妄執のマジュヌーン

その少女を一目、目にした瞬間。
ロビーにいた誰もが、一瞬息をするのを忘れていた。

「………………………」

ばさ、と翻る紅のマントを蒼い肩当で留め、
金色の髪をなびかせて優雅に進む絶世の美少女である。
しかし誰もがあっけに取られた理由は外見ではない。
確かに光輝くような美しい少女だったが、そう錯覚するのは
何より彼女の内面から放たれる高貴さに由来するものに違いなかった。

少女は凱旋の先頭に立つ騎士隊長よりも堂々と、舞踏会の花形を飾る舞姫より優雅に、
純白のヴェールの纏い花婿の元へと進む花嫁よりなお厳かに、ロビーの中を歩いていった。

「………あ、」

そして、止まる。
少女が立ち止まったのは聖堂の門の正面、受付役の修道女の前だった。
聖堂を訪れた人間誰もが始めに話しかけるのは当然のことなのに、
そのシスターは口をぱくぱくとさせて、うまく言葉が出ないようだ。
今、彼女の前にいる少女はただの少女のはずなのに。
修道女の女性はまるで聖皇と対面しているかのように、完全に圧倒されていた。

「あ、の。そのぅ………」
「私は勇者ヒガシ・ヒロトの代理、ローラと申します。至急セントレイ・ピアラに連絡を。
 勇者ブレイズ・トゥアイガ・ジャルシアに下された使命の取り下げを申請しますわ」

少女、ローラはそう高く述べて、手にしていた申請書を掲げて見せた。

「………………」

その様子をリューは聖堂の門の近く、高い天井にまでまっすぐ伸びた柱に
寄りかかり、じっと見つめている。
決して快い視線ではない。どちらかといえば、警戒するような、
相手を観察するような、そんな目をしていた。

―――今のローラは、普通ではない。

魔王であるリューははっきりとそう感じ取っている。
そういえばいつだったか、ジョンが言っていた。
渇きの国のナフレザーグ。外道魔術師が大胆にも王権の中枢に身を置いて、
国中のマナを搾取していたあの事件。
その真相と現場を瞬時に悟り、さらには傀儡となって敵対した王宮兵士たちの誇りを
一喝して呼び覚ましたというローラの活躍を。

「………どうにも、眉唾ものだと思っていたのだが、な………」

実際こうやって前にすれば嫌でもわかる。ローラを、今のローラを
『人間』と呼べるのかはなはだ疑問になるほどに。
ローラから感じる感覚は人間というより神族に近い―――いやそれも違うか。
リュリルライアが、というよりは『魔王』がこれまで遭遇したことのない『何か』だ。
ジョンの言葉を借りるなら『王』。魔族に対する魔王のように、
それだけでヒトの頂点に君臨する存在になりつつあるのか。

「………………………」

それを魔王は、決して良く思わない。
間違いなく、ヒトの進化の鍵となるであろう存在。
時を経て『王』を手にした人間はこれより爆発的な種族的成長を成し遂げるだろう。
だが、その方向性がもし歪んだものであったのなら。
人間はおろか魔族や神族までも巻き込み、ひいては大いなる星のサイクルそのものを崩壊させかねないのだ。

――――――星に危機が迫るとき、魔王はその本領を発揮して
全てを『なかったこと』にさせなければならない。
それがこの星の混沌を司る魔王の本当の役割。
事象崩壊という最終手段は、その時の為に――――――。

「はっ」

それを、リュリルライアは鼻で笑い飛ばした。
ローラの力はまだ未熟だ。王はまだ卵より殻を破り顔を出した程度に過ぎない。
それが大きく羽ばたき、空を翔るのはまだ先の話。
それよりなにより、『あれ』を誰だと思っている?
ローラ・レクス・ヴェラシーラは決して間違った方向に進まない。
あれが往く道を間違えるタマか。そうでなくても、あやつにはヒロトが。リューが。
その心と身体を守護する最強の勇者と、その真意を共有する最高の魔王がいる。
かの姫君に限って、心配は無用だ。
本人だって変な能力に目覚めたといって気取ることもないだろう。
むしろヒロトの助けになると調子に乗るに違いない。

「………む。それはいかんな」

ヒロトは基本的に交渉を苦手とする。勇者という肩書きは今回役に立ったが、
それだけで万事収まるほど人間の世界は簡単ではない。
そんな時、ヒロトのサポートをするのがローラの役目だ。
ただでさえ優れた弁論能力を持っているというのに、この『王』の能力を
真に発揮できるようになったらヒロトはヒトに対し個人で『国』に等しい影響力を所有することになる。
………それって、ある意味リューより役に立ってないか。

