉の貌。忠実に任務をこなす血も涙も無い裏社会に棲む者の貌である。

「フミナ、お前………」
「………そのひとは、ヒイヅルにとって危険なひとだから」

言葉を発したのはフミナではなく、クルミだった。
フミナの奇襲を【緊縛】でサポートした彼女は、勿論事前にこのことを知っていたのだろう。
しかし何故?
ヒイヅルにとって危険?
この、ヒガシ・ヒロトと名乗った剣士が、どうしてヒイヅルの危険因子になるのだろうか。
ヒガシ・ヒロトといえば知らぬものはいない、最強の勇者の名である。
リューマが最も手合わせしたかった人物の一人だ。
そして虚偽ではないということは、あのとんでもない剣技から見るに明らかだろう。
ヴェラシーラの勇者がヒイヅルの敵となる?なにがなんだか―――。

「説明はあとでするわ。一旦引く。リューマも来て」
「お、おい」

フミナは跳躍しようとする、その足元を稲妻が襲った。

「くっ!」
「―――させると思いまして?」

ローラがボルテックを抜き払い、憤怒と殺意の形相でフミナを―――フミナたちを睨みつけている。

「やってくれましたわね。おかしいとは思いましたわ。
 あの時、温泉にはあきらかに私たちとは別に、リューさんの魔力の強大さを認識している人物がいた。
 加えて極めて短時間で広まった事実と食い違いのある噂。
 わたくし一晩中ヒロト様たちの帰りを待って起きていましたけど、一度もそんな話は聞きませんでしたわ。
 もっと早くに気付くべきだった。ドラゴン襲撃という噂は、端から意図的に広められたものだということに。
 偽りの情報を流すのは諜報のお決まりですものね。
 初めから噂をダシにヒロト様に近づく―――そういう目論見だったのですね?」

「………………まぁね」

フミナは口元を歪めて呟いた。
まぁね、だと―――?
腹の底は煮えくり返っていても頭は努めて冷静でいようとしたローラだが、
こればかりはかっと視界が赤く染まった。

「こ、の―――!」

ローラは衝動のままに駆け出していた。
ヒロトを手にかけたこの女、とても許せるものではない。
見ていろ。今すぐその首に剣を突きたてて、ヒロト様にしたことを思い知らせてやる……!!

「――――――ッッ!!?」

しかしその途中で、ローラの疾走は止まった。
上っていた血が頭から音を立てて引き、紅潮していた顔が真っ青になる。
ばしっ、ばしっ、と足元の石ころが弾け砕けた。無論、ローラは何もしていない。
それどころかフミナも、リューマも、クルミもジョンも、
ただ彼女の波動の前に愕然と身体を硬直させていたのだった。
蛇を前にした蛙でもまだ余裕があるだろう。
それはまるで、認識した瞬間に発狂しそうなほど、深い絶望の具現だった。



リューが、

啼いていた。


「ア、あ、ぁあアあaぁあアアア、あァAaァアアああAあ―――!」


天が逆巻き、大地が堕ちる。
圧倒的な闇の力の前に世の全てを形作る理ががらがらと崩れていく。
魔王の咆哮に世界が共鳴しているのか。
そも、魔王とは混沌の化身である。
リュリルライアという人格は、言ってしまえばその混沌に張り付いた薄皮に過ぎないのだ。
リュリルライアは自らの意思を以って、その混沌から
わずかに魔力を汲み上げて操ることが出来る―――その『わずか』でさえ世界最強の“海”。
では、リュリルライアという『蓋』を無くした時、いったいどれほどのマナが荒れ狂うことになるのだろう?

