「ヒロトたち、うまくやってるかなぁ?」
波は変わらず、打ち寄せては引き、また飛沫をあげている。その彼方を眺めながら、リオルはぼそりと呟いた。
砂浜に座り込んだその膝の上には既に大きなスイカが乗っている。
『勇者のお連れ様』とのことで、ぶらぶらしていたら八百屋の親父がただでくれたのだ。
もちろんスイカ割りに使う気マンマンのリオルだが、それは今はお預け。
遊ぶのはヒロトたちが使命を終えて帰ってきてから。いただきますはみんな揃ってから。
リオルは我慢のできる子なのである。
「心配はいりませんわ。リューさんがいますし、帰りはヨットではなくフレズヴェルグになりますから
日が沈む前には帰ってきますわよ」
同じく砂浜に座り込んだローラが苦笑する。リオルの様子は主人に『待て』と言われた犬のそれだ。
抱えたスイカに身体を預け、さも愛おしそうにべったりと密着している。違うのは、このお預けを
リオルが自主的に行っていることか。誰に強制されたわけでもなく、自分から。
リオルは我慢のできる子なのである。
「………ローちゃん、リュリルライア様のこと信頼してるんだ?」
「ええ、まぁ」
「いいのかなー。ヒロトと二人っきりなんだよ?芽生えてるかもよ?」
スイカを抱えたままごろごろ転がり、さらに三日月口でニヤニヤ笑うリオルに、ローラは静かに微笑んだ。
優しい、でもどこか寂しそうな、不思議な笑顔。リオルはその意図するところがわからず、目を瞬かせる。
しばらくの間ローラはそうやって笑っていたが、不意に空を見上げて磯の香りのする風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「いい気持ち」
「ローちゃん?」
寄せては返す波の音。
きっと何百年、何千年。何万年も変わらない波の音。
でも、王城時代、とある授業で聞いたことがある。
静かに打ち寄せるこの波が岩を削り柔らかな砂に変え、大地の在り方をも変えてきたのだと。
この、海が。
「『綺麗じゃないか。似合ってるぞ』―――」
水着姿をお披露目したとき、ヒロトが言ってくれた言葉を反芻する。嬉しかった。とても。
ヒロト自身気付いているかどうかわからない。けど、彼は変わった。
思い出している。
王城の裏庭。たった一人で剣を振るっていた孤独な少年と、
その姿を窓から眺めていた一人の少女のことを。
あの時のヒロトは、どうしようもない程に独りだった。
ヒイヅルの対立する二つの血族の間に生まれたヒロトはそのどちらからも疎まれ、幼くして国を追われた。
物心ついたのは旅の途中。祖国を思うことはない。流れ往くものを当然として育つ心は
ひと所に留まることを知らず、故にその時『執着』を失くしたのだと思う。
父に連れられた長い旅の末にヴェラシーラに辿り着き、王城に住むようになってからもそれは変わらない。
いやもしかしたら、もっと酷い。彼を取り巻く環境が流れを止めたが故に、それは段々と濁っていったのだ。
なにせ彼はある日突然、王の護衛に就いた異国の剣士の連れ子である。これが疎まれないわけがない。
ヒロトの前ではっきりと口に出した者はまさかいないだろうが、それでも視線や態度、ちょっとした仕草を
少年は敏感に感じ取る。その結果が、あの孤独な剣の稽古だった。
彼は何も好き好んであんな、隠れるように剣を振るっていたわけではない。
いや自覚はないだろうが―――彼には単純に、他に居場所がなかったのだ。
孤独を孤独と思わず、いやそもそも独りだということが何なのか理解できない欠けた心で、
それでもまっすぐに、剣を振る―――。
………幼いローラが彼に興味を持ったのは、誓って同情や、下心あってのことではない。
何も持っていないのに、ただ一心に剣を振る少年に。
王女として国を手にすることを約束された少女が、ただ見惚れただけのこと。
それ以来何かと構うようになったのだが、それでも自分にはヒロトの欠落は埋められなかった。
少なくともローラは自分でそう思っていた。ヴェラシーラを出るよう告げられて、
何の未練もなく出て行ったヒロトの背中を幻視する。
一度も振り返らなかった。
『魔王を倒すまで帰ってくるな』。
暗に死ぬまで帰ってくるなとそう言われ、
それでも一度も振り返らなかった、その背中を。
あ.0の孤独な少年は、いつか―――何かを、誰かを手放したくないと、そう思えるのだろうか?
「いつか、ヒロト様が誰かを愛し、欠落した『執着』を覚えるようになったら。
それは、とても素晴らしいことだと思いませんか?そして、そのためなら私は―――」
「ローちゃん………」
「なんてね?」
それまでの儚げな雰囲気など潮風に飛ばされたかのように、ローラはぱっちりとウインクをした。
「もちろん、ヒロト様の一番になるのは私ですが!」
立ち上がり、大きな胸をたゆんと張ってローラはそう宣言する。
強い。リオルはそんなローラ(の胸)に思わず拍手をした。
「………まぁ、でもあたしは立場上リュリルライア様を応援しなきゃならんのですが」
「えー」
『オォ、ォォオオオオ、ォォォオオォォ……』
海藻の怪物の身体がざわざわと波立ち、全身から腕が芽生えていく。それは空高く立ち上がり、
振り下ろされ鉄槌。その数八つ。怪物にしてみればフレズヴェルグはやぶ蚊のようなものだ。
しかし、そのやぶ蚊は流星の如く神速。ならば広域広範囲に渡って一気に破壊を放つ気なのか……!