「まずいな。それではヒロトの隣が取られてしまうではないか」
「リュー。これから礼拝堂へ移動するそうですけど、どうします?」

ローラが振り返り、声を掛けてくる。
傍にはここの神官たちが何人もローラを囲んでいた。かわいそうに、すっかり小さくなってしまっている。

「………いや、我はいい。ここで待とう」
「そうですか。すぐ戻ります―――戻れますわよね?」

ローラの流し目に、神官たちは一生懸命首を縦に振っていた。
その様子を見て、リューは少しだけおかしくなって吹き出してしまった。
そうして、ふと窓から月を見つめる。
先ほどまで月を隠していた雲が風に流され、その細く円い輝きは夜を静かに照らしている。

願わくばこの下にいる剣の勇者も、この月のように静かでいますよう。



黒い焔が翼のように広がり、三日月に透けて辺りに闇色の影を落としていた。

「………な…………?」

ブレイズが焔に包まれたのはほんの数秒のことだ。
その数秒で、彼女の肌は焼かれて黒く染まり、碧眼の瞳は朱く。
そして特徴的だった蒼髪までも、炎のような紅に変わっている。
背には彼女を変えた黒い炎が片翼だけの翼となり、
傷ついてもなお精悍だった表情は嗜虐に歪んでいた。

――――――変身した。

ヒロトは驚いていた。
変身したこと自体に、ではない。確かにそれも驚くべき事かも知れないが、
ヒロトにはリオルという珍しい仲間がいる。変身自体は、見慣れているのだ。
だから、驚いたのはそうではない。
驚いたのは―――ヒロトが驚いたのは、髪留めが燃え尽きたことにより
ふわりと広がったその髪。そしてニヤリと細めてヒロトを見つめる、その瞳。
その色に、鮮やかさに。あまりにも、見覚えがあったから。

似ている。
彼女の赤に。

世界中の赤の原色となったような、雪に落ちた鮮血のようなあの赤に
あまりに似通っていた。顔立ちが違うからか、余計にそう見える。
それがヒロトから言葉を失わせていた。

「……おいで、フレアランス」

変身したブレイズが手をかざす。
と、虚空がやおらぐじゅりと歪み、そこから一振りの槍が現れた。
洗練されたグングニルとは対照的な、混沌を形にしたような歪な槍。
見るからに禍々しい、その槍にもヒロトには覚えがあった。

「―――デ・ミ・ジャルグ!?」

そんな。ありえない。デ・ミ・ジャルグは魔王の紅。
世界で唯一、リューだけに振るうことができる魔槍なのだ。
それがどうして、ブレイズの召喚に応じるのだ!?

「なんですって?」

ヒロトが目を剥いていると、ブレイズもまた目を瞬かせた。

「今……この槍をなんて呼んだの、貴方」
「………………」

ヒロトは答えず、キッとブレイズを睨んだ。
リオルを含め、こういった『変身する』相手と戦うのは始めてのことじゃない。
この手の相手は変身することによって、まず間違いなく段違いに強くなる。
口調さえ変わっていることから考えても、ブレイズが戦士としての正道を往くために
押さえていた力もフルに解き放っていると見ていいだろう。
今まではただ攻撃をいなし、耐えるだけでもなんとかなったが、
今のブレイズの力は未知数だ。ここは相手を見極めて


「答えなさいよ」


気が付くと目の前に穂先があった。
先程召喚した赤い槍。
その切っ先が、今まさに、ヒロトの眼球を抉ろうと―――。

―――それを、身体を反らせながら寸でのところで避ける。

「あ、はっ!すごい、今のを躱すの!?」

ブレイズが嬉しそうな声をあげた。
頬のあたりを斬られたらしい。しかし傷から血は出ず、しゅうしゅうと
煙が立っている。焼けているのだ。あの槍は常に高熱を帯びているのか。

ブレイズは片手に赤い槍、もう片手にグングニルを握っていた。神速で突き出した
赤い槍が避けられたと見るや、すぐさまグングニルを横薙ぎに放ってヒロトの腹部を狙う。
ヒロトは体勢を立て直す間もないまま、しかし剣でそれを受けた。
が、片手とはとても思えない怪力に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられて転がる。