そこに、意思も感情もない唯の暗黒が溢れようとしていた。

かつてヒトは一度だけ、それを経験している。
魔王侵攻。
勇者によって食い止められたその時もごく小規模ながらも同じことがおこったという。
万物が闇に溶け、存在する確立が変動して消滅するという世界の終わり。


すなわち―――事象崩壊である。


「リューさん!」

ようやっとジョンが叫ぶも、荒れ狂う轟風にかき消されて自分の耳にすら届かない。
ローラもフミナのことを忘れ、ひとまずリューを正気に戻そうと駆け寄ろうとする。
が、身体がぴくりとも動かない。
魔力に当てられて竦んだか?
いや違う。まるで身体がぴったりと収まる鋼鉄の箱に入っているような、
そんな閉塞感に肺が締め付けられるよう。
おお、なんということか。その戒めの正体は普段魔法障壁とよばれているものだった。
リュリルライアが闇の片鱗を以って自らに害を成す全てを拒絶する、
それが一帯に幾重にも幾重にも張り巡らされ、
空間を埋め尽くしてその場にいる全ての人間の行動を阻んでいたのである。

「ああァァアあ、Aぁあアああぁぁ、ああAaaああああァ――――――!!!!」

全員、心臓を動かすのがやっとの中で―――
しかし一人だけ、例外がいた。

症状を診ていたジョンの足元からゆらりと立ち上がり、
魔力圧で千切れそうな嵐の中を踏みしめ、リューの元へと歩み寄る。

「ひゅ、ひゅうっ……は、ぁっ―――」

ヒロトは血の気の失せた顔を歪め、それでも足を止めることなく、行く。

「嘘ぉ………」

絶句しているのは未だ動けずにいる全員、しかしフミナは愕然と呟いた。
信じられない。
フミナが毒針に使ったのは、かつて国ひとつを死の沼に変えたという
伝説の魔獣の牙から採取された史上最強の猛毒だ。
不死殺しとさえ言われるそれを直接体内に注入されてなお動くとは、あの男は何者だ?
―――と、いうより『何』だ!?

事象崩壊が止まり、荒れ狂う闇が静まり始める。
リューは目を見開いてヒロトを見つめていた。その両頬を、涙がつたう。

「ヒ、ロ……ト?」
「……なに、やってるんだ。………ばか……」

小さなその少女を抱きしめ、笑った。
自分は大丈夫だと。そう示して、ヒロトは改めて気を失った。

「ヒロト!」

―――どこかで、誰かが叫ぶ声がした。



………そもそも、ヒガシ・ヒロトなる人物は本来存在しない。
幼馴染みたるローラなら知っているだろうが、
ヒガシ・ヒロトとは読んで字の如く「東から来たヒロト」の意であり、
元々の彼は苗字となる家名を持っていなかった。
しかし仮にもヴェラシーラ王城に出入りするものとして
苗字がないのは不恰好だという意見からつけられた仮の名がヒガシなのである。
ヒロトはそれをそのまま外の世界でも名乗っているのだった。
だが、彼自身知らないのだろう。ヒロトの生まれと、本当の名を。
彼の出生を考えれば、父親がそれを知らせなかったのも頷ける話だった。

ヒロトの本名は―――いや、本来名乗るはずだった名はヒロト・アヅマ。
それは、現ヒイヅルを治める王朝アズマに仕える武家に生まれた子の名でもあった。

ヒイヅルは昔から内乱の絶えない国だった。―――いや、それはもう過去の話だが。
ヒイヅルは海に囲まれた島国であり、その国には世界でも類を見ないほどの多くの土地神が棲んでいる。
その数、一説には八百万とも言われているほどだ。
その中には高名な魔獣だけでなく、天使や神族なども入り混じり、
しかもそれが狭い土地の中共棲していたというからとんでもない話である。

有名なところで言えば天使と同種族であるテング、聖獣コマイヌ、水龍ヤマタノオロチ、
北の大地にコロポックルがいれば、南の島にはシーサーがいた。
灼熱龍リオレイアにも負けないほどの強力な魔獣もいれば、人より遥かに小さな下級神族まで、
ここまで多岐に渡る土地神を持つ国は他に例がない。

その中で、隣人や身内には寛容な反面、他の部族に厳しいヒイヅルの民はそれぞれの土地神に仕え、
自らの領地を広げようと争っていたのだった。
中には鬼神シュテンドウジのように自ら長として戦場を駆けた土地神もいるというから驚きである。