「ちッ!ヒロト!」
「………ッ!」
リューは舌打ちし、それでもフレズヴェルグを反転させたりはせず、逆に塔のように聳え立つ腕に突進した。
仕方ない。ヒロトは背中の長剣を抜き払うと、駆け抜け様に一閃する。
怪物の槌は振り下ろされること無く切断され、海に沈んだ。―――と、思いきやざわざわと動いて
怪物に再び吸収されていく。ダメージは無いらしい。
「不定形形態か……ならば我の魔力波で消し飛ばしてくれる!」
「待て待て、リュー!本当にアレは魔獣じゃないのか?」
にわかに信じがたいヒロトがコックピットを叩く。リューは異形を睨みつけ、首肯した。
「ああ。アレは魔獣ではない。それは確かだ」
「じゃあ―――」
「さぁな。だが、少し考えてみれば想像はつく。『似たようなもの』なら貴様も知っているだろう」
「似たようなもの?」
言われて、はっと気が付く。
ヒロトと同じ勇者であり、蒼い髪と神槍を携えた女騎士。彼女の身体に取り憑いていた怪物は、
確か魔獣であって魔獣ではない、ヒトの手で造られた合成獣(キメラ)ではなかったか。
リューと対峙してもその正体が魔王と悟れない、妄執のマジュヌーン。
だが、アレは異形とはいえまだ人間の形を保っていた。この海藻の怪物とは似ても似つかない。
「知らん。知ったことでもないしな。ベースの違いではないのか?それにブレイズの方は『封印融合』で
一体化してしまっているからな。肉体はあくまでも人間。アレはそうではないということだろ」
怪物が触腕を伸ばしてくるのを、リューはフレズヴェルグをくるくると回転させて避ける。
ヒロトは振り落とされそうになったが、剣を翼に突き立ててなんとかしがみ付き続けた。
「とにかく―――魔王である我をもってしても話は通じん。アレはただの化け物だ。
ヒロト、わかってはいると思うがアレと交渉は不可能と思え」
「―――………」
ヒロトは歯噛みした。魔獣ではない、ということに疑いはない。
他でもないリューが言うことだ。その通りなんだろう。ならばアレはキメラ。
人間の手で作り出した怪物ということになる。人間の手で作り出した怪物が海に放たれ、
魔獣の領域に入り込んで人間を襲っていたのだ。これはそういう事件だったのだ。
遣る瀬無い。
歯を、食いしばる。
しかし悠長なことも言っていられない。漁師たちは沖に怪物がでるというので船を出すことをやめてしまっている。
そうなれば、獲物を求めた海魔はまず間違いなく陸に向かうだろう。海藻の塊であるこいつが上陸できるとは
限らないが、それでも海岸の町や村を襲うことは容易。逃がせば広い海の底に消え、
探すことは不可能になる。ここで叩くしかなかった。
「リュー。倒せるか」
決まった形を持たない怪物は剣では倒しにくい。ヒロトは静かに、リューに訊ねた。
それを聞いて、リューはニヤリと壮絶な笑みを浮かべる。
「―――我を誰だと思っている!」
同時にフレズヴェルグの腕に挿げ替えられた頭ががぱりとその顎を開き、正面を向く。そしてその口先の空間が
波紋のように歪み、ふた筋の光線が放たれた。高密度の魔力をそのまま破壊力に転換するリューの魔力波だ。
フレズヴェルグは高速飛翔に特化したクレイドラゴンである。
よって爪や牙など直接攻撃に適した兵装は持っていない。が、リューが搭乗している間はこうやって
リューの力を借りて魔法攻撃を放つことができる。つまり、フレズヴェルグは音速以上の神速と
魔王の攻撃力を併せ持っているゴーレムなのだ。リュー自身、半分趣味で設計したというだけあって、
普通の戦闘にはまるで必要のないオーバースペックである。しかし、今回はそれが役に立つ。
『オォ、オォォォォォ、ォォオオオオ……』
魔力波が海魔の身体の一部を貫き、吹き飛ばす。砕けた破片は高温によって空中で燃え、消滅していく。
やはりヒロトが剣を振り回すよりは片がつき易そうだが―――それでも、吹き飛ばせたのは
海魔からしてみればほんの一部だった。
厄介な相手である。
この怪物、特別力が強くも、硬いわけでもない。
動きは鈍いし、攻撃もただ海藻の腕を叩きつけるだけという単純なものだ。
しかし、それらを補い有り余って、大きい。規格外の巨大さの前にどんな攻撃も霞んでしまうほどだ。
案の定、海魔は身体に穴が開いたことなどまったく意に介さず、海藻の触腕を振り上げ、
ネットのように広げてフレズヴェルグに襲いかかった。さっきのような叩きつける攻撃ではない。
これは逃げ場を奪うためか。どこが頭かわからないような造形のくせに脳ミソはあるらしい。
「ヒロト、コックピットの中に入れ!翼にいられては最高速度が出せん!」
「ああ、わかった!」
海藻のネットに魔力波で穴を穿ち、とりあえずは包囲網から脱出する。
そして海魔から距離を取り、ハッチを開けた。風の強い海上で、リューの朱い髪が流れるようにはためく。
リューはふう、と息をつき、改めて顔をしかめた。
「―――無駄にでかい身体をしおって」
「一撃で倒すことはできないのか?」
「馬鹿者。島ひとつを消し飛ばすようなものだぞ?そんな攻撃を放てば大津波が起きて町という町が
沈んでしまうわ。―――あの化け物に、核(コア)でもあれば楽なんだがあの巨体から
そいつを探し出すのは至難の業だな。面倒だが、ちまちま削っていくしかあるまい」
「………なるほど」
ヒロトがコックピットに移ろうと足を持ち上げた―――その横っ面に何かが叩きつけられ、
バランスを崩して膝をついた―――その膝もずるりと滑り、フレズヴェルグの翼からあやうく落ちそうになる。
「―――ッ!!?」
叩きつけられたと思ったのは液体だった。遠くから発射され、フレズヴェルグの機体はそれをもろに被ったのだ。
まさか飛び道具を持っているとは―――黒くてぬるぬるする、それは墨だった。腐っているのか、ひどく臭う。
………墨?
