トゥガ国

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&bold()&color(red){・この国は[[ジャーガルク・シャー国]]の保護領です} ---- |国名|&bold(){トゥガ国}&br()(アルファベット表記表記:&italic(){Thuga})| |首都|&bold(){ケサ僧院}(臨時首都)&br()(アルファベット表記:&italic(){Kesa・Monastery})| |地域|シンガ中央([[世界地図]]7中央)| |公用語|ジャーガルク語・トゥガ語| |国教|[[浮屠教]]| |国歌|梵我一如| |国制の特徴|祭政一致・転生僧侶制| |国家元首|[[カーマル32世]]| |人口|約40万人| |通貨|シル(略称cl)| #contents() *&bold(){・概要} トゥガ国はジャーガルク内に存在する国家である。シンガで最も古い歴史を有するとされており、また浮屠教発祥国でもある。 *&bold(){・地理} &bold(){・地図} #image(本国.jpg,,height=1100) シンガのほぼ中央に存在し国土の殆どが標高4000m以上の山岳地帯である。 *&bold(){・経済} **&bold(){・農業・牧畜} 国民の殆どが第一次産業の従事者で、畑で&bold(){大麦}などを栽培し&bold(){ヤク}という牛の一種を飼育している。 **&bold(){・鉱業} &bold(){軟石翡翠}として有名な&bold(){トゥガ石}の産地であり、また近年では金鉱山も発見されている。 **&bold(){・工業} 職人が小規模な工房で日用品や民芸品を作製するレベルである一方、手作りの伝統的浮屠具・浮屠画・浮屠像は芸術品としても評価が高く、高値で取引される。 *&bold(){・対外感情} イクファターナ諸国との関係は薄いが、各国に僧侶を派遣している。 |国名|>|対外感情|h |[[ソフィア王国]]|>|南の国、殺生はやめようね| |[[立憲王政アーカルソン=リペルニア]]|>|海の向こうの国、物質に囚われるのはよくないよ| |[[リントヴルム朝ヤード帝国]]|>|南の国、すごく文明が進んでいるらしい| |[[フォンタニエ辺境伯国]]|>|我が国みたいな山奥の国、| |[[レオネッサ王国]]|>|南の国、強いらしい…共産主義者を倒してくれないかな?| |[[カラシュ公国]]|>|三悪趣みたいな国、悔い改めて| |[[ジャーガルク・シャー国]]|>|檀家さん、もっと社会主義者を攻撃してほしい| |~|[[ピスカ・ハウイカウサイ部族連合]]|海の向こうの国、最近檀家さんが増えている。| |~|[[ムスルマーネン=カリフ国]]|この前来訪した人を論破したら激怒して帰っていった| |[[清河人民社会主義共和国]]|>|よくも…よくもあんなことしてくれたな!!悔い改めて征服した土地を返還しろ!!| |[[ハダカンボ王国]]|>|我々に近い人たちの国、きっといい国なんだろう| |[[ザルバチ海岸共和国]]|>|南の国| |[[フィルモア合衆国]]|>|海の向こうの国、物質主義は良くないよ| |[[シンファナ=タンクレート共和国連合]]|>|正直社会主義は好きじゃないけど、平等な社会は良いと思う| |[[インティ帝国]]|>|海の向こうの国、布教僧を送ってみようかな?| |[[トルカーナ公国]]|>|何処?| |[[ゴーシュ共和国]]|>|偏見から離れよう| *&bold(){・国民}  国民の殆どがホモ・ソーラネウス系のラ人であり、兎亜人と共に美男美女の多い民族であるとされている。そのため嘗ては[[ムスルマーネン・カリフ国]]の奴隷商人が不法入国し、人間を拉致する事件が絶えなかったが、保護国化後ジャーガルク官憲の取り締まりにより、現在人狩りは姿を消している。 *&bold(){・歴史} **・無明時代(20万年前~紀元前1000年頃)  ホモ・サピエンス隆興後、その勢力に押されシンガの&bold(){ホモ・ソーラネウス}人達は約20万年前に白雪山脈へ移動し、寒冷で空気の薄い土地へ順応、彼らがラ族の前身となる。