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「作戦の説明は以上だ」 とサカキはペルシアンを介して僕に言った。 「任務遂行にあたって余計なことは考えるな。  与えられた任務にのみ集中しろ。  時間は限られているのだからな」 「ピカ」 了解だよ。 サカキは杖を突いて立ち上がり、ペルシアンに目で合図した。 それでもペルシアンはすぐにその場を動こうとしなかった。 「本当にいいのかニャ?」 片方に傷を負った双眸が僕を見つめる。 ペルシアンはあえて多くを言わなかったのだろう、と思う。 僕は鷹揚に 「ピーカ、チュウ」 大丈夫、と答えて見せた。それは本意でもあり、虚構でもあった。 傷が完全に癒えていない体で任務に就くのは、はっきりいって心懸かりだ。 それを知った上で僕に命を下したサカキのことを、恨めしくも思う。 けど、システムの構想を打砕くという大義名分のもとでは、僕の不満なんて些細なものなんだ。 それに、今では僕は得心している。 これはサトシと再び会える最後のチャンスかもしれない。 ヒナタと再び合流するのが遅れる代わりに、彼女にお父さんの情報を少しでも持って帰ってあげられるかもしれない。 ……違うな。それは今となっては建前だ。 僕はサトシの元相棒として彼に再会したい。そう思っている。 「来い、ペルシアン」 穏やかな声の裏には聞く者全てを隷従させる物々しさが満ちている。 ペルシアンはそろりそろりとベッド脇から離れ、サカキの不自由な側の足にすり寄った。 病室から出る際、サカキは一度だけ僕の方を振り返った。 そして眉間に刻まれた皺をほんの少し緩めたあと、今度こそ去っていった。 あれで微笑んだつもり、なのだろうか。 窓に近づいて、海と木々の匂いが入り交じった五の島の風を浴びる。 もしかしたら。サカキも心のどこかでは罪悪観を感じているのかもしれない。 力を制限された僕よりも能力の勝るポケモンは、少なからずともいる。 それを踏まえた上で僕に任務が与えられた理由、 それは僕が単純な一戦力としてではなく、 もしサトシがそこにシステム側の人間としていた場合、 複数の意味で彼に"対抗"できる唯一のポケモンだからだろう。 サトシにとっては予期せぬ僕との再会が、彼に動揺を与えることが出来る――。 「ピカチュウ?」 背後から看護婦さんの声がする。 サカキとの話が終わった頃合いを見計らって戻ってきたのだろう。 僕は振り返り、その次の瞬間に看護婦さんの胸に抱きしめられていた。 「あなたって人は……じゃなくて、あなたってポケモンは!」 君は自分の看たポケモンが退院する度にそうやって泣くのかい? 涙の理由は別のところにあると理解しながら、僕は心の中で看護婦さんをからかう。 「どうして、どうして断らなかったんですか?」 悪い子だな。サカキの命令を僕が断るよう、彼の部下である君が望むなんて。 看護婦さんは洟を啜りながら、 「いえ……、それはもういいです。  わたし、分かっていたんです。  あなたが結局わたしの言うことなんてちっとも守る気がない頑固者だってことは。  夜な夜な中庭であの男とこっそりリハビリしていること、気付いてないとでも思ってたんですか?」 僕が答えるよりも早く看護婦さんは言葉を続けた。 「ピカチュウ。あなたが行くことを止めることは諦めます。  でも、これだけは約束してください。無茶、しないでください。  いいですね」 看護婦さんの指が僕の頬にそっと触れる。 僕はその手を払いつつ、小さく横に首を振った。 無茶をしない、という約束はできない。 君には恩があるけれど、守れる保証のない約束はしても意味がない。 細くなっていた涙の筋の幅が再び広がる。 思い返してみれば、僕は君を困らせてばかりだな。 たくさん尽くしてもらいながら、僕は最後の最後まで反抗的な患者だった。 「死んじゃうかも、しれないんですよ?  それはピカチュウ、あなたが一番よく分かっていることでしょう?」 僕は抱擁から抜け出して、ベッドによじ登り、そこでさらに宙返りしてみせる。 痛みはほとんど消えている。 これもリハビリの賜だよ。 「強がったってダメです。  わたしが、わたしが言っているのは……」 嗚咽がその先に続く予定だった言葉を潰した。 