「クラーケン、だと!?」
近づく攻撃は魔法障壁で全て遮断されるため、リューの身体に墨は一滴もついていない。
距離を取ったことでまったく油断していたリューは海魔の方を向いて驚きの声をあげた。海魔の身体が
ばっくりと開き、そのスリットから顔を覗かせているのは間違いない、ここ一帯の海のヌシ、クラーケンである。
だが、一見してわかる。クラーケンは既に生きていない。
おそらくは自らの領地に侵入してきた海魔を排除しようと挑み、返り討ちにあってしまったのだろう。
そのまま海藻の苗床として取り込まれ、操られているのだ。
「―――ちッ!」
リューは舌打ちをした。死んで敵の手に堕ち、利用されているクラーケンに何を想ったのか。
しかしそれを自覚するヒマもなく、第二撃目の墨がフレズヴェルグに向かって放たれた。
それはもちろん、フレズヴェルグの高速機動を以ってすれば避けられない攻撃ではない。
だが、リューが回避を行おうとした、その操縦の手が止まる。
「ヒロト!」
ヒロトは今やっと翼に捕まっている状態だ。しかも全身は墨に濡れ、滑りやすくなっている。
ここで大きな動きを行えばヒロトは確実に海に落ちてしまうだろう。それで一瞬、躊躇し―――。
ヒロトはその一瞬で、翼に捕まっていた手を離していた。
「え?お、おい!?」
なにをやっているのだ、とすぐさま急降下して追う。
それで墨攻撃のポイントからは外れたのだが、ハッチを開けて伸ばした手も届かずヒロトは海に落ちていく。
いくら空を音速で飛行できるフレズヴェルグでも、流石に海は潜れない。海面ギリギリで急ブレーキをかけ、
波を弾き飛ばして静止する。慌てて海を覗き込むが―――暗い海の中には、既にヒロトの姿はない。
リューは歯噛みした。ヒロトはもちろん、墨で滑って落ちていったのではない。
リューが躊躇しているのを悟り、自分がいては墨をもろに被ってしまうことを考慮して自ら手を離したのだ。
バカな。リューならわざわざ避けるまでもなく、魔法障壁でいかなる攻撃も防げるというのに。
「―――ええい、あのバカ……!」
端正な顔を歪め、リューは呻いた。
魔法障壁のことを思い出したのは既に翼から手を離したあとのことだった。
魔王に害を成す全てを阻む絶対防御、その前ではたかだか墨を吹き付けられたくらいなんでもあるまい。
しかし、海魔の中から現れたクラーケンが再び墨を吐いてきたのが見えたとき、ヒロトは熟知しているはずの
それを忘れ、ただリューが回避行動に移れるようにと自ら海に落ちる選択を取ったのだ。
ど忘れとしか言いようがない―――うかつもいいところだ。渇きの国でも同じことをして、
いらないおせっかいだと言われた。どうも、ヒロトは時々仲間の能力を忘れて勝手なことを
してしまっているように思う。反省しなければ。
しかしそれも考えようで、ヒロトは海に潜ったままとりあえず海魔の元へと泳いでいく。
空ではフレズヴェルグが翻弄してくれているはずだ。フレズヴェルグの上ではヒロトは満足に
剣を振ることもできないし、それならば海の中でリューの言う海魔の核を探そうという腹である。
濁った海の中は視界が悪い。何かが目の前を横切ったので捕まえてみると、それは魚だった。
といっても泳いでいたのではなく、波に揺られて漂っていたのだ。ヒロトが握ったからか、
身体がぼろぼろと崩れていく……海魔の藻に侵食されていたのだった。
(……存在するだけで他の生物を喰らい、死滅させるのか………)
もはやヒロトもこの怪物を倒す以外の手でなんとかできるとは思っていない。
一刻も早く核を破壊し、藻を焼き払わなければこの海自体が屍で埋め尽くされてしまう。
そしてその死骸を餌に、藻は無限に繁殖していくことだろう。状況は秒単位で悪くなっていくといってもいい。
ヒロトは早くも絡み付いてくる藻を剣で払いながら泳ぎ進んだ。
「――――――………」
しばらく泳いだあと、海面から少しだけ顔を出し、大きく息をつく。
ヒロトとて人間だ。エラがあるわけではなく、したがって海中で呼吸ができるわけでもない。
潜っていられるのもせいぜい十数分。……人間の域にはない驚異的な肺活量だが、それでも時間が足りるかは
わからない。海魔の水域に入ったら、もう呼吸をしに浮上するなんてことはできないと考えたほうがいいだろう。
顔をあげると、リューがフレズヴェルグで戦っているのが見えた。
海魔の動きは鈍い。神速のフレズヴェルグが捕まるわけもなく、破壊光線で一方的に焼いているがやはり、
決め手に欠けるようだ。海魔も特に焼けていく自身の身体を気にしているようでもない。
このままちまちま削っていてもでもいずれリューは海魔の藻を全て焼き払うことができるだろうが、
こうしている今も藻は海の生物を取り込み喰らっているのだと考えると、やはり核を探す必要はありそうだ。
「―――頼むぞ、リュー」
小声で囁いて、ヒロトは再び海に潜った。
すれ違う死骸は主に魚、そして水棲の魔獣たち。どれも藻の苗床になっており、真っ白に濁った目が
ヒロトを恨めしそうに見つめている。ここはもう海魔の腹の中といってもいいかもしれない。
――――――オォ、ォォォォオオオオ、ォォオオオオオォォ、オォォォ………。
海魔が啼いている。
ヒロトはすぐ近くから聞こえるその声にふと耳を傾けて、そして理解した。絶句した。
潮水をびりびりと震わせる、その声は。
(―――ヒトの、声だ………)
人間の声。
何十、何百人もの人間の声が。嘆き、恨み、憎しみの声が。
寄り合わさり、合唱となって響いている。それが、海魔の咆哮の正体だった。
そういえば―――、
ヒロトは気付き、ぎくりとする。
さっきまで泳いできた海魔の藻の領域は死体に溢れていたのだが、その中に人間の死体はひとつもなかった。
ヒロトたちが滞在している町の漁師だけではない。この海域を仕事場とする船はこの海魔に襲われ、
殺されていった。それは、事前の調査で嫌というほどわかっている。普通に考えるのならば、
海魔に襲われた男たちも魚や海鳥、水棲魔獣たちと同じく藻の苗床になってそこいらを漂っているはずだ。
なのに、何故。襲われた人間は、その死体はどこにある―――?
