第3次ハダカンボ=ザルバチ戦争

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&bold(){第3次ハダカンボ・ザルバチ戦争}は、世界創世暦7613年、ハダカンボ王国とザルバチ海岸共和国との間に勃発した戦争。 ザルバチ海岸共和国はこの戦争で西進を断念することになり、多額の賠償金を支払うことになった。 |>|BGCOLOR(#4169e1):SIZE(20):~第3次ハダカンボ=ザルバチ戦争(ダハーカ戦争)|h |>|画像&br()時期:7613年4月11日-7614年7月11日&br()場所:ハダカンボ王国スッパダカ半島&br()結果:ハダカンボ王国の勝利| |>|BGCOLOR(#4169e1):~交戦勢力| |&ref(000.png,,height=18)ハダカンボ王国|ザルバチ海岸共和国| |>|BGCOLOR(#4169e1):~指揮官| |&ref(000.png,,height=18)[[ハダカンボ11世]]&br()&ref(000.png,,height=18)エガチャン&br()&ref(000.png,,height=18)タムケン&br()&ref(000.png,,height=18)バセンジ&br()&ref(000.png,,height=18)エホーマキ&br()&ref(000.png,,height=18)フェンリル・フォン・バーベンベルク&br()&ref(000.png,,height=18)ミウ&br()&ref(000.png,,height=18)トーマ|ウラジーミル・K・ティモシェンコ&br()アレクサンドル・テルゴイッチ&br()セミョーン・ティモフ&br()ウラジーミル・ヴィチャスラフ| |>|BGCOLOR(#4169e1):~戦力| |235,000|開戦時:&br()23,000&br()ハダカンボ軍侵攻時:&br()177,000| |>|BGCOLOR(#4169e1):~被害者数| |戦死:22,000&br()戦傷:44,000|戦死:16,534&br()戦傷:19,865| *背景 ザルバチ海岸共和国は建国以来対外的には拡大政策をとっており、隣接するリントヴルム朝ヤード帝国、レオネッサ王国、ハダカンボ王国への遠征を繰り返していた。とくに、ハダカンボ王国は自国の人種差別政策から南方土人として蔑んでおり、度々その領土を犯していた。フーエラ族によるザルバチ農民殺害事件に端を発する第1次ハダカンボ・ザルバチ戦争で多くの犠牲を出しながらも僅かな領土割譲で済んだハダカンボ王国は来るべき戦争に備え、他国と国交を開き開国することを決断した。その10年後の第2次ハダカンボ・ザルバチ戦争はイマラ族がザルバチ政界に多額の賄賂と引き換えに早期戦闘終結を働きかけたため、大きな戦闘もなく終結した。 しかし両国の対立状態はその後も続き、国境付近ではハダカンボ人狩りと称したザルバチ民間人による虐殺が相次いだ。これらの虐殺はザルバチ国内の観光業者が率先して行っていたことから後に国際的な批判にさらされることになる。 この民間人による虐殺にはハダカンボ王府も対処することはできず、半ば黙認する形となってしまった。 *戦争前夜 ザルバチ海岸共和国では長年の国土拡大政策から、軍事費が増大する傾向にあり、また、ヤーディシア大戦後の世界的不況から国内経済も冷え込み、そのために増税しなければならないという悪循環に陥り、与党ヤード人共和国運動の支持率は年々低下傾向にあった。 支持率低下に歯止めがかからないことに焦ったティモシェンコ議長(当時)は支持率回復のための手段として大規模なプロパガンダやイクファターナ各国との友好演出などを行うも、効果はほとんどなかった。 一方ハダカンボ王国では7612年11月3日、王位継承戦争に勝利し、第11代ハダカンボ皇王に即位したハダカンボ11世ヌギは前年のハダカンボ10世暗殺に関わったとしてイマラ族の領地をすべて没収とし、王領に組み込むこととした。 