「デ・ミ・ジャルグって、そう言った?言ったわよねぇ!?あ、はっ!あははっ!!」

頭上。
ヒロトが飛ばされた方向に一瞬にて跳躍したブレイズは上から脳天を貫こうと槍を繰り出す。
魚を狙う猟師の銛のような攻撃を転がったまま弾き、
回転の勢いを利用してブレイズの脇腹に蹴りを叩き込んだ。

「疾ッ!」
「あ、はぐっ!?」

ブレイズを弾き飛ばした隙に身を起こし、体勢を立て直す。
どうもヒロトは相手の何かに触れてしまったらしい。
これが以前ローラたちの言っていた『地雷を踏む』ってやつかなと、ふと思う。

「あ、はぁ―――は、ははは!あはははっ!」

ブレイズは倒れこみ、咳き込みながらも笑っていた。
普通ではない。変身の影響だろうか。
満月の夜に半獣半人の怪物に変身するワーウルフは変身すると理性を失うという。
他にも、世には相手の思考を奪い去り死ぬまで戦い続ける戦闘人形に変える
『狂化の呪い』があるらしいが、ブレイズの変身もその類なのだろうか。
それとも、やはりデ・ミ・ジャルグに因縁が?
それも考えられない。あれはリューの槍だ。リューがヒロトと出会う以前、
何者かとひと悶着起こしたという話は聞いていない。
リューはずっとあの魔王城に篭って生活していたはずだし。

いや、待て。そういえばリューはあの槍を譲り受けたと言っていなかったか。
ならリューではなく、以前の持ち主と―――?

「見つけた、見つけた―――デ・ミ・ジャルグの手がかりを。
 ああ、どのくらいこの時を待ったのかしら?ねぇお兄さん、いったい私は何世代待っていたのかしら?
 くだらない刻印に縛り付けられて、利用されて―――なんて可哀想な私!でもいいの。
 やっと、やっと、やっと!!巡り合ったんだから!魔と闇を統べる王の証に!!」

ブレイズは歓喜のままに叫び、グングニルを月に掲げた。
その穂先がバチチ、と帯電する。
まずい、あれは―――

「大雷【バルクンド】!!」

掠めただけでヒロトに大きな傷を与えた神槍の雷槌。それが今度は初めから正確にヒロトを狙ってくる。
魔法慣れしているのだ。やはり先程の比ではない……!
ヒロトはそれを、

剣で、真正面から受け止めた。

「覇ァァァァァァアアアッッ!!」

リューの魔力波と違い、これは純粋な魔力エネルギーから【雷】に変換されている。
先日のクシャス温泉でクレイドラゴン相手にやったように、攻撃を受け流すこともできない。
かといって、避けることもまたヒロトにはできなかった。何故なら彼の背後には牙の森が広がっていたから。
ここを退けば、稲妻の奔流は森に直撃してしまう。せっかく鎮めた森がまた大パニックだ。
ヌシが弱っている今、それを止めるのはまた容易ではないだろう。

「あ、ははははっ!!すっごい!雷を斬っちゃうなんて、お兄さん何者?あはは、ねぇ、もしかしたら、
 貴方が持ってるんじゃないの?あ、はっ!返して、返して!あれは、私の槍なんだから!!」

え、と。
ぶすぶすと煙をあげる身体を起こして、顔をあげた。
今、なんて言った?

「―――炎蛇【アフアナール】」

空白となった一瞬。
ブレイズが掲げたもう一振りの槍―――フレアランスから炎の大蛇が鎌首をもたげ、
ヒロトに食らいついてその臓腑を焼き焦がしていた。
ヒロトは抗う間も叫ぶ間もなく森に突っ込み、轟音が辺りに響き渡った。
木々が倒れ、眠っていた鳥たちが驚いて飛び立っていく。

「あ、はぁ―――、油断は禁物よぉ。お兄ィイさん?」

……稲妻からは護ったのに、結局荒らしてしまった。

「気になるなら教えてアゲル。あの槍はね、本来は私のものなの。
 だって、魔と闇を統べる王の持ち物なんだから―――あの槍は私のモノに決まってるじゃない?」

ブレイズが何か言っている。しかし、よく聞こえない。
ああ、さっきの攻撃で鼓膜が破れたのか。森で戦うことに何かのジンクスがあるのかも知れない。
肺も半分持っていかれたようだし、今度から気をつけよう。

「それをどこの馬の骨とも知れない他人が持ってるなんて。
 魔王、ですって?ザコを少し従えられるからって、なんのつもりなのかしらねぇ。
 魔と闇の王というのなら、この私以外にありえないじゃなぁい?」