僕は複数の意味で、看護婦さんを宥める言葉を持たなかった。 ---- 結局、エアームドの回復は間に合わなかった。 羽は動く。飛ぶのにも問題はない。 けど、自重と同程度の荷を乗せて長距離飛行するのはやはり自殺行為だとジョーイさんは言った。 墜落すればエアームドは勿論、乗っている人間もただではすまない、と。 途中で休憩しながら飛ぶことをタイチは再び提案したけど、 タマムシとヤマブキの間にポケモンセンター並の治療施設を備えた休憩所は存在せず、 仮に野宿で休憩しつつ翔破できたとしても、往復で四日以上かかる。 あたしたちはカエデと合流してレセプションに赴くことを、諦めざるをえなかった。 そして迎えたレセプション当日。 「出来ました」 とアシスタントの一人がそういうと、ゲンガーとピッピとスターミーは、 各々の表現方法であたしに自信を付けてくれた。具体的に言うなら、ゲンガーは 「うー……」 と解脱状態であたしを見上げ、ピッピは 「ぴぃっ、ぴぃっ」 とゴムまりみたいに飛び跳ね、 スターミーはコアをピコピコ光らせて鏡の中に映るあたしのドレス姿を演出してくれた。 あたしはアシスタントの人に言った。 「本当にありがとうございました。表の人たちにも、あたしに代わってお礼をお願いします」 今は営業時間なので、前回ドレス選びの時に手伝ってくれたコーディネーターさんやもう一人のアシスタントは、一般客の相手で忙しい。 ポケモンをボールに仕舞って、見るからに高そうな借り物のバッグに入れる。 今度また改めてお礼しなきゃ……そんなことを考えつつバックヤードから裏口に出ると、 待ちくたびれたらしいタイチがポケットに両手を突っ込んで、ぽけーっと藍色がかった空を眺めていた。 「それでくわえ煙草でもしてたら、もう少し大人に見えるのにね」 「俺は親父みたいにはならねえよ。  肺ガンで死ぬなんてアホらしいからな」 タイチが軽くこちらに流し目を送って、 「待ち合わせの時間には少し早いけど、行くか。  ああ、あとそれと………ドレス、似合ってる」 すぐに視線を前に向けなおす。この前の二の舞を演じまいとしているのかしら。 誉めるならちゃんと真正面から誉めて欲しいのに――。 「なに考えてるんだか」 我に返る。 見られたら怒って、目を逸らされたら拗ねて。 これじゃあただの我儘女じゃない。 言わずもがな、フユツグの正装は完璧だった。 タイチやあたしの付け焼き刃的な装飾とは違う、 普段着をちょっとお洒落にしたような自然な着こなし。 「よくお似合いですよ」 フユツグの丁寧な物腰や優雅な所作に、今日はさらに磨きが掛かっているように見える。 「これを機に社交界に足を踏み入れてはいかがです?  人脈形成に最低限必要な能力は身なりと話術です。  タイチさんなら有閑を持て余したマダムの方々が、ヒナタさんなら青年実業家の方々が喜んでパトロンにつくと思いますよ」 フユツグはそんな冗談を口にしながら歩き出す。 その隣にあたしとタイチが並ぶ。フユツグの話に相槌を打っている間に夜歩きは終わった。 首を後ろに傾けると、光害に侵された夜空を背景にマスターボールの社標が輝いているのが見えた。
「作戦の説明は以上だ」 とサカキはペルシアンを介して僕に言った。 「任務遂行にあたって余計なことは考えるな。  与えられた任務にのみ集中しろ。  時間は限られているのだからな」 「ピカ」 了解だよ。 サカキは杖を突いて立ち上がり、ペルシアンに目で合図した。 それでもペルシアンはすぐにその場を動こうとしなかった。 「本当にいいのかニャ?」 片方に傷を負った双眸が僕を見つめる。 ペルシアンはあえて多くを言わなかったのだろう、と思う。 僕は鷹揚に 「ピーカ、チュウ」 大丈夫、と答えて見せた。それは本意でもあり、虚構でもあった。 傷が完全に癒えていない体で任務に就くのは、はっきりいって心懸かりだ。 それを知った上で僕に命を下したサカキのことを、恨めしくも思う。 けど、システムの構想を打砕くという大義名分のもとでは、僕の不満なんて些細なものなんだ。 それに、今では僕は得心している。 これはサトシと再び会える最後のチャンスかもしれない。 ヒナタと再び合流するのが遅れる代わりに、彼女にお父さんの情報を少しでも持って帰ってあげられるかもしれない。 ……違うな。