親ザルバチ派のイマラ族はザルバチ政財界とつながっており、ハダカンボ人狩りの手引きもイマラ族によるものであることも後に判明するが、この当時はザルバチの政治家への賄賂が持続的に行われており、ザルバチによる侵攻がこれまで行われなかったのもこのためであったことからザルバチ政界としてはこれを見過ごすことはできなかった。 7613年1月5日、内戦に敗れ王位継承からはずれた対立候補のラータイ王子がザルバチに亡命する。 ラータイの扱いに関してザルバチ政府では協議が行われ、これを反ハダカンボ宣伝に利用することを決定。 7616年2月11日、革命評議会でラータイは「ハダカンボ11世による『自国民虐殺』」を宣伝。ザルバチ国内でこの件が大々的に報道されると、世論はハダカンボ征服を支持するようになる。 ザルバチ政府支援のもと、ラータイを政府主席とする「ハダカンボ王国正統政府」が樹立されると正統政府軍1000が編成される。この正統政府軍はラータイとともに亡命してきた兵士で構成されており、実質的な役割は殆どなさなかったが、宣伝効果としては十分であった。ザルバチ政府はハダカンボにおける唯一の正当な政府としてこれを承認した。 3月1日、ハダカンボ王国への派兵追加予算を審議するために評議会で臨時会議が開かれたが、野党は一斉に与党を批判。「与党の人気取り出兵」、「支持率のための侵略戦争」として、予算審議を拒否するなどの戦術を展開するも、マスコミはホワイトヒューマンブラザーズの圧力によって反有色人種キャンペーンを展開し、世論は蛮族討つべしとする意見が主流となった。3月11日についに与党は強行採決を行い、予算案を通した。 *開戦 4月11日、ラータイの名の下に「逆賊ヌギ討伐令」が出され、これを「支援」するという形でザルバチ陸軍2万が国境を越えて侵攻した。午前6時に侵攻開始したザルバチ軍は国境近辺の村をことごとく焼き払った。 午前8時頃、国境付近のシュイン村にてザルバチ軍は現地民13人を殺害。現地の食料や運び出されようとしていた金細工などを強奪した。このとき住民が身に着けていた装飾品なども引き剥がされた。住民は残虐な方法で殺害されたという。 ザルバチ軍は略奪や虐殺に時間を取られ、当日中の進軍は殆どできなかった。一気にフルヌゥドへの進撃ができなかったことはザルバチによる征服の好機を逸する原因ともなった。 この侵攻は狼煙によって30分後には王府にこれが伝わり、すぐさま部族長が招集されたが、これに応じたのはモフモフ族、フーエラ族、ダチワ族などの一部部族だけであった。その他の部族は日和見を決め込む者、率先してザルバチ軍に協力する者など様々であった。 11日は夜通し軍議が開かれ、主戦派と降伏派に分かれ激論がかわされた。 徹底抗戦を主張したバセンジは降伏するならモフモフ族は全員自害するとまで宣言、王佐ナラムは降伏を主張するが、ラータイがザルバチ軍の旗印になっていると知ったハダカンボ11世は勅裁で徹底抗戦を決定。 13日11時頃にモフモフ族、エドーコ族の軍が王軍に合流。 しかし招集拒否の兵も相次ぎこの時点で総勢3万の軍勢であった。正午ごろ、前線からの伝令によりザルバチ軍が編成を整えフルヌゥドに向かっているという報告が入る。 ハダカンボ11世は王の名により全軍出動を命じ、ザルバチ軍の進軍方向に向かって自ら軍を率いて出撃した。 *テコク川の戦い 王軍本隊がザルバチ軍に接触したのはの15時頃のことであり、その頃にはすでにセミョーン・ティモフ中将率いる第3師団10,000は、テコキ川流域に陣形を張っていた。 国境警備兵からの報告により近代装備で固めているザルバチ軍には正面からの攻撃は有効ではないことを察していたハダカンボ11世は軍を3部隊に分割し、正面の自身の部隊を敵にぶつけ、残る2部隊を伏兵として左右の密林部に隠しておくという作戦を取った。 このとき王の黄金旗を掲げることを命じる。黄金旗は皇王親征を表す旗印であるが、王自身が危険にさらされることに軍内から反対意見も多かったが「負ければいずれにせよ死」としてそのまま王の本隊に黄金旗を掲げることになった、 15時30分ハダカンボ軍本隊がザルバチ軍に襲いかかった。ガトリング砲などを備えたザルバチ軍の守りは固く、本隊はすぐに後退。従軍していたラータイは黄金旗を見て総大将が王であることをティモフに伝える。