槍姫来たりて

彼女の最も古い記憶は、幼い頃住んでいた屋敷の近くにあった、花畑の中だった。
いったいいつのことだったろうか、まだ彼女が姫君でいるのを許されていた時代の話である。
その頃の彼女は今名乗っているようないかめしい名前ではなく、
もっと柔らかな、女の子らしい名前で呼ばれていたっけ。
よく晴れた日には、大好きな母親と、大好きな愛猫と一緒にピクニックに出かける。
桃色の花にじゃれついて、花粉が鼻についてくしゃみをする猫を抱きかかえて玉のように笑い、
とびきり綺麗な花を摘んで、冠を作って母の頭にかぶせてあげた。
もちろん、自分の頭には母の作った花の冠だ。
毎日綺麗な服を着て、メイドや執事にわがままを言って、猫と一緒に窓辺で眠って、母の胸に顔を埋めて。
それは暖かで、優しくて、陽だまりのような、柔らかな想い出――――――。

―――その安息が消えるのは早かった。
まるで真冬に咲いたダンデライオンの花が枯れるように。

彼女はある日、母親や屋敷や、花や猫や―――『姫君』であることから引き離されることになる。
槍術の達人と世間で評される仙人の元へ、知らないうちに弟子入りさせられていたのだ。
高い高い切り立った山の上に、人とも枯れ木ともつかぬ老人と二人。
それはまだ少女であった彼女にとって、龍の巣に取り残されるのと大差ない恐怖だった。
王の姦計、あるいはひとかけらの慈悲だったのかも知れない。
父は、将来彼女を『勇者』として殺すことを既に決定していたのだ。

そもそも彼女と母親が王城ではなく、郊外の屋敷に住んでいたのは彼女の弟が生まれていたからである。
弟が生まれたことにより女性である彼女が王位を継ぐことはなくなり、
また妾の子であるが故に城の人間から疎まれ、半ば追放されるような形で郊外へ移り住んでいたのだ。
それでも、子供の自分にはそんなことは関係なかったし、
氷のように冷たい目をした父がいる王城は広くて寒く、暗く、彼女は大嫌いだった。
父は王として決して有能な人間ではなかったために、ますます彼女を疎ましく思っていたのだろう。
妾に生まれた女の赤子など王権にとって邪魔でしかない。
それでも下手に扱おうものなら、古蛇のように権限を狙う家臣たちにとって絶好の口実となってしまう。
気が付けば王権は虫食いだらけ、なんて、邪魔どころか災厄の類ではないか。
………それに何より、彼女が生まれ持つ失われた筈の能力こそが王の最大の気障りだった。

孤独の王家の、闇の力。

それは神代の時代、魔王侵攻の折に彼らが力を手にしようともがいた傷跡ともいうべき力だった。
かつては畏敬の対象として崇められたそれも、時代が変われば異形の怪物でしかない。
どうにかして国外へ追放し、『なかったこと』にしなければ―――と。

それを、彼女は理解できる。
こんなもの、人の世に必要だとはとても思えない。それは父とまったく同じ意見だからだ。
だから、彼女は恨まなかった。
自分を疎む父を、自分を謀った父を、自分を追放した父を、怨嗟の目で見たりはしなかった。