だがある時、海を越えやってきた聖堂教会の使者が介入し始めたことにより、
ヒイヅルの世界観は一変した。

聖堂教会のもたらした知識と技術は、
狭いクニで暮らしてきたヒイヅルの民にとって仰天することばかりだった。
たとえば、魔王侵攻と勇者の物語だとか。
神族が司る奇跡の業だとか。
自分たちにはない圧倒的な魔法技術、
遥か遠くの景色を観る水晶や空を飛ぶ箒などのマジックアイテムだとか。

世界の広さを、知ったのだ。

そうなればもう、狭い国で争っている場合ではない。
ヒイヅルの勢力図は見る見るうちに変わり、統合と分裂を繰り返し、強い国を作るのだと躍起になった。
そして最終的には最も力のあった一族が他の一族たちを取り仕切る形となり、
ひとつの王朝が生まれたのである。

―――それこそが、アズマ。

しかしヒイヅルを開かれた国にしようとするアズマに対し、
逆に国を外国の穢れから護るため、また仕えてきた神々のために
国を閉ざすべきだと考えるものたちも現れた。
サイと名乗る彼らは彼らでコミューンを作り、アズマに対するレジスタンス軍として対立を始めた。
これがヒイヅル最後の内戦といわれるセイホウの乱である。
アズマ軍は辛くもこの戦いに勝利を収め、統一を宣言したのだが、
サイはまだ各地でゲリラとして現れ、ヒイヅルの国政の悩みのタネとなっているのが現状だ。
それでも、彼らの中核となっていたサイの一族が絶えたことにより
彼らは事実上ただの烏合の衆となったのである。

が。

近年になってヒイヅルより大陸へ渡り、遥か、遥か西にある大国ヴェラシーラから
サイの血を引く者が、よりにもよって勇者として世界に解き放たれたことを知ることになった。

ヒロト・アヅマ。

アヅマ家の裏切り者キョウと、そしてサイ家の恥晒しユウの間に生まれた忌み子だった。



「………と、いうことは……」
「そう。キョウとユウはお互い結ばれない恋をし、そして生まれたヒロトくんを連れて外国に逃れた。
 そりゃあそうよね、ヒイヅルにいたら親子共々八つ裂きだもの」
「……………………」

クシャスの旅館にため息が満ちる。
あの後、リューは我に帰り、ジョンに説得されクレイドラゴンを再召喚して
クシャスの宿までひとっ飛び戻ってきたのだった。
フミナも放っておく手はないのだが、とにかく今はヒロトを安静にさせなければならない。
何を使われたのかわからないが、症状から診るにおそらく高位幻想種の神経毒だろう。
それはジョンの“霊拳”と同じく体内のマナに異常をきたす最悪の毒物である。
いわば『生命』そのものに毒を流し込まれたに等しいのだ。

ジョンが看病し、ヒロトがひとまず落ち着いたとき、
観念したように抵抗もせずついてきたフミナがとつとつと語り始めたのは歴史の話。
それが、ヒロトが命を狙われた理由。
ヒイヅルのシノビである彼女が知る、ヒロトの出生の秘密である。

「対立するふたつの家に生まれた子だから、命を狙われたのか!?そんな―――」
「……そう。でも、少し違うわ。重要なのは、ヒロトくんがサイの血を引いてるってことよ。
 さっきも言ったけどサイの一族は事実上、もう滅んでる。
 ヒロトくんはサイに生まれた最後の子ってこと。だから」
「サイの一族を根絶やしにするということか……何故、そこまで―――」
「………………」

悲痛な面持ちで俯くリュー。
それもあるだろう。だが、本質は違う。
それは、王族であるローラには予想が付くことだった。

「ヒイヅルが恐れているのは、ヒロト様がサイとしてレジスタンス軍を統率しようとすることでしょう?
 いえ、そうじゃない。サイの末裔が生き残っていると知ったことで
 レジスタンスの勢いが増すのではないかと懸念している。
 少なくとも、存在するだけで王朝を脅かしかねない存在だと……」

