空間が歪み、見えない卵から這い出るように龍を模した『白い』頭部が現れる。
続いて肩。腕。埋もれた半身を引き抜くかのように虚空に『牙』を引っ掛け、翼。そして尾。
全身をあらわにした魔王製ゴーレムを前に、ローラは訝しげに呟いた。
「……これ、クレイドラゴン……ですの?」
無理も無い。
そのクレイドラゴンは大きな単眼であり、本来腕であるところに小さな頭がついている。
それだけではなく、身体に対しては小さすぎるのではないかという足も、
よく見れば龍であり、キイキイと鳴いている。翼は並より少し小さい程度だが、
皮膜ではなく硬い鱗で覆われていてこれも心配になってくる。背びれも大きく尖っていて、
そう―――竜というより鳥、いや魚。鮫のように近い細くなだらかなシルエットをしていた。
いつものまっとうなドラゴン型とはかけ離れた、奇妙奇天烈なドラゴンだった。
色もいつもの、いかにも粘土といったような灰色ではなく月の光のように真っ白-だし。
「変なの、ですわ」
ローラの素直な感想である。
しかしそれを聞いて、リューはむっとした顔をする。
「馬鹿者。こいつは我特性の飛行用クレイドラゴンだぞ。最近何かと
クレイドラゴンを召喚する機会が多いからジョンの知恵も借りて少し改良を加えてみたんだ。
そうしたら思いのほか面白くてな。ついつい懲りすぎてしまったというか。
だが、成果あっておそらくは燕より速く蜜鳥より精密に優れた飛行を可能とするだろう。
まだ飛ばしたことは無いが。しかしそれを可能とする根拠はこの手足の代わりに挿げ替えた四つの頭で―――」
得意げに語り始めるリューに、ローラはたまらず待ったをかけた。
「ちょ、お待ちなさい。飛ばしたことが無いと、今そう言いました?」
「うむ。実際改良を思いついたのは先日のバレンタインの時だしな。
ほら、あの時チョコレートでクレイドラゴンを造っただろう?それで、少し色々遊んでみたくなって」
「遊んでみたくなった!?リューさん、これは遊びじゃないんですのよ!?
ヒロト様の一大事に、よくもまあこんなふざけたモノを出せましたわね!?」
「なんだと貴様!ふざけてなどおらぬ!!」
うぐぐぐとデコとデコを突き合わせて睨み合う。
最近カドか取れて仲良くなったと巷で評判の二人だが、基本的なところでは
まったく変わってないのだった。いや、これも仲がいいという現れか?
「リュー、急いで―――なんだこりゃ」
神官が頭を三角にして書き終えた申請書を受け取り、
教会の扉を壊すような勢いで飛び出してきたヒロトは、
そこに待ち構えていた銀のクレイドラゴンを見て目を丸くした。
ローラはほれ見なさい、という顔でリューを睨み、リューは口を尖らせて、
しかしどこかばつの悪そうに目を泳がせる。
「……クレイドラゴンの飛行スピードを上げた改良型ですって。
急がなきゃならないっていうのに、こんなみょうちきりんなものを……。空飛ぶ絨毯の方がまだマシですわ」
「改良型」
ヒロトはもう二、三度目をぱちぱちと瞬かせると、リューに歩み寄った。
「……わ、悪かったな。すぐに普通のを召喚しなおすさ」
「いや、これで飛ぼう」
「え?」
顔をあげる。
ヒロトは白のボディをすっと撫ぜ、うん、と頷いた。
「俺にはゴーレムのことはよくわからんが、リューが速いというなら速いんだろう。
急がないと。リュー。王都までひとっ飛び、頼めるか」
リューはしばらくポカンとしていたが、やがてその頬に見る見る朱が
さしたかと思うと、拳を作って力強く頷いてみせた。
「任せろ!」
「……なんか納得が行きませんわ」
……しかし、これはどこに乗るのだろう。普段のクレイドラゴンには少なくとも
背に掴まる手摺りのような鱗があるのだが、これにはそういうものも見当たらないし。
とりあえずよじ登ろうとするヒロトを、リューはマントを摘んで止めた。
「背に乗っていては満足な速度は出せんのでな。それも改良点だ。こいつは『腹に乗る』のだよ」
「ん?」
言うが早いか、それまで微動だにしなかった改良型クレイドラゴンはその嘴をばくんと開いた。
腹に乗る―――以前洞窟の崩壊から身を守るためにクレイドラゴンに
パーティを飲み込ませたことがあったが、それにヒントを得たのだろうか。
