「む!」
リオルの声である。
「むむむむ……」
リオルの唸り声である。
「むぅぅぅうう……う!」
苦しげな、リオルの唸り声である。
眉間に寄せた皺がどんどん濃くなっていき、形のいい眉がつりあがる。
あまりにも力を込めているので眉と眉がくっついてしまいそうなほど。
それに伴いリオルの声も高まっていき、そしてとうとうそれが頂点に達したその時。
「うがぁ―――――――――ッッッ!!!!」
爆発した。
主にリオルの我慢的なモノが。
立ち上がったリオルは肩を怒らせてぐるりと辺りを見回した。
隆起した地盤がそのまま小高い丘になっている、背の低い草で覆われた緑の土地。
暖かな日差しとてくてく歩いている小鳥がやけに平和で、
岩の上には大トカゲの魔獣がぬべーっと日向ぼっこしている。
最近降った雨のおかげで普段より二割増しで生命力溢れるこの場所で、
リオルは胡坐をかき座禅モドキのスタイルで瞑想していたのだった。
しかし少し考えればわかりそうなものだがリオルと瞑想はまったく相性が合わなかったらしい。
彼女の瞑想は時計の秒針が一回りするかしないかの間しかもたず、奇声と共に中断と相成ったのだ。短っ。
そんなリオルを苦虫を噛み潰したようなジト目で見るのは、蒼い鎧と背中の長剣がトレードマークの勇者。
勇者として振舞うならさらにここに赤いマントが加わるが、普段は別に身につけていない。
町から離れて数十分ほどの距離にあるここで、今日はリオルの鍛錬に付き合っているヒロトである。
「いくらなんでも早すぎやしないか、リオル」
「ダメ。あたしこれダメ。イライラするもん。瞑想。あたしイライラする」
「集中力ないにも程があるな」
ヒロトは呆れたように言った。
そもそも、ヒロトに修行をつけてくれと言い出したのはリオルの方なのだ。
リオルの核(コア)とも言うべき賢者の石が変質し、より『本物』に近い性質を手に入れたと発覚したのは
つい先日のことだ。ジョンは貴重なサンプルであるはずのリオルの賢者の石を見逃し、
生命を優先させたためにその秘密は未だに解明されていないままになっているが、
もちろんそれは賢者の石を諦めたわけではない。ジョンはリューが魔王城書庫から召喚した
魔道書の一部を借りることによって、今まで以上に精力的に研究に励んでいる。
リオルはそんなジョンを見て、自分にも何かできることはないかと思い、
自分の体内にあるという賢者の石をどうにかして制御できないものかと考えたのだ。
その方法として思いついたのがこれ。自己の裡に潜り己を高める瞑想という手段である。
ちなみにヒロトは『なんかそういうの上手そうじゃん』という理由でつき合わされていたりする。
「なんかさー。コツみたいなのってないの?コレ」
「コツ……かぁ。それ以前の気もしないでもないが、まぁ形にこだわることはないんじゃないか?」
ヒロトはそう答えた。わざわざ座禅を組んでいたことを言っているのだろう。
『とりあえず形から』という手段ももちろん有効だろうが、瞑想は瞑想であって、
特にこれこれこういうポーズをしなければならない、というものではない。
ようは集中できればいいのだ。それさえできれば、たとえ十字を切って手を組んでも、
剣を正眼に構えていても、ただ目を閉じているだけだって構わない。
ヒロトがそう言うとリオルは小首を傾げて人差し指を顎に当て、
「集中、ねぇ」
「いっそ延々と稽古をしているとかどうだ。リオルはじっとしているより
身体を動かしているほうがかえって集中できるように思う」
「そうですわね」
「ふうむ……」
リオルは腕を組むと、考え込んだように唸った。
「って、ローちゃん!?いつの間に!」
いつ現れたのか、音もなくローラがリオルたちの背後に接近してきていた。
「……ついさっき、ですわ。リオルさん、勝手にヒロト様を持っていかないでもらえます?
