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      秦郁彦編著・「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」(2009.3.23)より抜粋

       第四章 [曽野・秦対談]沖縄の「悲劇」を直視する(1)  

       沖縄へ乗り込んで                         

 

秦 今日は私が「聞き役」という形でお伺いしたいと思います。「大江裁判」や集団自決の論議では「ある神話の背景」に話題が集中しているんですが、沖縄戦での女学生たちをテーマにした「生賢の島」のほうはあまり話題に出てこないようですが。

曽野 この作品はむしろ読んでらっしゃらない方が多いと思います。

秦 私もそれに近かったんですが、最近になって拝読し、これは大変な力作だと。

曽野 いいえ、ただ、その当時は体力があったというだ(笑)。

秦 もう気力、体力ともに充実して書いておられるのをひしひしと感じました。

曽野 頭はなくても体力があれば書けるという見本かもしれません。

秦 失礼ながら曽野さんのいろいろお書きになったものの中で、「最高傑作」の部類ではないかと思いました。歴史と文学のどちら側から攻めても成り立つように書かれているんですが、ただ、今の沖縄のムードには合わないのかなあとも考えたりして。

曽野 書いた当時から合わなかったんじゃないでしょうか。ただ、私はノンフィクションの場合、わりと自分を無にすることで書くことができる性なんです。

秦 書くきっかけがあったんですか。

曽野 成り立ちを申し上げますと、「リーダーズ・ダイジェスト」が声をかけてきたんです。私は今よりずっと若いかけ出しの作家でしたが、当時のリーダーズという雑誌は、世界的なメジヤーでした。ですから、そこで取り上げていただくのは悪くないなと思ったんですが、アメリカヘ行くきっかけがあったもので、本社の人に会ったんです。
 そして「最終の編集権はどちらにありますか?」と聞いたら、「当リーダーズ・ダイジェスト社にある」と言われたので、「それでは申し訳ありませんが、このお話はお受けできません」と言って帰ってきたんです。私はその頃から疑い深いたちでしたので、勝手に都合のいいところだけ使われて、「白を黒」とごまかされるようなことがあったら困ると思ったし、このテーマは外国人には任せられないと思ったんです。

秦 あの時代は上も下もアメリカさんに声をかけられると、何でもありがたく頂戴するという気分だったのに、よくぞはね返されましたね。

曽野 そのあと講談社がスポンサーになってくれました。私、この頃はまだ自分で調査経費を出しきれなかったんですね。「ある神話の背景」の時はまったく自費で賄いましたけど。それで、講談社の四人のスタッフと一緒に沖縄へ乗り込んだんです。
 面接したのは、100人ではすまなかったと思いますけど、検事調書ってこう作るのかなと思うぐらい調査とヒアリングを重ねました。たとえば4月29日という項目だと、その日のことで証言した人を全部集めていきました。そして証言の矛盾は、そのまま残す。同じ壕だと思われるんですが、ある人はそこに4人しかいなかったという。ある人は13人いたと食いちがうんですが、そのまま書きました。
 それは私が、「これは13のほうが正しそうだ」とか、「4のほうが正しいだろう」という私観を入れるべきではないと思ったからです。自分をできるだけ抑えて書ぃたのがこの作品なんです。いいか悪いかはわかりませんが。

秦 その代わり神経が隅々まで行き届いていて、それぞれ矛盾するような表現、事実があっても、要するにそれが現実だったんだと読者は感じて、信頼性がかえって高まるんです。歴史学の方法論と共通しますね。

曽野 私としてはどちらでもいいんです。現実と真実というのを使い分けたらいいんですけど。「真実」というのは例えば神のような目から見るとあるんでしょう。でも、誰もその一面しか見てないわけで、「それが自分にとっての真実。これが友人にとっての真実」と両建てになります。
 壕の話に戻りますと、「なぜあなたはその時その壕の中にいたのが四人だと思ったんで
すか?」と、私は聞くんです。そうすると四人で人ったのに握り飯が三つしかなかった。
それをどう分けようかと思ったんですって。1個足りないわけですね。それで強烈に悩んだそうです。「だから四人でした」というんです。ところが「13人だと覚えているのは、その時に数が悪いと思った」からだそうです。そうなると2人の食いちがう記憶をそのまま生かすしかありません。

秦 似たような事例で私にとって印象的だったのは、手榴弾を使って自決した女学生もいるし、日本の軍人から「君達は死ぬな」と言って手榴弾を取り上げられた人もあれば、お願いすると手榴弾をくれた人もいる。

曽野 そうなんです。そこが人生のすばらしいところなんですね。やっぱり若い少女を「死ねばいい」じゃなくて、「かわいそうだ」と思ったんでしょう、だから「取り上げるのも慈悲。与えるも慈悲」の時代だったんですね。

秦 どちらもありえただろうと思うんです。つまりいろいろなケースがあって、これらを一括してどうだとは言えないと。

曽野 はい。手榴弾を渡す場合も「死ね」という意味じゃなくて、防衛の意味もあって、かなり行きわたっていたということでしょうか。

秦 ええ。でも貴重な兵器ですから、行きわたるほど日本軍は持っていなかったんですがね。最後の戦闘段階では、もうそのあたりは個々バラバラの判断ということになりますから、本来なら渡さない手榴弾も渡すし、死んでる兵隊さんの腰から抜き取ることだってできますし、何でもあったということでしょう。

曽野 これを書いた時、そんなことに私は気が付きませんでした。気が付かないで、相手がそう言ったからそのとおり書いたんです。だから壕から追い出して、「お前達は死ねばいい。俺達は生き残る」と言わんばかりの兵隊もいたし、「明け渡さなくていい」と言いに来た人もいるんですね。そういうものだと私は思います。人生も戦闘も、これだと一つに決めたら嘘になります。

秦 そうですね。それに、軍がまだ組織的に戦闘していた時期は、そういう問題はあまり起きないんですが、軍の組織が崩壊して、逃亡兵さえ出てくる段階になりますと、生地の人間に戻ってしまう人もいる。そうしますと、水と食物をめぐる動物本能的な争いに突入します。その部分だけ見て、初めから全体がそうだったというように談じるのは、間違いじゃないかなと思います。

曽野 それから一般論として、若い人は分からないと思いますが、手榴弾は欲しかった。私なんかも。もし手に入ればですよ。終戦の時、十三歳の私でも手榴弾は欲しいと思いました。それも二発もらいたかった。一発は敵に向かって投げ、一発は自決用にです。
 誰が教えたということではありませんが自己防衛の本能と、やっぱり敵とは戦わなければならないという気持ちと、両方を満足させるのは「二発の手梱弾」なんです。観念的な話ですけどね。

秦 いやぁ、おっしゃるとおりだろうと思います。ただ、その場合に二個もらったという例が数多く語られてますが、軍としては二発とも敵に向かって使ってもらいたい、戦ってもらいたいと考えたにちがいありません。

    (中略)                               (2008.7.11、曽野邸で)

最終更新:2009年05月23日 08:19