だが。

―――土色をした細い手が、

あれは。

―――彼女の頬を撫でて、

何の冗談だ。

『立派になって……わたしの、フレイア―――』


師匠の元に弟子入りして数年後、勇者選定を受けるため故郷に戻った彼女を待っていたのは、
変わり果てた母と変わらない父王の眼差しだった。


忌み子を産んだ妾は王には要らず。関係は悪しき過去として断ち切られ、使用人すらろくにいない辺境の屋敷に
一人捨て置かれ。病を抱えた身体に充分な看病もせず、まるで、死こそ望むかのように。ああそれが貴様の望ん
だ結末かそんな仕打ちを、、するほどにあたしたちは罪深かったのか否いな其れは貴様こそが貴様こそが貴様こそ
が受けるべき傷傷傷この槍を以って貴様が持つ。よう仕向けたこの神の雷槌を以ってして貴様の、心臓を串刺し
にいや其れでは足りぬ片手を雷槌で片手を獄炎で縫い付けてゆっくりとゆっくりと薄皮一枚一枚を玉葱の皮を剥
ぐように切り刻みすり潰し焼いた塩を揉みこんで喉が枯れるまで懺悔しろ謝罪しろ悔恨に絶望しろしかし許さぬ
仕出かした大罪に慄きながら泣き叫び芋虫のように這い蹲り死ね死ね死ね死ね死んで償え償え償いはあたしのこ
の手で下す下す下して下して殺す殺す殺す殺す殺す殺して殺して殺して殺して殺してやる――――――!!!!


『契約執行――――――!!!!』


生まれたのは殺意。
それを、初めて自分の意志で解放した。
そしてそれがそのまま、彼女の目的となった。
無垢なる少女を魔への贄として、彼女は疾走した。

「殺………して、や……る………」
「………なんつう寝言ダ、お前。本当に女カ?」

ばち、と目を見開く。
一瞬にして脳味噌の覚醒を終え、同時に、安物のシーツを跳ね飛ばして身を起こした。
高速で呪文詠唱を終え虚空から愛槍を召喚し、暗闇に向けて突きつける。
ジジジジ……と帯電する神槍の瞬きに照らされて、安宿の部屋の一角に人影が浮かび上がっていた。

見知った姿は相変わらず。黒衣を纏った姿は周囲の闇に溶け込んで輪郭がはっきりしない。
そして違わず、正体の方もはっきりしない男だった。
彼女もこいつとの付き合いは勇者に選定されて以来となるが、どうにも掴み所のない性分は苦手である。
これで彼女と同じ『勇者』だというのだから聖堂教会も何を考えているのかわからない。

「………お前か、レイジュ・ランディス」

男のような言葉使いは彼女の特徴だ。始めの頃は
意識して使っていたこの口調も、今ではすっかり地になってしまっている。

「はいはい、俺ですよっト。姐さん、いい加減俺が来るたび槍突きつけるのやめてくれなイ?」
「お前が毎回妙な時間に来るからだ。それと姐さんって呼ぶな」
「よう、マリアちゃん。相変わらず美人だネェ」
「にゃー」
「マリアに触るな」

バチッ、と槍に伝わる電気を弾けさせる。
レイジュはハイハイと肩をすくめた。

「それで、何の用だ」
「ン?使命の伝達だヨ。まったく、大聖城の人間は人使いが荒いったらないんだかラ」

―――伝達だって?
およそ勇者の仕事とは思えない。子供の使いじゃあるまいし、まるっきりパシリではないか。

彼女はため息をついた。いちいち問いたださないのは、この男について
いくら詮索しようとも無駄だということがわかっているからだ。
一緒に組んで使命を遂行したこともあるから余計にわかる。『わからない』ということが。
飄々とした自由人であるくせに、ある時は冷徹な殺し屋、またある時は使い走りの伝達屋。
その全てを、この男はまったく苦もなく受け入れているように思う。
不満はないのか、と聞けば、あっけらかんとして無いと答えるだろう。

まあ、いい。レイジュのことより今は使命だ。

「で?今回は何をすればいい?」
「久しぶりの大物だヨ。場所はラダカナ、牙の森。

 ――――――ドラゴン退治ダ」



ジョンが教会の扉を開いたのは、結局町に入ってから二日目。
それも日が傾き始めてからのことだった。
診療所で薬を売ってお金を稼ぐのが最優先事項だったので、
そもそも教会に寄るのをすっかり忘れていたのだ。
町に入ったとき、教会に立ち寄るのは勇者の義務である。
表向きは祈り、祝福を受けるためだが、その実、聖堂教会が勇者の動向を把握するためだった。
もっとも、それを込みであっての勇者なのだから文句は言っていられない。
性分として、リューマあたりは嫌がりそうだが。