行方不明になったと思って街中探してしまったではありませんか」
「いやぁ、あははー……」
それでどうして町の外であるこの場所に行き着くのかかなり謎だったが、
乙女ちっくハートの潜在能力が無限だということは万国共通、常識以前の話だ。
そこを深く考えるのは無駄というものだろう。
「俺はモノ扱いか」
ヒロトの呟きは無視された。
「と、ところでジョンは?はかどってた?」
リオルの問いに、ローラは少しだけ眉を下げててゆっくりと首を横に振った。
わかっていたことだけど。リオルはそっか、と肩を落とした。
魔道書を調べて賢者の石に関する手がかりを見つける、というのは
勇者ジョン・ディ・フルカネリの使命のひとつでもある。
魔王と契約してこの世の全ての魔道書が集う魔王城書庫の使用許可を得るという目標は
リューと出会ったことによって達成されたが、その先、つまり実際に魔道書を調べることとなると、
これがジョンにとって大きな落とし穴だったのだ。
魔道書というものは、本それ自体がひとつの魔術式に等しい。形のある魔法のようなものだ。
魔法とは術師のマナを消費し、この世に奇跡を体現させる。その法則は魔道書も同じなのだ。
魔道書は読み手のマナを喰らう代わりに、記録されている知識を、
あるいは術式を、記憶を、叡智を、幽世の理を読み手にダウンロードする。
ジョンはリューの協力によって―――リューはかつて絶命したアルラウネのククに即席の蘇生魔法を
成功させた夜のように、召喚魔法を使って魔王城の書庫から魔道書を取り寄せたのだ―――念願の魔道書を
手にすることができたのだが、その魔道書を読むのに必要な魔力とジョンの魔導師としての能力には
残念ながら、大きな開きがあるとしか言いようがない状態なのだった。
まぁ、無理もない。
リューが召喚した魔道書はどれも神代級のシロモノばかり。
魔道国家ユグドレシアの王立図書館、通称『真理の森』でも何冊あるかわからないようなレベルなのだ。
魔王であるリューはそのとてつもない魔力を以って、まるで野菜スープのレシピのような気軽さで
読めるのかもしれないが、魔法使いとしては決して優秀な方ではないジョンが容易く扱えるものではない。
悪くすれば魔道書に飲まれ、正気を失ってしまうようなそれらを、
ジョンはリューの張った結界の中で慎重に解析している。
そして作業が難航しているからこそ、リオルはジョンの為に頑張ろうと心に決めたのだ。
「でもなぁ」
リオルはウムムと腕を組んだ。
「正直、どうすればこの賢者の石の秘密がわかるのか、あたしにはさっぱりわかんないんだよねー。
いや自分のことだってのはよくわかってんだけどさ」
「……まぁ、作った本人にもわからないようなものですからね」
現在わかっているこの賢者の石の性能は、まず魔力を貯蔵できること。そして魔力を解放できること。
この二つはジョンが作った賢者の石にもともと備わっていた機能である。
魔法使いにとっての魔力のサブタンクであり、飲み物を入れておく水筒と変わらない。
だが問題は、その水筒に水が勝手に溜まるようになったということ。
一度に放出する量さえ気を付けていれば、飲んでも飲んでも水がなくならない水筒。仕組みは、謎。
………………………怪しすぎる。
「気持ち悪ッ」
「しかも、それが自分の身体に入っているんですものね」
「とにかく、どうすればいいかなんて誰もわからないんだ。
なら思いつく限りのことをやってみればいいんじゃないか」
………結局、そこに収まるのだった。
『身は心に通じ、心は真に通ずる』。
その昔、インの国で最強を謳われた拳法家、マスター・リーが残した言葉だ。
身/肉体を鍛えることで心/精神を引き締め、磨き上げられた精神で真/悟りに至るというものらしい。
その拳法家は勉学ではなく拳を極めることによって世の真理に近づこうとしたことで有名でもあり、
没後何百年も経過した今でもなお多くの人から尊敬されている。
イン国が誇る拳法流派のほとんどがその人を源流としているというのだから相当なものだろう。
イン国の人間でなくとも、武道を志した者ならマスター・リーの名は
誰だって人生の内に一度は耳にするほどの偉人である。