(………………………)
ヒロトは慎重に海魔の中を進み、一際分厚い藻の壁を切り裂いて中を覗き込んだ。
そして、愕然とした。
(―――――――――な…………!!!?)
ヒロトは、それを葡萄のようだと思った。
ただし、その房の一粒一粒は甘く熟れた果実などではなく。
肌は白くふやけ、腐った身体がぼろぼろに朽ち、肉は削げ骨まで覗く死体であった。
彼らは一様に苦悶の表情に歪み、濁った目で虚空を睨みつけている。そして、おお、なんということか。
ヒロトがその空間に侵入した瞬間に、その目玉がいっせいにこっちを向いたではないか。
生きていた。
海魔の体内。その中核に囚われ、死体となったその肉体に藻を植えつけられ、無理矢理に『存命』させられている。
肉体は確実にに死んでいる。しかし絶命はしていない。ぎりぎりの縁で留まっている。
否、意図的に留められているのだ。死なないように。
九分九厘死んでいる、ぐずぐずに腐った身体に、生命たるマナを注ぎこんで。
おそらく、彼らは断末魔の瞬間をずっと、ずっと引き伸ばされているのだろう。
なんて―――、
(なんて、惨い……!!)
ヒロトは奥歯が砕けるかと思うほどに噛み締めた。
変わり果てた男たちが連なる死体畑。―――おぞましい、身の毛もよだつようなその光景を前にして
湧き上がるのは怒り唯ひとつ。耳元で血液が逆流し、ざわざわと音を立てて髪が逆立つようだ。
―――助ケテ、タスけテ、タスケテ―――
死体たちが啼いている。
既に恨みもなく、憎しみもなく。ただ、助けて欲しいと。
腐った腕はもうヒロトに向けて伸ばされることもない。破れた喉は声を出すこともできない。
それでも死体は呻き声をあげ、助けを求めていた。
ヒロトは一瞬目を閉じ、意識を集中した。
肉体を構成する極小の粒子にまで魔力を通わせ、身体能力を爆発的に向上させるその術の名は『豪剣』という。
魔法の才能がないヒロトが鍛錬の果てに手に入れたその術は魔王の障壁さえ斬り裂く、最強の剣。
それを、死んでなお現世に縛り付ける鎖を断ち切るために、高く高く振り上げて―――
(………え?)
腰に、一人の―――ひとつのむくろがしがみついていた。
囚われている屍とは違う。死後、相当経っているのだろう、完全に白骨になっている死体。
それが動き、ヒロトにすがりつくように抱きついている。
ありえない。死体は動かない。動くとしても、それは魔法によって動かされ、ゾンビという屍人形に
なった場合である。ならばこの骸骨も、海魔に挑み破れたクラーケンのように操られているのだろうか?
いや―――違う。
そうではない。
操られる側ではなく、操る側。
つまり、『彼女』こそが。
ざわざわ、ざわざわ、と。漂っていた藻が骸骨に集まっていく。
藻は肉となり、皮となり、衣服となり。
骸骨の、人間だった頃の姿を再現していく。
少女だった。
髪の毛を頭の上で団子状に括った、東洋の―――しかし、どこにでもいそうな普通の少女。
波に揺られて、少女の纏う着物がふわりと揺れる。
あらゆる生物を食い荒らし、苗床にし、漁師たちを捕らえて生きる屍に変えた海魔は、
ヒロトにすがりついたままとてもとても哀しそうに顔を歪めて。
その薄い唇をゆっくり動かし、言った。
「助けて」
――――――動けずにいたヒロトに、大量の藻の津波が押し寄せていた。
『ォォォオオ、ォォオオ、オォォォォォ………』
「………………………」
リューは、クラーケンが囚われていること自体には特に感情は湧くことはない。
クラーケンはこの海のヌシだ。世界各地の土地を支配するヌシは魔王の、リューの直属の家臣ということになる。
だがもちろん面識はないし、魔獣たちがどう生きようがどう死のうがリューには関係ない。魔王という種族は
ただそれだけで魔獣を支配する。よってリュリルライア個人はあまり彼らについて関心がないのだ。
方々を旅して色々命令をして回っているのは、ひとえにヒロトがそう望むから。
リューはヒロトたちとの一緒にいるのが楽しいから旅をしているのであって、決して
各エリアを支配するヌシたちに興味があって旅をしているわけではない。もっと言ってしまえば、
ヒロトが目指しているという人間と魔獣の共存―――それすら、リューはどうでもいいことだ。
彼らには彼らの生き方があるだろうし、また死に方がある。それに干渉しようとは思わない。
それこそ世代交代でヌシが別の魔獣に取って変わろうと、力ある勇者に倒されようと。
弱肉強食、魔と闇に生きる者の運命なれば―――。
「………………………」
だが。
あれは、気に食わない。
あの海魔は魔獣ではない。人間でもない。むろん、神でもない。
この世界に生きるあらゆる生命に、アレは該当しなかった。
そんなはみ出し者が、ヌシを―――この魔王から闇の領域の一部を任された管理者を取って食う?
