第3次ハダカンボ=ザルバチ戦争

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第3次ハダカンボ=ザルバチ戦争 - (2019/04/10 (水) 20:47:22) のソース

&bold(){第3次ハダカンボ・ザルバチ戦争}は、世界創世暦7613年、ハダカンボ王国とザルバチ海岸共和国との間に勃発した戦争。
ザルバチ海岸共和国はこの戦争で西進を断念することになり、多額の賠償金を支払うことになった。

|>|BGCOLOR(#4169e1):SIZE(20):~第3次ハダカンボ=ザルバチ戦争(ダハーカ戦争)|h
|>|画像&br()時期:7613年3月11日-7614年7月11日&br()場所:ハダカンボ王国スッパダカ半島&br()結果:ハダカンボ王国の勝利|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~交戦勢力|
|&ref(000.png,,height=18)ハダカンボ王国|ザルバチ海岸共和国|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~指揮官|
|&ref(000.png,,height=18)[[ハダカンボ11世]]&br()&ref(000.png,,height=18)エガチャン&br()&ref(000.png,,height=18)タムケン&br()&ref(000.png,,height=18)バセンジ&br()&ref(000.png,,height=18)エホーマキ&br()&ref(000.png,,height=18)フェンリル・フォン・バーベンベルク&br()&ref(000.png,,height=18)ミウ&br()&ref(000.png,,height=18)トーマ|ウラジーミル・K・ティモシェンコ&br()アレクサンドル・テルゴイッチ&br()セミョーン・ティモフ&br()ウラジーミル・ヴィチャスラフ|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~戦力|
|235,000|開戦時:&br()23,000&br()ハダカンボ軍侵攻時:&br()177,000|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~被害者数|
|戦死:22,000&br()戦傷:44,000|戦死:16,534&br()戦傷:19,865|

*背景
ザルバチ海岸共和国は建国以来対外的には拡大政策をとっており、隣接するリントヴルム朝ヤード帝国、レオネッサ王国、ハダカンボ王国への遠征を繰り返していた。とくに、ハダカンボ王国は自国の人種差別政策から南方土人として蔑んでおり、度々その領土を犯していた。フーエラ族によるザルバチ農民殺害事件に端を発する第1次ハダカンボ・ザルバチ戦争で多くの犠牲を出しながらも僅かな領土割譲で済んだハダカンボ王国は来るべき戦争に備え、他国と国交を開き開国することを決断した。その10年後の第2次ハダカンボ・ザルバチ戦争はイマラ族がザルバチ政界に多額の賄賂と引き換えに早期戦闘終結を働きかけたため、大きな戦闘もなく終結した。
しかし両国の対立状態はその後も続き、国境付近ではハダカンボ人狩りと称したザルバチ民間人による虐殺が相次いだ。これらの虐殺はザルバチ国内の観光業者が率先して行っていたことから後に国際的な批判にさらされることになる。
この民間人による虐殺にはハダカンボ王府も対処することはできず、半ば黙認する形となってしまった。

*戦争前夜
ザルバチ海岸共和国では長年の国土拡大政策から、軍事費が増大する傾向にあり、また、ヤーディシア大戦後の世界的不況から国内経済も冷え込み、そのために増税しなければならないという悪循環に陥り、与党ヤード人共和国運動の支持率は年々低下傾向にあった。
支持率低下に歯止めがかからないことに焦ったティモシェンコ議長(当時)は支持率回復のための手段として大規模なプロパガンダやイクファターナ各国との友好演出などを行うも、効果はほとんどなかった。

一方ハダカンボ王国では7612年11月3日、王位継承戦争に勝利し、第11代ハダカンボ皇王に即位したハダカンボ11世ヌギは前年のハダカンボ10世暗殺に関わったとしてイマラ族の領地をすべて没収とし、王領に組み込むこととした。
親ザルバチ派のイマラ族はザルバチ政財界とつながっており、ハダカンボ人狩りの手引きもイマラ族によるものであることも後に判明するが、この当時はザルバチの政治家への賄賂が持続的に行われており、ザルバチによる侵攻がこれまで行われなかったのもこのためであったことからザルバチ政界としてはこれを見過ごすことはできなかった。
7613年1月5日、内戦に敗れ王位継承からはずれた対立候補のラータイ王子がザルバチに亡命する。
ラータイの扱いに関してザルバチ政府では協議が行われ、これを反ハダカンボ宣伝に利用することを決定。
7616年2月11日、革命評議会でラータイは「ハダカンボ11世による『自国民虐殺』」を宣伝。ザルバチ国内でこの件が大々的に報道されると、世論はハダカンボ征服を支持するようになる。
ザルバチ政府支援のもと、ラータイを政府主席とする「ハダカンボ王国正統政府」が樹立されると正統政府軍1000が編成される。この正統政府軍はラータイとともに亡命してきた兵士で構成されており、実質的な役割は殆どなさなかったが、宣伝効果としては十分であった。ザルバチ政府はハダカンボにおける唯一の正当な政府としてこれを承認した。