「ビサレタの町へようこそ、勇者様。私はビサレタ教会で神官を
 勤めさせていただいておりますワーニュと申します。お会いできて光栄です」

ビサレタ教会の神官は素朴な印象を受ける恰幅のいい男だった。
喋るたび、たっぷりとたくわえた口髭がもそもそと揺れる。

「こちらこそ。本当は昨日のうちに到着はしていたんですけど、少し他の用事がありまして」
「心得ておりますとも。さぞ、大変だったでしょう」

ジョンがはっきりと診療所でアルバイトをしていたと言わないのは訳がある。
勇者は、原則的にお金を稼ぐことを禁じられているためだ。
社会的に神職者と同じか、それ以上に特殊な立場になる勇者はまず、
全ての行動を慈善に由来するものとして行わなければならない。
たとえば、『薬が足りなくて困っていたようだから親切心で調合した』という風に。
そこに報酬を求めてはならない、それが勇者なのだ。
その代わり、教会や国の施設は無料で利用することができる。
だから、別にお金が無くても困らないシステムにはなっている―――のだが。
無論、それは表向きも表向き。お金が無くては普通の店で買いものもできないし、
十分な装備を揃えるのもままならない。そこで勇者としてではなく一個人としてならば、
おおよそどんな仕事でも引き受けてもいいことになっている。
身分を明かさなければたとえ一日賭博場にいても問題はないのだ。

………だから、公の立場にあるべき神官が『心得ている』と言ったことに対して、
ジョンは少し訝しげに思った。

「え?」
「しかし、噂には聞いておりましたがこうしてお目にかかるとまた違うものですな。
 失礼ながら、男性と見まがうばかりの凛々しい麗人とのことでしたのに、同僚はなにを言っているのやら。
 とても歴戦の槍使いとは思えないほど可愛らしい―――ほ、これは無礼が過ぎました」
「はい?」

楽しげな神官と裏腹に、ジョンは何の話かわからない。
槍使い?ジョンの“霊拳”は得物を必要としない徒手空拳だ。
それ以前に、ジョンが拳法家でもあることを知るものは聖堂教会にはほとんどいないはず。

「それに、その強さも噂以上のようだ。あの暴れ竜をして目立った汚れひとつないとは―――」
「ま、待ってください!」

また訳のわからない話が出てきて、ジョンはたまらず待ったをかけた。
暴れ竜?なんの話だ?

「は?牙の森のグリーンドラゴンを退治するという使命を掲げておいでになったのでしょう?」
「………………………ボクが?」

ジョンと神官はお互い目を瞬かせた。
が、すぐに人違いだと悟る。おそらくはこの町の近くにドラゴンが棲む森があって、
そのドラゴンを退治するようある勇者に使命が下ったのだろう。
勇者なんてそうそうお目にかかれるものでもないから、この神官はジョンをその勇者だと勘違いしたのだ。

「も、申し訳ない!勇者さまが偶然この町においでになっているとは思わず、つい」

それはいい。それより、さっきの話だ。

「すみません、この町にE.D.E.N.はありますか?」
「え、ええ―――情報局の施設が建てられるほど大きな町でもないので、
 この奥に。といっても、町の住人も私もあまり利用しないので埃をかぶっていますが」
「お借りします」

ジョンはE.D.E.N.を起動すると、すぐに勇者権限を使ってレベルをフルまで引き上げた。
検索事項は『勇者』。すぐに現れる最新の情報―――ヒロトやジョン、リューマといった勇者たちのデータだ。
確認されている現在地や健康状態、外見の精密画像、そして下された指名の数々―――あった。

「牙の森、グリーンドラゴンの討伐―――これか……!」

男性と見まがうばかりの麗人とくれば当てはまる勇者は一人だけだ。
ヒロトと同じ、魔獣退治の専門家。ヘルハウンドの群が棲むマザドゥの森に単身挑み、
ヌシたる地獄の番犬ケルベロスを討ち取った英雄である。