この海でクラーケンと船を駆る漁師たちとが築いてきた関係を破壊し、蝕み―――苗床にする?
おこがましい。
「何様だ、化け物」
フレズヴェルグの周囲に無数の波紋が広がる。フレズヴェルグの砲口だけではない。
リュー本来の得意である複数同時展開の高出力魔力波は海魔に突き刺さり、海魔の巨体を確実に削っていく。
『ォォ、オォォォオオオオ………』
海魔が身を捩って呻き声をあげる。その姿はさながら、雨の中に放り投げられた砂糖細工か。
無数の魔力波に焼き尽くされ、海魔は海藻の装甲を破壊されて崩れていく。
「――――――………」
その破壊が、囚われているクラーケンの死体に届いた。
死してなお海魔に操られていたかの魔獣はしかし、魔王の砲撃に耐えられるわけもなく。
触腕が弾け飛び、頭部に穴が開き、墨袋が破れて辺りにぶちまけられた。
圧倒的だった。こんなもの、戦いですらない。魔王は戦わない。彼女の前に立ち、
そもそも『戦い』になる存在がいないから。魔王と対峙する者はいつだって、
一方的な『破壊』を押し付けられることになる―――。
『ォォォオオ、オオオ………』
海魔の身体が沈んでいく。危険を察知し、深海に逃れようというのだ。
さすがに海に潜られては追うのはやっかいだろう。しかし、その暇は与えない。
このままの集中砲火で、海魔を根こそぎ焼き尽くしてやる………!
『――――――リュー』
不意に、声が響いた。
「………………ヒロトか?」
リューはきょろきょろと辺りを見回した。が、姿はない。
ヒロトはさっき海に落ちて、そのままだ。一応回収しようと海面を飛んでいたのだが、
すぐに海魔の藻が襲いかかってきてとりあえず放置することにしたのである。
ヒロトならまず死ぬことはないだろうし。
てっきり、その辺を漂っているものと思っていたのだが。
『攻撃……めろ』
声―――だが、音ではない。頭の中に直接響くような感じ。
念波というやつだ。しかしリューは眉をひそめた。念波?馬鹿な。だって。
『いったん攻……をやめてくれ。………は俺が……するから―――』
ヒロトの声は近くなったり遠くなったりひどく不安定で、何を言っているのかよく聞き取れないまますぐに消えた。
本当に聞こえていたのか、疑問を覚えるほどに。しかしリューは沈んでいく海魔にそれ以上の攻撃はやめて、
ヒロトの言うとおりにすることにした。
―――ヒロトに魔法は使えない。
それはリューもよく知っていることだ。そうでなかったら、『豪剣』なんて規格外のモノに目覚めるわけがない。
なのに何故、離れた場所にいるリューに直接言葉を伝える思念波なんてものが使えるのか。
そもそも、念波というものは特殊な魔法で、誰にも彼にも意志を飛ばすことなんてできないのに。
以前牙の森にブレイズが襲来するとの情報を受け、離れていたヒロトに伝えようとしたときのことを思い出す。
あの時ジョンに言ったことはなんのまじりっけもない事実だ。リューとヒロトの間に、念波は通じない。
念波を伝えられるのは、たとえば―――……。
………………………。
思い当たる節は、ある。
この身は魔王。いつだったか、ジョンに言われたではないか。
『神にできることは、魔王にもできる』。
確かに。選べというのなら、リューにとってそれはヒロト以外に考えられない。
しかし―――。
「………………………ヒロト……」
小さく呟いた、その声は。
聞く者がいれば驚くほどに、切ない響きを持っていた。
――――――――――――………。
―――――――――………。
ごぼり、と。
気泡が、目の前を揺れながら昇っていく。
あれは、記憶だ。どこかの誰かの、人間だった頃の、記憶。
――――――それを、見ていた。
少女の名はユエメイといった。
東一番の大国、央華帝国のとある貧しい漁村に生まれた七人兄弟の長女であった。
病気がちの母の代わりにまだ歩くことも覚束ない幼い弟や妹の世話をし、
同時に獲れた魚を裁いて干物にするために干していく。
年頃の娘だ。華やかな町の暮らしに興味がないわけではなかったが―――弟妹たちを残して
村を出るなんてできない。父は王都に仕事を探しに出て、もう何年も帰っていないのだ。
ユエメイはこの村で生まれ、そしてこの村で死んでいくのだろう。
外の世界を知らず、濁った海の潮と魚の臭いでむせ返るようなこの村で、一生を終える。
そう、思っていた。
ある朝、目覚めたユエメイは小首を傾げた。
腕に緑色の藻が生えている。
仕事のしすぎだと村のみんなは笑った。ユエメイは恥ずかしくなってすぐにその藻を洗い落とした。
毛深い男の人みたいでみっともない。ユエメイだって女の子だ。こんなつまらない村娘だけど、綺麗にしていたい。
けれども、あくる日も、目が覚めると腕には藻が生えていた。
落としても落としても。藻は生えてきた。
しかも前日より、少しだけ色濃く。少しだけ、範囲が広がって。
――――――何か悪い病気かも知れない。お金を集めたから、お医者に行っておいで。
村の人たちはそう言って、決して余っているわけではない大切なお金をユエメイに渡してくれた。
ユエメイはとんでもないと首を振ったけど、村の長はにっこりと笑って、ユエメイをその逞しい腕で優しく
抱きしめてくれた。ユエメイは泣きそうになって、でも、一生懸命に笑ってみせた。