ここでハダカンボ11世を捕縛すれば難なく全土を制圧できるとして勲功を見込んだティモフは追撃を命じる。しかし深追いしたところで両翼に潜んでいた左右2万の伏兵が襲いかかり包囲されたうえ、弓の嵐を浴びせかける。 混乱したザルバチ軍にさらに本隊の馬鳥騎兵3000が突撃しザルバチ軍第3師団は潰走。ラータイとティモフは後方に控えていたため退却することができたが、これにより第3師団はわずか1時間の間に1000人が戦死、2000人が負傷、1500人が捕虜となり、ほぼ壊滅となった。 この戦術はシンガの伝統的な戦術である「釣り野伏」を参考にしたと言われている。 一方で南部方面に兵力を展開していたアレクサンドル・テルゴイッチ率いる第4師団は第3師団の壊滅をうけて国境付近まで後退した。 *ザルバチ軍の反攻計画 テコク川の戦いで勝利したハダカンボ11世の下にそれまで日和見を決め込んでいた部族が続々と結集した。特にそれまで王家に不満をいだいていたフーエラ族やフェミ族が王府に加勢したのは大きかった。彼らは一時的にザルバチ軍に協力したものの、ザルバチ軍の略奪に耐えかねて王府につくことにした。また、フーエラ族はラータイを支持していたが、ラータイがハダカンボ人虐殺を黙認していたことも彼らが離反する一員となっていた。これによりほぼ全土の部族が一致してザルバチと戦うことを決めた。この時総兵力は20万にまで膨れ上がっていた。 一方で敗戦の報にティモシェンコは焦った。未開の蛮族に白人の軍が敗北したとなっては確実に政権退陣は免れないうえに、国際的にも国威が傷つくことになってしまうからである。 ティモシェンコは閣議で声を荒げて軍幹部を叱責し、さらなる増派を実施し、着実にハダカンボ王国を征服することを指示した。 一度壊滅した第3師団を再編成し、再侵攻の準備を行うため3ヶ月の時間を要した。 その間ハダカンボ王国は再侵攻の可能性が十分にあるとして、準備を怠ることはなかった。それまで石槍と弓という原始的な装備で戦っていた彼らだったがザルバチ軍が残した兵器を大量に鹵獲したことや、残留リンディス兵団から大量の兵器横流しと、リンディス兵団から派遣された軍事顧問フェンリル・フォン・バーベンベルク大尉による訓練により、ますます練度を上げていた。 *反撃 7月21日、3個軍団から編成される総勢10万人のウラジーミル・ヴィチャスラフ上級大将率いるザルバチ陸軍第2軍が侵攻を開始。 今度は前回の反省を活かし、軍を分割せず近隣の村からは食料現地調達だけにとどめて無駄な略奪行為はしないことを厳命。 しかし直前に侵攻を察知していたハダカンボ軍は事前に進軍予想経路上の村々を焼き払い焦土戦術を敢行。 さらに前回の兵力ではできなかった遊撃兵の配置を行い、ゲリラ戦術による散発攻撃を行軍中のザルバチ軍に行うなど徐々に心理的に追い詰めていった。 側面からの散発攻撃を防ぐため、ヴィチャスラフは行軍経路を海岸沿いに変更。さらに、海軍から海路から補給を行えるように本国に要請。海沿いを侵攻することによって敵のゲリラ攻撃からの防衛と補給問題の解決を図った。 ハダカンボ11世は補給が切れて敵が弱った頃に攻撃を仕掛けるつもりであったがヴィチャスラフの慎重な進軍によりそれが不可能であることを知るや、一大会戦により再度撃滅する以外に勝利できないとして全軍に出撃を命令。 7月29日午前8時頃にフルヌゥドを出撃。 8月1日午前4時、オシコリ浜に野営していたザルバチ軍を斥候隊が発見。 ハダカンボ軍はここで敵主力を撃滅することとした。 *オシコリ浜の戦い オシコリ浜は遮蔽物がなくまた、万が一追い詰められたとしても海軍による艦砲射撃による援護が可能であったため野戦でありながら防御力は抜群であった。 また前回の敗戦を踏まえ十分な砲撃を与えた上での攻撃を念頭に置いた。 これらの攻撃もあってハダカンボ軍先鋒隊は大損害を受け *逆侵攻 *フッシャリカ市街戦 *終戦 *影響