その名は、ブレイズ。

――――――ブレイズ・トゥアイガ・ジャルシアといった。




ジョンは結局、祝福の言葉も受けずに大急ぎで宿に戻ると、
すぐにヒロトたちが取っている部屋のドアを叩いた。

「ヒロトさん、ちょっいいですか」

返事を待たずにドアを開ける。
中では、ローラとリューがこっそりビスケットを食べていた。
中途半端に腰をあげた体勢のまま目を丸くしているローラとリューには目もくれず、
ジョンはきょろきょろと部屋の中を見回した。
………いない。

「二人とも、―――お菓子は別にいいですから!ヒロトさんはどこへ!?」
「あ、そのだな。これは、別に買い食いとかじゃなくて。バ、バイトの」
「ヒロトさんは!どこに行ったんですか!?」

わたわたとしている二人に一喝する。
ローラもリューも、その様子で何か尋常ではないことが起きたのだと気付いたのだろう。
ビスケットの袋を荷物の中に放り込むと、ぷるぷると首を振った。

「いえ、まだ帰ってきていませんが」
「帰ってきてない?」
「ああ。役所でグリーンドラゴンの退治を依頼されたとかで、朝から森に。
 ヤツのことだからまた面倒くさい回り道をしているのではないか?」

………それならなんでリューがここにいるのかとか、そういう質問はあと回しだ。
嫌な予感が当たった。教会で『暴れ竜』と言っていたから、
ヒロトが首を突っ込んでいる可能性は十二分にあったのだが―――。
……また面倒なことになった。どうも最近、勇者に縁があって困る。しかも好戦的な勇者にだ。

「勇者?」
「おい、なんで勇者が?」

ジョンはこめかみを押さえたまま、事情を説明した。
教会はヒロトがドラゴンの事件に手を出していることを知らない。
役所からの正式な依頼ならともかく、ヒロトはおそらく身分を隠し、
アルバイトの一環として仕事を引き受けたのだ。
そこに運悪く、教会の使命が重なってしまった―――本当に、
運が悪いとしか形容しがたい。いったいどんな確立なのだ、それは!?

「ブレイズ・トゥアイガ・ジャルシア………そう、あの娘が……」
「知っているのか、ローラ」

ローラはどこか寂しそうにこくん、と頷いた。
ブレイズはローラと同じ一国の第一王女だ。
お互い将来は国を継いで民の上に立つべき存在であり、幼い頃より
王家の集会ではよく顔を合わせたのだという。

「おい、それがなんで勇者なんぞをやっているのだ?」

勇者とは使命を終えるまで自分の国にも帰ることができない世から切り離された存在。
そうでなくても長く、過酷な旅に耐えなければならないのだ。
勇者に“選定”するなど、とても姫君に対する仕打ちとは思えなかった。

「………あの娘は正妻の子ではなかった。そして、後に正妻、王女が男子を産んだ……
 と、ここまで言えばわかりますか?」

そう。ジャルシア第一王子の誕生により、彼女の立場は急落する。
ただでさえジャルシアは古いしきたりを色濃く残す閉鎖的な国だ。
女性が国の頂点に立つかもしれないということでただでさえ風当たりの強かった立場が、
男子が生まれたことでとうとう崩れ落ちたのである。
だが仮にも王女。王族を国から追い出すのはそうそう簡単なことではない―――例外を除いて。

「ジャルシア王は王女を勇者として世界に差し出したことで、聖堂教会の信頼を得、
 さらに邪魔者の排除を成功させた。……その真意はどうあれ、
 世間から見れば献身的に見えるのでしょうね、身内を差し出すというのは」
「―――だが、たまったものではないだろうな。その、ブレイズとやらに言わせれば」
「そう、だからこそかの勇者は他の誰より聖堂教会から下された使命を忠実に実行する。
 遂行し、そして凱旋を果たすために」