「真理云々はともかくとして。自己の能力を把握するのに鍛錬は欠かせないものだというのは頷ける話だと思う。
どうせ今日はジョンやリューが宿に篭っているから俺たちは暇なんだし、軽く身体を動かしてみるか」
「うん、まぁそっちの方があたしは得意っぽいかな」
リオルは大きく伸びをすると、ぱきぱきと骨を鳴らした。
「で?」
そうして、ヒロトを見る。
ヒロトは頷いて、
「そうだな。ここなら迷惑になることもないだろうし、少しくらい派手に暴れてもいいだろ。
じゃあ、まずは適当な距離を取って実戦と同じようにやってみるか。相手は俺がするから、
手加減はなしの方向で構わない。ああ、さっきその辺に魔獣がいたか。
少しどいてもらうように断っておかないとな」
と、すたすた歩き出した。言葉の通じる知能があるとは思えないようなトカゲモドキまで
わざわざ追い払っている辺り、さすが人間と魔族の調和を目指す変り種というか何というか。
と、思ったら案の定襲い掛かられている。しかしヒロトの方も慣れたもので、ひらりと身をかわすと
しっぽを掴んでそのままブン投げた。ひゅるる、と彼方に飛んでいく。まぁ死にはしないだろう。多分。
ちなみに魔獣の棲む土地で勝手に暴れればそのエリアのヌシが怒って外敵と見なし、
排除しに来ることもあるだろうが、気になるこのエリアのヌシとは町に辿り着く途中で既に会っていたりする。
『城亀』の異名を持つヌシ、テラストゥードはその名の通り城ほどもあろうかという巨大な亀の魔獣であり、
背中の甲羅に象がくっついてお盆状の『土地』を支えているような恰好をしている。
性格は大変なのんびりや。十年に三日しか起きていないほど眠るのが好きで、
喋っている間に何度も眠りに落ちてたためにリューがとうとうキレて魔力波で永眠させようとしたほどだった。
まあ最終的に害はないだろうと放っておくことにしたのだが。
「んー、まぁそれはいいんだけどさー」
「……?」
リオルの声を聞いて、振り返る。まだ何かあるのだろうか。
リオルはこきこきと首を回して、
「一撃につき一回!なんでも言うこと聞くとかどうよ?」
「………………?」
ぴっと人差し指を立てた。
ヒロトがイマイチ飲み込めていないのか不思議そうな顔をしていると、
リオルはだーかーらー、と言って続ける。
「ヒロト強いでしょ?そんなことわかってんの。ムカつくけど戦闘力だけは魔王級なんだから。
そんなのとやりあったってさー、こちとらあんま、面白くないわけ。負けて当然~みたいになっちゃったら
鍛錬も何もなくなっちゃうでしょ?だからね?一撃ごとにご褒美が欲しいなってことよん」
「な!」
妙なしなを作って猫なで声を出すリオルに、ローラのツインロールが逆立った。
それはそうだろう。リオルの言っていることは完全なおねだりだ。
お互い歳が一桁の頃からの知り合いであるローラでさえ何度頑張って断念したかわからないような試みである。
「ああ、そういうことか。構わないぞ」
「イエー!」
「な!!」
そして軽く了承するヒロト。なんてことだ。ローラにさえ一度もそんなこと
許したことないのに(単にローラが一度もそういったことを言い出さなかったとも言う)。
灼炎龍時代のリオルの首を刎ねたことで、
最近までリオルはどちらかというとヒロトを仇として敵視していたのではないか?
グリーンドラゴンの鎮静を経て少し打ち解けたかと思えばすぐコレかっ。リオル、恐ろしい娘!
じゃなくて。
「ひ、ひひひヒロト様っ!」
「ん。何だローラ」
「何だではありませんわ!そんな、そんな勝手に決めてしまって!反則ですわ!
ずるい―――じゃなくて!私も―――じゃなくて!」
「よし、まず落ち着け」
ローラは深呼吸するとキッとリオルを睨み付けた。
(おのれ、ですわリオルさん。ジョンさんという者がありながらっ!っていうかライバルは
目下リューさんだけだと思っていましたのにっ!こんなところに伏兵が!?
考えてみれば『気に食わないけど気になるアイツ』的ポジションは神話の時代から王道中の王道……うかつ!
うかつですわ私!無邪気さ故の天然スキンシップはヒロト様のフラグクラッシュでも防げませんの!?
うう……そんな絶対攻撃を身につけているなんて……羨ましい!羨ましいですわリオルさん!