その冷静な口調に食って掛かったのはリューマであった。
その影にはクルミもいて、大人しくしている。

「は?なんだそりゃあ!?ヒロトにそんなつもりはねぇんだろ?だったら放っておいてやれよ!」
「ヒロトくんの意思は関係ないわ。レジスタンスがどう思うかだもの。
 それにわざわざ火の近くに油を置いておくような真似は見逃さない。それが古老たちってものよ」
「………………!!」

リューマは、覚えがあるのだろう。
ギシリ、と音がするほど奥歯を噛み締める。

「クソ爺どもが……!」
「同感。だから気が進まなかったんだけど……出会っちゃったからねー。本人に」

仕方ない、と肩をすくめるフミナ。
ローラは眉根を寄せた。
王族として、フミナの言うことはわかる。
ヒイヅルにとってヒロトは、居るだけで危険因子となりうることもわかる。
だが―――やはりわかるだけだ。ヒロトを殺そうとしたこの少女を許す気にはなれなかった。
それに、フミナは何も許してもらおうなどと微塵も思っていないだろう。
彼女は彼女で、シノビとしての筋を通そうとしただけだ。

「―――で?言い訳はそれだけか?」

だから、リューが紅の眼を向けても表情ひとつ変えないのである。

「貴様の事情、ヒイヅルの事情など知ったことか。
 ヒロトを殺そうとしたその報い、まさか受けずに逃げられるとは思っておるまい?」
「………まあね。あーあ、失敗したなぁ。焦らずに仲間のことも調べてから殺るんだった」
「貴方……!」

あまりに軽い物言いに、ローラのツインロールは怒りのままに帯電する。
リューも顔を歪め、漆黒のオーラを立ち上らせた。

「待ってくれ。フミナを殺そうっていうのなら、俺がそうはさせない。
 これは本来俺がやるべきことだったんだからな」
「……リューマ」

リューマはフミナを庇うように立ちふさがる。弟の広い背中を見て、フミナは目を丸くした。

「さっきの話でやっとわかった。なんでフミナが里を抜けた俺たちを連れ戻しに来たのか。
 里に必要ってことは、俺たちにしかできない任務があるってことだ。
 でもサイの力が衰えてる今じゃそんな任務、そうそうない。
 ……でも、世界最強の勇者の暗殺、とかなら話は通る」

フミナは息を飲んだ。図星だった。
フミナ本来の任務は暗殺の引継ぎ。そのために、ここまで来た―――。

「抜け忍っていっても俺は勇者として、クルミはその付き人としてちゃんと王朝に認められてるからな。
 今さら抜け忍だからどうのなんておかしいと思ったんだ」
「………………………」

リューマの隣に、寡黙な少女も立つ。

「クルミ、お前」
「……わたしも、暗殺に手を貸した………それに」

それに?

「相棒」

クルミは相変わらずの無表情―――ではない。
少し、ほんの少しだけ、微笑んでいる。
それで、覚悟は決まった。

「ってわけだ。俺たちは逃げる。どうやら任務は失敗したみたいだし、
 何よりお嬢さんたち、おっかないしな。女の子は笑ってる方が可愛いぜ?」

逃げる?
可能だろうか。
この少女たち―――いや、この燃えるような赤い髪の少女がとんでもない化物だということはさっき知った。
あれは敵うとか敵わないとかそういうレベルの存在ではない。
出会ってしまったが最期、生きるも死ぬも相手次第となってしまう絶対の捕食者である。
生き残るにはまず出会わないことが前提となり、そして状況は絶望だ。
彼女はここにいて、そしてリューマたちに殺気を放っているのだから。

………参ったな。

リューマは心の中で頭を掻いた。
この怪物少女の前では、捨て身でかかっても逃げる時間が稼げるかどうか。
それでも、命と技の全てを以って惚れた女とたった一人の肉親を護る。
ならば上等―――男冥利に尽きる死に様だろう。