単眼の頭部はガラス張りのように透けて見えるようになっており、
腹の中(正確には嘴の中)とは思えないほど視界は広かった。
舌が椅子のように歪んで背中に合わせ、なかなか座り心地も悪くない。が。
「……リュー。これ、一人乗りじゃないか?」
「ドラゴンの大きさを考えればコックピットは一人分のスペースしか取れなかったのだ。文句言うな」
と、言いながらもリューはヒロトの膝の上で不自然にくっついて座っている。きっとこれも計算の内に違いない。
……まぁ、それは別にいいのだが。これでは三人乗るのはかなりきついものがあるのではなかろうか。
そう聞いて、リューはきょとんとした顔になった。
「三人?」
「ローラに決まっているだろう。もしかしたら、ローラの力が必要になるかもしれない」
嘴からローラを見下ろす、そのローラの顔もきょとんとしている。
そしてやおら俯き、プルプル震えたかと思うと、顔をあげてこれもまた大きく頷いた。
「お供しますわ!!」
「あ、すまぬ。これ、二人用乗りだから」
「一人分のスペースしか取れないって言いましたわよねさっき!?」
しれっと追い出そうとするリューに挨拶のようにツッコみ、いそいそと乗り込むローラ。
……………………狭い。
元々一人しか座れないところに無理に三人も詰め込んだのだ。
ヒロトの膝の上、左右の脚に腰掛ける少女二人。
恋する男にぺたぺたできて少し嬉しい気もするが狭いものは狭い。というか、狭いを通り越して痛い。
視界に余計なものが入って邪魔極まりないし(リューに対するローラの意、ローラに対するリューの意)。
「ええい、もう少し詰めろこのデカッ尻!」
「そっちこそ、貧相な身体なのですからもっと奥に行けるでしょう!?」
「喧嘩するな!リュー!!」
狭い中器用に暴れる二人を黙らせ、操縦桿である左右の牙を握ってヒロトが叫ぶ。
リューは頬を引っ張られ、負けじとローラの顔を押しのけながらやけくそのように叫んだ。
「飛行用上級クレイドラゴン『フレズヴェルグ』!!
テイク・オフ!!!!」
リューの号令を聞いたフレズヴェルグはぶるり、と身震いをすると、両腕両脚の頭を地面に向けた。
そして、その口からしゅるしゅると風を吹き出す。身体がゆっくりと持ち上がっていく。
飛行というより浮遊だった。これのどこが速いのか。真上に飛んでいっているだけで、ちっとも前に進んでいない。
地面が沈んでいくかのような光景は珍しく胸が高鳴ったが、一抹の不安もあった。
やがて教会の屋根を飛び越えたあたりで、両脚の頭が後ろを向いた。
口から先程までとは比べ物にならない勢いの風が噴出する。その猛烈な烈風たるや、
先のバレンタインでチョコレートを消滅させたデ・ミ・ペントゥルスに匹敵するかというほどに。
―――刹那、視界が飛んだ。
雪解けの鉄砲水より勢いよく吹き出した細く鋭い旋風は
フレズヴェルグの機体を吹き飛ばすように推進力を与え、一瞬にして最高速度に押し上げる。
浮上が止まってしまったので何事かと眉根をひそめていたヒロトたちは
時に置き去りにされたかのような衝撃を全身に受け、叫び声を上げる間もなく空の彼方へと飛び去っていった。
なお、フレズヴェルグが飛び立つ際に発生したソニックブームは、
強力な衝撃波となって教会自慢のステンドグラスを残らず割っていったという。
みだりに音速を超えてはいけない。これは常識である。
白銀の流星が天空を駆けた頃。
ビサレタの宿でリオルの回復を行っていたジョンは、呆然と自らのパートナーを見下ろしていた。
リオルの義体はグリーンドラゴンとの戦闘によって傷ついていた。
まだその治療は済んでいない。それより、枯渇しかかっていた内蔵魔力の充填の方が遥かに性急だったからだ。
リオルの胸の中枢にはジョンが開発した『賢者の石』―――無限の魔力を生み出す
夢の魔石―――の試作品が埋め込まれている。
試作品といっても未完成もいいところで、これは実質
『何度魔力を充填しても劣化しない魔力の貯蔵タンク』でしかない。
これはこれでとんでもない発明だが、ジョンの目指すものに比べれば
やはり劣化版でしかない。だからジョンは賢者の石の完成品の足がかりを掴むため、