そして多分ご本人にヒロト様をどうこうしようという気がまったくないのも逆に腹立たしいですわっ!!)
と、だいたいそんな感情を瞳に込めるもリオルのきょとんとした反応を見るにまったく通じておらず、
あげくこんなことを言い出すのだった。
「ヒロト、ヒロト。ローちゃん入れて二対一ってのはどうよ」
「ん?……んー。二対一、かぁ」
「ケチケチすんなよー。最強の勇者なんだろー」
「……別にそんなつもりはないけど。ま、いいか。ローラ、悪いけど頼めるか」
「え!?わ、私もですか?ですが……」
急に話を振られて、ローラは流石に戸惑った。
直前まで拗ねていたこともあり、そもそもリオルの為の鍛錬なのではなかったけ?
「いいじゃんいいじゃん。ヒロトに言うこと聞かせるのはローちゃんでいいからさー」
雷が落ちた。
愛剣ボルテックを抜きはらったローラが一瞬にして魔力を刃に通わせると、
戦場の指揮官の如く紫電の剣をヒロトに向けて一気に突きつけたのだ。
途端に切っ先からばりばりと稲妻が迸り、こちらにまだ顔を向ける途中だったヒロトに襲い掛かる。
いきなり直撃―――するかに見えた完璧な不意打ち。が、電撃が地面を抉ったのみで
肝心のヒロトはすでにそこから消えていた。ばっと辺りを見回す。
いた。少し離れた丘の上。一足飛びでそこまで移動したのか。
―――まぁ、ローラも別にこんなに簡単に一撃を当てられるとは思っていない。しかし失敗は失敗だ。
「ちっ」
「うわぁ。ローちゃんヤル気満々だね」
三白眼になって舌打ちするローラの変わりようにリオルも引いていた。
「リオルさん。知っての通りヒロト様は一筋縄ではいきませんわ。
まずなんとかして足を奪いましょう。二人力を合わせれば糸口はある筈ですわ」
「………そだね」
リオルは頷いて、龍の能力を解放した。こめかみに冷や汗が一筋、流れ落ちるのを感じながら。
ローラが当初の目的を完全に忘れて稲妻を纏いながらシャーオラー、とかやっている頃。
町に残っていたリューは何やら一冊の本をぺらぺらめくりながら、しかし何をするでもなく、
腰掛けた椅子をひっくり返りそうなほど傾けてそのままゆらゆらと揺れていた。
今日のリューはずっと宿に篭ってジョンの研究に付き合っているのだ。
といっても実際に魔道書を捲って解析しているのはジョンだけであり、
リューはそれを手伝ったりはせずにこうして半目になって揺れているだけだったりする。
何せこれはジョンの使命であり―――魔術の叡智とは、そうやすやすと伝達できるものではないからだ。
一歩間違えば簡単に意識を持っていかれる。掌に小さな種火を灯すような下級の魔法じゃあるまいし、
魔王の書庫を漁るのならばそれが当然なのである。ジョンも無論、それを承知でリューに協力を要請したのだ。
だからリューができるのはこうやって結界を張って、外に被害が出ないように工房を作ってやるだけ。
それから―――。
『SSSYUGURRRRRRRRRRRRRRRRッッ!!!!』
「っく、リ、リューさん!!」
ジョンが高く声をあげる。
目を向けると宿の一室がびゅごう、ごおう、と黒い大風で逆巻いており、
魔法陣の中心で倒れているジョンの背中から、
めりめりと音を立てて得体の知れない化け物が顔を出そうとしていた。
ジョンの足元に落ちている本は『レメゲトン』。存在が知れればすぐにでも専門の神官や魔導師が
回収に駆けつけるであろう第一級禁書だ。内容は主に悪魔召喚であり、
マナを仮想物質(エーテル)に変換して形を与える、高度な使い魔使役の呪法である。
今起こっているのは暴発である。魔道書に飲まれてどこぞの悪魔でも召喚してしまったのだろう。
もちろんこれは失敗であり、放っておけばジョンは悪魔に内側から身体を引き裂かれ千切れて死ぬ。
リューは溜め息をついた。ぱたん、と読んでいた―――眺めていた本を閉じる。
そのタイトルは『恋するオーラ』。巷の若い女の子に人気だというつまらない恋愛小説である。
そしてがちがちと牙を鳴らしている悪魔に手をかざし、
「―――五乗封印」
それだけ、呟いた。
途端、この世に生まれ出でようとしていた悪魔の黒い身体がぎしっ、と止まる。
五乗封印。
相手の四肢と首に魔力の刻印を刻み、自由を奪ってしまう『緊縛』の上位魔法である。
かつてクルミというクノイチがヒロトを拘束した術で悪魔を封じ込めたリューは