がくがくと痙攣していた身体が収まる。“豪剣”の再生能力だ。
身を起こす。腕がえぐれて骨がのぞいていたようだが、肉がつながりこれも回復した。
べ、と口の中に溜まった血を吐き出す。奥歯が二、三本血の塊と一緒に焼け焦げた地面に落ちた。
頬をさする。違和感はない。欠けた歯も生え代わっていた。鮫か、俺は。
なんだか再生能力がどんどん向上していってるような気がする。
……まぁ、いいか。便利だし。

「………なんていうか、バケモノねぇ。お兄さん、もしかしてアンデッド?
 どこかの誰かさんみたいに、リッチ・ザ・デスの妖人とか?」
「俺は人間だ。出生にちょっとしたごたごたもあるけど、だからこそ疑いようがない」

焼け焦げた木に突き刺さっていた剣を引っこ抜き、ぶん、と振った。
確かに、ブレイズの言うことももっともだ。稲妻を斬り裂き、業炎の渦に巻かれても、
こうして平然と立ち上がるような人間がどこにいる。

「馬鹿いうな。平然と、じゃない。すごく痛い」
「それが人間じゃないっていうのよ」

ブレイズはここにきて、ますます愉悦の笑みを深くした。
口は耳まで裂け、目は爛々と輝き、まるで空に浮かぶ三日月のよう。
彼女の立場ならば顔を歪め、悔しそうに舌打ちのひとつでもしてもいいというものなのに。

ブレイズが―――『彼女』がジャルシアの血に封印されて以来、こんな人間を見るのは初めてだった。
彼女が殺そうとしたり、嬲ったりした相手は魔獣も人間も、例外なく彼女を殺そうとした。
その殺意を、憤怒を、憎悪を、さらなる力で踏み砕き、止めを刺す。
それが彼女は楽しかったのだ。相手が弱ければ圧倒的力の差に怯え、絶望させてしまう。
それでは大して、面白くない。まだ勝てる、逆襲できる。その浅い希望を噛み砕くのがたまらない。
そういう意味でこの青年は破格だった。
神槍グングニルと魔槍フレアランスの破壊を立て続けに喰らってもピンピンしている。
なんて、素敵な。ブレイズの殺意に値する強敵だというのに―――。

「それより、お前―――デ・ミ・ジャルグに随分入れ込んでいるようだが」
「入れ込むもなにも、アレは私の槍だもの。グングニルもフレアランスも
 イイ仕事してくれるけど、やっぱり私が持つべき槍は私の元にあるべきじゃなぁい?」
「………………持つべき槍、か」

ヒロトはふぅ、と溜息をつく。
ブレイズの眉が、流石に訝しげに寄る。静かだ。あれだけブレイズに痛めつけられて、
なおヒロトからは敵意や殺気が感じられない。

「つまらないわぁ。お兄さん、怒らないの?反撃しないの?一方的になぶり殺しなんて、私、嫌よぉ?」

………それでこそ、壊す甲斐があるというものだ。
だが、それでもヒロトは首を振るのだった。

「悪いが、お前の道楽に付き合うつもりはないな。
 そもそも、俺はここに戦いに来たんじゃないから、時間さえ稼げればそれでいい。それに―――」
「それに?」

ヒロトは顔を上げた。その目に、ブレイズは笑みを消した。
この男はブレイズを見ていない。相手にしていない。
反撃しないはずだ。そもそも、『敵』とすら認識していないのだから。
己を脅かすものではないから、こうして、悠然と、佇んでいられる―――。

それは。

「魔王を討ち取るのなら勇者である俺の役目だが、お前は魔王じゃない。
 なんとなくだが、確かだとわかる。デ・ミ・ジャルグはお前の槍じゃない」

彼女にとって。

「お前は何だ?もしかして、魔族でさえないんじゃないか。そんな気さえ、する」

耐え難い、屈辱だ。

ブレイズはギシリ、と奥歯が軋むほどに噛み締めると、
それこそ憤怒と殺意の眼差しでヒロトを睨み付けた。
その形相といったら、憎悪が呪いとなって心臓を穿とうというほど。

「殺すわ」
「……………」

低く呟いた。
それでもヒロトは表情を変えない。
この呪殺の権化を前にして、白凪の海のように冷や汗ひとつ、かかない。

グングニルが稲妻を放つ。天と地を閃光で結ぶ雷槌は掠めただけで致命傷を与える【バルクンド】。
フレアランスが炎を纏う。地獄の業火をこの世に具現化するそれは先程ヒロトを焼いた【アフアナール】。
二つの槍にそれぞれ必殺の魔力を通わせ、構える。丁度上から見ればVの字を描く体勢になるだろうか。
どちらかがどちらかのサポートとして機能するのではない、それは紛れもなく
炎と雷を寄り合わせてひとつの槍とする必殺の中の必殺を現していた。