勇者として最大級のタブーと知りながら魔王リューの軍門に下ったのだった。
ジョンが賢者の石・試作版に魔力を補充する際、参考にしたのが東洋の文献にあった房中術である。
人間が出す性液―――精液や愛液に魔力を宿し、他者の身体に送り込むという秘術だ。
ありていに言えば、ジョンはリオルと性交をすることによってリオルの魔力補充を行う。
自分でマナを回復できないリオルはそうしないと『命』を使い果たして死んでしまうのだ。
なのに。
「――――――いったい………何が」
すやすやと安らかに眠るパートナー。
その姿は傷だらけながらも、普段と変わらない可憐さを持っている。
しかし、今のジョンは混乱の澱にあり、ずるずるとリオルの寝顔から後退してはベッドから滑り落ちた。
己の手のひらを見つめる。桃色をした、およそ旅の男とは思えない華奢な手。
この指先で今までいくつものアイテムを作ってきたろうか。あるいは資金のため、
あるいは自分で使う道具のため、ラルティーグの技術の粋をこの手で再現してきた。
いつか辿り着く。悲願に至る。そう信じて。
ゆっくりと、関節のひとつひとつの動きを確かめるように、握りしめる。
そして、こん、と額を打った。
「今は―――考える時じゃない……!」
ジョンは自分に言い聞かせ、立ち上がった。
考える時じゃない。今は行動するべき時だ。
ヒロトは言っていた。今回鎮めたグリーンドラゴンは、リオルがやったと。
あれだけヒロトを毛嫌いしていたリオルが、ヒロトに手を貸した。
それだけで胸が温かくなる。とても、嬉しい。
しかし、そのグリーンドラゴンは他の勇者によって手に掛けられようとしている。
それはリオルの仕事を無に帰す行為だ。
パートナーとして―――そう、ジョンはリオルのパートナーなのだから―――阻止しなければ。
リオルと戦ったとしたら、ドラゴンの方も間違いなく浅からぬ傷を負っているだろう。
それでは逃げることもできはしない。ヒロトたちが間に合わなかった場合にそなえて、
できるだけのことをする。それがジョンのすべきことだった。
そう。
――――――余力が、あるのだから。
木々が、洪水のように流れている。あまりのスピードに動体視力が追いつかない。
辛うじて緑色の海、ということが認識の範囲内に引っかかっているのみ。
その木々が触れてもいないのに跳ね飛ばされていた。どうも嘴に切り裂かれた空気が
衝撃波となって機体を包んでいるらしい。それで枝葉が折れ、吹き飛ばされているのだ。
それもあっという間に後方へ飛んでいくので、思い至ったのはついさっきだったりする。
速い。
いや速いなんていうものじゃない。まるで彗星に乗っているかのようだ。
世界中のどんなに速く飛ぶ生き物も、乗り物も、こんな速度で飛行はできまい。
「見えた!王都だ!」
「え?もう着いたんですの!?」
ローラが驚嘆の声をあげた。信じられない。
ビサレタは王都ディカから最も近い町とはいえ、駿馬を走らせても小一時間はかかる距離にあるのだ。
実際には森を通らなくてはならないから、魔獣に襲われなかったとしても数時間は必要だろう。
空路であるワイバーンに乗っても三十分は空の上である。それが、まだ数分もしないうちに?
「だから言ったろう!速いって!!」
リューが無い胸を張っている。確かに、目を剥くようなスピードだ。
クレイドラゴン・フレズヴェルグ。
まったくもって、とんでもないものを造ったものである。―――この狭さを除けば。
「リュー、王都の手前で降りられるか。さすがにフレズヴェルグで街の中には入れないだろ」
「うむ。任せ―――」
「ヒロト様、その、肘が胸に当たってますわ……」
「降りろぉぉぉぉぉぉぉぉおお!!!!」
キシャァア、とリューが目を三角にした。それに、こくりと頷く。
「そうだな。降ろしてくれ」
「―――え?あ、いや、その。言葉のあやというもので」
「そうですわ。この娘の言うことをマジメに聞かなくても」
「何だと貴様」
ガチンとデコをぶつけて睨み合うローラとリュー。
しかし、ヒロトは静かにかぶりを振った。呟くように言う声は、打って変わって低く硬い。
「そうじゃない。このままじゃ、間に合わなくなる」
「間に合わなくって―――」