&bold(){第3次ハダカンボ・ザルバチ戦争}は、世界創世暦7613年、ハダカンボ王国とザルバチ海岸共和国との間に勃発した戦争。 ザルバチ海岸共和国はこの戦争で西進を断念することになり、多額の賠償金を支払うことになった。 |>|BGCOLOR(#4169e1):SIZE(20):~第3次ハダカンボ=ザルバチ戦争(ダハーカ戦争)|h |>|画像&br()時期:7613年4月11日-7614年7月11日&br()場所:ハダカンボ王国スッパダカ半島&br()結果:ハダカンボ王国の勝利| |>|BGCOLOR(#4169e1):~交戦勢力| |&ref(000.png,,height=18)ハダカンボ王国|ザルバチ海岸共和国| |>|BGCOLOR(#4169e1):~指揮官| |&ref(000.png,,height=18)[[ハダカンボ11世]]&br()&ref(000.png,,height=18)エガチャン&br()&ref(000.png,,height=18)タムケン&br()&ref(000.png,,height=18)バセンジ&br()&ref(000.png,,height=18)エホーマキ&br()&ref(000.png,,height=18)フェンリル・フォン・バーベンベルク&br()&ref(000.png,,height=18)ミウ&br()&ref(000.png,,height=18)トーマ|ウラジーミル・K・ティモシェンコ&br()アレクサンドル・テルゴイッチ&br()セミョーン・ティモフ&br()ウラジーミル・ヴィチャスラフ| |>|BGCOLOR(#4169e1):~戦力| |235,000|開戦時:&br()23,000&br()ハダカンボ軍侵攻時:&br()177,000| |>|BGCOLOR(#4169e1):~被害者数| |戦死:22,000&br()戦傷:44,000|戦死:16,534&br()戦傷:19,865| *背景 ザルバチ海岸共和国は建国以来対外的には拡大政策をとっており、隣接するリントヴルム朝ヤード帝国、レオネッサ王国、ハダカンボ王国への遠征を繰り返していた。とくに、ハダカンボ王国は自国の人種差別政策から南方土人として蔑んでおり、度々その領土を犯していた。フーエラ族によるザルバチ農民殺害事件に端を発する第1次ハダカンボ・ザルバチ戦争で多くの犠牲を出しながらも僅かな領土割譲で済んだハダカンボ王国は来るべき戦争に備え、他国と国交を開き開国することを決断した。その10年後の第2次ハダカンボ・ザルバチ戦争はイマラ族がザルバチ政界に多額の賄賂と引き換えに早期戦闘終結を働きかけたため、大きな戦闘もなく終結した。 しかし両国の対立状態はその後も続き、国境付近ではハダカンボ人狩りと称したザルバチ民間人による虐殺が相次いだ。これらの虐殺はザルバチ国内の観光業者が率先して行っていたことから後に国際的な批判にさらされることになる。 この民間人による虐殺にはハダカンボ王府も対処することはできず、半ば黙認する形となってしまった。 *戦争前夜 ザルバチ海岸共和国では長年の国土拡大政策から、軍事費が増大する傾向にあり、また、ヤーディシア大戦後の世界的不況から国内経済も冷え込み、そのために増税しなければならないという悪循環に陥り、与党ヤード人共和国運動の支持率は年々低下傾向にあった。 支持率低下に歯止めがかからないことに焦ったティモシェンコ議長(当時)は支持率回復のための手段として大規模なプロパガンダやイクファターナ各国との友好演出などを行うも、効果はほとんどなかった。 一方ハダカンボ王国では7612年11月3日、王位継承戦争に勝利し、第11代ハダカンボ皇王に即位したハダカンボ11世ヌギは前年のハダカンボ10世暗殺に関わったとしてイマラ族の領地をすべて没収とし、王領に組み込むこととした。 親ザルバチ派のイマラ族はザルバチ政財界とつながっており、ハダカンボ人狩りの手引きもイマラ族によるものであることも後に判明するが、この当時はザルバチの政治家への賄賂が持続的に行われており、ザルバチによる侵攻がこれまで行われなかったのもこのためであったことからザルバチ政界としてはこれを見過ごすことはできなかった。 7613年1月5日、内戦に敗れ王位継承からはずれた対立候補のラータイ王子がザルバチに亡命する。 