それは今となっては建前だ。 僕はサトシの元相棒として彼に再会したい。そう思っている。 「来い、ペルシアン」 穏やかな声の裏には聞く者全てを隷従させる物々しさが満ちている。 ペルシアンはそろりそろりとベッド脇から離れ、サカキの不自由な側の足にすり寄った。 病室から出る際、サカキは一度だけ僕の方を振り返った。 そして眉間に刻まれた皺をほんの少し緩めたあと、今度こそ去っていった。 あれで微笑んだつもり、なのだろうか。 窓に近づいて、海と木々の匂いが入り交じった五の島の風を浴びる。 もしかしたら。サカキも心のどこかでは罪悪観を感じているのかもしれない。 力を制限された僕よりも能力の勝るポケモンは、少なからずともいる。 それを踏まえた上で僕に任務が与えられた理由、 それは僕が単純な一戦力としてではなく、 もしサトシがそこにシステム側の人間としていた場合、 複数の意味で彼に"対抗"できる唯一のポケモンだからだろう。 サトシにとっては予期せぬ僕との再会が、彼に動揺を与えることが出来る――。 「ピカチュウ?」 背後から看護婦さんの声がする。 サカキとの話が終わった頃合いを見計らって戻ってきたのだろう。 僕は振り返り、その次の瞬間に看護婦さんの胸に抱きしめられていた。 「あなたって人は……じゃなくて、あなたってポケモンは!」 君は自分の看たポケモンが退院する度にそうやって泣くのかい? 涙の理由は別のところにあると理解しながら、僕は心の中で看護婦さんをからかう。 「どうして、どうして断らなかったんですか?」 悪い子だな。サカキの命令を僕が断るよう、彼の部下である君が望むなんて。 看護婦さんは洟を啜りながら、 「いえ……、それはもういいです。  わたし、分かっていたんです。  あなたが結局わたしの言うことなんてちっとも守る気がない頑固者だってことは。  夜な夜な中庭であの男とこっそりリハビリしていること、気付いてないとでも思ってたんですか?」 僕が答えるよりも早く看護婦さんは言葉を続けた。 「ピカチュウ。あなたが行くことを止めることは諦めます。  でも、これだけは約束してください。無茶、しないでください。  いいですね」 看護婦さんの指が僕の頬にそっと触れる。 僕はその手を払いつつ、小さく横に首を振った。 無茶をしない、という約束はできない。 君には恩があるけれど、守れる保証のない約束はしても意味がない。 細くなっていた涙の筋の幅が再び広がる。 思い返してみれば、僕は君を困らせてばかりだな。 たくさん尽くしてもらいながら、僕は最後の最後まで反抗的な患者だった。 「死んじゃうかも、しれないんですよ?  それはピカチュウ、あなたが一番よく分かっていることでしょう?」 僕は抱擁から抜け出して、ベッドによじ登り、そこでさらに宙返りしてみせる。 痛みはほとんど消えている。 これもリハビリの賜だよ。 「強がったってダメです。  わたしが、わたしが言っているのは……」 嗚咽がその先に続く予定だった言葉を潰した。 僕は複数の意味で、看護婦さんを宥める言葉を持たなかった。 ---- 結局、エアームドの回復は間に合わなかった。 羽は動く。飛ぶのにも問題はない。 けど、自重と同程度の荷を乗せて長距離飛行するのはやはり自殺行為だとジョーイさんは言った。 墜落すればエアームドは勿論、乗っている人間もただではすまない、と。 途中で休憩しながら飛ぶことをタイチは再び提案したけど、 タマムシとヤマブキの間にポケモンセンター並の治療施設を備えた休憩所は存在せず、 仮に野宿で休憩しつつ翔破できたとしても、往復で四日以上かかる。 あたしたちはカエデと合流してレセプションに赴くことを、諦めざるをえなかった。 そして迎えたレセプション当日。 「出来ました」 とアシスタントの一人がそういうと、ゲンガーとピッピとスターミーは、 各々の表現方法であたしに自信を付けてくれた。具体的に言うなら、ゲンガーは 「うー……」 と解脱状態であたしを見上げ、ピッピは 「ぴぃっ、ぴぃっ」 とゴムまりみたいに飛び跳ね、 スターミーはコアをピコピコ光らせて鏡の中に映るあたしのドレス姿を演出してくれた。 あたしはアシスタントの人に言った。 「本当にありがとうございました。