ヒロトは操縦牙をぐい、と引き寄せ、フレズヴェルグに急ブレーキをかけさせた。
急な圧力がかかってしっちゃかめっちゃかになりそうなコックピットで、
リューとローラにしがみ付かれながらヒロトはさらにフレズヴェルグの機体を反転させる。
再び牙の森に向き直ったフレズヴェルグ。そして―――。
「あっ!?」
ローラは声をあげた。小さいが、確かに見えた。
煌々と輝く月明かりの下、牙の森に向かう影。脚竜ドラクルーに乗っている人影を。
この森は今封鎖されていると聞いた。森に住む魔獣が凶暴化したせいで
森に入るということと魔獣に襲われるということが同義だからである。
そこにわざわざ、しかも夜に向かっているということは―――。
「ブレイズ……!」
「だろうな。このまま聖堂に向かっても使命の取り下げが行われる頃には
ドラゴンは串刺しだ。リオルと戦って怪我して弱っているから、逃げることも
できるかどうか。俺は―――それを、見過ごすわけにはいかない」
二人の少女は、ヒロトがこれから何をしようとしているのか悟った。
馬鹿な。それをすれば、ヒロトはブレイズの使命を邪魔したことになり、
つまりは聖堂教会に―――『正義』に剣を向けることになる。
「ヒロト、それは」
駄目だ。
それではあべこべになってしまう。少女たちは、それを防ぐために。
ヒロトを守るためにここまできたのだから。
「いや、順番ならこっちが先だ。リオルの意志を無為にはできないし、
俺はそのために旅をしているんだから。お前たちも、
それを汲んでついてきてくれている………そうだろう」
「……………………!」
言いたいことなら山ほどある。しかし、この男はそれでは止まらないだろうし、
この男の間違いを正すことに大した意味はない。
感情では、きっとヒロトを繋ぎとめることはできない―――。
「しかし、それでは余りに愚かに過ぎるというものですわ」
だからローラは、慎重にそう口にした。
そう。そもそも、ヒロトがいなければローラもリューも唯の旅人に過ぎなくなってしまう。
申請書にしても、本来なら神官が届けるべきところを勇者であるから代わりに運ぶことができるのであって、
どこの馬の骨とも知れない旅人では大至急どころか大聖城へのアクセスが
成されるかどうかすら危ういものになる。
ローラは王女の身分を現在放棄しているし、だいたいヴェラシーラ王女の名を出せばさらに大事になるのは明らかだ。
ここは外国で、他国の王族がこそこそと入り込んでいいような場所ではないのだから。
そして、リューに至ってはもう論外である。
こうやって街の外を飛んでいるのならまだしも聖堂に乗り込むなど、
それだけで大聖城は全勇者を招集しかねない。
「………だが、かといってお前たちにブレイズは止められない。いやリューなら、
ブレイズを食い止めることは簡単だろう。しかし、それでは魔王の姿をそれこそ
全世界に晒すことになってしまう。今はその時期じゃない。どう考えても。
ブレイズの相手ができるのは、初めから俺しかいないんだ」
「く……!」
リューは魔王であるが故、こうやってせいぜい運び屋くらいしかしてはいけないのか。
「いや、そんなことはない。
お前に助けられなかったら、打つ手すらなく間に合うものも間に合わなかった。
フレズヴェルグをありがとう。―――お前がいて、よかった」
「………ヒロト」
リューはきゅう、と胸が締め付けられるのを感じた。
しかし、それは苦しいものじゃない。嫌なものじゃない。
あまりに鼓動が高鳴ったので、心臓が驚いてしまったのだろう。
この男の役に立っている。それが、こんなにも、嬉しい。
「ローラ」
「はい」
ヒロトの静かな声に、ローラは挑むように頷いた。
リューは懐柔されたようだが、ヒロトが何といおうと、ここは譲れない。
彼女はヒロトが大切で旅に同行しているのだから。
ヒロトの意志を汲むにも、まずヒロトあってのことだ。
たとえ無様にしがみ付こうとも、ここは―――。
「お前には『勇者代理』をやってもらいたい。
俺の鎧とマント―――聖皇が認める『勇者』ヒロトの証を預ける。
それを身につけて、申請書を持って聖堂の神官に直接掛け合って欲しい。
できるだけ早く使命の取り下げが実行されるように手配してくれ」
