野望編「「夕圭 撤退」

自分の胸元にしなだれかかる少女。
彼女を包んでいたバスタオルは滑り落ちており、生まれたままの姿を少年の前に晒している。
『魔性』『妖艶』…。
男の級友たちの多くは彼女をそう評するが、その抗いがたい魔力は春樹の理性を蝕んでいた。
…しかも、つい今しがた、彼女の本心を打ち明けられた。
朴念仁の春樹と言えど、彼女に対して愛おしさを感じ、夕圭の肩に腕を回す。
濡れた髪の感触に、シャンプーの香り。
「…黒田。」
「ん~、50点。…どうせなら、夕圭って呼んで欲しいな。」
しかし、その瞳は愛情と信頼を湛えており、春樹は引き付けられるように黒田夕圭を抱き寄せる。
「…夕圭。」
承諾の返事として微笑みを浮かべ、目を閉じる夕圭。互いの唇が触れ合うまで残り5cm…。
そんな彼らの動きを止める電子音…。携帯電話の着信音のようだ。
「ご、ごめんね。少し待ってて。」
「あ、ああ…。」

あまりにタイミングが悪い…。内心毒づきつつ電話に出ると…。
『ゆかさん!どこにいるのですか!?おなかすきました!!』
…正直、吃驚した。囲炉裏の姿が見えなかったからこそ公園に出向き、これまでの騒ぎに巻き込まれたというのに。
『ど、どこって?…真智ちゃんこそ、どこに居るの?』
『居間でずっと待ってます!!なのにもう、ごご2じをまわってます!!はやく、おひるごはんたべたいです!!』

ため息と共に携帯電話の通話モードを解除する夕圭。
そして、申し訳なさ気な表情で、事情を春樹に告げる。…若干の脚色を加えて。
「…真智ちゃんからよ。
 熱も落ち着いて、ずっと寝てたから張り付いている必要はないかなと思って出てきちゃったけど…。
 お腹空いたってご立腹だったわ。」
真智子の体調が復調したためか、それとも良い雰囲気に水を差されたためか、軽くため息をつく春樹。
「そうか……。喜ばしいけど…何か残念な気もするな。」
どうやら、両方だったようだ。
「ふふふ。…きっと、子供に夜泣きされたらこんなのだよね。」

その、夕圭にとって何気ない一言は春樹にとって大層な衝撃だったようで…。
「…子供って…お前。」
その一言に、自分が何を言ったのかを改めて思い知る夕圭。
「…あ。」
…まるで、結婚後に子作りの相談をしている夫婦の話題そのものではないか。

お互い赤面しながら見詰め合っていたが、やがて夕圭が告げる。
「…ごめんね、春樹くん。先に帰るわ。」
「ああ、囲炉裏をよろしく頼むよ。お母さん。」
珍しい春樹の冗談…。…もっとも内容は、彼を慕う少女達…特に通い妻を自認している少女は憤死しかねないものだが。
「…もう。本気にしちゃうわよ、お父さん?………続きは帰ってからしましょ。
 あ、そうだ。…ルカちゃんもちゃんと迎えにいってあげてね?…お兄さんとして。」
『あと一歩だったけど…。…まぁこれでルカちゃんの願いは果たせるからいっか。』

夕圭の身支度も、それから5分とかからなかった。
やがて、少年と少女は部屋を後にする。

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最終更新:2008年07月15日 23:59
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