そのままツカツカと悪魔に近づくと、呪縛を解こうともがいているその顔面を思い切り踏みつけた。
『MUGYUッッ!!?』
そのままぐりぐりと踏みにじって悪魔を強制的に送り返す。
悪魔の姿が見えなくなると、リューは倒れて息を荒げているジョンに声を掛けた。
「……無理しすぎではないのか」
ジョンは顔面蒼白、汗まみれでぐったりとしているものの意識ははっきりしているのか、
視線だけでリューを見上げてぎこちなく笑ってみせる。
「……すみません。また、失敗してしまいました」
「まったくだな。傍迷惑なものだ。引き際を見誤れば死ぬ以上の苦しみが襲い掛かってくると教えただろう」
「……リューさんも、同じような目に?」
「馬鹿を言え。我こそはリュリルライア。あらゆる魔と闇の頂点に立つ魔王だぞ。我にとっては
ネクロノミコンだろうが黒い雛鳥だろうが四神天地書だろうが、野菜スープのレシピと変わらん」
「………すみません」
―――魔道書に飲まれるということは、魔道書よりも術師の格が劣るということ。
職人の世界ではしばしば道具と自分の力量が合わないことを『道具に使われる』というらしいが、
そんなものでは済まされない。文字通り『道具に食われる』のが魔導師なのだ。
そして術師の血肉を喰らって実体化した『魔道』はそのまま外の世界に解放され、
様々な災厄を引き起こす―――世に言うマージハザードというヤツである。
かつて渇きの国で外道魔導師が国中のマナを吸い尽くし枯渇させるという事件があったが、
それも例のひとつに数えられるだろう。ともすれば世界の崩壊を招きかねない、
聖堂騎士団や勇者にしか対応のできない文字通りの『災害』である。
今呼び出されようとした悪魔も同じ。それも、それこそヒロトやブレイズのような
戦闘特化型の勇者が聖堂教会の命を受けて処理に現れるような掛け値無しのバケモノだ。
……それをあろうことか踏んずけてあっけなく追い払っしまったリューはやはり、
少女の姿をしてはいても人間とは天と地よりも隔たりがある存在だといえよう。
ジョンが素直に謝ったのを見て、リューははぁ、と溜め息をついた。
「そこはツッコむところだぞ、ジョン。我に料理のレシピが扱えるものか」
「……はは、そうですね」
リューには珍しい自虐的なジョークにも、ジョンは渇いたように笑うだけだ。
そんなジョンを見下ろして、リューはまた深く溜め息をついた。
ひょい、と紙屑でも拾うかのような調子で魔法陣の上に落ちているレメゲトンを拾い上げると、ぱたん、と閉じる。
そしてそのまま放っておけば町中の人間を皆殺しにしたであろう悪魔を召喚した魔道書は
魔王の手の中で光の粒子となり、消えた。―――送還されたのだ。
それからリューはしっちゃかめっちゃかに散らかった床の上のモノを乱暴に足で除け、すとん、と座り込んだ。
「いいのか」
そして、それだけを訊く。
なんのことです?ととぼけることもできない。『こんな無茶をしていていいのか』とリューは訊いていた。
ジョンは、その問いに答えるまでも無いと思った。ジョンには、リオルを殺すことはできない。
しかしラルティーグを裏切ることもジョンにはできなかった。勇者という名の希望はそんなに安いものではない。
なら、自分のこの身体を張るしかないじゃないか。ジョンはそう思っている。
しかし、リューは首を振った。
「―――ならば、せめてこの事態をリオルに話すべきではないのか」
「………………」
「リオルは貴様がこうして死にかけていることを知らん。魔道書の解析に手間取っているといっても、
せいぜい魔力切れで倒れるとかその程度だと受け取っているだろう。ジョン、貴様がそう見せているのだからな」
実際は、違う。
さっきの悪魔召喚のように、一歩間違えれば大災害を引き起こすような
術式を―――ジョンのスペックを遥かに超越した無茶を繰り返している。
ハイリスクハイリターン。だが余りにも分の悪い賭けだった。
それでもリオルの前ではなんでもないように振舞って、それを隠しているのだ。
リオルに心配をかけたくない。
その一心で。
「ヒロトさんを引き摺っていった、リオルの顔を見ましたか」
「ああ」
「修行を付けて貰うんだそうです……また無茶を言っていなければいいですが」
「言っているだろうな。まず間違いなく」
「はは」
無邪気なリオル。だが、ジョンが死を賭して魔道書に挑んでいると知ったら、
今のように変わらず笑っていられるだろうか?