その覚悟が、空白になった。
ヒロトはまっすぐにローラの目を見つめている。
ローラはしばらくあっけにとられたように目を丸くし、
「――――――頼めるか」
「――――――無論ですわ」
一転、不敵に微笑んだ。
そこにある輝きは信頼に答えようという自信と、そして歓喜の光だ。
頼られている。必要とされる。力になれる。それが少女を何よりも高揚させている。
何よりも、誰よりも、そうなりたかったから。
「リュー、開けてくれ」
リューは頷くと、ばくんとフレズヴェルグの嘴を開けた。
蒼い鎧が月光を浴びて白く輝き、冷たい夜風に紅のマントが翻る。
牙の森と走るドラクルーを眼下に見据え、ヒロトは背中の長剣をスラリと抜き払った。
「くれぐれも、無茶はしないでくださいね……!」
「大丈夫だ。考えはちゃんとある」
「……まったく信用ならんな。貴様の考えはいつもどこかズレているから」
「早く帰ってきてくれるって信じてるさ」
鎧の肩当とマントを受け取ったローラに、茶化すようにニヤリと笑ったリューに。
真顔で頷いてみせて、ヒロトはそのまま飛び降りた。無論、まっとうな人間ならば
地面に激突して骨も内臓もぺしゃんこになろうかという高さである。
しかし、彼に限っては心配など無意味だ。それを、少女たちは誰よりも―――きっと、
今、隣に座っている少女よりも知っている。
と、どちらからともなく、その肩が小刻みに震え出した。
「聞いたか。ローラ」
「ええ。信じてる、ですって」
「くく、くくく………」
「ふふふふ、ふふ………」
こみ上げる笑みを抑えきれない。
身体を丸め、くすくすと笑いあう。
「さて。行きますわよ、リュー?」
「誰にモノを言っている、ローラ!」
少女たちは託された喜びに身震いし、お互い顔を見合わせた。
フレズヴェルグが呼応するように吼える。そして、白銀の機龍は再び加速を開始した。
―――風が強い。
雲が、突き刺さるような三日月を掠めて速いスピードで流れていく。
通り過ぎた『何か』はどうやら去っていったようだ。
ブレイズは動揺してたたらを踏むドラクルーを落ち着かせ、王都へ向かった『何か』を見送った。
あれはなんだろう。鳥か、龍か。蝙蝠の類か、それとも何かのマジックアイテムか。
どれも思い当てはまらない。森の向こうから突如飛んできた『何か』のスピードときたら、
おそらくは矢より弾丸より速いかというほどだった。そんな速度で飛べる存在を
彼女は知らない。ドラクルーが異様に興奮しているし、なんだったんだろう、アレは。
――――――いや、考えるな。それはオレの仕事じゃない。
ブレイズは再び牙の森に向き直った。
彼女とて、世界の全てを自分が知っているとは思っていない。
特に勇者であり、世界を巡る機会を持った彼女はいかに自分の常識が矮小なものだったかを
経験から教わっている。そして気にしていては何もできない、ということも。
確かに気にならないと言えば嘘になるが、今はそれに心を砕いている場合ではないのだ。
夜は魔族の時間である。基本的に、あらゆる魔族は月の光の下でこそその真価を発揮するのだ。
それはドラゴンとて例外ではないだろう。定石どおりなら、王都で一夜を明かして
日が昇ってから討伐に向かうべきである。そこを曲げてこうやって森へ急いでいるのは
無謀ではなく、確かな勝機を見込んでのことだった。
そう、魔族の真価は月の下でこそ発揮されるもの。
それは『彼女』にとっても同じことなのだから。
「だから、急いで……」
最低、夜が明けるまでにはドラゴンを探し出さないと。
牙の森は広い。もたもたしていたら、凶暴化しているという森の魔獣たちの相手で一晩終わってしまう。
それは避けておきたいところだった。
やっと疾走を再開したドラクルーの脚が、しかしいくらもしないうちにまたも止まる。
「KCOCOCOCOCOCOッッ!!」
「――――――!?」
上。
星の少ない藍色の空から、何か―――来る
来る?空から?
驚いたことに、それは人間だった。ひゅるる、と音を立て、男が落ちてきたのだ。
「危ない!!」
思わず駆け寄ろうとする。しかし身体が前に進まない。何故?
ドラクルーが警戒しているのか。いけない、間に合わな……!