リューマは身を低くして腰の忍者刀に手を添え、
リューは変わらず、構えもせずに王者の風格でシノビたちの死を見つめる。

両者の緊張が弓を引き絞るようにぎりぎりと高まっていき、そして―――。



「………よせ。リュー、ローラ」


静かな声が、緊迫した部屋に響く。

「ヒロトさん……!?」

医者として患者を護らんと傍で拳を固めていたジョンが、驚いてヒロトを見る。
はたしてヒロトは、おぼつかないながらも身を起こし、
押し殺した、しかし聴くものを制する声で二人の少女の怒りを静めていた。

「ヒロト、だが!」
「いいからやめてくれ。俺は、お前たちにそんなことはしてほしくないし、する必要もない。
 ―――俺は、生きてるんだから」

確かに、その顔色は悪いながらも死相は浮いていない。
呆れ果てた生命力である。完全な回復はまだ先だろう、しかしあの完璧な暗殺でも殺すことができないとなれば、
この青年を始末する術がいったいどこにあるというのか。

それにこの物言い。自分を殺そうとしたフミナたちを見逃すとでも言うつもりか?
力が全てと本能に刻み込まれている魔獣でもあるまいし、いったいどういう神経をしているのだろう。

「なんとでも言え。俺たちの仲間に一人そういうヤツがいてね。見習っただけだ」

リュー、ローラ、ジョンの脳裏にとあるドラゴン娘の顔が浮かんだ。
けらけらと明るく笑うその少女はご存知リオルである。
確かにリオルは過去ヒロトに殺されかけた、というか殺されたにもかかわらず
ヒロトと同じパーティで能天気に旅をしているが、
それはヒロトを許したわけじゃなくてジョンと一緒にいる間に
恨みつらみなんかどうでもよくなったというか、
そもそも状況が違いすぎるというか一緒にするなというか。
だいたい、リオルは初めの頃ヒロトに復讐しようとして襲い掛かっていなかったっけ?

「………とにかく、俺はフミナをどうこうする気はない。勿論、リューマやクルミもだ」

そういう、都合の悪い部分は全てすっ飛ばしてヒロトはそう言い切った。
お人良し、というのだろうか。こういうのも。
いやどっちかというと馬鹿とかアンポンタンとか土手南瓜とかそういう言い方のほうが合っている気がする。
とはいえ。

「参ったなー」

フミナはふっと笑った。
許されてしまっては敵わない。
元々気の乗らない任務であり、久方ぶりに弟と再会したテンションに任せて
抜け忍宣言までしたというのにそのターゲットがのこのこ現れたために観念して任務再開、
なんとか弟の手を汚さずに済んだと思ったら暗殺に失敗して、しかもターゲットには許される始末。
アズマ王朝お抱えの諜報機関、月影の里で名を馳せたフミナとあろうものがこの無様とは、
忍の矜持もボロボロではないか。
―――ま、それもいいか。
失敗してなんとなく気が晴れた。
肩の荷が下りたとはこのことだろう。
しかし任務が失敗、そして放棄したとなれば、この先フミナはどうなることやら。
やれやれである。でも、とりあえずなるようになるだろう。多分。

フミナはううん、と大きく伸びをするともそもそと座り込んでちゃぶ台のミカンを食べ始めた。
その余りにリラックスした行動に、リューたちはおろかリューマとクルミでさえ目を瞬かせている。

「お、おい貴様!何をくつろいでいる!?」

リューが激昂するも、フミナはひらひらと手を振って、

「んー?だってそっちの大将はあたしのこと許すんでしょ?だったらもうこの話は終わりじゃん」
「な!ヒロト様!あんなこと言っていますわよ!?」
「いいんじゃないか?その通りなんだし」

あんまりな態度にローラが抗議する。しかしヒロトは事も無げ。

「ローラ、ダメだこいつ!だいたい、放っておいたらまたヒロトを殺しに来る気だろう!」
「あはは、そんなことしないよ。だって虎の子のヒュドラの毒使っちゃったもん。
 アレで死なないんじゃ、あたしにゃヒロトくんを殺せる手段がないってことさね」
「ヒュド……なんですって!?」

