覇韓思想

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覇韓思想 - (2019/04/25 (木) 15:45:25) のソース

*概略
&bold(){覇韓思想}とは、韓族と朝廷を世界の中心と考える&bold(){自民族中心主義(エスノセントリズム)}に基づく思想である。
韓王朝の統治体制は&bold(){礼楽}に基づく&bold(){徳治}であり、これが浸透した&bold(){中原一帯}を&bold(){王畿(省や県で構成)}と称し、王畿外の&bold(){内蕃}と&bold(){外蕃}、更に版図の外にある&bold(){化外の地}へと四方へ同心円状に広がる序列構造が形成されている。
これが&bold(){覇韓思想に基づく世界秩序(覇夷秩序)}である。
覇夷秩序において重要なのは、皇帝の徳治の外にいる&bold(){化外の民}は礼楽が欠如した&bold(){夷狄}であるということである。
しかし、夷狄が皇帝に&bold(){入貢}するならば、徳に感化されたと見做して皇帝は爵位を授与してこれを&bold(){蕃臣}として扱う。これを&bold(){冊封}と呼び、冊封を結んだ国はそのまま入蕃し、韓王朝の版図と同一視された。
&bold(){冊封国}には定期的に入貢を行う義務が生じ、その人民も皇帝の定める礼や法、元号、暦に従う義務がある。その対価に貿易権と安全保障を受けることができる。
このように韓王朝の版図の広さはその時の皇帝の徳の広さであるとされるため、より遠方から冊封を求めた国がいた場合、近方の国よりも高位の爵位を授与する傾向がある。
ただし歴史的に見て遠方の国や異民族が素直に冊封に従う例は珍しく、冊封には入らず、単に朝貢を不定期に行って通交を結ぶに留まる国や異民族が多い。
このような国や異民族を&bold(){蕃客}として遇し、排外せずに接する。逆に韓族を脅かすほどに強大化した異民族勢力も登場するようになり、それに対しては排外的態度に転じて&bold(){夷狄膺懲の戦い}が行われた。
ただこうした戦いで韓王朝側が敗れ、その上に異民族勢力が君臨することもあり、そのことで結果的に彼らも覇韓思想を接受し、統治者として利用することになった。
これにより覇韓思想はこれまでの韓族が世界の中心という思想から、中原一帯に君臨するものが礼楽を持ち、皇帝を称することができるという形に変質した。

*冊封を受けたことのある国一覧
[[スルガ]]:藩王
[[シンハ=スルガ戦争]]において独立。
[[ジャーガルク・シャー国]]:藩王
[[朔角土邦]]:土候
※[[角]]は朔角土邦を継承した国家であるが、継承した時点で最後の韓王朝の礼帝国が滅んでいるため、冊封を受けていない。