表の人たちにも、あたしに代わってお礼をお願いします」 今は営業時間なので、前回ドレス選びの時に手伝ってくれたコーディネーターさんやもう一人のアシスタントは、一般客の相手で忙しい。 ポケモンをボールに仕舞って、見るからに高そうな借り物のバッグに入れる。 今度また改めてお礼しなきゃ……そんなことを考えつつバックヤードから裏口に出ると、 待ちくたびれたらしいタイチがポケットに両手を突っ込んで、ぽけーっと藍色がかった空を眺めていた。 「それでくわえ煙草でもしてたら、もう少し大人に見えるのにね」 「俺は親父みたいにはならねえよ。  肺ガンで死ぬなんてアホらしいからな」 タイチが軽くこちらに流し目を送って、 「待ち合わせの時間には少し早いけど、行くか。  ああ、あとそれと………ドレス、似合ってる」 すぐに視線を前に向けなおす。この前の二の舞を演じまいとしているのかしら。 誉めるならちゃんと真正面から誉めて欲しいのに――。 「なに考えてるんだか」 我に返る。 見られたら怒って、目を逸らされたら拗ねて。 これじゃあただの我儘女じゃない。 言わずもがな、フユツグの正装は完璧だった。 タイチやあたしの付け焼き刃的な装飾とは違う、 普段着をちょっとお洒落にしたような自然な着こなし。 「よくお似合いですよ」 フユツグの丁寧な物腰や優雅な所作に、今日はさらに磨きが掛かっているように見える。 「これを機に社交界に足を踏み入れてはいかがです?  人脈形成に最低限必要な能力は身なりと話術です。  タイチさんなら有閑を持て余したマダムの方々が、ヒナタさんなら青年実業家の方々が喜んでパトロンにつくと思いますよ」 フユツグはそんな冗談を口にしながら歩き出す。 その隣にあたしとタイチが並ぶ。フユツグの話に相槌を打っている間に夜歩きは終わった。 首を後ろに傾けると、光害に侵された夜空を背景にマスターボールの社標が輝いているのが見えた。 ビルに近づくにつれて、メインストリートに不規則に佇んでいる黒服が目に着く。 警備の人かしら、と勘ぐりながらシルフカンパニー正面に歩いていくと、 存外入り口に警備員の影は少なくて、制服も警官によく似た紺色だった。 あたしたちは想像していたよりもずっと静かにシルフカンパニーに入ることができた。 報道陣は既に会場内で待機しているのでしょう、とフユツグが言ったけど、あたしはなんだか腑に落ちなかった。 フユツグがあたしとタイチを付き添い人として参加者名簿に記す間に、 あたしは目線をエレベーター付近に固定したままタイチに話しかけた。 「ねえ」 「どうした」 「あたし、緊張してきた、かも」 数日前、フユツグと一緒に展示スペースを見に来た時とは、決定的に状況が違っている。 タイチもあたしと視線を平行にしながら答える。 「今更何言ってんだよ、俺なんか朝起きたときから緊張してる」 お互いに、声が上擦っていた。 「ヘマっちゃダメだからね」 粗相を見せて誰かに目を付けられたら終わりよ。 「大丈夫だって。どうせすぐに抜け出すんだからさ」 「抜け出すまでの短い時間を持ちこたえられるかが勝負ね。  ……設定、忘れてないわよね?」 心配になって念を押したその時、 「終わりました。ヒナタさんはカエデという名で、  タイチさんはリュウジという名で参加登録を済ませてきましたよ」 「あたしたちのこと、詳しく問い質されたりしなかった?」 「問題ありませんでした」 微笑みつつ、中指で眼鏡のフレームを押し上げる。 フユツグがすると気障な仕草に見えないから不思議だ。 エレベーターの前には屈強な警備員が二人立っていた。 「持ち物に危険品の有無がないかチェックさせていただきます」 フユツグは事も無げに財布から一枚のカードを取り出すと、 「私はヤマブキシティジムリーダー・ナツメの代理です。  よって私にはこのレセプションの進行を監督・警衛する義務がある。  あなたたちの警備体制を過小評価しているわけではありませんが、  万が一場内にモンスターボールの不法所持者が発生、  ポケモンによるレセプションの妨害や参加者に対する傷害があった場合、  それを可及的速やかに鎮圧するには生身では分が悪い。  モンスターボールの携帯を認めてもらえますか」 穏やかながらにも威圧感のある声でそう言った。 後ろで聞いているあたしでさえ、その言葉を否定するのが馬鹿馬鹿しいことのように思えてくる。 