牢の中は、意外と快適だった。最近は囚人の管理も行き届いていると聞いていたが、これほどとは……
「少年よ……」
…俺のことだろうか?一体誰が……?
「こっちだ少年。実は少々退屈でね。話し相手になってくれないか?」
どうやら向かいの牢の囚人が話しかけてきたらしい。声の主は異様なまでに髭を蓄えた初老の男だった。俺はこの男に何故か興味をそそられた。
「自分でよければ……」
「そうか。ではまず自己紹介だね。私の名は松本智津夫。皆は麻原彰晃と呼んでいるがね」
「松本……」
聞いたことがある。確か無差別テロの首謀者として投獄されたとか……
思わず戦慄する。
一瞬、松本の表情に陰りが見えた気がした。
「…無理もないか。私は世間では極悪テロ教祖として認知されているのだからな……」
「……違うんですか?」
「話せば長いさ。それより君は、世界の真理を知りたいとは思わないか?この世界の理の全てを……」
「真理……」
もう一度この男の顔を見る。表情に嘘は見えなかった。哀愁をおびた瞳。結論は出た。
「教えて…いただけますか……?」
「よく決断してくれた。私も最期の仕事だ。私の全てを君に託そう。君の名は?」
「山根岸…義久です」
「ふむ……良い名だ。そうだ、ホーリーネームは……いや、もうそれも必要ないな。君はここを出たら、麻原を名乗るといい。私の家族が迎えに来てくれるはずだ」
「俺が…麻原を……」
特高につかまった者は、一生家族や友人とは会えないと聞く。ならば―
「分かりました。もう、迷いはありません」
「ならばそろそろ始めるとするか。いつ刑が執行されるとも分からん。急がねばな……」
それから数日間。俺は麻原の教えを乞うた―
―そして、その日は訪れた。朝、目を覚ました俺の耳に飛び込んできたのは、看守の怒声だった。
「おい、起きろ松本!!……何を寝ぼけてる。さっさとこっちへ来い。お前にとってこれがこの世の見納めだぞ。冥土の土産によく見ておくんだな!」
あぁ、とうとうこの日が来たのか……。麻原は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐにこれから何が起こるか悟ったのだろう。俺と目を合わせることもなく、粛々と看守に連行されていく。
「ありがとう…麻原さん……!」
麻原は死の直前まで俺に多くを伝えようとした。俺にとっては、その全てが新鮮な情報だった……
「…………」
とにかく、まずはここを出ることだ。世界の真理を理解した俺には、なすべきことが多く残されている。先代の麻原の残した仕事が。
―そして、月日は流れ―
「お世話になりました」
「もう、絶対に戻ってくるんじゃないぞ」
四年後の初夏。俺は刑期を満了し、警官に見送られつつ刑務所の門をくぐった。懐かしい、シャバの空気。
「…………」
どうやら、休んでいる暇はないらしい。黒塗りのチェロキーが目の前で停車する。運転手は俺を見るなり―
「尊師。お迎えに上がりました」
そうだ。麻原の遺志は、俺が継ぐ。あの男にとっての真理の実践は、俺の利害と一致していた。
「…麻原でいい。俺は先代とは違う……。サティアンへ向かってくれ」
俺は俗世に別れを告げた。車は人知れず走り去っていった。
第二部 了
最終更新:2010年08月04日 23:12