清河=スルガ戦争

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&bold(){シンハ=スルガ戦争}は、7611年に発生した中原社会民主主義推進同盟と、[[スルガ]]の間に起こった戦争。

*背景
7601年の中原共和国の崩壊により、シンハ地方には無数の軍閥が出現し、それらの内戦が長きに渡って続いた。
比較的豊かな地域であるスルガ藩もそれらの軍閥の一つであったが、彼らはいち早く独立すると、地歩を固め防衛力を増強。他地域の混乱については見捨てることになった。
内戦を加速したのは[[ヤーディシア大戦]]の終結である。大戦の終了によりイクファターナの各国は軍縮を実施し、不要となった兵器はシンハ内戦に供給された。
社会主義国家の建設を掲げる中原社会民主主義推進同盟は、頭光盟委員長の指導の下でこれらの武器弾薬をなりふり構わずに調達し、次第に大勢力の一つとしてのし上がっていった。
頭光盟は7611年には中原のほとんどの地域を統一し、未回収の中原たるスルガの攻略に乗り出した。

*戦争前夜
中原社会民主主義推進同盟はスルガに工作員を送り込み、内部分裂と農民反乱を計画した。
しかしすぐにスルガは他軍閥とは性質が異なることに気がつくことになった。もともと豊かな地域であったスルガは礼王朝時代、その富を他の貧しい地域に分配するために高い税を負担していた。スルガの独立運動はその貧しい地域を切り捨てるためのものであったのである。
さらにスルガは内乱から離れて十年が経過しており、住民は安定した生活を確保できていた。政治体制についても礼王朝時代より遥かに開放的であり、赤軍は農民たちの支持を広げることに失敗した。
都市部ではまた別の戦いが発生していた。スルガの支配派閥である冷笑派(とそのシンパ)は、社会主義者の演説に対して武力鎮圧を行うのではなく、反対言論を展開。左派によってばらまかれたビラと同じだけの右派ビラが展開された。スルガの人民は自らの置かれた立場を理解しており、社会主義者たちの居場所は狭められていった。

内部工作とは別にスルガ攻略のための準備は着々と進められていた。
政治局委員の孤斐子と軍事員会委員の頭光美は開戦の是非を巡って争ったが、政治闘争に敗れ頭光美は失脚。
頭光盟の次男である頭凡々がスルガ解放軍最高司令官として任命された。

スルガ政府は侵攻が近いことを察知したが、頭光美の失脚から戦争回避のための余地は残されていないことも理解した。

*第一次攻勢
中原社会民主主義推進同盟は23個師団45万名の将兵、火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機670機にて攻勢を開始した。

*経済封鎖
海上ではスルガ側の終始一方的な優勢な戦況で推移していた。
シンハ海軍は旧式艦が多数を占めており、なにより専門知識を持つ海軍士官は貴族・富裕階層が多かったために処刑されているか、スルガ等の国外に逃亡していた。
数次の戦闘によってはシンハの南洋艦隊はほぼ壊滅し、南洋に面した港湾は艦砲射撃によって破壊された。
これにより未だ未発達なシンハでは弾薬や機械部品の供給に支障をきたす事となり、また以後の時代についても工場群は内陸部に建設することを戦略教義とするようになった。

[[ジャーガルク・シャー国]]は、政府としてはシンハがスルガの工業力を獲得することを恐れ、シンハへの物資供給や交通を断っていたが、一部の商人は高額で物資の密取引を行い利益を得たとされる。

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