清河=スルガ戦争

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清河=スルガ戦争 - (2019/04/12 (金) 11:18:40) の編集履歴(バックアップ)


シンハ=スルガ戦争は、7611年に発生した中原社会民主主義推進同盟と、スルガの間に起こった戦争。

背景

7601年の中原共和国の崩壊により、シンハ地方には無数の軍閥が出現し、それらの内戦が長きに渡って続いた。
比較的豊かな地域であるスルガ藩もそれらの軍閥の一つであったが、彼らはいち早く独立すると、地歩を固め防衛力を増強。他地域の混乱については見捨てることになった。
内戦を加速したのはヤーディシア大戦の終結である。大戦の終了によりイクファターナの各国は軍縮を実施し、不要となった兵器はシンハ内戦に供給された。
社会主義国家の建設を掲げる中原社会民主主義推進同盟は、頭光盟委員長の指導の下でこれらの武器弾薬をなりふり構わずに調達し、次第に大勢力の一つとしてのし上がっていった。
頭光盟は7611年には中原のほとんどの地域を統一し、未回収の中原たるスルガの攻略に乗り出した。

戦争前夜

中原社会民主主義推進同盟はスルガに工作員を送り込み、内部分裂と農民反乱を計画した。
しかしすぐにスルガは他軍閥とは性質が異なることに気がつくことになった。もともと豊かな地域であったスルガは礼王朝時代、その富を他の貧しい地域に分配するために高い税を負担していた。スルガの独立運動はその貧しい地域を切り捨てるためのものであったのである。
さらにスルガは内乱から離れて十年が経過しており、住民は安定した生活を確保できていた。政治体制についても礼王朝時代より遥かに開放的であり、赤軍は農民たちの支持を広げることに失敗した。
都市部ではまた別の戦いが発生していた。スルガの支配派閥である冷笑派(とそのシンパ)は、社会主義者の演説に対して武力鎮圧を行うのではなく、反対言論を展開。左派によってばらまかれたビラと同じだけの右派ビラが展開された。スルガの人民は自らの置かれた立場を理解しており、社会主義者たちの居場所は狭められていった。

内部工作とは別にスルガ攻略のための準備は着々と進められていた。
政治局委員の孤斐子と軍事員会委員の頭光美は開戦の是非を巡って争ったが、政治闘争に敗れ頭光美は失脚。
頭光盟の次男である頭凡々がスルガ解放軍最高司令官として任命された。

スルガ政府は侵攻が近いことを察知したが、頭光美の失脚から戦争回避のための余地は残されていないことも理解した。

第一次攻勢

中原社会民主主義推進同盟は46個師団90万名の将兵、火砲1,880門、航空機70機にて攻勢を開始した。

手始めにスルガの山間部(母聖樹)に建設された要塞線を突破するため、一週間にわたって広範な範囲に猛烈な砲撃を実施。
まともな反撃が無い事でスルガの士気が低いとみてシンハ軍は渡河。大規模な攻勢を敢行した。
わずか80kmの戦線に、初日の攻勢だけで38万の人員、1200門の火砲が投入された。
しかし攻撃部隊は5万人の損害を出しながら、無人地帯すら突破できず、攻勢は初日から頓挫した。

経済封鎖

海上ではスルガ側に終始一方的な優勢な戦況で推移していた。
シンハ海軍は旧式艦が多数を占めており、なにより専門知識を持つ海軍士官は貴族・富裕階層が多かったために処刑されているか、スルガ等の国外に逃亡していた。
数次の戦闘によってシンハの南洋艦隊はほぼ壊滅し、南洋に面した港湾は艦砲射撃によって破壊された。
これにより工業力が未だ未発達なシンハでは弾薬や機械部品の供給に支障をきたす事となった。またこれがトラウマとなり、以後の時代についてもシンハは工場群を内陸部に建設することを戦略教義とするようになった。

航空優勢は初日からスルガ側にあり、スルガの爆撃機はシンハ軍の頭上を飛び越え、後方の橋や鉄道を爆撃した。
孤斐子は空中戦艦【定龍】の投入を主張したが、頭光盟は損失を恐れこれを拒否。「無能に預けられる船ではない」と一蹴した。

ジャーガルク・シャー国は、政府としてはシンハがスルガの工業力を獲得することを恐れ、シンハへの物資供給や交通を断っていたが、一部の商人は高額で物資の密取引を行い利益を得たとされる。