その言葉にジョンが目を剥いた。

「知っているのかジョン?」
「ヒュドラですよ!
 かつて小国レルネに現れた伝説の大蛇で、
 あまりに強力な毒を持っていたためにレルネの地を死の沼に変えてしまったんです!
 その毒はヒュドラが倒されて500年たった今でも消えてなくて、
 レルネでは未だに草一本生えない不毛の大地が広がっているっていう!」

ヒイヅルではとうてい手に入らない、伝説級の猛毒だ。
これには流石のリューマも半目で冷や汗である。

「………フミナ、ヒロトにそんなもん使ったのか?」
「うん」
「殺す気か!」
「だーから、殺す気だったんだってば」
「ヒロト様ー!あんなこと言ってますわよ!?」
「落ち着け、ローラ」
「……お茶………飲む…?」
「あ、ありがとうございます」

いつの間にかクルミはお盆を持って働いていた。
よく気が付くいい娘だ。きっといい嫁さんになるだろう。

「すまない、俺にもお茶をくれないか」
「俺は酒がいいなぁ」
「くつろぎすぎだろ!で、貴様は何みかんの筋をスッゴイ丁寧に取ってるんだ!」
「フミナは…………意外と几帳面……」
「クルミちゃん『意外と』って何さ!?」
「あら、お茶美味しいですわ」
「………存外……几帳面……」
「言い直した!しかも意味同じだ!!」

ぎゃあぎゃあ。

とてもさっきまで息をするのも苦しいほどの殺気で満ちていたとは思えない。
一部ぷりぷりしている少女もいないこともないが、
もうここに殺意だとか決死だとかそういう物騒な単語とは縁遠い、ただの賑やかな空間になっていた。
その変わりようがなんだかおかしくて、ジョンは思わずぷっと吹き出した。
無論、彼の仲間で一番陽気なあの少女が山から帰ってきて
部屋の襖を蹴り飛ばして乱入するのはそう遠くないことであり、
今夜この部屋はほとんど宴会会場になるのだが。


騒がしかった彼らも疲れ果てたのかようやく静かになった頃、
空には大きな月が夜を煌々と照らしていた。
ここは旅館の屋根の上。
勇者たちはその天に浮いた杯を肴に、静かに酒を傾ける。

「……しかし、噂は本当だったんだな。最強の勇者ヒロト。ああ、この巡り合わせに感謝するぜ」
「感謝するのは俺の方だ。ヒイヅルの話、聞かせてくれてありがとう。不思議なもんだな。
 見たこともない、聞いただけの故郷を懐かしく思うのは」
「ん、感謝するならさー。俺とひと勝負」
「ダメです。ヒロトさんは、まだ全然本調子じゃないんですから」
「………主治医のセンセがそう言うなら仕方ねーけどさ」

男三人の酒盛りだった。
少女たちは寝静まったのか、それともひそひそと話しこんでいるのか。
まあ、こちらもお互い様なのだからどうあろうと知らん振り、である。

「ん。もう一杯いくかい」
「ああ、すまない」

清酒辛口、銘は奇しくも『魔王殺し』。
縁起でもない名前だが、実際にその魔王がひと舐めしただけで
目を回してひっくり返ってしまったと知ったら酒造の職人たちはどんな顔をするだろうか。
ヒロトは杯に満ちた酒をあおって、そんな想像に一人目を細めた。
そこへ、リューマが真面目な顔を向ける。

「ところでヒロト、あんたは本当にヒイヅルをどうこうする気はないんだな?」

その眼は鷹。
おちゃらけていたリューマのものとは違う真剣な眼差しは、
ヒロトの返答次第ではこの場での戦闘も辞さないと語っている。
たとえ相手の不調を突いての、彼の流儀から外れる戦いであったとしても。
それを受け止め、ヒロトは頷いた。

「ああ。俺はそんなことは望まない。サイを先導してアズマを潰すなんて―――俺には遠い話だ」

それを聞きながら、ジョンはずず、と酒を啜る。

実のところ、サイの思想とヒロトの願いは似ているのかも知れなかった。
ヒイヅルの民はもともと同じ土地に住む者とは結びつきが深い。
それはヒトに限らず、神族も魔族も関係なしだったという。
それが本当なら、まさにヒロトが望む世界そのものとも言えた。
ところがアズマがヒイヅルを統一してからはヒトは土地に棲む神々を遠ざけ始める。
聖堂教会の恩恵を受けるアズマは魔獣と神族を同格に崇めることはできなかったというわけだ。
土地神に仕えるサイにしてみればそれは純然たる裏切りである。
そこに、似たような思想を持つヒロトが介入したら―――。