嬉しかった。村の人たちの気持ちが。そしてちょっぴり―――町に出られるということが。
その町で、武装した兵隊に囲まれるまでは。
ユエメイにはもちろん、何が起きたのかまるでわからない。
ただ藻の生えた腕を医者に診せたら、その医者が何やら怖い顔をしてユエメイを睨んで。
どこかに連絡を取ったと思ったら、剣や槍を構えた兵士たちがやってきたのだ。指示を出しているのは
陰陽の刻まれた紋章を持つ道士さまだった。何やらお医者や兵士たちの隊長らしいひとと
話し合っていたようだけど、ユエメイにはもちろんその内容はさっぱりわからない。
何やら発症がどうとか鬼形がどうとか―――目を白黒させていたユエメイは激痛を覚えて悲鳴をあげた。
道士さまが何かの術を放ったらしい。ユエメイはわからない。何故?続いて兵士たちが剣や槍を突き立てた。
痛い。血が流れる。わからない。ユエメイは混乱の極みにあった。
ユエメイは何も悪いことはしていない―――何故?何故?何故こんな目に。誰か―――。
『助けて』
――――――瞬間。皮膚が食い破られるような激痛とともに、視界が緑色に染まった気がする。
が、ユエメイは必死で、あまりそのことを覚えていない。道士さまや兵士たちが何故ぴくりとも動かないのか、
怪物に踏み潰されたように血溜まりに倒れているのか、それを考える余裕はない。
死体の中でユエメイは怖くなって、その場を逃げ出した。
誰か、助けて。
ただそれだけを思って。
村が恋しかった。あの海が、やさしい村の人たちが。弟妹たちが。
でも大きく膨れ上がった身体は動かしにくくて、途中で色々なものを踏み潰してしまった気がする。
その中にはなんだか、かけがえのないものもあったような―――よく、わからない。
怖い人たちに沢山、襲われた。
ユエメイは怖くて、ただ助けて欲しかっただけなのに。沢山の怖い人たちがユエメイを追いたて、
襲い掛かってきた。恐ろしい妖怪もユエメイを仇のように攻撃してきた。
ユエメイは本当に殺されるかと思ったけど、なんとか海に飛び込んで逃げることができた。
とても怖かった。泣きたかった。
でも、ユエメイの朽ちた身体は既に涙も出なくなっていた。
泣きたくて、泣けなくて。怖くて、寂しくて、助けて欲しくて。
ユエメイは啼いた。
――――――ォォオ、オオオオォォ、ォォオオオ……。
けど、助けを求めて手を伸ばした先にいたひとは、どうしてか全員死んでしまう。
ユエメイはわけがわからなくなって、ますます哀しくなって啼いた。
辛くて、苦しくて。哀しくて、寂しくて、嫌だった。
広い海に漂いながら。
ユエメイは、独り。
助けて欲しいと、啼いていた。
けど、見渡した海は藻に覆われて。
気が付けば、ユエメイは死体の中で暮らしている。
助けて欲しいと手を伸ばしても、それが叶うことはない。
当然だ。彼らは、ユエメイが殺したのだから。
暗くて冷たい海に引きずり込んで、死にたくないともがく彼らを静かになるまで離さなかった。
いや、動けなくなった今もこうして捕えたまま。
ユエメイは独りではなくなった。
けど、こんなにも、冷たい。
誰か、
誰か―――。
そのユエメイの身体を。
誰かが―――ぎゅっと、抱きしめていた。
「――――――あ、」
………。
ユエメイの胸の奥から―――肉も内蔵も、もうないけど。
それでもそんなものには由来しない、胸の奥底から。
何かがこみ上げて、瞳から溢れた。
―――あたたかい。
ユエメイを抱きしめながら、ヒロトは奥歯が砕けんばかりに噛み締めていた。
ヒロトの身体にも藻が侵食し始めている。皮膚と肉の間に根を張るような激痛に襲われながら、
ヒロトはもう取り返しのつかないユエメイを抱きしめ、
「すまない」
そして離すと、心の底から謝った。
ヒロトは勇者で、ユエメイは化け物だ。変わってしまったユエメイを元の人間に戻すことはできない。
起こってしまったことを変える力はない。失った生命を甦らせることはでできない。
ヒロトにユエメイを救う力はない。ずっと助けを求めていた少女さえ、救うことはできない。
ヒロトが持っているのは、ただ剣だけ。
だから、謝った。ユエメイに。そして、ユエメイの犠牲になった男たちに。
『――――――………』
ユエメイは最後に少しだけ寂しそうに笑って、そして崩れた。寂寥の呪縛から解き放たれたのか。
それともただ単純に、抱きしめられたその圧力にさえ耐えられなかったのか。
肉体を構成した藻だけではない。骨も、ぐずぐずと海に解けるように朽ちていく。
ヒロトは藻の壁に突き刺さっていた剣を抜き、正眼に構えた。
そして海面を―――それを越えた先にいる、
天空のリューに向けて叫んだ。
「リュー!消し飛ばせ!!」
ごぼぼ、ごぼ、と気泡になって消えていく。
しかしヒロトには疑わなかった。この声は、リューに届く。
無論、小さな島ほどの巨大な身体を持つ海魔を一撃で消滅させるような攻撃を放てば衝撃で大津波が起き、
海岸の町や村を襲うだろう。海魔が深海に沈んでいる今ならなおさらだ。
だから。
ヒロトはこの海魔を海上に吹き飛ばす。
「―――――――――オ、」
ごぼ、ごぼぼ、と口から呼気が漏れる。
ここは海の底で、ヒロトは魚ではない。肺の中の空気を全て搾り出せばそれでお終いだ。
いくら強靭な肉体を持つヒロトとはいえ、呼吸できなくては溺れるだけ。
だが―――そんなもの、今は関係が無い。