そう締めくくられた。

「………………………………」

一同に沈黙が訪れる。
それは、また事態が悪いほうへ傾いたことを意味していた。
ブレイズは決して使命の遂行を諦めたりはしないだろう。だがそれはヒロトも同じだ。
グリーンドラゴンを必殺に掛かるブレイズを黙って見過ごすはずが無い。
そうなれば非常にまずい事態が待っている。
温泉街クシャスでリューマと出くわした時よりある意味、遥かに悪い。
今回は流石に故郷に由来する因縁はないとはいえ、相手はリューマのような不良ではなく、
冷徹に獲物を狩る魔獣殺しの勇者なのだ。話が通じるとはとても思えない。
さらに最悪なのは今回、ブレイズの背後には聖堂教会が直接絡んでいるということである。
使命を果たすために派遣された勇者の邪魔をするということは、
つまり民衆を助けるのを邪魔するということであり、ひいては聖堂教会に楯突くということに繋がる。
聖堂教会を敵に回す―――世界最高権力を持つ組織を、たったそれだけで―――。

「以前言っていた、聖堂教会との対決……図らずもそれを実行してしまうということか?」
「………冗談じゃありませんわ。ヒロト様だって単身で聖堂教会と衝突しようなんて思わなかったでしょう?
 世界を相手にたった一人で立ち向かうなんて―――」
「おや、誰が一人だ?我はどうあろうとヒロトの傍らにつく。
 聖堂教会とやらを根こそぎにするのにいささかの躊躇もあるものか。
 我が何者か、今一度世界に問うてみるのも一興やも知れぬ」
「………リューさん。ジョークに聞こえない冗談はやめてください」

リューの悪趣味な冗句に眉をしかめる。それは第二次魔王侵攻の勃発に他ならない。
ヒロトの思う世界とは真逆の時代の到来である。

「で、それを防ぐにはどうすればよいのだ?」

口元を吊り上げて不敵な笑みを浮かべていたリューが一転して真面目な顔になる。
ジョンは少し考え、口を開いた。

「まず必要なのはヒロトさんに早く帰還してもらうことです。
 ヒロトさんとブレイズ姫を会わせてはいけない。これは前提にあるといってもいいでしょう」

そう、ヒロトとブレイズを接触させては衝突はほぼ間違いなくなってしまう。
ヒロトはお世辞にも説得が得意なほうではないし、噂を聞く限り、ブレイズもそうだろう。
戦い自体はそんなに好きではないが、目的の前に立ちはだかるなら交戦もやむなしというタイプだ。
特にブレイズは相手の実力が実力なので容赦はしていられなくなる。そうなったら、
いかにヒロトといえども剣を抜かずにブレイズを制することは難しいに違いない。

「そして、ブレイズ姫に下った使命をどうにかして取り下げさせること。
 これができればブレイズ姫はグリーンドラゴンを狙う理由が消滅し、
 牙の森から撤退するでしょう。ヒロトさんと揉めることもない」
「………そんなことができるんですの?」
「おそらくは。ドラゴン掃討を申請した教会に事情を説明して―――もちろん、
 ヒロトさんとブレイズ姫がぶつかる可能性を上げるわけじゃなく、
 ドラゴンの無害化を説明するわけですが―――そして、E.D.E.N.を通じてセントレイ・ピアラに
 使命の取り下げを依頼するんです。そうすれば、貴重な勇者を用も無いところに
 わざわざ派遣するなんていう無駄なことはしないでしょうから、
 うまくいけばブレイズ姫は牙の森にくることすらなくなるというわけです」

なるほど、と二人は頷いた。
確かにそれなら最善だろう。ヒロトのことだ。ドラゴンの沈静化に
失敗するということはまずありえない。リューにヘルプがないということは、
逆にリューの手を借りるまでもないということだろうからだ。
………それはそれで複雑なリューである。

「しかしセントレイ・ピアラとは………随分話が大きくなりますわね」
「仕方ありません。それだけのことですから」

セントレイ・ピアラ。
通称『大聖城』は聖教国ナルヴィタートに聳え立つ聖堂教会の総本山だ。
ヒロトを世界の敵にしないためには、そんな場所に直接アクセスする必要があるらしい。