ジョンは思い出す。リオルの胸に埋め込まれている賢者の石が進化したと告げたあの日、
リオルは震えながら、自分の生命を差し出すと言った。
その顔を、ジョンは忘れない。
「惚れた女の笑顔を守る―――か。難儀なものだな。お前も」
「こう見えても男の子ですからね」
ニッと歯を見せる。さっきの自虐ジョークのお返しだ。リューは苦笑した。
「……それに、秘密はお互い様でしょう。リューさん」
だが、続けてぽつ、と呟いた声に、リューは身を硬くする。
未だ倒れたままのジョンを見た。ジョンは床に頬をつけ、手足を不恰好に折り曲げた体勢のまま、
それでもまっすぐにリューを見つめている。
リューは目を逸らし、とぼけた。
「なんの話だ」
「神は世界を創り、魔王は世界を破壊する―――裏表の存在なら、神にできることは魔王にもできる。違いますか」
突然、話が飛んだ。飛んだ?違う。それはリューがまだヒロトに話していない、隠していることの中心だった。
それでも、リューは目を逸らしたままだ。
「……なんの話だ」
「お互い様、という話です。ボクはリオルとの関係が大切だから、こうやって倒れていることを秘密にしている。
貴方だってそうでしょう。貴方がその気になれば、ヒロトさんを自分のものにすることは簡単なはずです。
でも、それでは貴方の大切を壊してしまう。だから、秘密にしている―――」
「………………………」
リューは、いや魔王リュリルライアは答えない。
だが、冷たく燃えるその瞳が、『余計なことを知ってしまったのか』と問いかけていた。
「―――憶測です。ボクが観た限り、そして今までに得た知識で解釈した限り、そういう結論に達しただけのこと。
だからリオルには秘密にしておいてくださいね。ボクがこうやって、死にかけていることを」
リューは目を閉じると、また深い溜め息をついた。
「……魔王を脅迫するか。太いヤツだ」
「こうでもしなきゃやっていけませんよ。人間なんて」
ジョンは苦笑した。
その時、ずずん、という地響きが遠くの方で起こり、窓ガラスがびりびりと震えた。
町の外だろう。煙が幾筋か立ち上っていた。結構な距離がありそうなのに
こちらにまで振動が伝わってきたところを考えると、まず間違いなくヒロトの仕業に違いない。
リオルの『修行』か。楽しんでいるといいけど。
ジョンはいまだ痺れて感覚のない身体をもぞもぞと動かして、やっとの思いで身を起こした。
リオルが帰ってくるまでになんとか回復させないと。
せめて、ヒロトに手も足もでなかったと泣いて暴れる彼女を、なだめてあげられるくらいには。
地盤が、捲りあがっていた。
『豪剣』。
魔法の使えないヒロトが魔王にも匹敵する戦闘力を発揮できる秘密がそれだ。
魔力を放出して奇跡を起こす魔法とは違う、自分の血肉に高密度の魔力を通わせて
身体能力を向上させるヒロトが編み出したオリジナルの術。
その膂力の凄まじきは天をも斬り裂き、―――大地を砕くと言われるほど。
「わ、わわわっ!?」
シーソーのように傾いていく地面の上で、とても立っていられない。
ローラは放電するどころではなく、尻餅をついて放り出されないように突き立てた剣に捕まるしかなかった。
「うぇえ、ヒロトのヤツ本気出しすぎだろ常識的に考えて……」
翼を広げて空を飛ぶリオルが、呆れたように呟く。
彼女からはまるで地面がビスケットやクラッカーになってしまったかのように見えた。
ヒロトが踏み込みや踏みつけによって地面を砕き、
相手の足場を崩すという戦法を取るのはなにも今回が初めてのことではない。
先日の牙の森で猿の魔獣たちを威嚇した時は小規模ながら地震まで起こした男である。
だが、これは―――女の子一人に対して、ここまでやるか。普通。
