張り詰めた空気がその場を支配していた。
放課後の剣道場、時刻は午後六時十分前。
部活が終わるその前に、彼らが剣を交えるのはすでに定例行事となってしまっている。
他の部員たちはおろか部活が早く終わった部活の連中、
さらには帰り際の教師たちまでもが剣道場に集まり、彼らの試合を固唾を飲んで見守るのだった。
―――いや、正確には彼ら、ではないか。
彼女を、と言うべきだろう。
「………………………」
「……………………………」
相手の剣先を注意深く読みながら、じりじりと身体を横にずらし
隙を伺う女子部員は剣道部副部長、2年C組出席番号15番、調辺 巻(しらべ まき)。
体力的に不利な女性でありながらその実力は剣道部№2であり、
彼女の打ち込みは稲妻の如き速さを持つといわれている女丈夫なのだ。
観客たちは剣道部の姫君……否、学園の姫君とも謳われる彼女が目的で
剣道場にやってくる………………と、いうのは知らぬ者の誤解である。
実際はこの観客ども、本当に真面目に剣道を観に来ているのだから。
最初は麗しい女剣士である巻目当てに来る者も、彼らの勝負の前には手に汗が滲むというもの。
ああ、どんな素人にだってわかる。
巻は、強い。
しかし、勝てない―――と。
隙などない。それはもう、紙一枚入ることも出来ないほどに、無い。
打ち込めばそれで負けるのは確実だ。
だから巻は―――それでも、隙を伺うしかないのだった。
彼は泰山の如く不動。
巻は時計の針のようにくるくる回り、気声も虚しく静まり返った剣道場に響くのみだ。
だがこうしていても埒が明かず、だから仕方なく攻めるしかな――――――
ほら。踏み込んだ足が床板を叩く前に、もう竹刀が目の前にある。
――――――なんで。
「面ぇぇぇぇええぇぇえぇぇえぇんンンン!!!!」
面有り一本。
剣道部部長、東 洋人(あづま ひろと)の勝ち。
「また手も足も出ませんでしたわ……」
帰宅後、巻はがっくりと肩を落としていた。
こたつに落ちてさらりと広がる天光の如く煌くブロンドロールは、
とても長く面に蒸れていた少女のものとは思えない。
しなやかでいて豊満なスタイル、金髪碧眼の端麗な容姿、文武両道を地で行く優秀さ。
どこをとっても一流であることから巻は所属するこの巨大な学園でも結構な有名人になっていた。
さぞやモテるであろうと思われる彼女だが、
そのハイスペックの割には表立って告白しようという輩は滅多にいない。
何故なら、巻が洋人にぞっこんであるというのは周知の事実であるからして。
「………貴様、洋人に敵うと思っていたのか?とんだ思い上がりだな。
その無駄にでかい乳をそぎ落として詫びるがいい」
「言いすぎじゃありませんこと!?」
こたつの向こう側で鼻を鳴らすのは同居人の斗江流 璃羽(とえる りう)である。
炎のように鮮やかな赤い髪をくるくると弄り、紅玉色の瞳を半眼にして巻を睨んでいる。
彼女も巻に負けず劣らずの美少女であるが、いかんせんどことなく心許無い(胸元が)。
巻によくつっかかるのは、羨望の裏返しが多分に含まれているだろうことは明らかだった。
二人とも好戦的な性格であり、しょっちゅう喧嘩ばかりしている彼女たちだが、
ではお互い嫌いあっているというとそうでもないのが人間の不思議なところ。
「しかし、実際我にはわからんな。洋人に挑んで貴様に何の利があるというのだ?
聞くところに拠ると稽古ではなく、模擬戦のような形式らしいではないか。
実力差がありすぎて鍛錬にもなるまい」
璃羽がぼりぼりとやりながら、齧りかけの胡麻煎餅をひらひらと振る。
もちろん、巻が弱いというわけではない。
ただ、洋人は生まれる時代を間違えた……というか、
生まれる『世界』を間違えたような常識離れした腕前の持ち主なのだ。
その太刀筋たるや、実家の道場に時々やってくるタツジンとかいう爺さんたちが
弟子に取りたいとやってくる程。
巻だって、勿論それはわかっている。
幼い頃より洋人の実家、東道場の門下生として世話になっていたのだ。
まだ素振りもおぼつかなかった巻の眼に、
既に大人顔負けの剣の腕を持っていた洋人がどう映ったのかは想像するまでもないだろう。
色々な意味で、洋人には巻では勝てっこない。そんなことはわかっているのだ。
それに実際は、勝ち負けとあまり関係なかったりする。
挑むことが重要……。いや、巻が洋人に無謀な挑戦を続ける真の意味、
それは洋人の練習のメニューを増やし、洋人の発汗をさらに促すことにあるのだった。
「………は?」
「洋人様ほどになると、ちょっとやそっとの運動では息ひとつ乱しませんわ。
そこでわたくしはメニューに模擬戦を組み込むことによって、
洋人様に少しでもいい汗をかいていただこうとしていますのよ」
どうだ、とばかりに胸を張る巻。確かに胸は立派だが、意味がわからない。
「そりゃあ勿論、洋人様の香りをより堪能する為ですわ!汗をたっぷりと吸った胴着や防具の芳醇さ。
嗚呼、どんなに高級なアロマよりも求めてやまないものですわ!!」
巻はなにやらウットリしている。
璃羽はお花畑でトリップしている巻をかなり引いた目つきで眺め、
二枚目の煎餅に手を伸ばした。
「………変態」
「失礼な。だいたい、貴方はどうなんです?貴方も洋人様のことを好いている筈。
愛する殿方の香りに包まれたいとは思わないのですか?」
「ぐ」
思うところがあったのか、璃羽は煎餅を喉に詰まらせたような声を出した。
そう、璃羽も洋人のことが好きなのだ。巻にはよく分からないところで二人は出会い、
凶暴な猫のようだった璃羽は洋人にすっかり懐いてしまったのだとか。
知らないうちに洋人に近づいていた璃羽は巻にとって最も危険な存在といえよう。
言葉に詰まった璃羽に、巻は畳み掛けるように続ける。
「曰く殿方は視覚で恋をするといいますが、それなら我々は一体洋人様のどこに惹かれるのでしょう?
