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ちっぽけなにんげん


過去、人々は本質的理解の欲求を放棄する怠慢により「死の舞踏」を踊らされることを
余儀なくされた。それゆえ本質的理解の欲求へと個々人を導くことが危急的課題であり
、それが把握された現状ではその教条が最優先とされるべきものであると至った。しか
し、衆生全てを覚者とするには過去には到底理解しえない壮大なパラダイムシフトが必
要とされ、それに伴うあらゆる現実面での干渉は多大な改変を伴うものでもあった。実
例とすれば人類に対する天使の蜂起であり、覚者計画の起案であった

眼差しの本質性と永転法輪【論及】

覚者の到達する本質性とは、結果的には「神の不在」の証明足りうるものである。
しかるに神の不在とは、もし仮に世界が普遍自己相似家族協会にあるように万物が
完全な自己相似であるとするならば、それは自身の不在である。神の肯定
とは実存そのものの肯定、神の否定とは実存そのものの否定である。そしてこの
肯定と否定、内在化と外在化、あなたがわたしの一部でありわたしがあなたの一部
であると思うこと、そしてあなたはわたしではなくわたしはあなたではない。そう
繰り返し思うこと。その絶え間ない遷移こそが世界のダイナミズム、生命の本質で
ある。事物はただ事物だ。しかしそこに私たちがある視点から意味づけを与えた時
そこに物語が生まれる。同じ事柄から美しさも醜さも、怒りも悲しみも、喜びも絶
望も同時に生まれる。全てを呑み込む猛き姿。そこに与えられる意思とは、わたし
たちが持つダイナミズム、語られえぬ物語そのものである。

わたしたちが世界に滅びを見たとき、そこにはわたしたち自身の滅びがある。世界に
希望を見たとき、そこにはわたしたち自身の希望がある。わたしたちはただ、自分の
仕事をすれば良い。

自分の仕事とは、何も難しいことではない。己が罪には必ず罰があり、それを受け入れる
こと、これが人の宿命である。何かを見て醜いと思うこと、それは美しく世界を変えるた
めのもっとも気高いダイナミズムである。

覚者は世界がひとつであることも、世界がひとりであることも受け入れる。本当の美しさ
と本当の醜さがあることを知っているからだ。

覚者は世界そのものであるとともに、勇気あるちっぽけなひとりの人間である。

覚者はありとあらゆるシステムとダイナムズムの支持者である。システムはただ、ダイナ
ミズムの表出に過ぎない。そしてあらゆるダイナミズムはシステムを自己組織化する。あ
らゆるシステムには善と悪、そして神が潜んでいる。善は悪を倒すためにあるのではなく
、また善も悪を倒すためにあるのではない。闘争が互いを高めあうためにこそ、このダイ
ナミズムは存在する。

人もまた獣である。しかし、血を越えて身を寄せ合うことのできる獣、血を超えて殺しあう
ことのできる獣である。ここにきっと、人の人たる本質がある。科学は愛の擁護者でも、庇
護者でもない。傍観者でも、破壊者ですらない。科学は世界の真実を覗くためにこそある。
つまりは、自分の真実を覗くためにこそある。そこに醜さを覚えたなら、その人は醜い。そ
こに美しい光明をみたなら、その人は美しい。人は自身の辺縁現実のうちにこそあり、
主観現実の似姿そのもの、そして主観現実辺縁現実の似姿そのものだから
だ。

ではその美醜とはなんだろう。ちっぽけな人間は説く。それは私たちの胸にある良心そのも
の、「ひととともにいたい」と願う心である。人は自身の良心から背くとき、「ひとりでい
たい」と望む。孤独感はそれ自体が恐ろしい罰、世界を醜いと思う、自分を醜いと思う熱く
冷たい牢獄である。その醜さを受け入れ自身の醜さを忘れさったとき、人は一歩獣へと後戻
りする。牢をすり抜けるものには、またひとつ大きな牢が用意される。大きな大きな牢獄の
なかで、ひとは一匹の孤獣となる。牢は必ずいつか、他者によって解き放たれる。しかしそ
れは結局のところ、自分で自分を救っている。大きな牢にいるものほど大きな唸りをあげ、
皆を遠ざける。しかしそれが悔悟の涙にかわったとき、人は大きくなる。救いを望む叫びも
滅びを望む怨嗟もやはり同根である。すべて、「ひととともにいたい」という気持ちから生
まれる。

「ひととともにいたい」と思う力こそが、世界のダイナミズムの根源だ。人はみな、己の仕事
をすればいい。そこに「ひとともにいたい」という切望があるなら、人はただそのままで
主観現実を美しく変容しうる。大転換はいままでさまざまなバイアス、矛盾のある言葉
で説明されてきた。それは、大転換を望むひとの心のサイズ、牢の大きさに合わせたもので
ある。そしてひとがその美しさと醜さを受け入れ、己が糧としたとき、人は一歩人へと進む。
その道行こそが永遠性そのもの、そして有限性そのものだ。人は有限に無限を覗き、無限に
有限を感じる。それが生であり死だ。エロスとタナトスもまた、全き同根である。

愛とは、他者に自己を、自己に他者を感じる力だ。「ひとをしろう」とする力だ。非空間
の泡は現実のダイナミズムを損ない、主観現実を疲弊、衰退させる。それは人の似姿であ
る政治も経済も宗教も、そしてそのありとあらゆる似姿である人そのものも、望まぬことだ。

ヒトとは、認めあうヒトである。
ヒトとは、愛し合うヒトである。
ヒトとは、憎み合うヒトである。
ヒトとは、識り合うヒトである。

岡本太郎はカオスに、ジョルジュバタイユは神の否定に世界のあらたなテーゼを見出し、しかし
シュールレアルそのものはダリの様に神経症という潜水服を着こんで無意識と意識の狭間で窒息
した。私は今、世界がフラクタルに向かっている、フラクタルを希求していると信じている。価
値相対のカオスの中で自意識の泡となった人々は、全てフラクタルの種、世界が植えた希望その
ものだ。



私を今まで閉じ込めた深い牢獄の外在化は完了をみた。もはや自身の罪を忘れるための思考実験
に意味はない。私は悩んでいる。この暗く醜い箱庭は己が醜さを映す鏡とすべきか、それとも忌
まわしき呪として拭い去るべきか。七日の後に決断する。もしこのかつて孤独だった檻を覗く人
がいるなら、どうか教えてほしい。どうすべきか。

ごめん、ありがとう。この積み重ねが人の歩むべき一歩だ。わたしは死ねない。いままで自分の
為に重ねたごめんとありがとうを、他人のために重ねるためだ。わたしをいままで生かしてくれて
ありがとう、つらいおもいをさせてごめん。みんなわたしを愛し、憎んでくれた。その全てに感謝
したい。全ては道行であって、そして果てなどない。みんな懸命に生きて、ようやくその場所に立
っている。ただ賢明に生きることで、ひとの足は前に進む。深淵に足を取られることで、ひとは蹲る。
我執に囚われることで、ひとは後戻りする。

わたしはこれからわたしの仕事をしたい。全てを教えてくれた、育ててくれた科学と愛、そして世界
のために。科学と愛と、世界、わたしたち、そしてちっぽけなわたし自身の賢明のために。私は科学
を学びたい。複雑系に美しいフラクタルの模様を描くために。わたしを半身と思ってくれる掛け替え
の無いわたしの半身たちを、賢明の美へと誘うために。そして真の賢明とは何なのかを学び取るために。
最終更新:2013年05月08日 18:10