ラ族は約1万年前に&bold(){大麦}の栽培と&bold(){ヤク}の家畜化に成功、渓谷に村落を形成し、各地に小国家が誕生した。その中で彼らは生物の成長と&bold(){食物連鎖}の法則を発見し、そこから因果関係の理論を生み出して、&bold(){ヴァルナ制}を特徴とする独自の多神教を信仰するようになった。 **・浮屠教誕生(紀元前1000年~4198年)  紀元前1000年頃、小国家の一つであるゴハン国の王子&bold(){サモン}はこの世の苦しみ(生・老・病・死)を解決する方法を探すため出家、各地の有力な神官の下で修業するが形式的な儀式と苦痛しかない苦行に拘る彼らに疑問を感じて、身分を問わず様々な人との議論と瞑想を重ね、中道の行いと輪廻からの解脱を重視する[[浮屠教]]を生み出した。  彼は浮屠教の教えを広めるつもりはなかったが、形骸化した原始宗教に見切りをつけた者たちが集まり教団を形成、しかしサモンの死後、個人の悟りと修業を重視する&bold(){悟一派}と、全ての命の救済と教育を重視する&bold(){悟衆派}に教団は分裂した。 **・厄災の時代と中原への進出(4198年~4576年)  [[ヴィスヴィオ大噴火]]と[[小オメデス彗星衝突]]による厄災の時代、寒冷化で食糧難に陥った各小国家は中原に進出、中原に後羅・磨・欣・布などの国を建国した。特に後覇は短期間ではあるが中原を再統一することに成功している。一方白雪山脈に残ったラ族は各小国家の牧草地・農地を巡る対立が激化、4576年にホルケン・ガンポがトゥガ諸国を統一、トゥガ王国が誕生した。 **・帝国の誕生と衰退(4576年~) &bold(){・トゥガ王国最盛期の領土} #image(柱末.jpg,,height=900)  トゥガ王国はその後[[柱王朝>https://www65.atwiki.jp/yadohakoz/pages/27.html#id_a3129cb2]]が地方統制能力を喪失したのに乗じて西部の領土へ進出、また同国で内乱が発生し、救援を求められたことを奇貨とし東部の中原へも進出、しかし人口密度の低い高地で生活していたラ族は人口が多い中原で伝染病に罹患し撤退、その後トゥガ王国は王家の内紛により分裂、勢力は弱体化した。 **・モスン統治下での繁栄と僧侶の国家支配  &bold(){モスン帝国}の&bold(){アルタ・ハーン}はトゥガ王国に服属を要求、しかし当時トゥガ王国を再統一した&bold(){フルウ・ガンポ}はハーンとモスン族を成り上がりで無知無能の輩と判断し使節団員をほぼ全員殺害、生き残った者にハーンとモスン帝国を罵倒する内容を記した書状を持たせ帰国させた。  彼の態度にハーンは激怒、5万の兵を率いトゥガ王国へ侵攻し、全ての王族を殺害、トゥガ王国は消滅した。しかし多くの寺院が非暴力を貫きアルタ・ハーンが使者を送る前に服属を誓ったため、寺院は保護され僧侶が国政の主導権を握るようになる。  アルタ・ハーンの死後モスン人達は浮屠教を厚く信仰するようになり、特にライ・ハーンの時代には僧侶パースが帝師となる。しかしモスン人たちが税金を寺院建設につぎ込み過ぎたのもあって韓人による反乱が多発、モスン帝国は中原を撤退した。しかしそれでも浮屠教は各地で信仰されていたため、各地の王侯貴族を檀家として僧侶はトゥガ国内での勢力を拡大、6901年には清河王朝との関係を重視する&bold(){立教大学宗}の転生僧侶が、帝国の藩国となることで皇帝を後ろ盾とし国政を掌握するようになる。 **・清河の侵攻と保護国化(7602年~現在)  7602年11月28日の原帝国滅亡後、皇帝がいなくなったことで&bold(){冊封体制}は崩壊し、在地の寺院と豪族は帝国の行政官を追放し7603年1月27日にシャンバラの&bold(){立教大学宗}デン寺が中心となって&bold(){転生僧侶カーマル}を国家元首とし、トゥガは独立国となる。  その後&bold(){顛信軍閥}の&bold(){鋼雨皇帝}がトゥガ制圧を目指して侵攻してくるが、僧兵部隊と豪族騎馬隊の山岳ゲリラ戦によって撃退し、以後近隣の軍閥は[[ジャーガルク・シャー国]]支援の下、大人しくなり対外遠征ではなく内紛に精を出すようになった。  