「喰らいなさい」


              右手に神槍蒼白く光輝く
              左手に魔槍紅黒く燃える


「――――――神魔二槍【イブリス】!!!!」

風の強い三日月の夜。
ラダカナ平原、牙の森の入り口で。


              神魔携え片翼の魔が吼える


―――ずずん、と森全体が揺れた。
先程までの轟音よりはるかに大きく腹にこたえる、おそらくこれで決着がついたのだろう。
勇者ヒロトと勇者ブレイズの衝突は結局避けられなかったらしい。
ジョン・ディ・フルカネリは溜め息をついた。
まったく、あの人は。
無茶をするのは構わない。しかしそれでどれほど他の人間に迷惑―――とまでは言わないが、
影響が出るのか考えて欲しいものだ。
ヒロトは紛れもなくジョンたちの中心であり、おそらくは聖堂協会が動かせる最高戦力。
ただでさえそういう存在は目をつけられやすいのだ。少しは自重して欲しいものである。

………まあ、ブレイズの到着が早すぎるということもあるので、仕方がないといえば仕方がないのだが。
リオルが鎮めたというこのドラゴンを見捨てる気は、ジョンにだってなかったのだし。

「GRR………」
「キキィ………」

ドラゴンとスゥエンたちが不安そうに彼方を見上げる。
ここは森の入り口といっても、ビサレタの町側にあたるので勇者たちが激突している場所とは結構な距離がある。
魔獣である彼らも感じるのだろう。稲妻や炎。大気に満ちたマナを乱す強大な力の奔流を。

「―――心配いりませんよ。ヒロトさんが守ってくれています」

ジョンは倒れた木々に腰掛けたまま、安心させるように頷いた。
医者である―――医者でもあるジョンはリオルに魔力補充をした後、
傷ついた彼らを治療するために森にやってきていたのだ。
もともと魔獣の治療も旅の途中で行っていたジョンである。半分どころか
九分九厘死んでいたリオルを救った手腕は伊達ではなく、魔獣たちも
昼間の『説教』が効いていたのだろう、大人しくジョンの回復魔法に身を委ねたのだった。

………回復魔法、か。

薬はほとんど診療所に卸してしまったので仕方なく、といったところだが
実のところ、それはありえないことだった。

ジョンは療術師(ヒーラー)でもある。
数ある魔法の中でもとびきりの難易度を持つ回復魔法も、ちゃんと扱うことが出来る。
普段なら。そう、それはジョンが万全なら、の話だ。
それがありえない。
リオルの魔力補充を終えてすぐ森に向かい、回復魔法を使う?
そんなことができるはずがない。
リューのように無限といってもいいほどの魔力量を持つなら話は別だが、
ジョンは体力も魔力もそうそう恵まれた方ではない。

だからこそ小手先の技術でなんとかやりくりしているのだ。
彼の必殺“霊拳”にしたって、わざわざあんなスタイルを取っているのは魔力を効率よく使うため。
余裕があるなら、それこそ今暴れているブレイズのように轟音響かせる大魔法で捻じ伏せればいい。
なのに。
リオルに魔力を与えて、それでも回復魔法を使うだけの余力があるのはどういうことか。
リオルの残存魔力は僅かだったはずだ。意識を失うくらいだ。余程大暴れしたのだろう。
そこに魔力を注いでこの余力。ジョンの魔力量が増えたのではない。
ジョンは魔導師としてはすでに成長を止めている。それはずっと前からわかりきったことだ。
なら、考えられるのは。

―――リオルが、自力で魔力を回復した。

「………馬鹿な」

ジョンは思わず呟いた。
それこそありえない話だ。リオルは正確に言えば生物ではない存在。
義体はリオルの魂の入れ物ではあるが、生体部品を使ったゴーレムのようなものだ。
偽・賢者の石による魔力のストックがなければ活動はできなくなる。そう、賢者の―――

「賢者の石……?」

ジョンは戦慄した。
色々な考えが頭を駆け巡る。
否定、否定、否定、否定。そして肯定。

賢者の石は無限の魔力を有する魔石とされている。しかし、実際に無限のものなどありはしない。
世界に満ちたマナの総量は常に一定であり、それ以上増えることも減ることもない。それが真理だ。