「その前に―――リューさん、ヒロトさんに連絡は取れませんか?」
「いや、念波を繋ぐには眷属である必要がある。
 我とヒロトは共に旅して長いといっても契りを交わした仲ではないのでな」
「処女ですものね」
「貴様もだろうが!!だいたい、『それ』だけが方法というわけではないわ!!
 ―――ま、まぁしかし我はヒロトが望むのであればならやぶさかではなく」
「お、戻ってたのか」

ヒロトがひょこっと頭を出した。
なんというタイミング。リューの顔が真っ赤に染まり、クセっ毛がピンピンと逆立つ。

「わきゃぁぁぁあああ!!」
「リュー、うるさい」

ヒロトはジトっとした半目でリューをあしらうと、ジョンに顔を向けて背中で眠りこけているリオルを顎で指した。

「ジョン、リオルを診てやってくれるか。リオルには随分頑張ってもらったから」
「リオル?」

見れば、何が起きたのか。リオルはぼろぼろであり、傷だらけなのだった。
一瞬、ジョンの顔色が変わる。ヒロトのこともブレイズのことも吹き飛ぶほどに。

「リオル!」
「寝てるだけだ。無茶をさせて悪かった」

ヒロトはリオルをベッドに寝かせると、ジョンに頭を下げた。
ジョンは少しだけ複雑そうな顔をしたが、やがて首を振った。
ヒロトのことだ。何があったのかはジョンは知らないが、きっとリオルの意志を汲んでのことなのだろう。
―――事情を聞くのはあとでいい。それより、今は優先させなければならないことがある。

「ヒロトさん、グリーンドラゴンは」
「リューたちから聞いたのか?大丈夫だ。リオルのおかげでちゃんと鎮めることができた」
「……なら、早く。教会に報告に行ってください」

ジョンはちらりとリオルを見た。
むにゃむにゃと何事か寝言を呟いているリオル。
よかった。致命的な損傷はない。おそらくはリオル自身が焼いて塞いだのだろう爪痕は
二、三日では回復できないだろうが、そのほかは手持ちの医療キットでも修理できる。
しかし、それでも楽観はできなかった。眠っているのは活動に充分な魔力を維持できていないからだ。
胸に埋め込まれている賢者の石の内蔵魔力が底をついたとき、義体は完全に機能を停止する。
それはリオレイアの魂を保管することもできなくなるということを意味していた。
そうなれば、そこにあるのはただの木偶人形と化すだろう。

「いや、先にリオルを回復してやってくれ。報告は明日でもいいだろう。
 ……って、ジョン。報告に行くのは教会じゃないぞ。俺が仕事を引き受けたのは役所の方で―――」
「いえ、教会で合っています。この際お金はどうとでもなるでしょう。
 それより、勇者ヒロトがドラゴンを鎮めたとセントレイ・ピアラに伝えなければ」
「………………………」

真剣なジョンの眼に、ヒロトは何かが起きたのだと悟ったのか。
しばらく無言でジョンの目を見つめ返し、口を真一文字に結んで、―――頷いた。

「わかった。ローラ、リュー。一緒に来てくれ。事情は知っているな?説明、頼む」
「え、ええ」
「うむ」
「ジョン。リオルの回復、頼んだ。本当によくやってくれたから」
「そっちの話も、あとでお願いしますね」

ヒロトは頷いて、きびすを返した。
そのあとに、リューとローラも続く。
ローラだけでなくリューにも教会の付き添いに頼んだのは、
きっと魔力補充をしなければならないジョンとリオルへの配慮だろう。

「すみませんリオル。今日はちょっと手っ取り早く済ませてしまいます」

魔力切れで寝息を立てているリューに一応、一言謝っておく。
しかし、動けない相手を一方的に抱くなど、ジョンは本来苦手なのだが。

………何度言えばわかるんですかね、リオル?