ずどん、と地面が揺れた。平原の一角に穴が開き、もうもうと土ぼこりが舞い立つ。
ブレイズは絶句していた。なんで空から人が降ってくるんだ?訳がわからない。
考えてもわからないことは極力考えないことにしているブレイズだが、
これは混乱するなという方が無茶だろう。しかし、さらに驚いたことに、
男は土煙を振り払ってなんと立ち上がったのだった。
「―――ブレイズ・トゥアイガ・ジャルシア、だな」
「……………!」
名を呼ばれた。何者だ。
ブレイズは身構え、腕を伸ばして指をぱき、と鳴らした。
すぐにでも愛槍を呼べるよう、唇をひと舐めしてふ、ふ、と呼気を小さくつく。
土煙が完全に晴れ、男の顔が月の光に照らされる。
「お前は―――」
知っている顔だ。いつだったか、どこかの国の聖堂で見かけたことがあった。
自分と同じ、魔獣殺しの勇者。しかしその功績は遥かに高く、
伝説に謳われる魔獣たちを何体も撃破している世界最強と名高い剣士である。
その彼が、何故ここに。何故空から。
戸惑うブレイズを前に、彼は手にしていた長剣をがつっ、と地面に突き立てると、凛とした声で言った。
「俺は翼と稲妻の国ヴェラシーラに“選定”された勇者ヒガシ・ヒロト。
お前がブレイズならどうか話を聞いてくれ。ドラゴン討伐を中止して、そのまま街へ帰って欲しい」
「………………は?」
ブレイズの顔が、今度こそ空白になった。
「なんだと?何を言っている、お前」
「ドラゴンは既に鎮めた」
……話を聞くと、どうもこの牙の森の向こう側にあるビサレタの町にたまたま滞在しており、
資金稼ぎのアルバイトとしてドラゴン討伐を引き受けたらしい。
その時には既にブレイズに使命が下りていたのかも知れないが、役所と教会ですれ違いがあったようなのだ。
そして、そのままではブレイズは無駄足になってしまうので知らせに来た、ということだという。
「………なるほど」
ブレイズは頷いた。
矛盾は無い。それでどうして空から降ってくるのかとか疑問はあるが、
まあ勇者にも色々いるし、ヒロトほどの勇者になれば空から降ってくることもあるのかも知れない。
鍵のかかっている部屋に勝手に忍び込んでくる勇者もいるくらいだ。
あれに比べればまだ許容できる範囲内にいるといえるだろう。
それにしても―――。
「あんたといい、あいつといい。勇者ってのは聖堂教会のお抱えメッセンジャーのことなのか?ご苦労なこった」
「あいつ?」
ヒロトが変な顔をしている。
ああ、とブレイズは思った。
どうもヒロトの方にはあのレイジュ・ランディスは現れていないようだ。
………どうしてブレイズの方には出てくるのかそれはそれで謎だった。
「いや、こっちの話。しかしあんたも苦労してるんだね。
お金に困ってアルバイトなんて―――まぁ、オレも覚えがあるからわかるけど。
伝説級の勇者っていうからどんなのかと思ったけど、意外と俗っぽい」
「………世間じゃどう思われてるかよく知らないが、そういうものなんじゃないか?
知り合いにも一人、掛け値なしの伝説級なのに付き合ってみればまるっきり普通のヤツがいるし」
「そういうもんかね」
確かにそういうものかも知れない。ブレイズの師匠だって仙人とか言われてた割に
浮世離れしてなくて困ったものだった。家宝を譲り受けた時も、
神槍の継承だというのにあの人は―――。
「………………」
今の自分を師匠が見たらどんな顔をするだろうか。
そう、ふと思ってしまってブレイズは少しだけ唇を噛んだ。
嘆くだろうか、怒るだろうか。―――許して、くれるだろうか。
「……わざわざ知らせに来てくれたこと、感謝する。標的がいないんじゃ森に入る意味もないからな」
なんとなく後ろ暗い気持ちになり、ブレイズはドラクルーの手綱を引いて背を向けた。
ドラゴンがいないのではこの使命はまったくの無意味になる。森の魔獣全てが
凶暴化していると言っていたから、そりゃあ下級の魔獣を狩ろうと思えば
できなくもないが………やはり意味の無いことだ。ブレイズにとって肝心なのは
聖堂教会の任務を遂行すること。そして評価を高め、一刻も早く凱旋すること。それだけだった。
「それ以外は、全て……余計なことだ」
小声で、自分にしか聞こえないよう呟いた。
――――――あら。なら、どうして帰っちゃうのかしら?
だから、その声にぎくりとした。
それは、紛れもなく。
自分自身の中から響いてきた声だったから。
――――――ドラゴンはまだ生きているわぁ。
なら、あなた(わたし)の仕事はまだ残ってるんじゃなぁい?
内なる声が幻聴ではないことは、ブレイズにはよくわかっていた。
これは彼女の裡に巣食う異形の声だ。
戦いを求め、血を求め、命を奪うことを愉悦とする悪魔が、彼女の血には棲んでいる。
かつての魔王侵攻の際、己の身に魔獣を宿して戦ったジャルシア王家初代の功績(呪い)。
それがこの声の正体だった。
いい加減なことを言うんじゃあない、と。
ブレイズはその声を否定した。
ヒロトはドラゴンを退治したといった。あの大勇者がだ。
ならばもうこの牙の森に危険はない。それを確信させるだけの何かが、あいつにはある。
――――――あら、カレ、一言も言ってないわよ?ドラゴンを『倒した』なんて。
………………。
――――――ええ、大人しくさせたのは事実かも知れないわねぇ。
でも、相手は獲物の血をなくして生きていることはできない魔獣の中の魔獣よぉ。
一時大人しくなったからって、そうそう解決できるものかしらぁ?