が、ここでひとつのとんちが展開される。

たとえば泉。小さな泉があったとしよう。
この泉は毎日、大釜一杯分の水が湧き出している。
一日に使用する水は丁度、大釜一杯。朝汲んだらもう泉はカラッポだ。
しかし、また翌日になれば大釜一杯の水が溜まっている。
ならば泉の水はどこから来るのか。それは、実はその大釜なのである。
使用した分の水はやがて蒸発し、雲となり、雨となって大地を潤す。
それがまた、泉に湧く水となるのだ。ひとつに繋がる大いなるサイクルがここにある。
結果、泉には水が沸き続ける。
そう―――無限に。

「………………………」

まさか。
それが。

賢者の石の、正体なのか。

使った魔力を自己回復できる魔石。
尽きることのないそれは、確かに無限の魔力を有しているに違いない。
循環する世界の一部なのだから―――。

ジョンは、ラルティーグの悲願に手を掛けたことを悟った。
ぶる、と身震いがする。ジョンの身体に流れる知の民の血が歓喜しているのか。
魔王の手を借りるまでもない、賢者の石が精錬できるようになれば、その恩恵は計り知れないものとなるだろう。

―――精錬できれば。

「………………………………」

それが。
どういう意味を持つのか。
それに気付いた瞬間、ジョンは目を見開いた。
流砂に飲まれるかのように血の気が引いていく。
風が止み、ドラゴンやスゥエンたちが消滅し。
一寸前さえ見えない闇の中に、ただ独り。
凍りついたその貌は。
見たことも無い、絶望に染まっていた。



神魔二槍。

グングニルとフレアランス。雷と炎の力を一点に集中して放つ一撃は強力無比の威力を持ち、
かつて冥界の番犬ケルベロスを一閃の元に葬り去ったブレイズの奥義である。
破壊力だけでも魔王リュリルライアの魔力波に匹敵するそれは、
放てば必殺、狙った獲物を確実に仕留めることができる。
神槍と魔槍、同時に使いこなさなければならないので魔力の消費が半端ではなく、
ブレイズが『彼女』を維持できなくなるのが難点といえば難点だが、
すでにその時には相手は絶命しているのでなんら問題は、ない。
最終最後の奥の手。そういう意味でも、これは必殺技と呼ぶに相応しい攻撃といえるだろう。
仕留められなかった敵はない。
なかった。
今までは。

「………ホント、バケモノよねぇ。お兄さん」

ブレイズは神魔二槍を放った体勢のまま、くすりと微笑んだ。
ヒロトは顔をしかめた。バルクンドとアフアナール、双方の攻撃をさらに上回る破壊を
真正面から剣で烈斬したために身体はボロボロだったが、それでも生きている。
ブレイズが呆れるのも無理はなかった。
それでも、ヒロトはぼやくように答える。

「………俺は人間だ。さっきも言ったろう」
「あら、本当にそうかしら?」
「そうだ」

くすくす笑うブレイズに、ヒロトはきっぱりと言い放った。
人間だからこそ、以前遥か遠い故郷の政治問題に巻き込まれたりしたのだ。
これが人間でなくてなんだというのだろう。あんなことは二度とごめんであるが。

「そういう意味じゃないわ」
「なに?」

ブレイズはヒロトにキスをするように顔を近づけると、妖艶なまでの口調で、囁いた。

「貴方は今、森を守った。けど、ヒトは結局のところ、ヒトしか守らない―――守れない。
 ヒトの利になるもの以外に手は出さない。そういう生き物だもの。
 でも―――貴方はそうじゃなかった。たいした思い入れもない、僅かな報酬もない。
 けれど、ボロボロになってまでこんなちっぽけな森を守ろうとした勇者ヒロトは、
 ふふ、本当に人間の側に立っているといっていいのかしらね?」

「………………………」

ざわわ、と風が吹き焼けた大地の灰が舞った。
ヒロトは、答えない。

「あらごめんなさい、意地悪しちゃったかしら?でも、考えておいて。
 いずれこの問題は、貴方を包み込む闇となる―――」
「―――なるはずなかろう」

声がした。
ブレイズは驚いて振り返る。ヒロトも顔をあげ、はっとなった。

炎を纏うように広がる紅い髪。
夕焼けの太陽より朱い輝く瞳。
今のブレイズに似ているが、さらに、さらに鮮やかな赤。

いつの間に到着していたのか。
魔王リュリルライアが降下するフレズヴェルグより一足早く草原に降り立ち、
波立つ草の海を歩きこちらを見据えていた。

「ヒロトが人間側に立っていない、だと?そんなことは些細な問題だ。
 何故ならそやつが立っている場所こそ『ヒロトの立ち位置』なのだからな。
 我とローラが保障する。おそらく、ジョンやリオルもな。我々がいる限り、
 ヒロトは決して間違えたりはせんよ」