対ヒロト戦に於いて、最も有効な手段はやはり、剣の間合いの外からの遠距離攻撃だろうと言ったのは
ローラだった。接近戦でヒロトに敵う者など存在しない。たとえそれが魔王であろうとも、だ。
逆に、魔法の使えないヒロトには遠くにいる相手をどうこうできる手段はない。
いや無理をすれば、その剣が巻き起こす真空波で吹き飛ばすこともできるのだろうが、
わざわざ『技』を出さなくてはならないのはやはり離れた場所にいる敵を嫌がっている証拠だろう。
そこでリオルは空を飛び上空からの火炎弾で狙い撃ち、
ローラは中距離から雷でヒロトがリオルを撃ち落とすのを邪魔するという戦法を取っていたのだった。
ヒロトの戦い方をよく知る二人の作戦はおおむね有効といえ、
こちら側の攻撃も通らないがヒロトの力を上手く殺しているという戦況が続いていた―――その時である。
ヒロトが地面を踏み砕いたのは。
しかしローラを牽制するにしてももっと手加減すればいいのに。
リオルは飛んできた岩をひらりと避けながら、あ、とローラを見て声を出した。
「ひゃぁああ!?」
隆起した地盤が自重を支えきれずにメキメキと音を立てて途中で折れる。
その勢いで、ローラは剣に捕まっていられずにポーンと放り出されていた。
地面に激突すれば、まさか死ぬことはないだろうが空を飛ぶ術がないローラが
怪我をするのは必至である。もしかしたら骨を折るかもしれない。
「ローラ!」
それを、ヒロトが空中で受け止めた。
物語に出てくるヒーローとヒロインよろしくお姫様抱っこで抱えたまま綺麗に着地を決める。
ヒロインが空中に放り投げられたきっかけを作ったのが
ヒーローその人であるという事実を除けば絵になる光景だった。
……いや、実のところヒロトだって予想外だったのだ。
少し地面を割るくらいのつもりが、岩盤を隆起させるほどの破壊を生み出してしまうとは。
ヒロトはこの特訓の最中、『豪剣』を使っていなかった。
ローラとリオル、二人掛かりでさえ身体能力の底上げをするまでもなくあしらえるはずだったからだ。
しかし流石に相手はヒロトの手の内を完全に把握している旅の仲間たち。上手いようには戦わせてもらえない。
火炎弾と雷撃、畳み掛けるような遠距離攻撃にヒロトは焦れて、
とりあえずローラの動きを止めようとして―――『豪剣』を発動した。
思えばブレイズ戦以来となる本領発揮だった。ジョンとの殴り合いには
必要なかったし(ヒロトが『豪剣』を発動した状態で殴ったらジョンは首から上が吹っ飛んでしまう)、
ここいら一帯のヌシは寝てばかりで剣を交えるまでもなかったし。
だから、ヒロト自身も知らなかった。
自分が、以前より強くなっていることに。
(―――そういえば、再生能力も上がっていたっけ……)
地面を砕く程度でよかった。もしこの力を把握しないまま以前の調子で剣を振っていれば、
もしかしたらローラやリオルを一刀両断していたかもしれない。
そんな最悪の事態を想像して、ヒロトはぶるっ、と身震いした。
先日対峙したブレイズの声を幻視する。
―――ホント、バケモノよねぇ。お兄さん―――
……自覚はある。自分のこの剣はヒトの域を遥かに超越しているものだということくらい。
そもそも聖堂騎士団の精鋭が束になって始めて相手にできるような怪物たちを
剣一本で殲滅してきたのだ。これが異常でなくてなんだというのだろう。
少なくとも城を出て間もない頃はこうではなかった。多少腕には自身があったとはいえ、
それはまだヒトの域にあった。それどころか魔法の才能がまるでなかったヒロトはスライムに襲われても
剣で対抗するしかなく、撃退に十分も費やしたために護衛に就いていた商人に呆れられたものだ。