「…………勇者ブレイズか。確かに、良くないな」

ヒロトは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
実を言うと、ヒロトは以前に一度彼女に会ったことがあるのだ。
ヒロトがまだ確たる目的を持たず、聖堂教会から下される使命のままに魔獣を掃討していた頃、
訪れたある都市の大聖堂にて偶然居合わせたのである。
話などはせずお互い、お互いを認識しただけで目も合わせることはなかったが、
それでも、その狼のような気配からブレイズが戦士としてどんな人間なのかはだいたい知ることができた。
ブレイズは無駄な戦いはしない。その代わり、敵となれば決して容赦はしないに違いない。
もし彼女と敵対することがあったなら、きっとそれは命のやりとりと伴うものになるだろう、と―――。

「………わかっているなら、ヒロト様。決して戦おうなんて思わないでくださいね。
 重ねて言いますが、今、聖堂教会を敵に回していいことなんてこれっぽっちもないんですから」
「わかってる。俺だってクシャスで説教されたことは忘れてないさ。
 そんな無茶はしない―――けど、だからってゾーラを見捨てる手はないぞ」
「そのためにも、とっとと使命とやらを取り下げさせねばならんのだろう?」

ヒロトは頷きもせず、その蒼い鎧に紅のマントを羽織り翻した。
それは勇者となった者が“選定”の際、聖皇ラルゲリュウスから賜る勇者の証である。
聖堂教会の十字紋様を背中に刻む英雄のマント。
普段滅多に羽織ることのないそれを纏うということは今この時、
教会の扉を開けるのは他の誰でもない勇者ヒロトであるということの証であり、
即ち正式な勇者の訪問ということに他ならないのだ。

「俺は翼と稲妻の国ラルティーグにより“選定”を受けた勇者ヒガシ・ヒロト。
 ビサレタ教会の神官殿に用あって参上した。もしおられるのなら、話がしたい」

ヒロトは教会の扉を開けると、よく通る声で口上を述べた。
ローラとリューが驚いて思わず顔を見合わせる。こんな、『勇者らしい』ヒロトは見たことがなかったからだ。
ビサレタ教会の神官はかわいそうに、もっと仰天していた。
驚きのあまり、教壇に並べていたボードゲームごとひっくりかえってしまったほどだ。
無理もない。勇者なんて滅多にお目にかかれるものでもないのに、
大聖堂からの通達で勇者が訪問することが決定し、待っていたらやってきたのは別の勇者。
それだけでも充分すぎる偶然の上に今度はこの名乗りである。
神官の寿命も縮まってしまうというものだろう。

「勇者ヒロト―――あ、貴方が。なんと、少々お待ちください、今すぐ祝福の法典を用意しますので」
「いや、その前にこちらの話を聞いてくれ。勇者ブレイズに下されたドラゴン退治の使命を、
 ただちに取り下げるよう手配して欲しい」
「ド、ドラゴン………?いえ、しかし……」
「グリーンドラゴン・ゾーラは既に鎮めた。牙の森に入っても、もう魔獣に襲われることは無い」

きっぱりと言うヒロトに、神官はいまだ目を白黒させている。
が、疑う余地もない。勇者ヒロトといえば『はじまりの勇者』に並ぶ実績を持つ英雄中の英雄だ。
そのヒロトが鎮めたというのなら、それは他の何者が言うよりも信じられる言葉である。

「ブレイズが来ることはない―――だから」
「は、はい。しかし申請は『聖堂』を通じてしか『大聖城』に届かないようになっておりまして、
 今から手配しても、届くのは明日以降になるかと―――」
「なら、俺が『聖堂』まで届けよう。急いで欲しい」
「は、はいっ!」

神官がわたわたと奥に駆け込んでいく。

「……なんだか申し訳ない気もしますわね」

その背中を見送って、ローラがポツリと呟いた。
ヒロトについてきた謎の少女二人にツッコむ余裕すらなかったのだ。
それほどの『勇者』ヒロトの威圧感を受けた唯人は彼くらいのものだろう。
事情を説明せずに急かすには仕方ないとはいえ、憐れといえば憐れである。

「………ところでヒロトよ。『聖堂』とはなんだ?『大聖城』とやらとは違うのか」

小首を傾げたリューに、ヒロトはふぅ、と張り詰めさせていた威圧を緩めて振り返った。

「ああ、『聖堂』っていうのは各国にある聖堂教会の活動拠点のことだ。
 総本山がナルヴィタートの『大聖城』セントレイ・ピアラ、各国に散らばって『聖堂』、
 さらに各地方に『教会』といった具合になっていく。
 だいたい『聖堂』が置かれているのはその国の王都だから――――――」