ラータイの扱いに関してザルバチ政府では協議が行われ、これを反ハダカンボ宣伝に利用することを決定。 7616年2月11日、革命評議会でラータイは「ハダカンボ11世による『自国民虐殺』」を宣伝。ザルバチ国内でこの件が大々的に報道されると、世論はハダカンボ征服を支持するようになる。 ザルバチ政府支援のもと、ラータイを政府主席とする「ハダカンボ王国正統政府」が樹立されると正統政府軍1000が編成される。この正統政府軍はラータイとともに亡命してきた兵士で構成されており、実質的な役割は殆どなさなかったが、宣伝効果としては十分であった。ザルバチ政府はハダカンボにおける唯一の正当な政府としてこれを承認した。 3月1日、ハダカンボ王国への派兵追加予算を審議するために評議会で臨時会議が開かれたが、野党は一斉に与党を批判。「与党の人気取り出兵」、「支持率のための侵略戦争」として、予算審議を拒否するなどの戦術を展開するも、マスコミはホワイトヒューマンブラザーズの圧力によって反有色人種キャンペーンを展開し、世論は蛮族討つべしとする意見が主流となった。3月11日についに与党は強行採決を行い、予算案を通した。 *開戦 4月11日、ラータイの名の下に「逆賊ヌギ討伐令」が出され、これを「支援」するという形でザルバチ陸軍2万が国境を越えて侵攻した。午前6時に侵攻開始したザルバチ軍は国境近辺の村をことごとく焼き払った。 午前8時頃、国境付近のシュイン村にてザルバチ軍は現地民13人を殺害。現地の食料や運び出されようとしていた金細工などを強奪した。このとき住民が身に着けていた装飾品なども引き剥がされた。住民は残虐な方法で殺害されたという。 ザルバチ軍は略奪や虐殺に時間を取られ、当日中の進軍は殆どできなかった。一気にフルヌゥドへの進撃ができなかったことはザルバチによる征服の好機を逸する原因ともなった。 この侵攻は狼煙によって30分後には王府にこれが伝わり、すぐさま部族長が招集されたが、これに応じたのはモフモフ族、フーエラ族、ダチワ族などの一部部族だけであった。その他の部族は日和見を決め込む者、率先してザルバチ軍に協力する者など様々であった。 11日は夜通し軍議が開かれ、主戦派と降伏派に分かれ激論がかわされた。 徹底抗戦を主張したバセンジは降伏するならモフモフ族は全員自害するとまで宣言、王佐ナラムは降伏を主張するが、ラータイがザルバチ軍の旗印になっていると知ったハダカンボ11世は勅裁で徹底抗戦を決定。 13日11時頃にモフモフ族、エドーコ族の軍が王軍に合流。 しかし招集拒否の兵も相次ぎこの時点で総勢3万の軍勢であった。正午ごろ、前線からの伝令によりザルバチ軍が編成を整えフルヌゥドに向かっているという報告が入る。 ハダカンボ11世は王の名により全軍出動を命じ、ザルバチ軍の進軍方向に向かって自ら軍を率いて出撃した。 *テコク川の戦い 王軍本隊がザルバチ軍に接触したのはの15時頃のことであり、その頃にはすでにセミョーン・ティモフ中将率いる第3師団10,000は、テコキ川流域に陣形を張っていた。 国境警備兵からの報告により近代装備で固めているザルバチ軍には正面からの攻撃は有効ではないことを察していたハダカンボ11世は軍を3部隊に分割し、正面の自身の部隊を敵にぶつけ、残る2部隊を伏兵として左右の密林部に隠しておくという作戦を取った。 このとき王の黄金旗を掲げることを命じる。黄金旗は皇王親征を表す旗印であるが、王自身が危険にさらされることに軍内から反対意見も多かったが「負ければいずれにせよ死」としてそのまま王の本隊に黄金旗を掲げることになった、 &ref(テコク川の戦い1.jpg,,height=300) (初期の戦闘配置) 15時30分ザルバチ軍がハダカンボ軍に襲いかかった。重武装していたザルバチ軍はすぐにハダカンボ軍を圧倒し、ハダカンボ軍はやや抵抗したものの後退。従軍していたラータイは黄金旗を見て総大将が王であることをティモフに伝える。ここでハダカンボ11世を捕縛すれば難なく全土を制圧できるとして勲功を見込んだティモフは追撃を命じる。 &ref(テコク川の戦い2.jpg,,height=300) &ref(テコク川の戦い3.jpg,,height=300) (後退したハダカンボ軍を追撃するザルバチ軍) しかし深追いしたところで両翼に潜んでいた左右2万の伏兵が襲いかかり包囲されたうえ、弓の嵐を浴びせかける。 &ref(テコク川の戦い4.jpg,,height=300) (三方向から包囲されるザルバチ軍) 混乱したザルバチ軍にさらに本隊の馬鳥騎兵3000が突撃しザルバチ軍第3師団は潰走。ラータイとティモフは後方に控えていたため退却することができたが、これにより第3師団はわずか1時間の間に1000人が戦死、2000人が負傷、1500人が捕虜となり、ほぼ壊滅となった。 この戦術はシンガの伝統的な戦術である「釣り野伏」を参考にしたと言われている。 一方で南部方面に兵力を展開していたアレクサンドル・テルゴイッチ率いる第4師団は第3師団の壊滅をうけて国境付近まで後退した。 *ザルバチ軍の反攻計画 テコク川の戦いで勝利したハダカンボ11世の下にそれまで日和見を決め込んでいた部族が続々と結集した。特にそれまで王家に不満をいだいていたフーエラ族やフェミ族が王府に加勢したのは大きかった。彼らは一時的にザルバチ軍に協力したものの、ザルバチ軍の略奪に耐えかねて王府につくことにした。また、フーエラ族はラータイを支持していたが、ラータイがハダカンボ人虐殺を黙認していたことも彼らが離反する一員となっていた。これによりほぼ全土の部族が一致してザルバチと戦うことを決めた。この時総兵力は20万にまで膨れ上がっていた。 一方で敗戦の報にティモシェンコは焦った。未開の蛮族に白人の軍が敗北したとなっては確実に政権退陣は免れないうえに、国際的にも国威が傷つくことになってしまうからである。 ティモシェンコは閣議で声を荒げて軍幹部を叱責し、さらなる増派を実施し、着実にハダカンボ王国を征服することを指示した。 一度壊滅した第3師団を再編成し、再侵攻の準備を行うため3ヶ月の時間を要した。 その間ハダカンボ王国は再侵攻の可能性が十分にあるとして、準備を怠ることはなかった。それまで石槍と弓という原始的な装備で戦っていた彼らだったがザルバチ軍が残した兵器を大量に鹵獲したことや、残留リンディス兵団から大量の兵器横流しと、リンディス兵団から派遣された軍事顧問フェンリル・フォン・バーベンベルク大尉による訓練により、ますます練度を上げていた。 *反撃 7月21日、3個軍団から編成される総勢10万人のウラジーミル・ヴィチャスラフ上級大将率いるザルバチ陸軍第2軍が侵攻を開始。 今度は前回の反省を活かし、軍を分割せず近隣の村からは食料現地調達だけにとどめて無駄な略奪行為はしないことを厳命。 しかし直前に侵攻を察知していたハダカンボ軍は事前に進軍予想経路上の村々を焼き払い焦土戦術を敢行。 さらに前回の兵力ではできなかった遊撃兵の配置を行い、ゲリラ戦術による散発攻撃を行軍中のザルバチ軍に行うなど徐々に心理的に追い詰めていった。 側面からの散発攻撃を防ぐため、ヴィチャスラフは行軍経路を海岸沿いに変更。さらに、海軍から海路から補給を行えるように本国に要請。海沿いを侵攻することによって敵のゲリラ攻撃からの防衛と補給問題の解決を図った。 ハダカンボ11世は補給が切れて敵が弱った頃に攻撃を仕掛けるつもりであったがヴィチャスラフの慎重な進軍によりそれが不可能であることを知るや、一大会戦により再度撃滅する以外に勝利できないとして全軍に出撃を命令。 7月29日午前8時頃にフルヌゥドを出撃。 8月1日午前4時、オシコリ浜に野営していたザルバチ軍を斥候隊が発見。 ハダカンボ軍はここで敵主力を撃滅することとした。 *オシコリ浜の戦い オシコリ浜は遮蔽物がなくまた、万が一追い詰められたとしても海軍による艦砲射撃による援護が可能であったため野戦でありながら防御力は抜群であった。 また前回の敗戦を踏まえ十分な砲撃を与えた上での攻撃を念頭に置いた。 これらの攻撃もあってハダカンボ軍先鋒隊は大損害を受け *逆侵攻 *フッシャリカ市街戦 *終戦 *影響

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