………魔獣の恐ろしさは、あなた(わたし)がいちばぁん良く知ってるはずよねぇ?
………………。
――――――それに、あなた(わたし)の目的はなんだったかしら?
忘れないで?早く帰らないと、あのヒトはぁ――――――。
「黙れ!!」
ブレイズはたまらず、叫んだ。
そんなことは、わかっている。お前(オレ)なんかに言われなくても、そんなことはわかっているのだ。
伊達や酔狂で勇者をやっているんじゃない。そして、慈善や救世のためでもない。
全ては、帰るために。
あのか細い手に、この頬が届く内に。
あのくぼんだ目に、この蒼髪が映える内に。
あの渇いた耳に、この声が響く内に。
ブレイズは帰らなくてはならないのだ。
帰って、一刻も早く、あの父王の―――いや父と呼ぶことさえ汚らわしい―――あの男の首を取る。
そして自分や母にしたように、ゴミくずのように荒野に捨ててやる。
墓など作ってやるものか。化けて出るなら、その魂魄さえ貫き壊してやろうというものだ。
それが、戦うことの出来なかった母の。
戦うことしか出来なくなった自分の。
あの男に対する、復讐なのだから………!!
それを邪魔するなら、何人たりと生かしておくものか。
ブレイズは背を向けた己の甘さにギリリと歯を鳴らし、仇敵を射抜くような目でヒロトを振り返った。
ヒロトは豹変したブレイズの様子に戸惑っているようだ。
そこへ(辛うじて)、ひとつだけ、訊ねた。
「ドラゴンはまだ生きているのか」
ヒロトは咄嗟に答えない。―――答えられない。
きっと人を騙すことに向いていない、剣のような正直者なのだろう。
だがそれは、この場において愚鈍というものだ。
それで、ドラゴンがまだ健在だとはっきりとわかってしまったから。
「………確かに、留めは刺していない。だが、鎮めたのは事実だ。
もうあいつは人を襲うことはない。この森の騒乱は確かに収まったんだ」
「関係ないね。オレの使命はドラゴンを退治することだ。死んだものを殺すことはできないが、
生きているのならオレの使命はまだ終わっていない」
ブレイズはゆらり、と手を伸ばした。口の中で呪文を詠唱する。
何百回と唱えてきたそれを、今では二秒とかけず口にすることができる。
虚空から取り出したのは、槍。ブレイズが旅立つとき、師匠から譲り受けた神槍だ。
古代、神によって造られたという神造兵器。
あまりに強力なため普段から持ち運ぶと辺りが焼け焦げ、
それだけで被害が出てしまうというシロモノである。
よってこうやって、有事の際だけに召喚することにしているのだった。
………そして、そう。今こそその時。
目の前に立ちふさがる邪魔者を排除し、いち早く使命を遂行しよう。
「そこを」
ブレイズは跳躍した。
狼のようにしなやかな身体を大きく反らせる。その姿は正に大弓。
引き絞られた肢体はぎりぎりと音をたて、四肢の筋肉が槍の一点に集中する。
空気を焼く神槍は雷槌の体現だ。天空より奔り、地上を這う全てを悉く薙ぎ払うだろう。
其の槍の銘は『グングニル』。
稲妻を鍛え造られたと謳われる神槍である……!!
「どけぇぇぇェェエエエエッッッ!!!!」
放った。
雷槌となって障害に迫るグングニル。
その切っ先に触れたものは、いや触れずとも纏う稲妻が掠めただけで、
身体を臓腑から破壊され血肉の一片一片に至るまでずたずたに焼き尽くされてしまうだろう。
避けることは敵わず、防ぐことも許されない一撃に青年は、す、と剣を静かに構え―――。
―――それだけだった。
「な………!?」
グングニルの切っ先が、ヒロトの構えた剣の切っ先でピタリと止まっている。
馬鹿な、も何もない。それが事実。
今まで幾多の魔獣を葬ってきた必殺の『轟雷』が完全に見切られていた。
ありえない。グングニルは稲妻を纏う槍なのだ。それは攻撃として電撃を放つだけでなく、
閃光をも味方につけるという効果も持っている。
凝視すれば目が焼かれるほどの光の前で、
あろうことか、それも『点』でグングニルを止めるだなんて……!