*開戦
3月11日、ラータイの名の下に「逆賊ヌギ討伐令」が出され、これを「支援」するという形でザルバチ陸軍2万が国境を越えて侵攻した。午前6時に侵攻開始したザルバチ軍は国境近辺の村をことごとく焼き払った。
午前8時頃、国境付近のシュイン村にてザルバチ軍は現地民13人を殺害。現地の食料や運び出されようとしていた金細工などを強奪した。このとき住民が身に着けていた装飾品なども引き剥がされた。住民は残虐な方法で殺害されたという。
この侵攻は狼煙によって30分後には王府にこれが伝わり、王軍30,000人が出動。
王軍本隊がザルバチ軍に接触したのは侵攻開始から7時間後の13時頃のことであり、その頃にはすでにセミョーン・ティモフ中将率いる第3師団10,000は、テコキ川流域に陣形を張っていた。
14時に王国軍は全軍突撃を開始しザルバチ軍に襲いかかった。
同胞軍は今度はライフル銃のみならず、野砲などを装備していたため、陣形突破は困難を極めたがやはり死を恐れず突撃してくる戦士たちは徐々にザルバチ軍を押し返していった。
15時30分、右翼部隊を担当していたモフモフ兵がザルバチ軍背後を突いたことで半包囲の形になり、完全包囲を避けるためにティモフは後退を指示。
一部の部隊は内陸の密林に逃げ込むも、ジャングルでの戦いはハダカンボ人にとって自分の庭で戦うようなものでそれぞれ各個撃破されていった。海岸沿いに後退した部隊5,000人は再結集し、反撃のために海岸洞窟に陣地を構築した。
しかし16日の未明に王軍は夜襲をかけ、ほぼ無抵抗のザルバチ軍を一網打尽にした。この時自決しようとしていたティモフは捕虜となった。 
密林に逃げ込んだ部隊は18日までにモフモフ族の掃討作戦によってほぼ駆逐された。なお、このとき逃げおおせた兵士は事件から2年後に発見された。
第2師団を率いていたニコライ・コルチャーク中将は第3師団が壊滅しティモフが行方不明と知るや直ちにザルバチ本国に引き上げ、報告の電報を打った。
王府ではその日の夜、大臣や部族長を交えた緊急会議が開かれ、全部族が結集して侵略者を撃退することで合意した。このとき対立していたマッパダカ族も一時休戦して協力することとした。これは、古代ヤード帝国による侵略の屈辱が歴史的なものとして刻まれていることが大きかった。「二度目を許すな」をスローガンに全島一致でこれに当たった。翌12日にはダチワ族、エドーコ族、モフモフ族、フェミ族、マッパダカ族、フーエラ族の戦士総数227,000人が結集し、王の統一指揮のもとに戦う宣誓がなされた。

*ザルバチ軍の反攻計画
現地の報告を受けたマルシコワは国内向けに大見得を切っていたため、面目を潰され大いに激怒した。敵前逃亡したコルチャークを罷免し、遠征軍総司令官にウラジーミル・ヴィチャスラフを任命し、さらに10万の兵と航空師団を派遣することを決定した。
知将として定評のあったヴィチェスラフは、ハダカンボ人が力押しでは勝てない相手であることを分析し、周到な作戦計画を実施することにした。まず全国境線から全面侵攻するのではなく、北部国境線、つまり旧イマラ族領に全兵力を集中させ、各個撃破を防ぐとともに、近代兵器を集中運用させて徐々に占領地域を広げていくという作戦を計画した。マルシコワは短期決戦にこだわったが、最終的にはこれらの案に同意した。また、捕虜を全員殺害せよというマルシコワに対し、捕虜を効果的に利用することでより効率的に占領政策を実施できると主張しこれも承認された。

*反撃
一方ティモフを捕虜にした王国側はさらなる侵攻に備え、国境沿いに石塁を設営し、防御力補強に努め、さらにメトラ商人から旧式の火縄銃2,000丁を購入し、その訓練を実施した。 
6月18日午前10時にウラジーミル・ヴィチャスラフ率いる第6軍集団107,000人が東部国境を越えて再侵攻。ヤーディシア大戦で活躍した第2砲兵旅団による火力集中戦術で守備隊は大損害を被った。2時間に渡る砲撃で守備隊が全滅したところに騎兵師団が突撃しザルバチ軍は初戦で圧勝した。後方に控えていた予備戦力がこれと応戦するも、今回はさらに近代兵器をそなえたザルバチ軍が押し返し、14時頃には国境地帯を抑えた。 
国境の守備隊が壊滅した報に王国首脳陣は動揺するも、徹底抗戦に反対する者はいなかった。

*オシコリ浜の戦い

*国境会戦

*フッシャリカ市街戦

*終戦

*影響