警備員の一人はフユツグにカードを返しつつ言った。 「結構です。しかし、こちらのお二方のモンスターボール携帯は、」 すかさずフユツグが返す刃で、 「私が彼らの身分を保証します」 「し、しかし……」 「いい加減にしないか。  この二人は私の旧くからの友人であり、  それぞれがリーグDランクのポケモントレーナーだ。  当然、第一級危険種取扱者の資格も得ている。  これ以上の言及は貴社の沽券に関わる、と心得てください」 「わ、わかりました。所持品の確認だけで結構です」 フユツグとタイチがジャケットを軽く広げる。 警備員はフユツグの内ポケットに仕舞われていた三つの小型モンスターボールを認めたのちに、それを丁重に返却した。 タイチのポケットには何も入っていなかった。 あたしは出来るだけ自然に見えるように微笑みを浮かべながら、 「持ち物をチェックされるくらいで大袈裟よ、フユツグ。  警備員の方達も上から厳しく指導されているに違いないわ」 バッグを渡す。警備員は簡単に中身を確認すると、すぐにバッグを返してくれた。 「大変失礼しました」 「いいのよ。さあ、行きましょう?」 エレベーターに乗り込み扉が閉まったのを確認して、 あたしは素早く二層構造に分かれたバッグの下層から小型化したボールを取り出し、そのうち二つをタイチに渡した。 とにかく時間がない。ファーストステップをクリアしたことを喜ぶ暇もなかった。 タイチが素早くベルトに装着を済ませるのと、扉が開くのは同時だった。 緩やかな曲線を描く廊下に出ると、 「ご案内致します」 ボーイが恭しく一礼して、会場まであたしたちを誘ってくれた。 ---- 赤茶けた荒涼の大地に、たった独りで佇んでいる。 遠巻きにたくさんの人間が僕を環視していて、驚きと喜びと不安の入り交じった表情を浮かべている。 帯電した頬。 鋭敏な感覚。 電流が全身から迸る。 微かな痛みが現れては消えて。 今なら際限なく蓄電できるような気がする……。 夢はそこで途切れた。 現実の感覚が戻ってくる。 フックががっちりと固定されていることを確認しつつ、さきほどの夢を反芻する。 いつか見た夢の焼き直しのような夢だった。 「ウォフ?」 風防ゴーグルをかけたカイリューが振り向く。 その大きくも愛らしい顔に、僕は「ちょっと転た寝していただけだよ」と微笑み返した。 「ウォフー」 囂々と吹きすさぶ高度2500メートルの冷風をものともせず、 むしろそれが心地よい春風であるかのようにカイリューは飛翔する。 夕陽は水平線に没して久しい。 雲の切れ目から差す月明かりさえ乏しい暗黒の空の彼方に極彩色の光の群れが見え始めたのは、 僕がカイリューの背に乗って五の島を発ってから三時間後のことだった。 眠らない街、ヤマブキシティ。 僕たちはその中央に君臨するシルフカンパニー屋上を目指している。 「ウォフッ」 カイリューの幽かな動揺はその背に乗っている僕に大きく響く。 風圧に煽られないように身を乗り出し、風防グラス越しに前方を見渡す。 目を凝らす。焦点を遠景から順に切り替えていく。 すると目映い人工の明かりを背に、複数の黒点が空を舞っているのが分かった。 高度は僕たちと比べると低い。 「チュウ?」 突破できるかい? 「ウォフー!」 訊くまでもなかったな。 カイリューは元より十六時間で地球を一周できるほど飛行能力に長けたポケモンだ。 その気になれば一時間足らずで五の島とヤマブキを往復できるのに、 あえてそうしないのは背中にしがみついている僕の負担を少しでも軽くする配慮だ。 カイリューが鋭角に高度を上げる。 ヤマブキシティを制空していたと思しき飛行ポケモンを遙か眼下に。 そこからは緩やかに高度を落としながら、ブレのない軌道でシルフカンパニーに直進する。 林立した高層ビルの中で抜きん出て高いビルを認める。 マスターボールの社標。 そろそろだな。 「ピッカァ!」 ここまで運んでくれてありがとう。 僕はカイリューと自身を繋ぎ止めていたフックを外した。 「ウォフ―」 カイリューは短い腕を緩慢に振りつつ、高速で作戦領域を離脱していく。 それを見届けることは叶わない。 僕の体が秒速130m程度で自由落下を開始したからだ。 相対風を利用しつつ、目標地点に向けて降下していく。 