「応ォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオ――――――」
メキメキと音を立てて筋肉が隆起する。血管がびっしりと浮きあがり、みしみしと骨が軋む。
海魔の根元から、昇り龍の軌道を描く剣撃で海上に押し上げる。圧倒的な質量。重量。水の抵抗を押しのけ、
斬り裂き、ヒロトの持てる全ての力を爆発させる。ばきん、とどこかで何かが砕ける音がした。
激痛が走る。無視する。踏み込んだ脚が陥没する。耳元で血潮の奔流が渦を巻く。目の前が真っ赤に染まる。
海底の岩石が砕け、粉塵が舞い上がった。遠い。まだ、海魔の巨体を持ち上げるには遠い。
もっと、濃度をあげて。細胞が悲鳴をあげる。皮膚が裂ける。はらわたが潰れる。
喉元からこみあげる血反吐を飲み下し、ヒロトは叫んだ。
「――――――オオオオオオオオオオオオオォォアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」
そして、ヒロトは。
深海を破壊した。
最初は、いくつか細かい気泡が浮いてきただけだった。
それはやがて大きなものとなり、弾け、膨らんでいく。
海面そのものが。盛り上がるように隆起して。
―――やがて、深い海の底から海魔がとてつもない速度で浮上してきた。
山のように膨れ上がった海面を突き破り、巨大なその身体が宙に浮く。
ヒロトが深海から押し上げてきたのだ。ありえない。不可能だ。そんなことは。
ドラゴンを斬り裂くどころの話ではない、島ひとつを持ち上げてのけたような、そんな怪力。
だが、目の前で起きているこれは紛れもない事実だ。リューは静かに目を閉じた。
この力。そういえば、最近いよいよ人間離れしていたとヒロトがぼやいていたのを思い出す。
――――――まさか、本当にそうだとはヒロトも思ってはいまい。
リューはずっと前からヒロトを選んでいたのだ。きっと、初めてヒロトのことを見たその時から。
『神にできることは、魔王にもできる』。
リュリルライアに選ばれたヒロト。
魔王に選定された人間。その意味は。
魔王侵攻と呼ばれた、あの戦争以来となる――――――。
「………………………………………、」
リューは目を開けて、召喚したクレイドラゴンの頭をそっと撫でた。
フレズヴェルグではない。漆黒の長い身体、伸びた角。宙を泳ぐ髭。
東洋に生息する蛇のような龍。それが外見のモデルだ。
フレズヴェルグが飛行に特化したクレイドラゴンなら、これは砲撃に特化したドラゴンといえよう。
ようは大砲だ。リューの魔力波を収束し、縒り合わせ、ひとつにして放つための。
魔王リュリルライアが持つ、最大火力。
「――――――焼き尽くせ。『ニドヘグ』」
黒い龍が咆哮する。
狙うは眼前、海魔の巨身。
海上に浮遊する幻の島のようなそれを、轟音をたてて放たれたニドヘグの息吹が貫いた。
貫き、穿ち、貫通してもなお勢いは衰えず。空に向かって光の搭が聳え立つ。
暗い深海から一転、光の搭に包まれて。幾人もの漁船を襲って男たちを殺し、魚を殺し、水棲の魔獣を殺し、
海のヌシたるクラーケンさえ殺し、周辺の漁村を恐怖の渦に叩き落した少女は――――――
――――――跡形もなく、消滅した。
……………まぶしい。
ヒロトは波に揺られながら、そう思った。
生きている。身体は弛緩しきって動かないが、それでも息を吐ける。心臓は動いている。
ユエメイを海上まで吹き飛ばしたあの一撃のあと、ヒロトは意識を失った。
それだけ全てを賭けた一撃だったのだ。深海で気を失うということが死を意味することは考えなかった。
………何故自分は生きている。
不思議といえばそれが不思議だった。
身体はさすがにぴくりとも動かないので、辛うじて動かせる首を回して辺りを伺い―――腕に、緑色のものが
へばりついているのが見えた。そうして、理解した。ユエメイの藻は捕えた死体たちを無理矢理延命させていた。
その力を使ったのだ。しかしユエメイ本体が消滅した今その力も尽き、藻はあっという間に茶色く腐食して
崩れていく。その様子を、ヒロトは黙って見届けた。
「………ありがとう」
最後にそれだけ言って、目を閉じる。
フレズヴェルグの機動音が近づいてくるのがわかる。
今回も本当に助けられた。陸に戻ったらたっぷりと労ってやることにしよう。
それはそうと―――。
ヒロトは少しだけ考える。
ユエメイの故郷、オーカ帝国。
知っている。ほとんど記憶にはないが、ヒロトも幼い頃住んでいたことのある国だ。
長い歴史を持ち、そして勇者選定の資格を持つ国のひとつでもある。
百を超える民族を抱える大国は国土だけなら世界でもトップの大きさを持ち、厳しい覇権争いで
しばしば内戦が起こっているらしい。それだけでなく、強大な怪物が多数生息することでも有名だ。
ユエメイの記憶を一部共有したからわかる。ユエメイを取り囲んだ兵士や道士たちは、
あきらかに『そういう』事態を想定した動きを見せていた。ユエメイの力が予想を上回り暴走しただけで、
彼らは『人間が怪物になる』事例を知っていたのだ。
「『鬼形(きけい)』―――『発症』―――か」
ヒロトはぽつりと呟いた。
魔獣とは違う。人間でもない。人造の合成魔獣(キメラ)でさえなかったあの不幸な少女は。
結局、いったい何者だったのだろう?