―――それは全て。そう、洋人様を構成する全ての要素ですわ。
少なくとも私はそうですもの。
洋人様の容姿を、声を、肌触りを、そして匂いを。
五感を総て洋人様で満たすことこそ史上の悦びとしましてよ。
なれば、それを際立たせようと努力することもひとつの愛の形ではなくて?」
立ち上がり、高らかに演説する巻。
その姿は、全校集会の壇上で自己をアピールする生徒会長候補生のようでもあった。
どこかの王族の如きオーラに気圧され、さすがの璃羽も二の句が継げない―――と、
それまで浴室にいたらしい洋人がひょっこりと顔を出した。
「なあ巻、璃羽。俺の手ぬぐい知らないか?」
上半身裸で、ほこほこと湯気がたっている。どうやら風呂上りのようだ。
年頃の乙女ならイヤンな声のひとつでも出るところだが、
璃羽が空き家の多い洋人の屋敷に転がり込み、
それに巻が便乗して三人で暮らし始めてからもう長い。
上半身くらいじゃ鼻血も出さない巻たちである。
「てぬぐい?」
「ああ。部活で使ったヤツ。汗かいたから洗っておかないと臭うんだけどな」
「見つけて洗っておきますわ。お気になさらず」
「……ん。悪い」
洋人は引っ込んでいった。
ガラガラピシャンと閉じられた扉の向こうに洋人の姿が消えたのを、たっぷり十秒ほど見送ってから、
璃羽はゆっくりと首を回して巻に目を向けた。
「変態」
「愛の形ですわ」
愛イコール変態と璃羽は認識した。
「………まったく、巻の異常性癖にも困ったものだな」
深夜二時。
璃羽はぬぎぬぎと衣服を脱ぎ捨て、下着姿になっていた。
風呂のお湯はもうすっかり冷めてしまっているだろう。
これから追い焚きするのも面倒だし、シャワーをさっと浴びる程度でまぁいいか。
「しかし愚民どもめ、0.02秒差ってありえんだろう常考……」
Vipperにとって安価争奪とは戦争にも等しいのである。
それはもう、ベトナム戦争時最も激しい攻防戦が繰り広げられたというケサンの地を髣髴とさせるほどに。
みんな……だめ人間丸出しだった。
「…………………」
と、ふとブラを洗濯カゴの中に放り込もうとして、その手を止める。
こくん、と喉が鳴った。
――――――五感を総て洋人様で満たすことこそ――――――
逡巡、しかし躊躇う指先はゆっくりとカゴの中を漁っていた。
探り当てたのははたして、見覚えのあるTシャツである。
今日一日、洋人の素肌に触れていたものだ。
洋人の逞しい胸元を、広い背中を、滑らかなラインを描くわき腹を、お腹を、肩を、首元を―――。
くん、と匂いを嗅ぐ。
柔らかな布地の匂いとともに広がるのは、紛れもない。洋人の香り。
とくん、とくん、とくん、とくん。
心臓が早鐘のように打ち始める。
気が付いたら、Tシャツを抱きしめて顔をうずめていた。
変態。
巻に向けて放った言葉が脳裏を掠める。
しかし掠めるだけだ。この、耐え難い欲求の前には大河を流れる木の葉よりもささやかな抵抗。
堰を切ったように溢れかえるこの想いを止めることなどできはしないのだ。
思い切り、深呼吸をした。
「………………ふぁ、」
鼻腔に満ちるその芳香に、思わず声が出た。
まるで洋人の胸に抱かれていると時のような―――。
どくん、と全身の脈打つ音が聞こえた。芯から火照り、自然と身をよじる。
「はふ、ふ、ぅあ―――」
息が荒くなる。そのたび、肺に―――洋人が入ってきて、おかしくなっていく。
それはそうだろう。愛おしい男の匂いに満たされ、侵されているのだ。平常でいられるわけがない。
鼻腔から気道を駆け抜け、肺に満ちて肺胞のひとつひとつに染み込んでいく。
「洋人、ああ、洋人……!」
腰から力が抜けて、へたり込んだ。
ぴたり、と布地が張り付く感覚がする。
辛うじて身につけていたショーツが愛液を吸ってしたたらんばかりに濡れそぼっているのだ。
璃羽は、その邪魔な布っきれをとってしまう。性交には無用の長物だ。
璃羽の手は、洋人の手。やや乱暴にショーツを脱ぎ捨て、
彼の指をびしょ濡れになっているそこに這わせる。