しかし7609年に清河勢力と国境を接するようになると、紅軍が封建国家の支援を名目に侵攻、当初は病院や学校を建設し、ラ族は清河に好意を持っていたが、数か月で態度を一変、食糧の強制徴発を開始し、農地・家畜の国有化を名目にそれらを収奪、さらに近代化の名目で僧院や浮屠像を破戒した。  それに反発したラ族は清河軍を攻撃、しかし物量に勝る清河軍は瞬く間にトゥガ全土を制圧、ラ族の子供に親を撲殺させ、浮屠教再教育を名目に僧侶に穴を掘らせ、作業終了後僧侶の腕を切断し穴に落として、多量出血でゆっくりと死ぬ中罵倒するなどを行った。  トゥガ政府は近隣の[[ジャーガルク・シャー国]]へ救援を要請、しかし国内の混乱で手一杯であったジャーガルクは直ぐにトゥガを助けることができず、ようやく7612年にトゥガへ2個師団を派遣、国土のほぼ半分を奪還することに成功する。その後単独での国防が不可能であると判断したトゥガ政府はジャーガルク保護してもらうべきと判断、7613年に保護国となる。 *&bold(){・文化} **・精進料理  浮屠教の教義に基づく料理、宗派によって差はあるが基本的に同宗教は殺生を禁止していたが、原始浮屠教は&bold(){三種の浄肉}((僧侶が殺された現場を見なかった動物の肉・僧侶本人のために殺されたと聞かなかった動物の肉・前記二つの疑いがない動物の肉))なら食べて良いとされていたため、精進料理は発達しなかった。  しかし浮屠教が中原に広まるにつれて現地の土着信仰や各種哲学に影響を受けて、肉類や煩悩を刺激する臭いの強い食材((&bold(){にんにく、ねぎ、にら、たまねぎ、らっきょう}))、を食する事や飲酒を避ける考えが同地の悟衆派を中心に広まり、肉の代わりにタンパク質を摂取するため、大豆食品が発達、&bold(){豆豉、味噌、醤油、豆乳、湯葉、豆腐、油揚げ、納豆}等が中原で発明され、それがトゥガ国に逆輸入された歴史があり、&bold(){4000年代}にはトゥガ国にも精進料理を食する教団が出現し、湯葉を用いた肉もどき料理やこんにゃくを用いたエビ料理等が中原より導入された。しかし地理的に&bold(){大豆}等の穀物生産に向かないため、現在でも多くの宗派は食肉を許しており、ヤク肉を用いた&bold(){モモ}((餃子に近い))を僧侶も食している。 *&bold(){・人物} |名前|生年|詳細| |[[カーマル32世]]|7599年|カーマルと如来の転生者| |ソンパン・ツェン|7532年|トゥガ国の宰相| *&bold(){・固有種} |名称|詳細|h |&bold(){冬虫夏草}|蛾類の幼虫に寄生するキノコの一種、生薬として健肺、強壮効果、抗がん効果がある。| ・旧設定 |[[リンディスヴァート制憲諸邦同盟]]|>|大戦で困窮してるらしい、平和を大事にして生きようね| |[[スルガ]]|>|我々を破戒させようとする国…正直苦手|
&bold()&color(red){・この国は[[ジャーガルク・シャー国]]の保護領です} ---- |国名|&bold(){トゥガ国}&br()(アルファベット表記表記:&italic(){Thuga})| |首都|&bold(){ケサ僧院}(臨時首都)&br()(アルファベット表記:&italic(){Kesa・Monastery})| |地域|シンガ中央([[世界地図]]7中央)| |公用語|ジャーガルク語・トゥガ語| |国教|[[浮屠教]]| |国歌|梵我一如| |国制の特徴|祭政一致・転生僧侶制| |国家元首|[[カーマル32世]]| |人口|7619年時点:約40万人&br()7628年時点:約60万人| |通貨|シル(略称cl)| #contents() *&bold(){・概要} トゥガ国はジャーガルク内に存在する国家である。シンガで最も古い歴史を有するとされており、また浮屠教発祥国でもある。 *&bold(){・地理} &bold(){・地図} #image(地理2.jpg,,height=1100) #region #image(地理.jpg,,height=1100) #endregion シンガのほぼ中央に存在し国土の殆どが標高4000m以上の山岳地帯である。 **・分断都市シャンバラ  清河紅軍の侵攻後、トゥガ国の半分は清河に制圧(制圧地は指導を名目に元々あった清河の省に編入された。)され、半分は条約に基づきジャーガルクの保護国となったが、清河占領地の中で、トゥガの首都でありサモンの生誕地(ゴハン国の故地でもある。)でもあるシャンバラはジャーガルク・清河共に譲らなかったため、城壁に囲まれた旧市街地をジャーガルク管轄地区にその外側を清河管轄地区にすることで両者は合意した。  7616年まで城壁は殆ど崩れており、行き来は容易かったが、旧市街地のトゥガ人が占領地で清河に抵抗する者を幇助したり、旧市街地に逃げ込みジャーガルクへ亡命する”清河人”(反抗的な人間が占領地からいなくなる方が良いためトゥガ人の亡命は黙認されていた。)が多くなったので、「歴史遺産を修復する」と言う名目で旧市街地の城壁を”鉄筋コンクリート”と”鉄条網”で修復、更に地雷も敷設し旧市街地と清河占領地を自由に移動できないようにした。 赤線で囲まれた地区がジャーガルク管轄地区、域内に空港と軍施設が存在し、そこから行き来でき、また同地区にはトゥガ王国時代の王宮を改築した大僧院とサモンが誕生した花園がある。 #image(シャンバラ-min.png,,height=700) *&bold(){・経済} **&bold(){・農業・牧畜} 国民の殆どが第一次産業の従事者で、畑で&bold(){大麦}などを栽培し&bold(){ヤク}という牛の一種を飼育している。 **&bold(){・鉱業} &bold(){軟石翡翠}として有名な&bold(){トゥガ石}の産地であり、また近年では金鉱山も発見されている。 **&bold(){・工業} 職人が小規模な工房で日用品や民芸品を作製するレベルである一方、手作りの伝統的浮屠具・浮屠画・浮屠像は芸術品としても評価が高く、高値で取引される。 *&bold(){・対外感情} イクファターナ諸国との関係は薄いが、各国に僧侶を派遣している。 |国名|>|対外感情|h |[[ソフィア王国]]|>|南の国、殺生はやめようね| |[[立憲王政アーカルソン=リペルニア]]|>|海の向こうの国、物質に囚われるのはよくないよ| |[[リントヴルム朝ヤード帝国]]|>|南の国、すごく文明が進んでいるらしい| |[[フォンタニエ辺境伯国]]|>|我が国みたいな山奥の国、| |[[レオネッサ王国]]|>|南の国、強いらしい…共産主義者を倒してくれないかな?| |[[カラシュ公国]]|>|三悪趣みたいな国、悔い改めて| |[[ジャーガルク・シャー国]]|>|檀家さん、もっと社会主義者を攻撃してほしい| |~|[[ピスカ・ハウイカウサイ部族連合]]|海の向こうの国、最近檀家さんが増えている。| |~|[[ムスルマーネン=カリフ国]]|この前来訪した人を論破したら激怒して帰っていった| |[[清河人民社会主義共和国]]|>|よくも…よくもあんなことしてくれたな!!悔い改めて征服した土地を返還しろ!!| |[[ハダカンボ王国]]|>|我々に近い人たちの国、きっといい国なんだろう| |[[ザルバチ海岸共和国]]|>|南の国| |[[フィルモア合衆国]]|>|海の向こうの国、物質主義は良くないよ| |[[シンファナ=タンクレート共和国連合]]|>|正直社会主義は好きじゃないけど、平等な社会は良いと思う| |[[インティ帝国]]|>|海の向こうの国、布教僧を送ってみようかな?| |[[トルカーナ公国]]|>|何処?| |[[ゴーシュ共和国]]|>|偏見から離れよう| *&bold(){・国民}  国民の殆どが&bold(){ホモ・ソーラネウス系}の&bold(){ラ人}であり、兎亜人と共に美男美女の多い民族であるとされている。そのため嘗ては[[ムスルマーネン・カリフ国]]の奴隷商人が不法入国し、人間を拉致する事件が絶えなかったが、保護国化後ジャーガルク官憲の取り締まりにより、現在人狩りは姿を消している。 *&bold(){・歴史} **・無明時代(20万年前~紀元前1000年頃)  &bold(){ホモ・サピエンス}隆興後、その勢力に押されシンガの&bold(){ホモ・ソーラネウス}人達は約20万年前に白雪山脈へ移動し、寒冷で空気の薄い土地へ順応、彼らがラ族の前身となる。ラ族は約1万年前に&bold(){大麦}の栽培と&bold(){ヤク}の家畜化に成功、渓谷に村落を形成し、各地に小国家が誕生した。その中で彼らは生物の成長と&bold(){食物連鎖}の法則を発見し、そこから因果関係の理論を生み出して、&bold(){ヴァルナ制}を特徴とする独自の多神教を信仰するようになった。 **・浮屠教誕生(紀元前1000年~4198年)  紀元前1000年頃、小国家の一つであるゴハン国の王子&bold(){サモン}はこの世の苦しみ(生・老・病・死)を解決する方法を探すため出家、各地の有力な神官の下で修業するが形式的な儀式と苦痛しかない苦行に拘る彼らに疑問を感じて、身分を問わず様々な人との議論と瞑想を重ね、中道の行いと輪廻からの解脱を重視する[[浮屠教]]を生み出した。  彼は浮屠教の教えを広めるつもりはなかったが、形骸化した原始宗教に見切りをつけた者たちが集まり教団を形成、しかしサモンの死後、個人の悟りと修業を重視する&bold(){悟一派}と、全ての命の救済と教育を重視する&bold(){悟衆派}に教団は分裂した。 **・厄災の時代と中原への進出(4198年~4576年)  [[ヴィスヴィオ大噴火]]と[[小オメデス彗星衝突]]による厄災の時代、寒冷化で食糧難に陥った各小国家は中原に進出、中原に後羅・磨・欣・布などの国を建国した。特に後覇は短期間ではあるが中原を再統一することに成功している。一方白雪山脈に残ったラ族は各小国家の牧草地・農地を巡る対立が激化、&bold(){4576年}に&bold(){ホルケン・ガンポ}がトゥガ諸国を統一、トゥガ王国が誕生した。 **・帝国の誕生と衰退(4576年~6527年) &bold(){・トゥガ王国最盛期の領土} #image(柱末.jpg,,height=900)  トゥガ王国はその後[[柱王朝>https://www65.atwiki.jp/yadohakoz/pages/27.html#id_a3129cb2]]が地方統制能力を喪失したのに乗じて西部の領土へ進出、また同国で内乱が発生し、救援を求められたことを奇貨とし東部の中原へも進出、しかし人口密度の低い高地で生活していたラ族は人口が多い中原で伝染病に罹患し撤退、その後トゥガ王国は王家の内紛により分裂、勢力は弱体化した。 **・モスン統治下での繁栄と僧侶の国家支配(6527年~7602)  &bold(){[[モスン帝国]]}の&bold(){アルタ・ハーン}はトゥガ王国に通交を要求、しかし当時トゥガ王国を再統一した&bold(){フルウ・ガンポ}はハーンとモスン族を成り上がりで無知無能の輩と判断し使節団員をほぼ全員殺害、生き残った者にハーンとモスン帝国を罵倒する内容を記した書状を持たせ帰国させた。  彼の態度にハーンは激怒、5万の兵を率いトゥガ王国へ侵攻し、全ての王族を殺害、トゥガ王国は消滅、しかし多くの寺院が非暴力を貫きアルタ・ハーンが使者を送る前に服属を誓ったため、寺院は保護され僧侶が国政の主導権を握るようになる。  アルタ・ハーンの死後モスン人達は浮屠教を厚く信仰するようになり、特に&bold(){ライ・ハーン}の時代には僧侶&bold(){パース}が帝師となる。しかしモスン人たちが税金を寺院建設につぎ込み過ぎたのもあって韓人による反乱が多発、モスン帝国は中原を撤退した。しかしそれでも浮屠教は各地で信仰されていたため、各地の王侯貴族を檀家として僧侶はトゥガ国内での勢力を拡大、6901年には清河王朝との関係を重視する&bold(){立教大学宗}の転生僧侶が、帝国の藩国となることで皇帝を後ろ盾とし国政を掌握するようになる。 **・清河の侵攻と保護国化(7602年~現在)  7602年11月28日の原帝国滅亡後、皇帝がいなくなったことで&bold(){冊封体制}は崩壊し、&bold(){カーマル31世}はトゥガ国の独立を宣言、在地の寺院と豪族は帝国の行政官を追放し&bold(){7603年1月27日}にシャンバラの&bold(){立教大学宗}デン寺が中心となって&bold(){転生僧侶カーマル}を国家元首とし、トゥガは独立国となる。  