……だが、ジョンは何も言わずに月を眺める。
ジョンも今日、はっきりと認識した。ヒロトはそんなことに心を砕いている場合ではない。
ヒロトの役割はとんでもなく重いのだ、と。

「……そうか。ま、あの娘の傍にいてやんなきゃいけないもんな」

リューマは酒徳利を逆さまにして振りながら、ぼそりと低い声で呟いた。
ヒロトの目がすっと細まる。

魔王リュリルライア。
その意味は彼らが知っているよりも―――おそらく、本人が自覚するよりも遥かに大きく深い。

なにせ、今日世界は滅びかけたのだから。

比喩でも誇張でもない、あのままリューが正気に戻らなかったら全ては無に帰っていた。
信じられない、しかし事実である。それを確信させるだけのことが起きたのだ。
この、たった一人の青年を喪っただけで、リューの心は簡単に闇を解放する。
おそらくはヒロトがリューを拒絶するだけで―――リューは世界を滅ぼすだろう。

この勇者の双肩に、世界の命運がかかっているのだった。

「………別の意味で、ですけどね」
「大丈夫だよ。俺はそんなことしないし、リューだって世界を滅ぼしたりなんかするもんか」
「するする。っつか、今日したろ」
「それはあれだ。ちょっとびっくりしただけだって」
「びっくりして世界が滅んでたまるか!」

ヒロトの暢気な言葉に目を三角にするリューマとジョン。
そのサウンドのツッコミに、杯に浮いた円い月がゆらっ、と揺れた。


――――――聖教国ナルヴィタート。
聖堂教会の総本山、大聖城セントレイ・ピアラの地下に、それはあった。

『聖域』。

そこは、薄い青に発光する魔法陣がびっしりと描かれた巨大ホールである。
その空間には、何もない。
中心に一本の柱―――いや、円柱状の水槽が高い天井まで伸びているのみだ。
およそ聖域などと大仰な名称に相応しくないただただ広い空間は、
一目見てそこがなんのために存在しているのか判断するのは難しい。
なにせ、扉すらないのだ。出入りは専用の転移用魔法陣で行われ、
そしてそこに入ることが許される人間はわずか三本の指で数えられるほどに過ぎなかった。

―――聖皇ラルゲリュウスもその一人である。

「………事象崩壊は」
「あれ以来確認されていないよ。警戒は続けなきゃ駄目だろうけど、
 とりあえずはもう眠ってもいいんじゃないかな」

重厚な法衣に身を包む、その老人の言葉に帰ってきたのは青年―――少年といってもいいほどの若い声だった。
聖皇といえば世界で最も力のある組織の、さらに最高権力者である。
いわば世界の頂点といってもいいその老人に、しかし声の主はまったく臆することはないようだ。

「……そうか。それはひとまず安心だが………混沌が再び不安定になっているのなら、
 我々の計画も急がねばなるまい。
 あれさえ実行できれば、もう終極に怯えることもないのだから」
「ヒトが為―――それならばぼくたちも協力を惜しまないよ、ラスゲリュウス聖下」
「………………………」

ラルゲリュウスは振り返る。
そこには蒼い光に浮かび上がる、一人の少年と一人の女性の姿があった。
少年―――天に選ばれし勇者テイリー・パトロクロス・ピースアローはにっこりと微笑み、
その背後に立つ戦女神ルヴィシス・アテニアは静かに目を伏せる。

「ああ。頼りにしている」

その背後では、液体で満たされた水槽に、ごぽ、とあぶくが浮いて―――そして、消えていった。



                 腕に抱くもの 背に負うもの~新ジャンル「勇者」英雄伝~ 完

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最終更新:2008年02月10日 23:26
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