ジャーガルク・礼戦争

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ジャーガルク・礼戦争 - (2019/04/14 (日) 01:41:41) のソース

&bold(){ジャーガルク・礼戦争}(韓語:塩安戦争)は7586年8月9日から7588年11月28日にかけて[[ジャーガルク・シャー国]]と現在の[[シンハ>シンハ人民社会主義共和国]]の前身である礼帝国との間で行われた戦争

|>|BGCOLOR(#4169e1):SIZE(15):~ジャーガルク・礼戦争|h
|>|画像|h
|>||
|>|時期|h
|>|7586年8月9日-7588年11月28日|
|>|場所|h
|>|(陸戦)&br()・ハルラ盟国南部&br()・現ジャーガルク領ファンシュー地区&br()(海戦)&br()・北限海&br()・蒼海海|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~戦争の結果|
|>|山南条約締結 ジャーガルク・シャー国の勝利|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~交戦勢力|
|[[ジャーガルク・シャー国]]&br()・東方方面軍&br()・統一艦隊|[[大礼帝国]]&br()・中央軍&br()・東営軍&br()・西営軍&br()・臣民愛国団練&br()・北限艦隊&br()・天港艦隊|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~指揮官|
|&ref(ジャーガルク・シャー国neo2.png,,height=16)メイカ・シャー(君主)&br()&bold(){・陸軍}&br()&ref(ジャーガルク・シャー国neo2.png,,height=16)アリ・ザト(陸軍参謀総長)&br()&ref(ジャーガルク・シャー国neo2.png,,height=16)クロブ・ザン(東方方面軍総司令官)&br()&ref(ジャーガルク・シャー国neo2.png,,height=16)ゴダ・ケダ(東方方面軍参謀総長)&br()&bold(){・海軍}&br()&ref(ジャーガルク・シャー国neo2.png,,height=16)バイヤ・ララ(海軍軍令部総長)&br()&ref(ジャーガルク・シャー国neo2.png,,height=16)ウスニ・テレグ(統一艦隊司令長官)&br()&ref(ジャーガルク・シャー国neo2.png,,height=16)アラル・ベズ(統一艦隊参謀長)&br()&ref(ジャーガルク・シャー国neo2.png,,height=16)カンベル・アジェント公&br()(統一艦隊作戦担当参謀)|&ref(kokki4.jpg,,height=16)浮運(君主)&br()&bold(){・陸軍}&br()&ref(kokki4.jpg,,height=16)務帽(中央軍総司令官)&br()&ref(kokki4.jpg,,height=16)優成国(東営軍総司令官)&br()&ref(kokki4.jpg,,height=16)浮案(西営軍総司令官)&br()&ref(kokki4.jpg,,height=16)冨衛区(臣民愛国団錬部隊隊長)&br()&bold(){・水軍}&br()&ref(kokki4.jpg,,height=16)玆界(北限艦隊提督)&br()&ref(kokki4.jpg,,height=16)紫蘭(天港艦隊提督)|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~戦力|
|&bold(){・陸上戦力}&br()陸軍300,000(20師団)&br()兵站軍70,000(5師団)&br()&bold(){・海上戦力}&br()前弩級戦艦:2&br()装甲艦:3&br()装甲巡洋艦:8&br()防護巡洋艦14|&bold(){・陸上戦力}&br()約660,000&br()&bold(){・海上戦力}&br()前弩級戦艦:4&br()装甲艦:5&br()装甲巡洋艦:10&br()防護巡洋艦15|
|>|BGCOLOR(#4169e1):~被害者数|
|戦死:55,213&br()戦傷:63,442|戦死:約130,000&br()戦傷:約250,000|

*・戦争目的と動機
 古来よりジャーガルクを含む西方の遊牧国家と礼帝国を含む中原の諸王朝は、活発に貿易をしながらも、それぞれ領土拡大を目論見、衝突を繰り返してきた。ジャーガルク・礼戦争以前では7422年&bold(){永明帝浮優}の時代に礼帝国の大将軍&bold(){鋲寂}が軍を率い、西域地区((現在のハルラ盟国南東部))を征服した。
 一方で7500年代よりイクファターナ列強諸国がシンガ地方に進出し、開国と不平等条約締結を砲艦外交によって要求してくるようになった。それに対しジャーガルクと礼帝国はそれぞれ武力により攘夷を試みるが、ジャーガルクは&bold(){アボ・アトリオン戦争}によって一時的にアボ藩が占領され、礼帝国は外国人虐殺によって&bold(){嘉門戦争}が勃発、莫大な賠償金を支払う義務が発生した。
 敗戦後両国はそれぞれ近代化の必要性を痛感、ジャーガルク・シャー国の兵馬行政権を司る大将軍政権は近代化政策を進め、また公武合体と幕藩体制の廃止により中央集権体制を構築、一方の礼帝国も&bold(){嘉門戦争}で郷勇を率い、直接近代的軍隊の強さを実感した科挙官僚たち((洋務派官僚))が中心となって中体東用をスローガンに近代化政策を推進した。両国の活動は留学生の推奨、近代的教育機関充実、お雇い外国人の積極登用、近代的インフラの整備、軍の近代的再編という点で共通している。
 

**・礼帝国
礼帝国は近代化のための費用と列強に対する賠償金を増税によって賄おうとし((特に塩税は専売によって原価より36倍の税が課せられていた。))各地で農民反乱が多発、近代的軍隊によって反乱を鎮圧し、さらに戦費が増加するという悪循環に陥っていた。
 これに対し時の皇帝&bold(){失哀帝浮雲}と側近たちは、文盲の人民に直接近代化の効果を見せて近代化の必要性を実感させ、さらに戦勝によって王朝の武威を高め臣民の支持を集めようと画策するようになる。
 しかし洋務派官僚の中には戦争によって唯でさえ限界を迎えている人民の生活がさらに困窮し、王朝の滅亡を早めるのではないか、また戦争に勝利しても戦災により弱体化したシンガ全体が漁夫の利を狙う列強諸国に征服されるのではないか、と憂慮する者もいた。

**・ジャーガルク・シャー国
 ジャーガルク・シャー国は外貨獲得のため、両国の間にある塩湖((シィル海))でのチョウザメ漁の近代化と大規模化を推進、そのため伝統的小規模漁を続ける韓人漁民は不満を抱いていた。また経年で河川の流れが変化し、両国国境が不明瞭となり、それに伴って両国農民による利水対立が発生、7580年にはジャーガルク農民の作った用水路を近隣の韓人農民が破壊し、その報復としてジャーガルク人農民約50人と遊牧生活者約30人が韓人村落を襲撃する事件が発生した(ベネフ事件)、この事件は礼帝国に対し、ジャーガルク政府が謝罪と遺族への賠償金を支払ったことによって終息したが、ジャーガルクの新聞各社は”ジャーガルク政府のみが礼帝国に対して謝罪した”事を大々的に非難した。
 一方でジャーガルク政府は広大な領土と膨大な人的資源を有する礼帝国との開戦は自国にとって不利と判断しており、漁業権問題・国境問題・利水権対立は不測の事態に備えつつも、飽くまで交渉によって解決されるべきと考えていた。

**・開戦直前の議論・世論
**・直前交渉
**・各国の思惑
**・戦費調達


*・戦争の経過

**・開戦直前の動き

**・開戦
**・第一次麗江沖海戦
**・中央平原の戦い
**・第二次麗江沖海戦
**・麗江要塞攻囲戦
**・岳塹会戦
**・蒼海洋海戦
**・降伏勧告と南方占領
**・講和交渉

*・影響と戦後の動向

**・ジャーガルク・シャー国

**・礼帝国