3――2――1――開傘。 大型ライトの光条を避けながら、着地点を定める。 着地はそう難しくない。肝要なのはいかに素早く屋上の警邏を無力化するかだ。 僕はヘリが離着陸可能であることを示す印の中央に降り立った。 四肢で地面をとらえて衝撃を殺す。 遅れて夜間潜入用の小型パラシュートが屋上に舞い落ち、すぐに目立たなくなる。 しかし警邏の目は誤魔化せなかったようだ。 「今のは?」 ライトを逆手に構えた男が足音を消して近づいてくる。 眩しい光が僕を照らす。 「ピカチュウ……?」 動揺は一瞬。 よく訓練されていることを伺わせる切り替えの速さで、男の手が腰のボールに伸びる。 ただ、それを許す僕ではなかった。 肉薄した後は尾でベルトのボールを打ち払い、 無防備なポケモンが失神する電流の五分の一程度を流し込み、 手放されたライトをキャッチする。人間は脆い。 屋内に通じるドアを探す。ドアはすぐに見つかったが、別の警邏が構えていた。 巡回している風には見えない。僕は致し方なく側面に回り込み、察知される前に失神させた。 そうして僕は屋内への侵入を果たした。 二人を失神させた時点で既に潜入活動と呼べなくなってきているが、 今回の作戦で求められるのは慎重さではなく確実な任務遂行とスピードだ。 風防グラスのフレームから飛び出した小さな突起を押す。 すると右側のレンズに階層ごとに分かれたシルフカンパニーの3Dマップが浮かびあがった。 便利な時代になったものだ。 マッピングが少々遅いのが難点だが。 ブリーフィングによれば、シルフカンパニーはサカキに占拠された十五年前から外観こそ変わっていないものの、 内部ではテクノロジーの進歩に足並みを揃えて、物理的に、体制的に、改修が行われているのだそうだ。 そして数年前にシルフカンパニーは、ビルの電力制御をソフトウェアに完全委託するオートメーションシステムを導入。 暖房、換気、空調、照明、およびネットワークコンピューティング機器全てを容易に管理できるようにした。 それは結果的に大幅な省エネルギーを実現した。 しかし裏を返せば、そのソフトウェアが不調をきたせば、シルフカンパニーの電力管理能力は一挙に失われてしまうということだ。 シルフカンパニーは技術者にセキュリティホール潰しを徹底させ、外部からのクラッキングを許さなかった。 僕の任務は、その強固な防壁を"内部から"崩壊させ、 電力管理を司るソフトウェアを一時的に停止させることだ。 サカキはそのソフトウェアの設計者を妻子を後ろ盾に恐喝し、デプログラムを作成させた。 僕の背中のバックパックの中には、そのデプログラムが書き込まれた記憶媒体がある。 記憶媒体はシルフカンパニー内に存在するLAN接続されたコンピュータのいずれかに差し込むだけでデプログラムを起動する。 わざわざメインコンピュータに赴くまでもない。 簡単便利なデュプレックスシステムが仇になったというわけだ。 階段は最上階を除く全ての階に通じていた。 社員のほとんどはエレベーターを使っているのだろう。 黒ずんだ非常灯が虚しく光を放っていた。 僕は五階ほど下に降りたのち、壁に刻まれた階層の数字に、風防グラスのマップ表示を切り替えた。 シルフカンパニーでは社員一人一人に独立した従業スペースがある。 薄い仕切りによる簡単なものだが、曰く、作業効率が高まるのだそうだ。 僕にとっては都合のいい隠れ場所に過ぎないが。 従業スペースにつき必ず一台は設置されているであろうパソコンに記憶媒体を差し込めば、僕の任務は終わる。 人間のエージェントが実行しようとすれば困難極まる任務も、小柄で敏捷な僕なら簡単にこなすことができる。 僕はそう信じていた。 ぶ厚い鉄製の扉に行く手を阻まれる、その時までは。 「ピ……ピカァ?」 開かない。鍵は掛かっていないし、誰かが向こうから抑えつけているわけでもない。 ただ、ドアノブが少し高めの位置にあることと、ドア自体がかなり重いことの二つの要素が、 小さな電気ネズミである僕に開扉を許さなかった。 "体当たり"でぶち破ろうとすれば、フロアに存在する社員に気付かれるのは必至だ。 別ルートを探そうにも、時間がない。僕は途方に暮れた。

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