火や氷なら初歩の魔法でも退治できるというのに、と。
それが一閃で龍の首を刎ねるほどになろうとは―――『豪剣』を編み出したにしても度が過ぎている。
望んだ力ではない。むしろ力が手に入ってしまったからこそ、ヒロトは―――。
「ヒロト様……」
ローラの声がした。思わずはっとなって我に返る。
ローラはヒロトの腕の中で恥ずかしそうに小さくなっていた。
「す、すまん。力加減を間違えた」
「いえ、それはいいのですが―――その」
ローラは桃色に染まった頬を緩ませると、囁くように言った。
「チェックメイト、ですわ」
「え?」
その微笑みの意味に気付いたのは、電撃がゼロ距離で直撃してからだった。
彼らは変わりゆく。
リオルはジョンの魔力供給に依存しない『生命』を手に入れたし、
ローラも未完成ながら、聖堂教会本部にさえ影響しうる『王家』の能力の片鱗を見せ始めた。
ヒロトの成長は今もなお止まらず、魔王であるリューもなにやら秘密を握っているらしい。
彼らは変わりゆく。
今はまだ予兆だとしても、いずれそれらは明らかになるだろう。
その時になによりの鍵となるのは、しかしその中で変わらなかったものとなる。
たとえば、このいつかの穏やかな日々が。
試練の時、在り方を決めることとなるように。
……ヒロトは顔をしかめていた。
理由は簡単だ。ローラのアレは完全に不意打ちである。不意打ちというか騙し討ちに近い。
ドラゴンブレスにも耐えるヒロトの防御力を持ってすれば少しばかり痺れるだけで済んだものの、
一撃は一撃、という少女たちの言い分により結局ヒロトはひとつ言うことを聞くはめになってしまった。
口先で女の子に勝てる男はいない。まして口下手なヒロトだ。結局のところ油断したのはヒロトなんだし。
でも、納得いかない。だから不貞腐れているのである。
「……あの、ヒロト様?」
「なんだよ」
ようは拗ねているのだ。珍しい。珍しいがローラはそれを可愛いと思う余裕はなかった。
ヒロトの機嫌が悪いというのはローラにとってとても辛いことだからだ。それを自分が引き起こしたのがまた辛い。
ううん。あの時はヒロトがまたよからぬことを考えていそうだったから咄嗟に放電してしてしまったが、
これは失敗だったか、とローラはしょんぼりと肩を落とした。
「男に二言はない。で、俺は何をすればいい?」
そう言われても。
「……リオルさん、譲りますわ」
「え?マジ?じゃー、えっとね」
リオルは無邪気にウムムと唸ると、
「最初はどんぐり飴でも買ってもらおうかって思ってたけど、攻撃を当てたのはローちゃんだからなぁ。
んー、宿に戻るまでローちゃんをお姫様ダッコしていくってのはどうよ」
「え」
顔を引きつらせるローラ。
何も言わずにひょいとローラを抱えるヒロト。
「え、わ、ヒ、ヒロト様?私は―――」
「男に二言はない。これでいいな?リオル」
「うん」
リオルは妙に嬉しそうに頷いた。
ローラはわたわたと暴れるも、ヒロトに抱えられてしまってどうしようもない。
かくして、仏頂面のヒロトが困り顔のローラを抱え、
その後ろからニヤニヤしているリオルがついていくというヘンテコな三人組が出来上がった。
このまま宿に戻れば、さらに怒るリューと苦笑するジョンが加わることだろう。
「その前に買い物に行くか。リオル、お前はどうする?」
「え、ですがヒロト様。予定では買出しは明日に……」
「ついでにどんぐり飴も買ってやろう」
「わーい本当?」
「………あのぅ、ヒロト様?」
「当然、宿に戻るまではローラは抱えたままだけどな」
「うぅ、ヒロト様が怒っていますわ……」
前衛と後衛の日~新ジャンル「悪魔」英雄伝~ 完
最終更新:2008年08月23日 20:43