「―――状況、終了。目標、完全消滅」
打ち寄せる波が砕け、飛沫をあげる。美しい砂浜とは程遠い黒い岩の上に、数人の若者たちが立っていた。
背格好もばらばらなら、身に纏う衣装にも統一性がない。共通しているのは、
全員、ただの人間ではないということだ。炎を放ち、稲妻を手繰り、獰猛な魔獣を簡単に
退治してしまうようなてだればかり。彼らは聖堂教会の指令によって秘密裏にこの場に集められたのである。
その目的は二つ。ひとつは、海魔殲滅。海魔の存在は以前から―――そう、海魔ユエメイが
まだ央華帝国の周辺海域に潜んでいた頃から確認はされていた。ただ、その圧倒的質量を前に
倒せるものがいなかったために今回ヒロトに使命が下ったのだ。
それでも、いかな英雄といえど遅れを取る可能性はある。実際ヒロトが一人だったら、ユエメイは
倒せていたかどうかわからなかったろう。勇者ヒロトが万一失敗したときの予防策。それが彼らだった。
そしてもうひとつ。これが、彼らが集められた本当の目的。
ヒロト『たち』を観察し、その戦力を確認すること。
「ご苦労、ラン。シオン。もういいぞ」
「了解。接続、解除」
「……ぷは。あー、疲れたぜ」
彼らの中の一人。顎をすっぽり覆うような大きな詰襟に弁髪帽を目深に被るといった独特の服装をした
その青年の言葉に反応して、その仲間である少女たちは術を解いた。
熱によって光を歪め映し出されていた映像が消え、氷のスクリーンが瞬時に解けて海に落ちる。
この暑さの中、それでもほとんど肌を見せない厚着のランと、対照的に露出の高いシオン。
同じ民族衣装を纏ったこの二人は双子の姉妹で、どちらも弁髪帽の青年のパートナーである。
「しかし、信じられないナ。あの化け物を本当に二人だけで倒してのけるとハ」
背中に聖堂教会の十字紋様が刻まれた黒衣の青年が難しそうに顔を歪めた。太陽光があまり好きではないのか
日陰に座っていて、だからか、影からにょっきりと生えているような印象を受ける。
青年は大仰に手をあげて、
「海魔を吹き飛ばしたあの魔力砲―――参ったネ。聖堂騎士団の『聖歌隊』でもあんなものは撃てなイ。
直撃すれば、大聖城の対魔法結界でも木っ端微塵ダ。お手上げだヨ」
「なら、使わせなければいいだけの話だろう。相手の兵装さえわかっていれば、手の打ちようはある。
違うか、レイジュ・ランディス」
「―――ム」
長く蒼い髪を高い位置で括った少女にじろりと睨みつけられ、レイジュと呼ばれた黒衣の青年は片眉をあげた。
一瞬顔をしかめたレイジュはしかし、すぐに口元を吊り上げる。
「それは、使うことさえしてもらえなかった、の間違いじゃないかナ?ブレイズ姐さん」
「………………………!」
ばちちっ、とブレイズの担いだ槍が帯電する。
おおこわイ、とレイジュは笑った。この二人―――正確には、弁髪帽たち三人以外。
出身もバラバラなら普段は各々別行動をしているので仲間意識は低い。今回初めて顔を合わせた者もいるくらいだ。
そもそも彼らには彼らの目的があり、そのために聖堂教会に従ってるに過ぎないのである。
―――だが、それで十二分。信頼などいらない。目的のためなら、彼らは決して、
聖堂教会を……彼らを裏切ったりはしないだろう。
「………フゥ。喧嘩、制止する?」
「放っておけ、ラン」
「まったく、得体の知れない連中だぜ」
弁髪帽のフゥがひらひらと手を振って身構えようとしたランを止める。シオンも呆れたように溜め息をつくが、
ブレイズやレイジュにしてみればお前らに言われたくはない、というところだろう。
いや、自分たちよりも、もっとずっと得体の知れない存在がいることをまず指摘するだろうか。
「―――で、アンタはどう思うんだイ?テイリー君」
レイジュは少し離れた場所でうずくまっていた少年に声をかけた。
ランとシオンが用意したモニターに一度も目を向けなかったその少年は、確かにそこにいるのに
なんだか正体のはっきりしない不思議な空気を纏っている。触っても触れない、幻のような。
しかし手をさし伸ばせば、いつの間にか腕ごと断ち切られていそうな危うい光が瞳の中できらりと光っていた。
テイリーは少しだけ顔をあげると、にっこりと穏やかに微笑んだ。
「………彼女の方は僕がいればなんとかできるよ。それより、問題は彼の方かな」
彼―――ヒロトのことか。途中からどこへ行ったのかわからなくなってしまったが、
それほど注目するべき人物なのだろうか?確かに以前ブレイズを完全に食い止めたこともあり、
一対一なら相当に厄介な相手ではあるだろうが―――それでも、海魔を一撃で葬り去った
あの紅の髪の少女に比べれば危険度はかなり低いように思う。いや、テイリーは今、
『彼女はなんとかできる』と言ったのか?いったいどうやって?
確かに、このテイリー・パトロクロス・ピースアローは特別な存在であり、
人間などとは比べ物にならない絶大な力を持っているというが―――。
体内に怪物が巣食う、闇と孤独の国ジャルシアの勇者ブレイズ・トゥアイガ・ジャルシア。
ヒトと魔獣の能力を併せ持つ妖人、聖教国ナルヴィタートの勇者レイジュ・ランディス。
ランとシオンを従え、自身も功夫を積んだ拳法の達人、巌(いわお)と仙道の国オーカ帝国の勇者パイフゥ・リー。
三人の勇者の眉が訝しげに寄る。
そんな彼らを気にした様子もなく、テイリーはくつくつと笑い続けた。
「魔王に選定された勇者、魔界勇者―――か。いいね。やはり、キミはいい―――」
神に選定された勇者、神聖勇者たる彼は実に楽しそうに、きゅぅっ、と目を細めた。
使命:海魔殲滅~「新ジャンル達が海水浴にやってきたようです」英雄伝~ 完
最終更新:2009年01月24日 02:40