威風堂々と。王たる威光を以って、リューはヒロトを肯定していた。
それでいい。ヒロトは、それでいいのだと。
知らずに強張った心が緩む。自覚はないが―――ヒロトは今、確かに安心していた。

「………何、あなた」

ブレイズがリューを睨む。
ヒロトは思わずブレイズを見た。
リューを知らない。リューが何者か、わからない。
それがはっきりと、彼女の立ち位置こそを告げていた。
魔族であれば、魔王たるリューのことは本能によって刻み込まれている筈。
つまり、ブレイズは―――。

「知る必要はなかろう、【マジュヌーン】。どうせそろそろ別れの時間なのだろう?」
「……………………」

それは確かだった。ブレイズの魔力ではこれ以上変身体を維持できない。
神魔二槍を放った時点で時間はさらに減った。そろそろ元の姿に戻るだろう。
しばらく無言でいたブレイズはやがて、ふっと肩の力を抜いた。

「……そうね。もう少し『私』のまま貴方の話を聞きたかったけど。
 それは次の機会に、ね?お兄さんも、また会いましょう―――」
「断る」
「勘弁してくれ」
「あ、は―――はははっ、あはは、ははっ―――」

ブレイズは楽しそうに笑うと、がくん、と大きく痙攣した。
霧が晴れるように紅の髪が蒼く染まり、浅黒い肌も元の白さを取り戻していく。
最後にもう一度大きく身震いして、ブレイズは閉じていた目を開けた。
そこにはもう狂気の色は残っていない。翡翠の瞳がリューを―――その後ろ、
フレズヴェルグから降りてきた金色の少女を映している。

「………ローラ」
「久しぶりですわね。フレイア」
「今は―――違う」

ブレイズはかぶりを振った。
ここにいるのはただの勇者、ブレイズ。聖堂教会の使命を忠実にこなす猟犬だ。

「……犬は嫌いじゃなくて?」
「嫌い。今でも」
「―――そう」

ローラは少しだけ微笑み、すぐに寂しそうに目を伏せた。
そうして、顔をあげる。凛とした表情になって、手にしていた紙を広げた。

「大聖城セントレイ・ピアラから勇者ブレイズ・トゥアイガ・ジャルシアへ通達ですわ。
 グリーンドラゴン討伐の使命は撤回されました。
 もうここのドラゴンを狙う理由はどこにもなくなった―――そうじゃないかしら?」
「………………そうだな」

終わった。

ブレイズはそう感じていた。義を捨ててまでまだここに固執しようというのなら、
今度こそヒロトは手加減抜きでブレイズを仕留めにかかるだろう。
彼女とて気付いている。ヒロトは今回、本当に時間稼ぎにのみやってきたのだと。
それが証拠に、かの勇者は最後までついに自分から攻めることをしなかった。
同じ魔獣狩りの勇者だからわかる。自分やヒロトは、先々の先こそが本領なのだと。
相手が攻撃する前に仕留める。これが自分たちの定石なのだ。
しかしヒロトは、ついにそれをしなかった。それどころか防いだりいなしたり、見切ったり挙句受けたり。
ヒロトは言ったとおり、『戦う』ことを始めから放棄していたのだ。
契約執行をした自分にさえも、である。
………本当に、たいしたバケモノっぷりだ。

ブレイズはしみじみとそう思い、きびすを返した。
王都ディカに戻るには広い草原を越えていかなければならないが、足はない。
ドラクルーはとっくに逃げ出してしまったので歩いて帰るしかないのだ。
正直くたくたでおっくうだった。明け方には王都に戻れるだろうか。

「―――ブレイズ、とやら」

不意に声を掛けられた。
ブレイズの知らない、知る必要もないと言われた少女、リューである。
そういえば先程ブレイズを、いや『彼女』を【マジュヌーン】と呼んでいたが、
なんのことかはブレイズにはわからない。

「デ・ミ・ジャルグを求めても、貴様の手には入らない。
 星に手を伸ばすことを愚かとは言わんが―――デ・ミ・ジャルグを手に入れても、
 貴様の空虚さは埋められはせんよ」