「~~~~っっ!!」
気持ちいい。
当然だ。
洋人に包まれているのだから、それが不快なわけがない。
器官から体内に侵入した彼の匂いは赤血球、ヘモグロビンと結合し、
血管を経由して璃羽の身体を内側から犯していく。
満たされていくとはこのことか。全ての臓腑が狂喜しているのがわかる。
心臓は普段の規則正しい真面目さを忘れ、壊れたエンジンのように乱れよがっていた。
全身に回った匂いは蛇の毒の如く璃羽の神経に絡みつき、
脳髄を麻痺させてたったひとつの信号だけを送り続ける。
曰く、狂えと。
愛する男に隷属せよと。
本人ですらない。
その者を構成するひとつの要素にさえ、はしたなく浅ましく屈服せよと。
璃羽は拒めない。
拒むという選択肢さえ見えていないだろう。
璃羽の目の前はとっくに色欲に染まってしまっていた。
「洋人、洋人、洋人―――好き、ぁあ、好き、大好きぃい……!!
や、そこ、どこを触って……ぁう、やだやだ、駄目ぇ、いじめるなぁ……!!
は、ぁう―――好き、ン、キス、キスしてぇ……!ン、んぅ、あふ……。
そこっ、やぁ、汚いから……!ううん、嫌じゃない。洋人なら、ああ、洋人、洋人ぉ……!
はぁ、はぁあぅう……おひ、おひりぃ……!すき、好きぃ……!
洋人にされるの、好きぃ……………!!あ、あ、ああ、あ……!
いく、いく、洋人、我、もぉお………!!」
そして、少女は絶頂を迎える。
一心不乱に敏感なところをまさぐっていた璃羽は背を弓のようにしならせ、
くたくたとそのまま仰向けに倒れこんだ。
「はぁ、はぁ、は、ぁ――――――」
気だるい、心地いい倦怠に身を任せる。
ぼんやりとした頭で、もう巻のことをとやかく言えないな、なんて思ったりした。
Tシャツはもうどろどろのびしょびしょだ。
汗やら唾液やら愛液やら、とかく色んな汁を吸って重さまで変わっていそう。
勿論そこには既に洋人の匂いは残っておらず、代わりにむせ返るような雌の臭いに上書きされていた。
「………困ったな」
とりあえずこっそり洗濯するのは必須として、
しかし璃羽は洗濯機もろくに使えない駄目な娘さんなのであった。
未だ自慰の余韻を残す、生臭い息で大きくため息をついた。
「仕方ない、適当に手もみで洗って吊っておくか。どうせ風呂に入るし―――」
よっこいせ、と身を起こそうとして、
「んん……」
洗面所に入ってきた巻と対面した。
「………………………………」
「……………………………………」
「……………………………………………」
「……………………………………………………」
痛いほどの沈黙が流れる。
―――現在、だいたい夜中の二時半といったところだろうか。
朝日とともに目覚め、身体を起こす為にランニングに出かけるような
健康的生活を送る巻には随分な夜更かしであった。
しかし、璃羽はあまり驚かなかった。
おそらく、それは巻の方も一緒だったろう。
なにせ璃羽は素っ裸でいろんな体液でデロデロになった洋人のTシャツを握り締め、
巻は巻で乱暴に羽織っただけというような異様に乱れたパジャマ姿で、
やはりデロデロになった洋人のものと思しき手ぬぐいを手にしていたのだから。
数秒ほど目を合わせただけで、少女たちは通じ合った。
普段はいがみあっている二人だが、そこは似たもの同士。
いざというときの以心伝心はサッカー日本代表を遥かに凌駕するレベルのものを持ち合わせている。
シンクロニティチェイン、成立。
つまり見なかったことにしたのだ。
「………………………………」
「……………………………………」
璃羽はTシャツを手にしたまま浴室へと入って行き、
巻はてぬぐいを持ったまま洗面台に水を張り始める。
「………………………………………………」
「……………………………………………………」
水音がざぶざぶと響く中、今度から早目はやめに目当てのモノは確保しておこう、
そう固く心に決める少女たちであった。
彼薫る洋人~新ジャンル「くんくん」英雄学園伝~ 完
最終更新:2008年02月10日 23:27