「だ、だがっ!」
荒れ狂う稲妻の中にいて無傷でいられるわけがない。ヒロトは事実、肌を焼かれ、ぶすぶすと焦げて煙が立っていた。
効いている。
いかな最強の勇者といえど、所詮は人間。対するグングニルは神の槍だ。
純粋な剣技がどれほど優れていようとも、天の雷槌を前に防ぐ術などあろうはずがない!
ブレイズは一端ヒロトから飛びのくと、グングニルをひゅんひゅんと回して穂先を空に向けた。
途端グングニルから稲妻がばりばりと迸り、始めはてんでばらばらの方向に、
やがて一点に向かって収束し始める。その先にいるのは無論ヒロトだ。
「ぐ、く……っ!」
ずくん、とブレイズの頬や手に痛みが走った。魔法使いではないブレイズはこういった
『形のない攻撃』を制御するのは不得手としている。それを無理に押して雷を放っているので、
術師たるブレイズ本人にも電撃がフィードバックしてきているのだ。
あまり長い間この放電を続けていれば、いずれブレイズ自身黒焦げになるだろう。
だが、それは承知の上………!
「食らえ!大雷【バルクンド】!!」
稲妻の奔流がヒロトを直撃した。
同時にブレイズの手のひらが焼け付き、とても槍を持っていられなくなる。
集中を欠いたため稲妻は一瞬で途切れてしまったが、確かに当たった。
王城の分厚い鉄門さえ貫通するこの稲妻。これで原型を留めていようものなら、
ブレイズはヒロトを人間ではなく鬼か何かとして相手をしなくては、なら……なく……………。
「……バケモノめ」
「………たまに言われる」
ブレイズは渇いた声で呟いた。
ヒロトは健在であった。服が吹き飛んで、胸や肩など火傷がじゅうじゅうと
煙をあげているものの、本人はさほどダメージを受けた様子でもない。
真っ赤に焼けた鉛を押し当てられているかのような激痛を感じているはずなのに、
なお平然と立っていられるとは。やせ我慢も最強クラスなのか。
………と、ブレイズの顔がそこで強張った。
信じられない、と目を見開く。なんということか。今さっき与えたはずの傷が、
ああ、まさか、見る見る塞がっていくではないか。
「『治っている』………?」
そう。
ブレイズは知る由もないが、これこそヒロトが伝説級の魔獣を討ち倒していった力の秘密。
血潮の一滴一滴から細胞を構成する極小の核にさえ魔力を通わせ、筋力だけでなく、
敏捷性、耐久力、反応速度、知覚神経、果ては『回復能力』に至るまで強化してのける
――――――“豪剣”という名のヒロトの剣だった。
「……バケモノめ………!」
「ブレイズ」
ぎりり、と歯を食いしばる。
そこへ、先程大ダメージを受けたはずの―――それももう粗方完治している―――勇者が、静かに口を開いた。
「俺はどかない。ここのドラゴンはもう無害だ。だから―――俺は、どかない」
届かない。
ブレイズは戦士としてそう悟っていた。
規格外だ。この男にはブレイズの半生をかけた修行の日々も、千騎を滅ぼす雷槍も通じない。
これが、勇者ヒロト。
かつて屈強な戦士たちが挑み、聖堂教会直下・テンプルナイツが挑み、
歴代の勇者たちが挑み、それでも攻略できなかった各国の魔獣たちを剣一本で葬ってきた男……!
ブレイズは今、自分には超えられない壁が目の前に立ちふさがっているのを実感した。
ブレイズには超えられない。
そう、ブレイズには。
「………ああ、そうかい」
火傷の痛みで震える手を無理矢理動かし、胸に手を当てる。
どくん、どくんと。鼓動が響く。
ブレイズの血を全身に送り出す機関、心臓。
『彼女』は普段、そこに眠っているのだという。
ジャルシアの血に刻まれた呪刻は、解放することで自身の人格を削る諸刃の刃だ。
もし執行数を使い切ってしまったら、ブレイズは『彼女』にとって代わられるだろう。
そうすれば最悪だ。あの血と戦いを美酒とする悪鬼をこの世に解き放ってしまうことになる。
(でも、まだ………大丈夫だ。まだ、オレはオレでいられる……!)
一瞬目を閉じ、あの土色の手を思い出す。
それでいい。目的さえ果たせば、あとはどうなっても構わない。
―――自分も、世界も。
目を開け、ヒロトを睨みつける。
そうとも、お前がそこをどかないというのなら……。
「押し通るまでだ!
――――――契約執行!!!!」
……そうして、ブレイズは黒い炎に包まれた。
剣士迎え撃つ~新ジャンル「騎士娘」英雄伝~ 完
最終更新:2008年04月27日 14:09