ブレイズには―――なんのことかわからない。
だが、こうするのが正しい気がして、ニヤリと笑ってみせた。

「あ、は。そうかしら?」

細めた瞳が一瞬だけ赤く染まる。
そうしてまた背を向けて、今度こそ、彼女はもう振り返らなかった。

………しばらくその背中を見つめ、ヒロトはべたりと座り込んだ。

「体中が痛い」
「恰好をつけるからだ。馬鹿者」
「ヒロト様、大丈夫ですか?」

“豪剣”の治癒能力で回復したとはいえ、いわば病み上がりの状態だ。
筋肉や骨、皮膚も無理矢理繋げたようなものなので、緊張が解ければ痛みもぶり返す。
ところで、とヒロトはへたりこんだままリューを見上げた。

「ブレイズのこと、何か知っているのか。デ・ミ・ジャルグに随分入れ込んでいたようだけど」

訊かれて、ああ、とリューは頷く。
『魔王』としての記憶を魔王城にあった歴史書によって裏付けた知識と推測だ、と前置きして。

「あれは『魔王』の成りそこないだ。魔王侵攻の際、この世界は大きく変わった。
 魔族も、神族も………特にヒトもな。てんでばらばらだったヒトは神々の導きによって
 集団となることを覚え、『始まりの勇者』を中心として魔王に対抗するために組織を作った。
 これが後に聖堂教会の前身となるのだが―――まあ、それはいい。

 しかし動乱の中で、逆に魔王の力を我が物としようとした一派が現れた。
 魔族を制し、手駒として操ることを考えた『魔物使い』たち。魔獣たちは強力だ。
 それらを操ることができれば、世界など簡単に手に出来ると。ヤツらはそのために『魔王』になろうとした。

 しかし研究と実験を重ね生まれたのは、手に負えない残虐さを持った異形の怪物。
 魔獣でさえないそいつを制御するために、ヤツらは自分たちのうちの一人の身体に
 怪物を封印し、融合させた。仲間の一人を犠牲にしたんだ。
 そいつは当然怒り狂い、融合させられた怪物の力を使って『魔物使い』たちを皆殺しにした。
 皮肉と言えば皮肉だな。結果として、『魔物使い』は封印融合という絶大な力を手に入れることができたんだから。

 異形となったそいつは怪物の赴くままに魔族を殺して回り、やがて英雄の一人に数えられるようになった。
 闇の力を纏う異分子ながら、外敵を殺すのならそれは英雄と呼ぶに相応しかろう?
 聖堂教会の前身たる組織からは煙たがられていたようだが、そうしてそいつは次第に支持を集め始め、
 魔王侵攻が集結した後についに国を建て、王となる。それが―――ジャルシア。

 初代『戦う王』の誕生というお伽噺だよ」

話し終えると、リューは半分は推測に過ぎないがな、と再度付け足した。

「………魔王になることを求められて生まれたから、
 魔王の証であるデ・ミ・ジャルグに固執するってことか」
「さぁな。今となっては誰にも分からぬ過去の話だ。
 魔族でさえない、キメラのようなものだから我の範疇にもおらぬ。
 ただ―――あの妄執。血を繋ぎ、世代さえ超える強き意志。我はあれを何より人間の象徴と見るがね」
「世代さえ超える、か―――」

ヒロトは痛む身体を起こし、随分遠くなってしまったブレイズの背中を見つめた。

【マジュヌーン】。

ブレイズは妄執に駆られ、狂気に触れているようにヒロトには見えた。
それは決して、道理に適ったものではないようにも。
ヒロトの願う調和も、一歩間違えればマジュヌーンの呪いとなるのだろうか。
なんとなく、そんなことを考えていた。

「………何を考えているのかだいたいわかるが。
 そんなことはないと言ったであろう。我らをなんと心得ている」
「ですわ。ヒロト様には、私たちがおりますもの」

―――そうだな。
彼女たちがいれば、きっとヒロトは間違えることはない。
ヒロトはそう思い、微笑んで頷いた。



牙の森。

木々が倒され、ぽっかりと開けた夜空を見上げ、ジョンはぼんやりとしていた。
ドラゴンたちの治療は終わった。
ブレイズとの決着もとうについたようで、森は静かなものである。
もう、帰らなくては。
そうとわかっているものの、ジョンはずっとそこを動けなかった。

ラルティーグの願いに至る。その道が、開けたのだ。
それがどれほどの意味を持つのか、彼には充分すぎるほどわかっている。

完全なる賢者の石の、精錬。

だが。それには。


愛する人の命が、必要だった。



              妄執のマジュヌーン~新ジャンル「騎士娘」英雄伝~ 完

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最終更新:2008年04月27日 14:10
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