ヒロトは、そこで言葉を切った。そして歯噛みする。

「しまった、そうか失念していた……!」
「―――そうですわ!転移魔法陣……!」

ローラも声をあげた。

転移魔法陣。
それは文字通り、転移魔法用の魔法陣である。
魔法陣を起動することにより、どんなに距離が離れていようとも、
同型の魔法陣が描かれている場所に一瞬にして使用者を転送してしまう。
普段は起動されることなく『聖堂』の模様と化しているが、転移用魔法陣は各国の『聖堂』を繋いでおり、
災害時などの緊急時、王族の避難はこれによって行われる。
また、要人の訪問に危険が予想される場合、至急その地方を訪れなければならない場合も
特例として転移魔法陣を使用することが許される。
―――そして、それは勇者召喚にも当てはまるのだ。

このラダカナ国の王都はディカ。ここビサレタの、牙の森を挟んで隣にあたる。
ブレイズは何より使命の遂行を目的とする勇者だ。
使命が下りたら、何より優先してドラゴン討伐に向かうだろう。
それに転移魔法陣を使わない理由はない。―――これは、非常に、まずい。

「リュー、クレイドラゴンの召喚を頼む。申請書を受け取り次第すぐに飛ばしてくれ。
 ……それでも間に合うかは、正直わからない」

ぎり、とヒロトは奥歯を噛み締めた。
急いても仕方がないことはわかる。できることは待つ以外にはない。
今、神父は大急ぎでペンを走らせていることだろう。

――――――それが、じりじりと肌を焼くほどに、長く感じられた。



………………………。
………………。
………。

……耳元で全身の血潮が逆流する音が聞こえた。
強風の中、裸で立っているような、どこからが自分の身体でどこまでが外界なのかわからなくなり、
個という概念が白く塗りつぶされるような感覚に意識が溶かされる。
まぶたを透過するような強烈な閃光が粒子となって自分という存在を分解し、
そしてまた構成しているのか。
足元が消滅したかのような、空高く放り投げられたような浮遊感のあと、
彼女はふっ、と己の身体に重力が戻ってきたのを感じていた。

――――――ヴヴゥゥゥ……ン……。

転移魔法は何度経験しても慣れないものだ。
ブレイズは襲ってくる『召喚酔い』に顔をしかめながらそう思った。
といっても、これでも随分慣れた方だ。初めてこれを体験したときは胃の中のものを戻してしまったから。
到着は一瞬でも動けるまでに丸一日費やしたほどである。

「ようこそ、ラダカナへ。勇者ブレイズ様」

出迎えの神官たちがうやうやしく礼をする。ブレイズは重い頭を振りながら、うん、と頷くだけに留まった。

今回の使命はドラゴン退治である。
ドラゴン―――ブレイズが今までに戦ったことのない上位魔族だ。
厳しい戦いになるだろう。最悪、またアレを使わなければならないかもしれない。
そう考えると気が重い。しかし、裏を返せばこれは聖堂教会に対する絶好のポイント稼ぎの機会なのだった。

なら―――何があってもここは、しくじるわけにはいかない。

「それでは、ご武運を」

簡単な祝福を受け、ブレイズは蒼髪を風になびかせてドラクルーに跨った。
馬よりも体力は劣るが、馬よりも速く走るこの亜竜は短距離の移動に向いている。
ブレイズはドラクルーの手綱を巧みに操作し、丘の彼方に見える
黒く大きな影―――凶暴なドラゴンが巣食う牙の森を見据えた。

ふぅ、と息をつき、

「――――――行くぞッ!!」
「KCOCOCOCOCOCOッッ!」

鞭を一閃させる。
ドラクルーは大きくいななき、そして疾走を開始した。



              槍姫来たりて~新ジャンル「騎士娘」英雄伝~ 完

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最終更新:2008年04月27日 14:08
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