その後&bold(){顛信軍閥}の&bold(){鋼雨皇帝}がトゥガ制圧を目指して侵攻してくるが、僧兵部隊と豪族騎馬隊の山岳ゲリラ戦によって撃退し、以後近隣の軍閥は[[ジャーガルク・シャー国]]支援の下、大人しくなり対外遠征ではなく内紛に精を出すようになった。  しかし7609年に清河勢力と国境を接するようになると、紅軍が封建国家の支援を名目に侵攻、当初は病院や学校を建設し、ラ族は清河に好意を持っていたが、数か月で態度を一変、食糧の強制徴発を開始し、農地・家畜の国有化を名目にそれらを収奪、さらに更に「遅れた時代の遺物である」と言う理由でトゥガ文字の本や経典を焼却し、浮屠具や浮屠像を破戒、学校では「文化的再教育」を名目に子供に親を無理矢理殺させ、韓語教育を徹底し、トゥガ語を話した子供を射殺した。  彼らに反発した民衆は蜂起したが、紅軍は爆撃機や戦車で応戦し、戦闘員・非戦闘員問わず虐殺、特に僧侶は封建時代の遺物として楽に死ねないように腕を切断し生き埋めにしたり、&bold(){凌遅刑}や皮剥ぎの刑や火刑を行った。  その様な中でトゥガのケサ・シーソン政府は誕生して間もない[[ヤーディシア共同体]](7608年にトゥガ国は参加していた。)とジャーガルク政府に救援を依頼したが、ジャーガルクはクーデターが発生してそれどころではなく、また共同体もシンガの小国を助けようとはせず放置した。  その後、トゥガ人達は山岳ゲリラ戦を展開し、紅軍の侵攻に対抗したが、7612年にようやく混乱から脱したジャーガルクが軍を2個師団派兵、首都シャンバラを含む多くの領土を失ったが、ケサ寺院を臨時の首都とし、トゥガの独立を何とか維持した。その後単独での国防が不可能であると判断したトゥガ政府はジャーガルク保護してもらうべきと判断、&bold(){7613年}に保護国となる。 *&bold(){・文化} **・精進料理  浮屠教の教義に基づく料理、宗派によって差はあるが基本的に同宗教は殺生を禁止していたが、原始浮屠教は&bold(){三種の浄肉}((僧侶が殺された現場を見なかった動物の肉・僧侶本人のために殺されたと聞かなかった動物の肉・前記二つの疑いがない動物の肉))なら食べて良いとされていたため、精進料理は発達しなかった。  しかし浮屠教が中原に広まるにつれて現地の土着信仰や各種哲学に影響を受けて、肉類や煩悩を刺激する臭いの強い食材((&bold(){にんにく、ねぎ、にら、たまねぎ、らっきょう}))、を食する事や飲酒を避ける考えが同地の悟衆派を中心に広まり、肉の代わりにタンパク質を摂取するため、大豆食品が発達、&bold(){豆豉、味噌、醤油、豆乳、湯葉、豆腐、油揚げ、納豆}等が中原で発明され、それがトゥガ国に逆輸入された歴史があり、&bold(){4000年代}にはトゥガ国にも精進料理を食する教団が出現し、湯葉を用いた肉もどき料理やこんにゃくを用いたエビ料理等が中原より導入された。しかし地理的に&bold(){大豆}等の穀物生産に向かないため、現在でも多くの宗派は食肉を許しており、ヤク肉を用いた&bold(){モモ}((餃子に近い))を僧侶も食している。 *&bold(){・人物} |名前|生年|詳細| |[[カーマル32世]]|7599年| 慈愛如来と歴代カーマルの転生者、元々はトゥガ国西部寒村の小作人の第5子であったが、先代カーマルの崩御に伴い、シーソン寺院の占いや託宣に基づく綿密な調査によって3歳で第32代カーマルに選ばれた。| |ソンパン・ツェン|7532年|トゥガ国の宰相| *&bold(){・固有種} |名称|詳細|h |&bold(){冬虫夏草}|蛾類の幼虫に寄生するキノコの一種、生薬として健肺、強壮効果、抗がん効果がある。| ・旧設定 |[[リンディスヴァート制憲諸邦同盟]]|>|大戦で困窮してるらしい、平和を大事にして生きようね| |[[スルガ]]|>|我々を破戒させようとする国…正直苦手|

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